ひねもす亭は本日ものたり
所 花紅
荒れ寺の祟り神
一
――知ってるか、
――あそこに最近、出るんだそうだ。
――なにって、祟り神だよ。祟り神。
――雷様かってくらい凄まじい声で吼えるらしくて、それを聞いた狸が、ひっくり返って泡吹いて死んだとか。
――夜にたまたまそこを通りかかった浪人が、寺に引きずり込まれたとか。朝になって、その浪人の頭皮から引っぺがされた血まみれの髪だけが、まるで
――そうそう、寺に肝試しに行った近所の子どもが、気が違ったようになって誰かの名前を叫びながら、道を走っていたとか。ナントカ様、ナントカ様! って。
――ああ、怖い怖い。夜になったら、あそこにゃ近づかないこったね。祟り神に食われっちまうよ。
〇 ● 〇
夏の盛りではあるが、真夜中ともなればそれなりに涼し気だ。
月光をたっぷりと浴びながら、
「いやー、飲んだ飲んだ。あれよね、やっぱり〆切後の一杯って最高よねー」
ちょいと視線を向けると、道の先には
おかげで
「雀よ雀、お前はなぜ泣くちゅいちゅいとー、米が食えぬか
調子っ外れな歌声を夜闇に響かせながら、丞幻は空っぽの両手を機嫌良くゆらゆらと揺らす。逞しい身体が、一緒に揺れた。
春野を映したような萌黄色の髪は背中半ばまで伸ばされ、ざっくりと三つ編みにしている。目は髪と同色で、やや吊り上がり気味。背丈六尺の偉丈夫と呼ぶにふさわしい、がっしりとした体躯が月光に照らされている。
すっきりとした顔立ちに、渋い色の着流しをまとった姿は男ぶりが良いのだが、鼻下を苔のように覆う濃い髭だけが、どうにも野暮ったい。
当年二十八歳。職業は作家。
春の終わりより、版元に言われて取り掛かっていた作品がようやく完成した為に、作家仲間としこたま飲んだ帰りであった。
「おっとと……危ないのー、もう。お前ね、さっきからなんでワシを転ばそうとするわけ? なに、そういう仕事? 日当いくらで雇われたん? ん、言ってみ?」
ふらつく足が小石を踏んで危なくこけそうになり、丞幻は据わった目でそれをねめつけた。酔いに任せた戯言が口を突いて出る。
小石からの返答は無い。当然だが。
「もー、無口ねー。そういや芸者の子が言ってたけど、今時の女子ってそういうのが好きらしいんじゃよ。ってことはお前ってばモテモテね、良かったねえ。良い女房ができたら言うのよ、香典に苔でも送ってあげるから」
真面目くさった顔で言った後で、唐突に丞幻は噴き出した。
「んっふふふふふふ……ワシなにやってんじゃろね……んふふふふ」
道の真ん中で、腹を抱えて爆笑する。
傍から見れば、そっと目を反らしたり、
しかし町を横一文字に両断する
田畑がある以上蛙はいるが、この地域の蛙は鳴かず蛙と呼ばれる程に声が小さい。だからこの辺りは昼ならともかく、夜は星が降る音が聞こえそうな程に閑静な所なのである。
「小石に……小石に話しかけるとか……っぶはははは!」
現在進行形で、その静寂をぶち破っている無粋者はいるが。
畦道の右側は一面田畑だが、左側は緩い傾斜の土手になっている。下には小川が流れていて、水面が月光を反射して銀色に輝いていた。
その土手から上がってきた蛙が、迷惑そうに無粋者を見上げる。白い頬を膨らませて鳴くそれに、丞幻はヘラリと笑いかけた。
「まー、ちょっと聞いてってちょうだいよ。いやね、ワシってば曾根崎屋ってとこで本書いてるんだけどねえ。夏に向けて『
夏に怪談本を出す所は多いのだから、その中でも埋もれず突出したものを売り出したかった、というのが曾根崎屋の言い分だ。
それは分かるが、話を考えるこちらとしては、たまったものではない。陽之戸国全土を対象とした怪談話ならまだしも、話の範囲を貴墨に絞られたのがとにかくきつかった。
しかも実話ではなく、創作怪談。
どう頑張っても別の作家と被る話は出てくるし、ネタも切れてくる。筆が滞るのも無理からぬ事であった。
