9



その後の車内では、ますます言葉少なくなってしまったまきを気遣ってか、龍貴たつきの口は良く回った。

ジムで起きた事や、ご近所の奥さんとの立ち話で得たスーパーの安売り情報、そのスーパーの人事の裏に隠された秘密など、槙にしてみればどうでも良い話だが、そのどうでも良さが、槙の心を蝕む影を少しずつ宥めたのかもしれない。


途中でご飯屋さんに立ち寄り、ちょっとその辺をドライブして帰れば、アパートに着く頃にはすっかり日が落ちて、槙の表情も幾分柔らかくなっていた。


夕飯はどうしようか、なんて会話を挟みながら、龍貴がひとまずアパート脇に車を停めると、アパートの二階、槙の部屋の前に人影が見えた。


「お、ナイトの登場っすね」

「違うから」


龍貴のからかいに、槙は苦々しく言いながら車から降りた。部屋の前で待ちぼうけをしていたのは織人おりとで、織人もこちらに気づき、アパートの階段を駆け下りてきた。


「お前、バイトは?」

「早めに上がった」

「なんでまた」

「…別に、俺の勝手だろ」


織人は不機嫌そうに、ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。だが、誤魔化しきれない思いが、その顔を赤く染めている。

きっと、織人は少しでも早くと思って、槙に会いに来てくれたのだろう。それは織人の為のようでいて、槙の為でもある。今日が槙にとってどんな意味を持つ日なのか、織人もそれを知っているからだ。


「織人さん、今日は泊まってくんすか?」


龍貴は、どこかそわそわとして尋ねた。龍貴からすれば、織人は大分年下で付き合いも長い、それでも槙にとって大事な人は、龍貴にとっても大事な人だ。なので、自然と敬意を払った態度になる、龍貴なりの、だが。


「そのつもりで来た」


龍貴の問いかけに、織人はスーパーの袋を掲げた。それを見て、槙は眉間に皺を寄せた。今晩の夕飯は、織人の手料理で決まりのようだ、それに対して龍貴は「良かったっすね!坊っちゃん」と、槙の顔を覗き込んだが、槙は嬉しさやら気まずさがない交ぜになったような、微妙な表情を浮かべるので、それを見た織人は、不機嫌そうに唇を尖らせた。


「なんだよ、その顔」

「いや、ほら…たまには織人もさ、母ちゃんとのんびりしたら?」

「昨日のんびりして来た。だから、良いんだよ」


昨日は、織人の母親も休みだったのだろう。織人の母親は、女手ひとつで織人を育てて来た人だ、今も変わらず仕事を掛け持ち、忙しい日々を送っているという。だから、自分の家にばかり来ないで、母子水入らずの時間を大事にして欲しい、そんな思いで槙は言ったのだが、織人はそんな槙の思いも見抜いていたように、槙の断る口実を断っていく。


「でも、」


そう言葉にしかけて、槙は続く言葉を飲み込んだ。織人を見上げれば、良いと言うまでこの先には行かせない、そんな意思がありありと伝わってくる。槙にとって織人はどうしたって可愛い存在だ、最近は織人が何を考えているのか分からない事も多くなったが、織人が可愛い事には変わらない。それでも、今日は特別な日だ、今日のこの日に織人が側に居てくれること、それを自分に許して良いのか、槙には葛藤があった。


「なんだよ、いつもの事だろ。母さんにも言ってあるし、飯だって作って置いてきたし、帰ってくるの夜中だから、それまで俺どうせ一人だし。それに、あんたの家はすぐ散らかるし、それ片したりしてんのは俺が勝手にやってるだけだし、飯だってそうだろ」


槙の抱く、いつもとは違う葛藤に、織人も気づいているのだろう、それでも引けないのだと、織人は自分が槙の側に居ても良い理由を、断る必要のない理由を探して埋めてくる。不機嫌そうにムッとしながらだが、それが健気に見えてしまって、槙の心はどうしたって和らいでいくようで。


「…分かったよ」


結局、折れてしまえば、織人は嬉しそうに瞳を瞬かせた。だが、それも一瞬の事で、すぐに何故か勝ち誇ったかのように笑うので、槙は思わずといった様子で吹き出してしまった。


「何、笑ってんだよ」

「いや、だってお前…可愛いくて!」

「はあ!?なんだよ、それ!」


今までの胸の強ばりが解けたように、ヒーヒー言って笑う槙、それが解せず赤くなって憤慨する織人。そんな二人の様子に、側で見守っていた龍貴も、つられるように笑顔になっていて、槙の楽しそうな様子に、ほっと胸を撫で下ろしていた。


