第6話 ふたりの違い
アリスがこの地に来て、町で買い物に来たのは二、三回だけ。
先輩使用人についてお使いに来たことはあるが、それは食品や日用品を扱う店ばかりで、若い子が行くような華やかなお店に入ったことは無い。
いくらお洒落に興味がないアリスでも、やはり気になるものだ。
雷雨の日にダレンに乗せてもらったように馬に乗り、出かけた町並み。
あの日は緊張と疲れですぐに眠ってしまったが、今なら少しは冷静でいられる。あの時には気が付くことができなかったダレンの香りや、固い筋肉質な胸が自分の背中にあたっている。
彼と自分の違いを感じつつ、髪を梳かす時にときおり香る、柑橘系の香りが今はもっと強くアリスを包み込む。
優しい香りと、ダレンの胸の熱さを背中に感じ、アリスは少しだけ落ち着かない気持ちになったりした。
それがなんなのか分かりたくなくて、アリスは心を無にするように目に映る町並みを見続けていた。
「さあ、着いたぞ」
先に馬から下りたダレンがアリスに手を差し出す。
アリスの両脇に手を入れ、ヒョイと抱え上げると優しくアリスを地に下ろす。
成人女性にするそれではないけれど、今のアリスには十分だ。子供扱いの方が何故か落ち着く。
「え? ここは?」
お礼の言葉を口にするよりも驚きの方が勝ってしまった。
アリスは今、見るも華やかなドレスショップの前で立ち尽くしていた。
「入るぞ」
そう言ってダレンに手を掴まれ、引きずられそうになるのを必死に足を踏ん張りアリスは拒絶の意思を見せた。
「ダ、ダレン様。わかっていらっしゃいますか? ここはドレスを売るお店で、私たちが今求めているのは髪紐です。店が違います。
もっと、若い子が行くような小間物屋はないのですか?」
アリスの言葉にダレンは少し小首をかしげた。
ああ、美しい人は男女問わず、何をやっても美しいんだなと妙に感心してみるも、いやいや、そうじゃない!と冷静になる。
「髪紐はこんな立派なお店でなくても買えますよ。第一、こんな高価なお店に髪紐なんてあるんですか?」
アリスの必死な訴えに、
「そうなのか? ここは母や妹が世話になった店なんだ。ここの店主とは昔から懇意にしていて、気心も知れている。
と言うか、我が領地でドレスが買えるのはここだけで、今使っている髪紐もここで買った。といっても一年くらい前だが」
「え? ドレスショップでその髪紐を? じゃあ、元はとても上等な品だったんですか?」
「う~ん。上等かどうかはわからんが、この店で買ったのは間違いないな」
アリスの数少ないレパートリーの髪紐やリボンは、自分の領地内にある小間物屋や雑貨屋で買ったものだ。
どれも若い子でも買えるような品で、質もそれなり。
それが当たり前だと思っていた自分の価値観が貴族のそれではないことに気が付き、恥ずかしさで顔を赤く染めてしまった。
「も、申し訳ありません。そうですよね。自分の基準で考えるからおかしいんです。ダレン様にはこのくらいのお店が当たり前ですね。
そうとわかれば、さあ! 行きましょう」
何故か戦に赴く騎士のごとく、気合を入れ仁王立ちで店構えを見上げた。
自分の領地にはない立派な佇まいに思わず身震いをし、パンと頬を叩き気合を入れなおす。
「ははは。何をしているんだ? まあ、いいか。さ、入るぞ」
再びダレンに手を取られ足を踏み出そうとした瞬間、何故か店のドアが開き、中から執事風の男性が満面の笑みでこちらを見ていた。
「これは、これは、お館様。ご連絡いただければ、こちらから出向きましたものを。ご来店ありがとうございます」
そう言って左手を胸に、右手を店の中に差し出し誘導をし始めた。
「おや? 今日はお連れ様がいらっしゃるので? ああ、お付きのメイドかなにかですか?」
「ん? まあ、そんなものだ。今日は髪紐が欲しくて来たんだ。何本か見せてくれ」
「かしこまりました。では、奥にご案内いたします。どうぞこちらに」
言われるままに奥へと進むダレン。
一緒について行くものとばかり思っていたアリスを止めたのは、店の女性店員だった。
「お付きの方はこちらでお待ちください」
にこやかに顔は微笑んでいるが、その声は使用人に対する声色だった。
これでも子爵家の令嬢だ。領地から出たことは無いが、領地内ではお嬢様で通っていた。スタック家で使用人として働くようになっても、当主であるダレンに気に入られていることもあり、辛い思いをしたことは一度としてない。
そう。うぬぼれていたのだ。
