──22── みんなおまえが好きなんだ
一ノ瀬は一瞬だけ、痛いみたいに表情を歪める。けれどすぐに静かな顔に戻って、ふーっ、と細い息を長く吐いた。
「……うん」
それだけつぶやくと、彼は膝の上にゴーグルを置いた。白いそれを指先で軽くもてあそんで、ささやくような声がする。
「小野塚さんとのこと、聞いたんだな」
「……ああ」
「そう」
長いまつげが伏せられて、かすかに息を漏らす音。
「……好きだったよ。少なくとも当時は、そう信じてた」
まだ十九のころだ、と彼は言った。
「俺は若くて、男で、バカだった。あの子のこと、ずっときれいだと思ってた。けがれてないって、信じてた。自分なんかとは違う、もっと清らかな存在だって。それであんな風に傷付けて──本当に、バカだった」
自嘲気味な笑みを交えて、一ノ瀬は言う。端正な視線がゆっくりと下を向いて、それで、と彼はささやいた。
「きもちわるいって言われて、思い知ったんだ。俺はなんにもわかってなかった、って。だからどうしても、本当のことをわかりたくて」
「……それで、この街に来たのか」
こくり、とうなずき。
「かつて傷付けた、俺が勝手に夢見てた〝女の子〟のことを、理解したかった。幸い、俺は自分の背が低くて、容姿が女っぽくて、顔の造作が整ってることを知っていた。だから、こういう服を着て、メイクも所作もぜんぶ覚えて、わざと男の視線にさらされてみたんだ」
きもちわるかったよ、と静かな声。うつむいた目元に影が落ちて、楚々とした表情を隠している。
「それで、思ったんだ。俺みたいな男から、あのきもちわるい視線から、彼女たちを守りたいって。だから、俺……頑張ったんだ」
この街の大人にとってはただの女子高生でしかない一ノ瀬が、此倉街の隅々まで立派に顔が利くようになるまで、彼はどれほどの努力をしたのだろう。
一ノ瀬はゆるゆると首を振る。
「でも、本当はわかってた。こんなのはただの中途半端な偽善ごっこだ。その場しのぎの急ごしらえでしかなくて、現実はなにも変わらない」
「……」
「バカだよな。偉そうに、おまえに説教なんかしたくせに。俺はやっぱり、彼女たちのことを、なんにもわからないままだ。なんにも、できないままなんだ」
その切々とした言葉に、俺はかすかに表情を歪めた。ためらって、考えて、うまく言葉にできないことを、なんとか形にしようとして。息を吸って、なあ、と呼びかけた。
「なんにもできない、なんてことはねえだろ」
一ノ瀬は、ゆるゆると首を振る。その横顔に向かって、俺は声をかけ続けた。
「たった数日だけど。俺、おまえのこと見てたよ。おまえ、頑張ってたじゃん。マージン全部差し出して、困ってる子に稼いだお金渡して、色んな子の面倒見て……」
それは献身を通り越して、ほとんど殉教みたいな行為だ。簡単にできることじゃない。その全部をやってもなお、彼は自分が足りないという。なにも変わらないという。
「この街を、一緒に歩いてわかったよ。みんなおまえを好きなんだ。それだけじゃ、一ノ瀬が頑張ってきた証拠にはならないか」
韓国風の制服が思い浮かんだ。辛辣な言葉ばかりを吐くくちびるが、たった一人、慕う言葉を口にしたのは一ノ瀬についてだけだ。
いつまでもいつまでも、一ノ瀬の後ろ姿を見送っていたお姉さんを思い出す。無理しちゃやだよ、の切実な呼びかけ。頼り過ぎちゃだめ、と言われたときの真摯な声。
彼女たちは、確かに一ノ瀬を案じていた。きっと同じような人は他にもいた。それはすべて、一ノ瀬の身を削る献身があってこそだ。
一ノ瀬が、小さく鼻をすすった。
「……そんなのは、わかってる……」
絞り出すような声がして、一ノ瀬が、ゆるゆると顔を上げた。呆然と開いた瞳はどこかよくわからない場所を見つめていて、美しい表情が、おそらくは後悔で揺れていた。
「それでも、……こんなのは俺のエゴだ。彼女たちのためなんかじゃない」
目元が歪んで、長いまつげが耐えるように震える。俺は首を振った。
