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四限目は受け持ちの授業が無かった為、次の授業の準備や事務作業を一先ず後に回し、
階段を上がって扉を開くと、心地よい春風が頬を撫でた。温かな日溜まりを浴びれば、不安定な心もどこか晴れやかな気分になる。
「さて」と、ひとりごち、屋上に進み出て辺りを見渡せば、目的の人物は思いの外すぐに見つかった。
屋上の隅の方で、鞄を枕に寝ころんでいる生徒がいる。一体いつから来ていたのか、彼はホームルームから欠席扱いになっていた。
「
槙がそう近寄ると、織人と呼ばれた生徒は閉じていた瞼を開けた。その瞳は、いくら不愉快に歪んでいても、幼い頃から変わらなく、澄んでいて綺麗だなと槙は思う。
彼は、
最初の印象が良かったのか、織人はよく槙に懐き、いつも槙の後を追いかけていた。
あの可愛かった織人も、もう十八になろうとしている。よく肩車をせがまれた小さな体は百八十センチに迫り、体つきも心なしか大人の槙よりもがっしりして見える。恐らく槙が織人を抱えるより、織人が槙を抱える方がスムーズだろう。昔はくりくりとしていた瞳も、今はきりっとして大人っぽくなり、未成熟の色香と相まって、危うい魅力を放っていた。
織人は槙を見上げたが、すぐにその瞳を逸らした。
織人が中学二年生の頃だったか、可愛く槙の後をついて回っていた織人は、槙に対し反抗的な態度を取るようになった。槙が
織人は、槙がいるからこの高校を選んだのではなく、単に家から一番近い高校だったからだろう。
織人の母親はシングルマザーだ。織人を育てる為、昼も夜も関係なく働いている。そんな母親を見て、少しでも助けになろうと考えたのではないか。物心ついた頃から織人は率先して家事を手伝っていたし、高校に入ってからは家計を支える為、アルバイトに明け暮れていた。
槙の家も、父親がいない家庭だったから、織人の気持ちは良く分かる。こんな風にサボっているのも、きっと仕事の疲れが出ているだろうことも。
だが、織人は学生で、槙は教師だ。四限まできっちりさぼっておいて、さすがに教師である槙が見過ごす訳にいかなかった。
「織人」
もう一度名前を呼べば、織人は煩わしそうに上体を起こして髪を掻き上げた。少し癖のある黒髪からおでこが覗いて、流れるように首筋に目が止まる。
本当に、一体いつからこんなに大人になったんだろう。たまに、目の前にいるのが、本当にあの可愛かった織人なのか分からなくなる。
子供の成長は早い、どんどん織人は大人になって、いつか自分の知らない場所へ行ってしまうのだろう、その思いは槙を少し寂しくさせた。
「何、そんなに見つめて」
ふ、と、何故か余裕しゃくしゃくの笑みで見つめられ、槙にはそれが癪に触った。寂しいなんて思った事が見抜かれたような、足元を見られたような。勝負なんかしていないのだが、なんだか負けたような気分になる。あんなに自分の後ろをついて歩いてたのに、今は自分より先を歩いているような気がして、ちょっと面白くない。
「見つめてねぇわ!」
言いながら隣に座り込み、文句の一つでも言ってやろうとその顔を見て、ふと気づく。その綺麗な瞳の下が、隈で黒くなっていた。
「寝てないの?」
やはり、疲れが溜まっているのだろうか。心配になって問えば、織人は視線を下げた。
「…寝てる。つか、寝てた」
「そうじゃなくて、夜だよ。バイト?」
「夜遊び」
「嘘つけ。お前がバイト掛け持ってんの知ってんだぞ。しかも、一つは年齢偽ってるだろ」
まさか朝方まで働いていたのかと問い詰めようとすれば、まるでそれを察したように、織人は顔を背けたまま、煩わしそうにくしゃくしゃと頭を掻いた。
「あんたには関係ないだろ」
「ないわけないだろ」
「何それ、先生だから?」
鼻で笑ったかと思えば不意に顔を覗き込まれ、槙は思わず言葉に詰まった。
幼い頃の織人の瞳がそれと重なる。教師だから、その答えは変わらないけど、それだけではない。織人は槙にとって、大事な弟のような存在だ。
「…先生だからだし、お前とはもう親戚みたいなもんだろ?」
困ったように笑えば、織人はその真意を突き止めようとするかのように、じっと見つめてきた。槙も負けじと笑ってやれば、やがて納得したのか、それとも諦めたのか、織人は溜め息を吐くと、再びごろりと寝転がってしまった。
「おいー、寝るなって!」
「俺の勝手じゃん、担任でもないからあんたの査定に響かないだろ?」
「そういう問題じゃないんだって」
まったくと、後ろ手をついて、槙は溜め息を吐いた。
「てかさ、学校来てんなら教室に行けよ、日数足んなくなるよ」
「五限には出る」
「本当かー?授業に出なかったら、学校に寝に来ただけじゃん」
「もう、分かったから戻って仕事しろよ」
「言うことだけ一丁前だな、お前は」
言いながら、槙は目を閉じる織人の顔を見つめた。
織人は授業をサボりがちだが、槙の授業にはいつもちゃんと出ていた。なのに、それが今日は違った。もしかしたら何かあったのかと、具合でも悪いんじゃないかと心配だったのだ。
「なぁ、なんで俺の授業出てくんなかったの?」
織人の顔を上から覗き込んで尋ねると、その瞳がゆっくりと開かれた。
「…桜が咲いてたから」
「は?」
想像もしなかった返答に、その意味が分からないでいると、不意に首の後ろに手を置かれ、そのまま真下へと引き寄せられた。
「え、」
驚いたのも束の間、槙は更なる衝撃に、大きな瞳を更に見開いた。触れ合う唇の柔らかな感触、視界いっぱいに整った織人の顔がある。
柔らかな温もりがそっと離れると、槙を見上げる織人が、勝ち誇ったように笑みを浮かべた。
「いい気味」
「…は?」
呆然とする槙を無視し、織人は体を起こすと鞄を持ち、そのまま屋上の入り口へと向かってしまう。
「…え、ちょ、おいこら織人!お、おおお前なんて事してんだよ!」
「何って、キスくらい初めてでもなし、怒るなよ」
「そ、そういう事じゃないだろ!」
「俺の気持ちに気づかない、あんたが悪い」
真っ直ぐと言い放たれ、その言葉の意味に気づいた時、槙はかっと頬を赤らめた。
「お、お前の気持ちは、」
「好きとか、そんな簡単なもんじゃないからな」
「…え?」
「いい加減、鬱陶しいんだよ」
それだけ言うと、織人は屋上を出て行ってしまった。
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