社交界や世の中すらも知らずにこの地に来たアリスにとって、自分の身を知るいい機会になったことも事実。
「すみません、外で待っています。戻られたら、そうお伝えください」
アリスはぴょこっと頭を下げると、一人店を後にした。
店の外に出ると、入り口から少し離れたところで待つことにした。
活気のある町並みは、行きかう人の顔も晴れやかで楽しそうに通り過ぎていく。そんな風にダレンと並んで買い物ができるつもりでいた自分に嫌気がさしてくる。少しばかり可愛がられていることを良いことに、どれだけ調子に乗っていたのだろうと、情けなさが込み上げて視界が滲む。
自分は使用人。ダレンは当主様。
この身分の差は決して崩れることは無い。
もう、一緒に馬に乗るのはやめよう。周りに何を言われるかわからない。
今まで言葉遣いすら気にせず話していたことが、今更ながらとんでも無いことなどわかった。
ダレンの髪を結う役目も、出来るなら下ろしてもらいたい。それが無理ならできるだけ手短にすませよう。今までのように世間話しなどせずに、きちんと距離を置き、立場をわきまえた行動を取ろう。
「できるかな? わたし」
なんとなく口にした思いが、アリスの心を埋め尽くす。
ダレンの髪を結ぶときに香る柑橘系の匂いはきっと、石鹸の匂いだと思う。
ほんのりと香るその匂いが、アリスは大好きだった。
時には汗の匂いと交じることもあったが、それすらもアリスには落ち着けるものになっていた。
彼の髪を触ることができる唯一の人間だと、そんな自覚が彼女をうぬぼれさせたのだろう。それが続くと、ずっと続くと思っていた。
そんなこと、あるはずがないのに。
自分の思いに気が付かない振りをしていたのだ。
気が付いてしまえば、苦しくなるだけだとわかっていたから。
初めて自分に向き合ってくれた異性。たとえそれが小動物のような扱いでも構わなかった。一緒にいられるだけで、心が温かくなる気がしたから。
初めて親元を離れ、最低限の知識と荷物だけを頼りに辿りついた場所。
それがダレンの元だった。
憧れにも近い感情であったとしても、少女が大人の階段を上る時に出会い、思いを寄せるには十分すぎる存在。それがダレンだったのだろう。
「今ならまだ戻れる。戻らなくちゃ」
滲む視線を払うように目元を手の甲で拭うと、アリスはいつものように頬を両手で叩き気合を入れ、そのまま天に向かい、思いっきり笑って見せた。
アリスが店の外で待つとすぐに、ダレンが店から顔を出す。
「どうした? 何をしているんだ」
そう言いながら、ダレンは手を伸ばしアリスの腕を掴もうとする。
咄嗟にアリスは身をよじり、ダレンの手をよけてしまった。
「え? もう、お買い物はおすみですか?」
「そんなわけないだろう。一緒に買う約束だ、さあ中に行こう」
優しくほほ笑むダレンの顔が一瞬視界に入ると、アリスは思わず目を反らし、
「私はここでお待ちしておりますので、どうぞごゆっくりお買い物を済まされてください」
うつむいたまま、ジリジリと後ろに下がる様子を見てダレンも思うところがあったのだろう、
「何か言われたのか?」
その言葉に少しだけビクッとしたが、何食わぬ顔を繕い、
「何もありません。あまりにも立派なお店で気おくれしているだけです。
メイド服を着た私には場違いですので、ここでお待ちしております。どうか、ゆっくりお買い物をされてください」
頭を下げ懇願するアリスの頑なな態度に、ダレンは何も言えなかった。
何もないはずがないことはわかっている。言われた言葉も態度も、察しはつく。だが、それを否定も肯定もできない。立場が違えば当然のことだから。
「わかった、すぐに戻る。何かあったら大きな声を出すんだ、いいな?」
ダレンの手がアリスの頭を撫でる。まるで幼子をあやすように。
その手の温もりがあまりに優しくて、張りつめていた糸が切れそうになってしまう。
「はい。ここでお待ちしております。えへへ」
少しだけ震えた声を誤魔化すように、わざと笑ってみせた。
でも、顔は上げない。ダレンの顔を見たら涙がこぼれてしまうから。泣いた顔など見せる訳にはいかない。
ダレンの手がゆっくりとアリスから離れると、ダレンはそのまま店の中に姿を消した。少しだけ顔を上げ、彼の後ろ姿を目で追いかける。
少しずつ離れていくふたりの距離が、互いの立場の差を思い知らせるようで、たまらずアリスの瞳から雫がひとつ、その頬をつたった。
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