──7── 生きるだけなら犬でもできる
手洗い場の鏡に、見慣れないギャルが映っている。俺は空調の効きすぎで少しひんやりした女子トイレで落ち着かなく用を足し、手を洗ったところだった。
蛇口を締め、ぱっぱっ、と水を切る。そのとき、廊下側のドアが開いて、見知らぬ少女が入ってきた。俺に気付いて、あ、という顔をする。そのまま、彼女はつかつかとこちらに歩み寄ってきた。
韓国風に着こなした制服。黒い髪と白い肌に、やたら赤いくちびるが映えている。少女はするりと身を寄せると、ふうん、と俺の顔を覗き込んできた。
「な、なに」
「へえ。あんたがあの、体験入店の?」
「え……あの、って?」
「あんた、ウワサになってるよ。あの〝天使〟がわざわざ自分で面倒見てる新人だ、って」
さすが一ノ瀬、有名人だ。俺はあいまいな苦笑を浮かべ、たまたま暇だったんじゃない、とか適当なことを言った。
「んなワケないでしょ。あーあ、よっぽどスゴい新人かと思ったのに。思ったより普通でがっかりしちゃった」
「えっと……ごめん?」
思い切りため息を吐かれたので、とりあえず謝っておく。少女は隣の鏡で前髪を直しはじめた。つまらなさそうな横顔。
(そうだ、せっかくなら聞き込みしようか)
一ノ瀬には勝手に動くなと言われているが、ちょっと話を聞くくらい良いだろう。ねえ、と声をかける。
「なに」
少女はこちらを見向きもしない。俺はたじろぎそうになるのをこらえて、ゆりについて尋ねた。
「あの、さ。ゆうって子、ここにいると思うんだけど」
「え? ああ、あのやたら地味な子」
「あんまり目立ってなかったの?」
「まーね。あの子、指名客もほとんどいないし、うちら他のキャストともほとんど喋らないし。あんま居ないタイプっていうか……なんか普通に占いが好きみたいだけど、こんな店じゃそりゃ浮くよね」
ずいぶん辛辣な物言いだ。ポケットからティントを取り出し、少女はぱっぱっ、と上下のくちびるを合わせている。
「その、ゆうって子だけど。前に店の裏口で、髪を白く染めた男とこそこそ喋ってた、って聞いたんだ。なんか知らないかな」
ともすれば出そうになる男言葉を、かろうじて自制して問いかける。少女はきゅっ、とティントの蓋を閉めると、思い切り顔をしかめた。
「なにそれ。勝手に裏オプでもしてたんかな」
「裏……なに?」
「やめてほしいんだよねー、ただでさえ最近この店、ピリピリしてるんだから」
「ピリピリ……してるの?」
「してるしてる。オーナー変わってから、サービスがだんだん過激になってきてんの。この調子じゃ下手したら、アンダーでも正式に裏オプ導入されんじゃない?」
「アンダー……?」
さっきからバカみたいなオウム返ししかできない俺に、少女は眉を跳ね上げた。ぎろ、と下から睨みあげられて、思わず肩が縮こまる。
「あんた、なんも知らないんだね。なんでここにいんの?」
「えっと……ごめん」
反射的に謝ると、少女はため息交じりにいいけど、と言った。
「アンダーは十八歳以下のこと。裏オプはまあ……寝るってこと」
「え、違法じゃないの?」
反射的に漏れた声に、少女がちら、とこちらを見上げた。
「違法だよ。だからみんなどんどん逃げてっちゃった。今うち、キャスト全然足りてないもん」
じゃなきゃあんたみたいな無知を入れるわけないでしょ、と辛辣な言葉が飛んでくる。だが反発を覚えるより先に、俺は別の思考に気を取られていった。
(このままここにいたら、売春させられるかもしれなかった……?)
大勢の少女が我先にと逃げ出すほど、その事実は明らかだった。なのにゆりは、未だにフォーチュンパープルに在籍している。おじさんいわく最近出勤していないらしいが、辞めるとか逃げるとか、そういう気配は全くなかったという。
なぜゆりは逃げ出さなかったのだろう。そこまでしてお金が必要だった、あるいは、逃げられない事情があった?
顎に手を当て考え込んで、俺はふと顔を上げた。少女を見る。不思議そうな目が俺を見返していた。思わず言う。
「きみは逃げないの」
「あたし? べつに。そこまで抵抗ないし。まあ、摘発とかあったら面倒だけど……どうせ大人が逮捕されて終わりでしょ」
「え……」
あまりにもあっさり言い放たれ、驚く。だって身売りだぞ。どうしてこんな、おしゃれで華奢でかわいい女の子が、そんなことしなきゃいけないのか。
「あのさ……もしかして、お金ないとか?」
「え? そんなことないけど。うちのクソ親、ふたりとも弁護士だし。小遣いもたぶん、他の家よりはもらってんじゃない?」
「え、だったら、なんでそんな……」
理解できない。俺は激しくうろたえて、でも、それ以上にこみ上げたのは『そんなの絶対ダメだろ』という、強烈な一念だった。焦りがじわりとこみ上げる。
「ね、ねえ」
「ん? なに」
気が付けば身を乗り出し、少女の二の腕を掴んでいた。細くてきれいな腕。ちょっと力を込めたら折れてしまいそうな、俺や誰かが守ってあげなきゃいけない、かわいくて儚い、すてきな女の子の。
俺は少女を掴んだまま、必死に言い募った。
「やめなよ、こんなとこで自分を売るの。よくないよ。そんなことしなくても生きられるんでしょ?」
「っ──」
「だってきみは、両親もそろってて、お金も家もちゃんとしてるじゃん。なのにそんな、わざと自分を傷付けるような──」
「……あんた、なんか勘違いしてない?」
ぴしゃっ、とした冷たい声が降ってきた。えっ、と口が半開きになる。
二の腕を掴んだ俺の手首を、少女の細い指がぐっと掴んだ。強引に引き剥がされ、俺は仕方なく手を引く。舌打ちの音がした。そろそろと少女を見る。
燃えるような目が、まっすぐに俺を見据えていた。強烈な憤りや苛立ちがそこにはあった。ものすごく低い声がする。
「……なあにが両親揃ってて、お金も家もちゃんとしてる、よ。勝手にわかったような口きいて、あんたになにがわかんのよ」
「だ、だってきみ、困ってないじゃん。生きるのにぜんぜん──」
「……生きる?」
炎みたいだった目が、すうっ、と冷たくなった。心底軽蔑する、というような瞳。少女は赤く染めたくちびるを開いて、白い八重歯をのぞかせて、きっ、と俺を睨み付けた。
「生きるだけなら犬でもできる。あたしは犬にはなりたくない」
「犬、って──」
なにを言っているかわからない。だって彼女は弁護士の家に生まれて、お金もたくさんもらってて、きちんとかわいい女の子だ。守られるべき存在だ。犬がどうとか言われても、なんのことだかわからない。
いつまでも混乱している俺に、少女は不快感もあらわに言い捨てた。
「ほんっと、信じらんない……! あんたみたいな無神経に、あの〝天使〟が特別目をかけてるなんて。最ッ悪」
その口ぶりに、一ノ瀬への憧憬みたいなものを感じて、俺はかすかに眉を寄せる。なにかあるのだろうか。
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