「じゃあ、俺はそろそろ失礼します!」


この分だと心配はいらないなと、龍貴が元気良く敬礼ポーズで告げれば、槙は笑いを抑え、「今日はありがとうな」と、どこか申し訳なさそうに眉を下げた。槙は、実咲と会った時の事を気にしているのかもしれない、龍貴はどんと自身の胸を叩いて、からりと笑った。


「坊っちゃんの為なら、なんとやらっすよ!」

「だから、坊っちゃんはやめてってば」


槙は呆れ顔を浮かべながらも、その表情はいつもと変わらない笑い顔だ。


「気をつけて帰れよ」

「はい!お二人も仲良くっすよ!坊っちゃん、素直が一番ですよ!」

「はいはい、じゃあな」


槙は、これ以上はからかわれると思ったのか、ひらひらと手を振って、先にアパートの階段を上がって行ってしまった。織人は槙の背中を見送って、龍貴に視線を戻した。織人も、今日が何の日であるか分かっている、だから、何がなんでも、今晩は槙の側に居たいと思ってくれたのだろう。龍貴はそう思い、何か聞きたげな視線を向ける織人に、そっと表情を緩めた。


「織人さん」


先程までの元気な声を潜めた龍貴に、織人は自然と表情を強ばらせた。


「今日、田所の奥さんに会ったんすよ」

「え、」

「まさかのバッティング。俺はカチンときちゃったけど、坊っちゃんは冷静でしたよ。でもしんどいと思うんすよ、だから、」

「分かってる」


間髪入れずに頷いた織人に、龍貴は僅か目を瞪り、それからどこかほっとしたように頷いた。龍貴も織人の事は子供の頃から知っている、小さな背中が槙を追いかけていた事、もう背中を追いかけるだけの小さな子供の頃とは違うのだと、織人が頼もしく見えたからだ。


「うん、頼むっす」


龍貴はそう、織人の肩を軽く叩いた。言葉では軽く聞こえたかもしれないが、織人の肩に触れた手の平は、熱く龍貴の思いを伝えただろう。織人はその思いを汲み取り、神妙に頷いてくれた。


「…でも、弱みにつけこんで坊っちゃんを傷つけるような事があれば、いくら織人さんといえど…分かってますよね」


ゆらりと顔を上げた龍貴の、重苦しく凄む眼差しに、織人はさすがに息を詰まらせた。きっと織人は思い出したのだろう、龍貴の前職を。先程よりも神妙さを増して頷いた織人に、龍貴はパッと笑顔を浮かべて手を離した。


「はは、そうびびんないで!俺は、織人さんの味方っすから!これでも応援してるんすよ」


そう朗らかに言えば、織人はきょとんとして目を瞬いて、遅れて顔を赤くすれば、龍貴は笑って手を振りながら、自慢の愛車に乗り込んで去って行った。


「おーい、織人ー?」


その声に織人がはっとして顔を上げると、なかなか部屋に入って来ない織人を心配してか、槙が部屋から出て顔を覗かせていた。織人は槙に目を止めると、熱さの残る顔を誤魔化すように頭をわしわしと掻き、「今、行く」と、アパートの階段を駆け上がった。




***




織人がキッチンに立つと、槙が興味津々とばかりに織人の手元を覗き込んできた。


「今日は何?」

「肉。店長が余るっていうから、ハンバーグのタネ貰ってきた」

「ハンバーグ?チーズとろけるやつ?」

「やつ」

「やった!」

「ガキじゃねぇんだから」

「いーじゃん!俺好きなんだよなー」


嬉しそうな槙に、織人は頬を緩めつつ、内心ではもどかしくも思っていた。喜んでくれてるのはきっと本心だろうが、多分、今の槙は無理をしてるように思う。心配させないように、空元気を振り撒いているのだろうと。


織人だって知っている、今日が何の日かって事くらいは。龍貴に言われなくとも分かっている、織人だって、槙の事をずっと見てきたのだから。



食事の合間も、槙は良く喋っていた。織人の手料理を褒め、美味しい美味しいとハンバーグを平らげ、帰りの車の中で聞いた龍貴の何でもない話を織人に聞かせていた。織人は槙に合わせて相槌を打っていたが、その話は半分も耳に入っていなかった。でもそれは、槙も同じだろうと思う。槙は、話したくて話してるんじゃない、良く回る口は、頭の中を巡る思いを掻き消す為じゃないかと織人は思う。


楽しそうにしなくてもいいのに、辛いって言えばいいのに。


耐えきれず口を開いたが、槙の何でもないような目を見たら、結局何も言えなかった。




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