「そんでねえ、ちょーっと〆切守らなかったからって、『出来上がるまでここで書け』って連行されたのよー。どこに連行されたと思う? ねえお前、どこだと思う?」
知らんがな、と言いたげに蛙が「クゥ」と小さく鳴いた。千鳥足でふらつきながら、丞幻は両手を広げた。
「地下牢よ、地下牢! なーんで、本屋の地下に牢屋があんのよ! しかも一畳しかないのよ、そこに二人! むっさい男と顔つき合わせて五十話書く羽目になったんじゃよ!?」
別の作家と共に、天井に吊るされた明かりしか無い地下牢に押し込められ、飲まず食わずに三日間。〆切を悪かったのは確かに悪いが、そこまでされる
汗と墨が入り混じった独特の臭い。尻に伝わる石畳の冷たさ。
他牢にいる作家の、
「これが終わったら銭湯これが終わったら夕餉これが終わったら色町」
「猫を吸いたい。思いっきり吸って毛を肺いっぱいに詰まらせて至高の最期を迎えたい」
「そうだ、俺が怪異になればいいんだ! 怪異をばらまく怪異になれば百話なんてあっという間じゃん! うっわー俺って頭いいー!」
などという気の狂った叫び声に悩まされ。それでも無事正気のまま書き上げた時は、無言で天を仰ぎ
「ウチにはさあ、ちーさい子が二人いるんじゃよ。ご飯だって自分達じゃ用意できんような子達だってのに、三日も帰れてないのよ。家に帰らせてくれって言ったのに、『それは用意しとくから安心して書け。はよ書け。さっさと書け』って言われてのー」
萌黄の三つ編みをゆらゆら揺らして、ため息を一つ。
「帰ってみたら
蛙がもういなくなったにも関わらず、油を塗ったように滑る舌は止まらない。
曾根崎屋への愚痴と、世間の冷たさと温かさ、家の心配と、明日の天気について、とめどなく話し続けていた丞幻は、ふと立ち止まった。
きょろきょろと周囲を見渡す。
「……おん?」
こめかみを人差し指でかいて、首をかしげる。
「ありゃま、行きすぎちゃったかねえ」
見覚えの無い景色が広がっていた。
話に夢中になって、道を行き過ぎたらしい。自宅はもう少し手前の方だ。戻るかー、と踵を返しかけて、ふと思い出した。
――二股杉の向こうにある荒れ寺に、祟り神が……。
銭湯で三日分の垢を落とし、乾杯だとなだれ込んだ居酒屋で、隣の酔漢達がそんな事を話していた。家の近くだなと思って聞き耳を立てていたので、覚えている。
「うーん、多分この先よねー。あいつらが言ってた荒れ寺って」
わだかまる暗闇を見透かすようにして、丞幻は首をかたむけた。話に出て来た二股杉が、闇の中に黒々とした影となって鎮座しているのが僅かに見える。
引き返して大人しく家に帰るか、それとも。
「よーし、行ってみるかね。その荒れ寺。作家にとって一番怖いのって、ネタ切れだしのー」
考えたのは一瞬。
荒れ寺に住む祟り神とは、なんとも面白そうだ。例えそれが祟り神でなくただの怪異だったとしても、それはそれで次の小説のネタになる。
「百個も怪談考えたせいで、ワシの脳みそってば出涸らし寸前よ! 補充しないと次回作もクソもないわー。今ワシの中にあるのなんて、鼻毛抜こうとしたら見知らぬ爺さんが鼻から顔出したくらいの怪談しかないわよー」
戯言を呟き、揺らめくように歩みを再開させる。
二股杉は名の通り、幹の半ばから太い枝が二本、左右に分かれて伸びている杉だ。鼻歌を歌いながら、その前を通り過ぎる。川から上がってくる涼やかな風が、酒で火照った身体に心地いい。
「祟り神って、どんな姿してるんじゃろねえ。虫とかかしら、前見たのは確か、鳥と人の混じりあったのだったのー。後はそうねえ、大穴で小石とか……んふふ、小石……んふふふふ」
一人笑いながら、人気の無い道を歩く。
瑞々しい緑が生い茂る田んぼが、段々と数を減らしていった。この辺りになると、農村もほとんど無い。背の短い草が並ぶ草地を眺めながら、なおも歩みを進めていくと。
