通りをゆったりと流れていた生ぬるい空気が、ふつりと途絶えたのはその時だった。

 シロとアオが、ぴたりと口を閉じて通りの奥へと顔を向ける。瞬き一つの間を置いて、丞幻と矢凪もそちらへ視線を向けた。

 いつの間にか、周囲から人の気配が消えている。昼間と同じ、怪異の領域である異界に取り込まれたのだ。


「よしよし、釣れたっぽいかしらねー。シロちゃんアオちゃん、危ないからこっちおいで」

「う!」

「……」


 頷いたアオが駆け寄ってくる。シロはそろそろと近寄ってきて、丞幻の着物をぎゅっと握り、影に隠れるようにした。

 ちょうど矢凪から身を隠すような位置を陣取るシロに、思わず苦笑した。

 ――ひも…………ましょかあ……。

 声が響いてくる。感情のこもっていない、さびさびとした声が。

 通りの左右に立つ背高提灯の明かりが、ふつっ、と消えた。通りの奥が、一段と暗くなる。ざり……ざり……と無数の足音が聞こえてきた。

 真冬の空気にも似た瘴気が地面を這いよってくる。絡み付くそれを振り払うように片足を振って、丞幻は片手をひらっと上げた。


「じゃあ、打ち合わせ通りに頼んだからね」

「……」


 本当にこれで大丈夫なんだろうな、と言いたげな矢凪に、大きく頷いて見せる。

 表の呪文が消えてなければ、裏面にいくら文字が書かれていても大丈夫だろう、多分。試したことが無いから分からないが。

 ――ひも……むすびましょかあ……。ひも……むすびましょかあ……。

 ざり……ざり……ざり……ざり……。

 足音が近づくごとに、ふつっ、ふつっ、と提灯が一つ、二つと消えていく。

 ちら、と丞幻は頭上に視線を投げた。雲が月を半ばまで隠して、月明かりが弱い。

 ちっと舌打ちする。しまった、明かりの一つでも持ってくれば良かったか。月と背高提灯があるからと、高を括っていた。


「ま、今更言ってもしゃーないか。ああ矢凪、とりあえず無理はしなくていいからね」


 わくわくとした顔でこちらを見上げるアオに、ぴっと指を立てる。


「アオちゃんはそいつの傍にいてあげて、危なくなったら助けてあげてねー」

「う!」


 眉をきりっとさせたアオの童姿が溶け消えて、小さな青い狼に戻る。

 また噛みつくかと心配したが、アオは目を尖らせて姿勢を低くし、瘴気の方向にぐるぐると唸り声を上げた。

 よし、大丈夫そうだ。


「そいじゃシロちゃん、ワシらはそこに隠れよっか」

「ん」


 シロを連れて、道の脇に置かれた樽の影に隠れる。

 山状に積まれた樽は、体格の良い丞幻も綺麗に身を隠す事ができるくらい幅を取っていた。いつもなら邪魔に思うが、今日ばかりはありがたい。

 通りに残った一人と一匹の様子を、ちらと伺う。

 物陰に身を隠さず、瓢箪から酒をあおりつつ自然体でたたずむ矢凪。その一歩前にいるアオは、唸り声を上げながら今にも飛び掛かれそうな体勢を取っている。


「あらま、アオちゃんてば張り切っちゃって。あんなにあいつをかじりたがってたのに、全然そんな様子無いわねー。偉い偉い」


 両手で毬を抱えてしゃがんだまま、シロが器用にむん、と胸を張った。


「おれがちゃんと言ってやったんだ。あいつはこれから一緒に暮らすんだから、食べ物じゃない。勝手にかじったらだめだ、って」

「あらら、シロちゃん偉い! さすがお兄ちゃん! 後で井村屋の水饅頭買ってあげようねえ」

「それに仲良くなったら一口くらい食ってもだいじょぶだろうから、まず仲良くなれって」

「こら」


 てしっと手刀を白いおかっぱ頭に落とす。頭をさすりながら、シロはぷぅと頬を膨らませた。


「だって、しょうがないじゃないか。あのな丞幻、あいつはな」


 ふつっ、とすぐ隣に立つ提灯の光が消えた。辺りが一気に薄闇に染まる。

 かまわず言葉を続けようとしたシロの口を塞いで、丞幻は鋭く通りを見据えた。


「ひも……むすびましょかあ……」


 闇をかき分けるようにして、友引娘が現れた。ばさばさの髪を揺らし、いつの間にやら矢凪のすぐ目の前に佇んでいる。

 アオの唸り声が一層強くなった。


「ひも……むすびましょかあ……。ひも……むすびましょかあ……」

「……」


 ゆらり、ゆらり。天を仰向いた友引娘の上体が、ゆっくりと左右に揺れている。縄で繋がれた無数の犠牲者達も、同じようにゆらり、ゆらりと身体を揺らしていた。