「だけど、おまえは役に立ったよ。みんな感謝してる」
懸命な呼びかけに、一ノ瀬が激しく頭を振る。ちがう、と震える声。
「──それじゃだめなんだよ!」
「っ……」
一ノ瀬は、だめなんだ、と繰り返した。下を向いた彼の横顔を、セミロングの黒髪がさらりと覆い隠す。
「……きもちわるいって言われるまで、夢を見てることにすら気付かなかった。ほんとうに好きだと思ってた。バカだった」
「それで女の格好をして、おまえ、なにかわかったか?」
静かに首を振る仕草。だろうな、と思った。だってなにかひとつ、ひとかけらでいい、彼女たちをわかることができたなら。彼は今、こんな顔はしていない。
俺はなにを言えばいいかわからずに、くちびるを噛んだ。細い手が持ち上がって、一ノ瀬は静かに顔を覆う。絞り出すような震える声が、指の間からこぼれ落ちた。
「俺はもう、俺でいるのが嫌になったんだ」
「一ノ瀬」
「誰のこともちゃんとわかってなかった。きみが好きだって言いながら、ずっと相手を傷付けてた。こんな自分──大嫌いだ」
哀切な、痛々しい声が、震えながら耳に届く。それを聞き届けた瞬間、心臓の奥がずきっ、と痛くなった。やめてくれと思った。そんなことを言わないでほしいと。胸の底が沁みるみたいに冷たくて、感情がこみ上げる。
「……俺だって同じだよ」
ぼそっ、と声が落ちた。一ノ瀬の肩が、ぴくっと動く。俺は顔を歪めて、歯を食いしばって、同じだ、と繰り返した。
「俺もそうだったって、やっとわかった。自分がきもちわるい目で彼女たちを見てたって、ただの夢を押し付けてたって、思い知った」
「……敬斗」
一ノ瀬が、ゆるゆると顔を上げる。俺は目を背けて、勝手に肩に力がこもるのを感じた。
「俺、どうすればいいかなんて、ぜんぜんわからない。女の子のことだって、なんにも……」
俺だってわかってなかった。勝手に夢を見てた。きれいだって言いながら、守るって言いながら、俺だって、知らないところで相手を傷付けてた。なんにもわかってなかった。
だけど一ノ瀬は、その『わからない』を、ちっとも良しとしなかったんだ。彼女たちのために頑張って、身体もお金も労力もぜんぶ捧げて、できることを全部やってきた。その献身じみた懸命を、俺はひとつも否定したくない。
だから視線を合わせた。一ノ瀬の肩を掴んだ。ぐっと力を込めて、強引に彼の目を見る。手のひらの下に感じるのは、ちゃんと男の骨格だった。美しい瞳をまっすぐに見つめて、口をく。
「でも、俺はおまえが好きだよ」
「っ──」
端正な瞳が、大きく見開かれる。俺は身を乗り出して、掴んだ肩に力を込めて、言った。
「だって、おまえは俺と違う。いつも頑張ってた。いつだって、わからないって苦しんで、わかりたいって頑張って、彼女たちのために懸命で……」
そうだ、この男はたしかにゆりを傷付けた。一方的に〝女の子〟を持ち上げて、幻想めいた夢を見て、人間扱いしなかった過去もあった。一度はたしかに間違えた。
でも──俺の知っている一ノ瀬はそうじゃない。
彼はいつだって誠実で、懸命で、いっそ殉教的ですらあった。身を捧げて少女たちを助けて、できることはなんでもして、それだけじゃない、俺みたいなバカにさえ、彼はまっすぐに向き合った。
一ノ瀬は、俺の愚かしさなんて痛いくらい知っているはずなのに、ひどい糾弾なんてしなかった。ただ静かに『女の子だって人間だろ』って教えてくれた。本当のことを話してくれた。そうだ、一ノ瀬は、いつだって。
「いつだっておまえは、彼女たちに誠実でいたいって──それだけをずっと、願ってたじゃないか」
一ノ瀬が、小さく息を呑む。掴んだ肩に指が食い込む。俺は表情が歪むのを感じながら、それでも、言った。
「おまえがおまえを嫌いでも、俺は、みんなは、おまえが好きなんだ」
はっきりと、声を張って、まっすぐに。少しでも伝わるように。掴んだてのひらから、せめて体温が伝わるように。
「頼むから。そんな悲しいこと、言わないでほしい」
「っ……」
