──24── 孤城の罠
ばたん、とドアが閉まる音がした。慌ただしい二人分の呼気の音が、広い部屋に響いている。
ふっ、と室内の明かりがついた。天井できらめくのは繊細なデザインのシャンデリアで、カットされたガラスが暖色の光を乱反射させている。
広々とした部屋の中に、人影がふたつ、ふらふらと歩み出た。天蓋付きのベッドの傍に立った一人、黒髪の少女が、はあっ、と胸元を手で押さえた。
「……ここなら、きっと安心ですよね」
「そうだね」
男の声で返事がある。穏やかで誠実そうな人影が、そっと少女の傍らに寄り添った。
「誰にも見つからなくてよかったよ」
「ええ」
少女はまだ息を整えている。男の方も、わずかに肩を上下させていた。ふうっ、と大きな息の音。
「たくさん走らせて悪かったね」
「いいの。もともとは私の我儘だから。でも、やっと落ち着けてよかった」
くる、と少女が部屋を見渡す。天蓋付きの広々としたベッド、大きなテレビやカラオケ設備、カゴに入ったバスローブと豪華なアメニティ。
「すごい。お城みたい」
少しだけはずんだ声に、男が小さく笑う。部屋を見回していた少女は、くるりと男の方に向き直った。そして、かすかに目元を朱に染めると、男の胸にしなだれかかる。
「っ……」
ひく、と男の指先が動いた。けれどそれだけで、彼は棒立ちのまま動かない。少女はそれでも構わないようで、うっとりした声を上げた。
「……ねえ。もうそろそろ、お願いを聞いてくれてもいいでしょう?」
白い指先がゆるりと動いて、男の胸元、シャツをぎゅっと握りしめる。喉仏の浮いた首元に額を押し付けて、少女は蕩然とささやいた。
「私を〝そういう〟女にする、最初の人はあなたがいい。ただひとり私をわかってくれる、あなたがいい……」
語尾がかすかに掠れて、少女はぎゅうっ、と男の腰に抱きつく。棒立ちのままだった男が、はっ、と詰まったような息を吐いて、ゆるゆると手を持ち上げた。
骨ばった男の手が、少女の背をゆるく撫でる。鼻先をさらさらの黒髪に埋めて、男は小さくささやいた。
「ああ……きみは本当にきれいだね。かわいいね、すてきだね」
きつく抱き返された少女は、はあっ、と熱っぽい息を吐く。もどかしそうに身をよじる少女の耳元に、男は低い声を吹き込んだ。
「きみは生まれついてのすばらしい、純粋で儚い天使」
「ちがう、私、私は……」
わかってるよ、と小さな声。
「大丈夫。きみをただの生き物にしてあげる。僕だけの生き物にしてあげるね」
だから、なにも心配いらないよ。
上ずった声でそうささやくと、少女を抱きしめたまま、男の片手が天蓋のヴェールをめくる。そのまま二つの人影が、ベッドに倒れ込みそうになったとき──
「盛り上がってるところ悪いけど」
「ちょっと邪魔させてもらうからな、二人とも」
きっぱりとさえぎる声に、はっ、と人影たちが身を強張らせた。勢いよく少女──ゆりを引き剥がしたのは、間違いない、俺のよく知る人物だった。
「……こんばんは、甕岡さん」
「やあ、ごきげんよう」
バスルームから現れた俺のこわばった挨拶に、甕岡は淡い笑みを浮かべている。ぴったりと彼に寄り添うゆりは、あからさまに不服そうな顔をしていた。
「ずいぶん怖い目だね。敬斗くん」
「……甕岡さん……」
いつもとなにも変わらない表情の甕岡が、ふっと俺の隣に視線を投げる。厳しい表情の一ノ瀬を見て、甕岡はゆるく微笑んだ。
「おや、敬斗くんは彼女連れかい? もしかして、僕は部屋を間違えちゃったかな」
俺は静かに首を振る。そして、まっすぐに甕岡の目を見据えた。
「甕岡さん。どういうことですか」
「……」
穏やかな目をしたまま、甕岡はああ、とすがりつくゆりを見下ろす。にこりとした微笑み。
「さっき取材中に彼女を見つけてね。どうしても帰りたくないって言うものだから、せめて安全な場所で夜を越させてあげようと思って」