 矢凪は動かない。弱い月明かりでは表情までは伺えないが、瓢箪を持っている手も、札を持っている手も、身体の横にだらりと垂れさがっているのが見えた。


「ひも……むすびましょかあ……」

「……」

「んん? どしたんじゃろ、あいつ」


 丞幻は眉を寄せる。どうしたのだろう。札を貼ればいいだけなのに、なぜ動かない。もしや怪異の放つ瘴気に、身体を絡め取られて動けないのか。

 だったら危険だ。なんとかしなくては。


「うー!」


 丞幻が動く前に、アオが動いた。振り返って、矢凪の足首に軽く噛みつく。そうして、うぉんと一声鳴いた。

 途端に呪縛が解けたように、矢凪の腕が跳ね上がった。友引娘の胸元に、呪符が勢いよく叩きつけられる。


「ひ……も…………」


 雷に打たれたように、怪異の身体が跳ねた。その場に立ち尽くしたまま、がくがくと細かい痙攣を繰り返している。

 くるり、と矢凪がこちらに顔を向けた。親指をぐいと怪異に向ける。


「おい。終わったぞ」

「ありがとねえー。ってか、お前大丈夫? さっき固まってたみたいだけど。身体に異変とかなーい? 具合悪かったり、頭ぐらぐらしたりとかは?」

「ねえよ」


 ぴっとり貼りついたひっつき虫シロを背負いながら近づくと、馬鹿にしたように鼻を鳴らされた。顔色も良いようだし、どこも変わった所はなさそうだ。

 じゃあさっき固まってたのは、急に怪異が出て来てびっくりしたのかしらん。

 こりこりとこめかみをかいて、丞幻は呟く。その頭をぺしぺしとシロが叩いた。


「おい。動けない今が絶好の機会だぞ、じょーげん」

「ねえねえ、オレがんばった! ちゃんとたべにゃかった! えらいのー!」

「はいはいシロちゃん、分かった分かった今やるからねえ。アオちゃんも偉い偉い、後で水饅頭買ってあげるからねー」


 長い尻尾をぶんぶん振るアオの頭を一撫でする。

 いつまでもお喋りしてはいられない。本当は、次回作のネタの為に友引娘をじっくり観察したいのだが、さっさと目的を果たしてしまわなくては。

 本体である友引娘が呪符で縛られているせいか、縄で引っ張られている犠牲者達も動けないようだ。半開きの口から涎をぼたぼた垂らしながら、ぴくりとも動いていない。

 小走りで最後尾まで到達すると、おそねはそこにいた。ばさばさになった金髪に、泣き腫らした虚ろな目が哀れだ。こちらが見えていないのか、前の犠牲者の後頭部を見つめたまま動かない。

 手首に巻いた緑と青の組紐が、瘴気に侵されじわじわと黒く染まり始めている。


「た……すけ……」

「はいはい。ちょっと待っててねー、おそねちゃん」


 丞幻は懐から縁切鋏を取り出した。手首の組紐に絡んだ麻縄を挟み込む。息を一つ吐いて、指に力を込めた。

 じょきん、と軽い音が響いた。


「よしっ……と」


 麻縄が断ち切られた瞬間、手の中で木製の鋏が木っ端微塵に砕け散った。同時におそねの身体がぐらりとかしぎ、後ろに倒れそうになるのを腕を伸ばして支える。

 月明かりの下、硬く目を閉じたおそねの顔色は紙のように白いが、呼吸はしっかりしていた。よしよし、これなら大丈夫そうだ。


「矢凪、アオちゃーん。終わったから、おそねちゃん異怪奉行所に連れてくわよー」

「こえは? どーすぅの? たべう?」

「食べたらお腹壊すからね、あんなの。呪符で動けないだろうから、奉行所の連中に言っとけば封印なり退治なりしてくれるわよん」

「おい、取材忘れてるぞ、取材。じょーげん、こいつ、取材するんだろ? 歌がどっからはやったのか、気になるって言ってたじゃないか」

「あー、そうね。でもまあ、それより先におそねちゃんかしらん。流石にこれ、ほっとけば危な……」


 丞幻の言葉に被さるように、しゃがれた呻き声がふと響いた。

 咄嗟に声の方を向く。

 視線の先には友引娘。呪符を貼られて動けない後ろ姿が、弱々しい月光に照らされている。こちらに歩み寄ってきた矢凪が、不審気な顔をして背後の怪異を振り返った。


「……うううううううああああああぁぁぁぁぁ!」


 割れた声が絶叫を響かせる。友引娘の痩身から瘴気が噴き出し、貼られた呪符が千切れ飛んだ。

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