手の中で、一ノ瀬の肩がかすかに動いた。俺は身を乗り出して、可憐で端正な瞳を覗き込んだ。黒い虹彩の中にきらきらした噴水のライトアップがまたたいて、散らばった光が、星みたいに光っていた。
「一ノ瀬。せめて一緒に考えよう。どうすればいいかなんて、まだぜんぜん、俺にはわかんねえ。けど……」
どんなにわからないことでも、わかりたいと思うことはできるって、おまえが教えてくれたから。その誠実は無駄にならないって、わかったから。だから。
「それでも、おまえと一緒なら、俺は──」
「敬斗……」
目の前で、見開かれた瞳が、ゆっくりとまばたく。きらきら、取り込んだ星みたいな光が消えて、また現れる。
呆然とした一ノ瀬の表情が、少しだけ崩れた。美しい瞳に星を映して、今にも泣きそうな顔をして、小さな、震える声がする。
「おまえって……ほんと、バカみたいに素直だよな……」
それだけ言うと、一ノ瀬はくしゃっ、と笑った。細い肩がかすかに、震えていた。俺の手もたぶん少しだけ震えていて、だから、わざと口角を持ち上げて笑ってみせた。
「でも、それが取り柄なんだろ?」
「っ……」
くしゃくしゃの顔で一ノ瀬がうなずく。だったらいいだろ、と俺は笑った。もう一度一ノ瀬がうなずいて、少しだけ下を向いて。沈黙が降りてくる。さあっ、と噴水の散らばる音がした。
水音が、静かに辺りに響いている。暗い夜はネオンに包まれて、不思議な光を抱いていた。うつむいた一ノ瀬の、髪がかすかに夜風に揺れる。ふわりと、たぶん香水のにおいがした。長い、長い静けさ。
下を向いた一ノ瀬の、肩の震えはずいぶんと続いた。笑ってるんだか泣いてるんだかわからないそれをずいぶんと続けて、彼はようやく顔を上げる。
目元こそかすかに赤かったが、その表情はすっかりいつも通りの、冷静で皮肉屋な、俺の見慣れた一ノ瀬の顔だった。
振り切るように親指で目尻を拭って、一ノ瀬はふふ、と楽しげに笑う。なあ、とひときわ明るい、すっきりした声。
「さっきの発言、俺がうっかり誤解したらどうすんの」
「え? なんのこと」
「敬斗くんの、あっつーい告白のこと」
「へッ? ──あ、あっ……⁉」
完全にからかう口調で笑われて、俺はようやく、さっきの自分が非常に際どい発言をしたことに気付く。うわあ、としどろもどろの声が出た。
「ち、違う! そういうんじゃなくて! 俺はただ! 思ったことを! 純粋にだな‼」
「はっははは、すごい顔! わかってるって」
一ノ瀬は腹を抱えてげらげら笑っている。邪気のない、まるで子供みたいに楽しそうな笑顔。それがふっとゆるんで、静かな眼差しが俺を見た。シンとした、澄んだ声。
「……ありがとな、敬斗」
「……おう」
華奢な指で作られた握りこぶしが、すっと顔の前に差し出される。俺も同じようにグーを作った。二つの拳が、こつん、と宙でぶつかり合う。
一ノ瀬が、くしゃっと笑った。俺も同じように笑った。
「……っふ、ははは、なんだこれ」
「なんなんだろうな、ははは」
まるで安っぽい青春ドラマみたいだ。でもなんだか無性に嬉しくて、ちょっとだけ恥ずかしくて、楽しくて。胸の底が不思議なくらいあたたかかった。
俺と一ノ瀬は何度もこつこつと拳をぶつけあっては、肩を揺らしてくすくす笑った。バカみたいな、青春みたいなそれを、いつまでも続ける。俺たちの背後で噴水が飛び散る水の音が、やけに澄んで聞こえた。その中に、とても小さな声が混じる。
「たぶんおまえと一緒なら、俺も──」
かすかにつぶやいた一ノ瀬の横顔が、噴水のライティングに照らされて、うっすら白く光っていた。水音がさあさあと響いて、彼のまばたきのたびに、瞳の中で反射光がまたたく。
それは星のまたたきみたいにきらきらしていて、静かで、きれいだった。胸の底があたかかくて、少しだけくすぐったくて、なんだか妙に嬉しかった。
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