完璧な、にこやかな顔で言う甕岡の、演技力と豪胆さに、ひそかに感嘆する。俺は小さく息を吸った。
「それで──わざわざ〝ここ〟に?」
ここ、に力を込めて言うと、甕岡がかすかに笑みを深くした。彼らが寄り添う傍にあるのはキングサイズの豪華なベッドで、枕元には照明と音楽の操作盤。その上に、三包のコンドームが添えてある。
此倉街の最奥、坂のてっぺんにある、お城みたいなラブホテル。それがここだった。
どう考えても〝そういう目的〟のための場所。それなのに、甕岡は動じた様子もない。「ああ、なるほど」と軽く納得したように言うだけだ。
「僕はこれから此倉街の取材に出なきゃいけないから。小野塚さんにはできれば、その間は近くにいてほしくて。せっかくこうして見つけたん──」
「はっ。無駄な言い訳、ご苦労さまだね」
ぴしゃっ、と一ノ瀬が割り込んだ。甕岡の目が、かすかに見開かれる。完璧に清楚な少女の姿から、どう聞いても青年の声がしたのだ。それは驚くだろう。
けれど甕岡はすぐに表情をもとに戻した。ちら、と視線だけで一ノ瀬を見やる。かすかな笑み。
「へえ。ずいぶん変わった〝彼女〟だね」
「あんたみたいな少女趣味に、変だのなんだの言われたくないよ。ネタはもう上がってるんだ」
そう言うと、一ノ瀬はずい、とスマホを差し出す。そこには、家出少女へ大量のリプライを送るアカウントが表示されていた。甕岡の目が、すうっ、と細くなる。
「なるほど、なるほど。……まあ、さすがにこの言い訳は無理があったかな」
ひょい、と肩をすくめる仕草はいつもと何も変わらなくて、俺は自分の気持ちがずぶずぶと沈んでいくのを感じる。じわ、とこみ上げる苦い感情に目元が歪んで、俺は振り絞るように声を上げた。
「甕岡さん、……どうして」
問いかけに、甕岡は答えない。ただ淡々とした、いつもと何も変わらない穏やかな目で、俺を見つめているだけだ。
そのとき。
「──なにしに来たの」
俺と甕岡の間に、ずい、とゆりが割り込んだ。敵意と反発をあらわにした瞳が、きっ、と俺と一ノ瀬を睨む。
「どうして、ここがわかったの」
「そりゃあ、ここへ来るよう誘導したのは、俺たちだから」
「えっ」
俺の言葉に、ゆりの目が丸くなった。甕岡がかすかに目を細めて、どういうことかと促してくる。一ノ瀬が、二人を鋭く見据えて言った。
「さっき、美優さんからあんたにラインがあったよね。それ送ったの、敬斗だから」
俺が美優を装って送ったメッセージは、こんな内容だ。
甕岡の寝室に、ゆりが身を潜めていることに気が付いた。今からゆりの親と一緒にマンションに行く。その場から動かないで、説明の言葉を考えておくように、と。
「こんなラインが来たらそりゃ逃げるよね。なにせ見つかったら未成年拐取で警察沙汰だ」
くす、と笑う一ノ瀬が続ける。
「逃げ込む先として、人に見つかりづらいラブホを思い付くのは想定済みだったよ」
「だから俺たちは此倉街に先回りして、このホテルのこの部屋以外は、全部埋まってるってことにしておいたんだ」
さらに続けた俺の言葉に、ゆりが信じられない、という顔をした。けれど甕岡は「やっぱり」とだけつぶやいて、一ノ瀬をすっと見た。
「裏路地で会ったとき、もしかしてと思ったけど。こんな真似ができるなんて……きみが〝天使〟だったんだね」
「そういうこと」
一ノ瀬が肩をすくめる。そのまま、可憐な瞳が細まって、不敵な笑みが口元に浮かんだ。
「ま、折しも今夜は土曜日だ。俺たちがどうこうしなくても、ほとんどの部屋はほんとに埋まってたけどね」
一ノ瀬はそう言うが、〝天使〟の口利きはやはり強烈だった。
ホテル側への働きかけに加えて、お仕事がオフのお姉さんたちに片っ端から声をかけて、空いた部屋を軒並み埋めてもらったのだ。こんな力技、一ノ瀬の人脈と人望がなければ不可能だった。
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