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四限目は受け持ちの授業が無かった為、次の授業の準備や事務作業を一先ず後に回し、まきは廊下からこっそりと、三年二組の教室を窓越しに覗いた。目を向けたのは、先程空いていたあの席だ。確かめてみるも、やはりそこに彼の姿はない。槙は表情を顰めると、小走りで廊下を抜け屋上へと向かった。



階段を上がって扉を開くと、心地よい春風が頬を撫でた。温かな日溜まりを浴びれば、不安定な心もどこか晴れやかな気分になる。


「さて」と、ひとりごち、屋上に進み出て辺りを見渡せば、目的の人物は思いの外すぐに見つかった。



屋上の隅の方で、鞄を枕に寝ころんでいる生徒がいる。一体いつから来ていたのか、彼はホームルームから欠席扱いになっていた。


織人おりと、お前来てたんなら授業出ろよ」


槙がそう近寄ると、織人と呼ばれた生徒は閉じていた瞼を開けた。その瞳は、いくら不愉快に歪んでいても、幼い頃から変わらなく、澄んでいて綺麗だなと槙は思う。


彼は、都築織人つづきおりと、十八才になる。織人とは、槙が十六歳、織人が三歳の頃からの知り合いだ。出会いは、槙の家の近くに都築家が引っ越してきた事、近所の公園での出会いだった。

最初の印象が良かったのか、織人はよく槙に懐き、いつも槙の後を追いかけていた。

あの可愛かった織人も、もう十八になろうとしている。よく肩車をせがまれた小さな体は百八十センチに迫り、体つきも心なしか大人の槙よりもがっしりして見える。恐らく槙が織人を抱えるより、織人が槙を抱える方がスムーズだろう。昔はくりくりとしていた瞳も、今はきりっとして大人っぽくなり、未成熟の色香と相まって、危うい魅力を放っていた。



織人は槙を見上げたが、すぐにその瞳を逸らした。


織人が中学二年生の頃だったか、可愛く槙の後をついて回っていた織人は、槙に対し反抗的な態度を取るようになった。槙が咲蘭さくらん高校に赴任したのは、今から四年前。織人はこの高校を避けるかもしれないと思っていたが、どういう訳かちゃっかり入学してきた。それも主席で合格だ。織人の成績ならもっと上を目指せただろうに、そう思いかけ、槙は、すぐに織人がこの高校を選んだ理由に思い至った。


織人は、槙がいるからこの高校を選んだのではなく、単に家から一番近い高校だったからだろう。

織人の母親はシングルマザーだ。織人を育てる為、昼も夜も関係なく働いている。そんな母親を見て、少しでも助けになろうと考えたのではないか。物心ついた頃から織人は率先して家事を手伝っていたし、高校に入ってからは家計を支える為、アルバイトに明け暮れていた。


槙の家も、父親がいない家庭だったから、織人の気持ちは良く分かる。こんな風にサボっているのも、きっと仕事の疲れが出ているだろうことも。

だが、織人は学生で、槙は教師だ。四限まできっちりさぼっておいて、さすがに教師である槙が見過ごす訳にいかなかった。



「織人」


もう一度名前を呼べば、織人は煩わしそうに上体を起こして髪を掻き上げた。少し癖のある黒髪からおでこが覗いて、流れるように首筋に目が止まる。

本当に、一体いつからこんなに大人になったんだろう。たまに、目の前にいるのが、本当にあの可愛かった織人なのか分からなくなる。

子供の成長は早い、どんどん織人は大人になって、いつか自分の知らない場所へ行ってしまうのだろう、その思いは槙を少し寂しくさせた。


「何、そんなに見つめて」


ふ、と、何故か余裕しゃくしゃくの笑みで見つめられ、槙にはそれが癪に触った。寂しいなんて思った事が見抜かれたような、足元を見られたような。勝負なんかしていないのだが、なんだか負けたような気分になる。あんなに自分の後ろをついて歩いてたのに、今は自分より先を歩いているような気がして、ちょっと面白くない。


「見つめてねぇわ!」


言いながら隣に座り込み、文句の一つでも言ってやろうとその顔を見て、ふと気づく。その綺麗な瞳の下が、隈で黒くなっていた。


「寝てないの?」


やはり、疲れが溜まっているのだろうか。心配になって問えば、織人は視線を下げた。


「…寝てる。つか、寝てた」

「そうじゃなくて、夜だよ。バイト?」

「夜遊び」

「嘘つけ。お前がバイト掛け持ってんの知ってんだぞ。しかも、一つは年齢偽ってるだろ」


まさか朝方まで働いていたのかと問い詰めようとすれば、まるでそれを察したように、織人は顔を背けたまま、煩わしそうにくしゃくしゃと頭を掻いた。


「あんたには関係ないだろ」

「ないわけないだろ」

「何それ、先生だから?」


鼻で笑ったかと思えば不意に顔を覗き込まれ、槙は思わず言葉に詰まった。

幼い頃の織人の瞳がそれと重なる。教師だから、その答えは変わらないけど、それだけではない。織人は槙にとって、大事な弟のような存在だ。


「…先生だからだし、お前とはもう親戚みたいなもんだろ?」


困ったように笑えば、織人はその真意を突き止めようとするかのように、じっと見つめてきた。槙も負けじと笑ってやれば、やがて納得したのか、それとも諦めたのか、織人は溜め息を吐くと、再びごろりと寝転がってしまった。


「おいー、寝るなって!」

「俺の勝手じゃん、担任でもないからあんたの査定に響かないだろ?」

「そういう問題じゃないんだって」


まったくと、後ろ手をついて、槙は溜め息を吐いた。


「てかさ、学校来てんなら教室に行けよ、日数足んなくなるよ」

「五限には出る」

「本当かー?授業に出なかったら、学校に寝に来ただけじゃん」

「もう、分かったから戻って仕事しろよ」

「言うことだけ一丁前だな、お前は」


言いながら、槙は目を閉じる織人の顔を見つめた。

織人は授業をサボりがちだが、槙の授業にはいつもちゃんと出ていた。なのに、それが今日は違った。もしかしたら何かあったのかと、具合でも悪いんじゃないかと心配だったのだ。


「なぁ、なんで俺の授業出てくんなかったの?」


織人の顔を上から覗き込んで尋ねると、その瞳がゆっくりと開かれた。


「…桜が咲いてたから」

「は?」


想像もしなかった返答に、その意味が分からないでいると、不意に首の後ろに手を置かれ、そのまま真下へと引き寄せられた。


「え、」


驚いたのも束の間、槙は更なる衝撃に、大きな瞳を更に見開いた。触れ合う唇の柔らかな感触、視界いっぱいに整った織人の顔がある。

柔らかな温もりがそっと離れると、槙を見上げる織人が、勝ち誇ったように笑みを浮かべた。


「いい気味」

「…は?」


呆然とする槙を無視し、織人は体を起こすと鞄を持ち、そのまま屋上の入り口へと向かってしまう。


「…え、ちょ、おいこら織人!お、おおお前なんて事してんだよ!」

「何って、キスくらい初めてでもなし、怒るなよ」

「そ、そういう事じゃないだろ!」

「俺の気持ちに気づかない、あんたが悪い」


真っ直ぐと言い放たれ、その言葉の意味に気づいた時、槙はかっと頬を赤らめた。


「お、お前の気持ちは、」

「好きとか、そんな簡単なもんじゃないからな」

「…え?」

「いい加減、鬱陶しいんだよ」


それだけ言うと、織人は屋上を出て行ってしまった。




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