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***



まきの家は、普通の家ではない。今、その家業は途絶えてしまったが、槙の祖父が生きていた頃、久瀬ノ戸くぜのと家はヤクザを生業としていた。


槙の母親は、槙を身ごもると久瀬ノ戸の家を出たという。槙は、父親の顔を知らない。槙の母親がヤクザの娘だと知ると、父親は姿を眩ましたという。槙の母親は、久瀬ノ戸の息がかからない町で、一人で槙を育て上げた。


きっと、娘と孫を心配してだろう、久瀬ノ戸の家からは何人か組員が送り込まれていたが、槙の母親はいつもそれを突き返していた。組員達は実家に戻れと促すばかりで、その要求は飲めなかったからだ。槙の母親は、ヤクザの娘という肩書きを捨てたかった。


そんな中、組員の一人である龍貴たつきが、二十年に渡り槙の側にいる訳だが、それが出来たのは、龍貴が槙達をただ見守る事に徹していたからだろう。時に家事を手伝い、槙の世話や遊び相手となる。自分達を連れ戻すつもりがないなら、龍貴の存在は、母にとっても有り難いものだった。



だが、いくらヤクザという家柄を隠していても、どこからか情報は漏れ出すもの。母親や龍貴から一心に愛情を受けて生きてきた槙でも、周囲から無遠慮に注がれる悪意の眼差しには耐えきれず、中学はまともに通う事はなかった。


そんな状態だった事もあり、高校進学を機に槙達は引っ越しをした。進学したのは咲蘭さくらん高校ではないが、引っ越したのは、今住んでる町の隣町だった。


環境は変わったからといって、すぐに心が変わる筈もなく、進学しても、槙は学校をサボってふらふらしていたという。




織人おりとが槙と出会ったのは、そんな時だ。織人はまだ三歳で、近所の公園に母親と遊びに来ていた。織人達は、この頃から今と同じ町に暮らしていて、当時、槙が隣町に足を伸ばす事も、よくある事だった。


織人はボール遊びが好きで、公園で遊んでいた時、そのボールが転がった先に居たのが槙だった。槙は足を下ろしてベンチで昼寝をしており、コロコロと転がったボールを追いかけた織人は、勢い余って槙の足にぶつかってしまった。


「あ?」


突然、足に温もりを感じ、槙が微睡みから目覚め顔を起こすと、槙の足を掴んだ織人が、きょとんとこちらを見上げていた。


これが、二人の出会いだった。


織人の母親は、槙を不良高校生と思い謝罪を繰り返したが、その不良高校生は、思いの外子供に優しかった。


「大丈夫だった?」と、槙が織人の頭を撫でてやると、織人はくりくりした瞳を輝かせ、ボールを拾うと、槙に見せるように持ち上げた。


「これね、パパが買ってくれたの、こうするんだよ」と、ボールを蹴ってみせてくれる。槙が遊んでくれると思ったのかもしれない。それなら、相手をしてあげなきゃと槙も思ったようで、気づけば織人の母親も交え、三人でボール遊びを楽しんでいた。


これを機に、織人はすっかり槙に懐いてしまい、週に何度か会うようになっていた。

小さな小指を突き出して、「やくそくだよ!」なんて必死に言われては、槙も断れないだろう。

この頃、織人の父親は他界しており、織人にとって槙は良い遊び相手で、父親のいない寂しさを紛らわしてくれる存在となっていたのかもしれない。




槙が真面目に学校に行くようになったのは、その翌年の事だ。公園で会えない分、織人が寂しがらないようにと、家を訪ねる事もあった。互いの母親も交流を持ち、家族ぐるみの付き合いはこの頃から始まった。


そして、槙が高校三年の春、織人が五歳になる年だ。その日、槙は約束通り織人の家を訪ねた。幼い織人にも、槙が無理してるのが分かり、どうしたのと尋ねると、槙はぼろぼろ涙を零し、膝から崩れて泣き続けた。



槙が消えてしまうんじゃないかと恐怖を感じ、涙を止めようと懸命に織人が槙の背中を擦った日。

頼もしい槙を、初めて守りたいと思った日。

織人の初恋が始まった日。

この日が、文人ふみとの命日だと、槙にとって大事な人を失った日だと知ったのは、まもなくだった。


そして、槙がヤクザの家の生まれであると知ったのも、この頃だ。

きっかけとなったのは、文人の死だった。槙が彼と関係を持ち、文人は槙の家の者に脅され川に身を投げたのだと、槙の通う高校や町にも噂が広まった。


中には、ヤクザに殺されたのだという噂も飛び交ったが、文人の死因については、溺死で、入水自殺によるものなのではとされている。ただ、何故文人が死を選んだのか、槙の関係を苦にしてだとか、槙の事でヤクザに脅されていた、なんて話は耳に入ってくるが、それはどれも憶測に過ぎず、本当のところは今も分かっていない。様々飛び交う噂の出所も分からないが、槙が文人を想っていたのは事実だった。


それでも、織人の母親も織人自身も、槙との付き合い方を変えなかった。その中で、いくら白い目で見られようとも、織人は槙の零した涙を信じていた。槙が文人を脅すような事をするなんて、考えられなかったからだ。




***



酒に酔ってソファーで寝てしまった槙を見て、織人はそっとその顔にかかる髪を指で払った。穏やかに見える寝顔だが、目尻からは涙の跡が見える。


文人の死は自分のせいだと、槙は自分を責め続けている。


織人はその涙の跡を指先で拭うと、槙の体を抱え上げた。あの頃とは違う、下手したら槙よりも大きな手、こうして抱え上げる事も出来るのに、自分はあの頃から何も変わっていない。


この背を支え、その手を引いて歩き出せたら。

あの頃望んだものは、まだ何一つこの手にはない。


織人は槙をベッドに寝かせると、何も出来ないその指で、もう一度、槙の頬を撫でた。


「…桜なんか咲かなきゃいいのに」


呟きはどこへも届かず、静かな夜へと吸い込まれていった。



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