「ああ、ここじゃね」
周囲に何も無い中で、ぽつりと立っている荒れ寺が目に入った。
雑草がまばらに生えた屋根を舐めるように、朗々とした月光が滑っていく。
「あらー、ぼろっぼろ。ホントに祟り神なんているのかしらん。祟り神だって引っ越すわよー、こんな所」
畦道をそれて、荒れ寺の敷地に入る。ぼうぼうと伸びた雑草が、足首に当たってちくりと痛痒い。我慢して本堂へと足を進める。
壁には大小様々な穴が開き、入口の戸も外れて外に転がっている。本堂の虫食い床が、水玉模様のように所々白く照らされていた。どうも、屋根にもいくつも穴が空いているらしい。
小雨すらしのげなさそうなぼろぼろ加減だ。掘っ立て小屋の方が、まだましに見えるくらいである。
ゆっくりと周囲を見渡しながら、丞幻は気配を探った。……怪しげな気配は感じない。
祟り神も、別の怪異の気配も、感じない。クゥクゥと、蛙の鳴き声がどこからか響いているくらいだ。
ふむ、と鼻下の髭を撫でつける。
「ま、与太話って所かしらねん」
そうだと思ったけど、と独りごちる。
作家である以上、ネタを求めてあちこち徘徊し、面白そうな情報があれば聞き耳を立てるのが常だ。噂通りの事が起こっていれば、流石に耳に入ってくる。
〆切で監禁されていた日を除いても、近所に怪しげな噂は無く平和なものだった。
「さーて、と。んじゃあそろそろ帰りますかね。本気で厨爆破されてたらたまらんよ」
まあ、荒れ果てた寺は中々に雰囲気が良い。それだけでも良いネタにはなった。
「例えばそうねー、荒れ寺で一夜を明かす事になった浪人。寝ていると物音がして、出てみると白魚のような指がにょっきりと地面から――」
ざり、とどこからか音が聞こえたのはその時だった。
「……ん?」
丞幻はゆっくりと、そちらに目を向けた。
寺の敷地内には、一面雑草が生い茂っている。その中で音がした所だけは、黒々とした土が見えた。今いる所から、五歩分くらい離れた所だ。
土の周囲には、千切れた草が散乱している。まるで一度土を掘り起こした後で、元の通り埋め直したかのようだった。
少しだけ盛り上がったそこで、白いものが蠢いている。
――指だ。
爪の間に土の詰まった、節くれだった指が五本。まるで芋虫のように蠢いて、地面を引っかいていた。じっ、と丞幻が見据えている間に、五指は地面に爪を突き立てた。
ぐら。土が揺れて、手の甲が見えた。甲から腕が、腕から肩が、植物の成長を早回しで見ているように、たちまち片腕が地面の中から這い出てくる。
腕が、そこが地面であるかを確かめるように周囲をなぞった。ざり、ざり、と小石が擦れる。
「……」
ぼこり、と土が大きく揺れた。ぼこり、ぼこり、と左右に土が揺れる。力を込めるように、爪が地面をがりり、と掻いた。瞬間。
まるで水面に飛び出す魚のように、大きな塊が土から勢いよく飛び出してきた。ばらばらと土が放射線状に飛び散って、丞幻の足元にも降りかかる。
はあぁッ、と大きく息を吐く音がした。
飛び出してきたのは人だった。体格からして恐らく男だ。逆光で顔形はよく見えず、全体が黒い影になっている。肩を大きく上下させているのが見えた。
「…………っ!」
近くにいるこちらに気づく様子も無く、男は両手を地面についた。埋まったままの腰から下を抜こうとしたのか、小さな気合の声と共に、両肩がぐぐっと震えた。
しかしそこで、体力が尽きたらしい。男の身体が急に脱力して、地面に突っ伏した。そのまま、ぴくりとも動かなくなる。
そこでようやく、丞幻は男に近寄った。
腰から下は地面に埋もれたまま。意識が無いのかぐったりとしてはいるが、息はあるようだ。土に塗れた背が、わずかに上下している。
その様を見て、ぽつりと丞幻は呟いた。
「あらやだ、ネタだわ」
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