エピソード1 新たな縁談
記念式典から一夜明けた翌日の昼下がり。
アンネローゼは父のいる執務室にて紅茶を飲んでいた。彼女が座るソファの向かい側。ローテーブルを挟んだその席には、イシュタリカ子爵家の当主である父ウィードが座っている。
彼は紅茶を飲んで一息吐くと、静かにアンネローゼを見つめた。
「アンネローゼ、昨日は色々とあったようだな」
疲労が色濃く滲んだ顔で、だけどアンネローゼのことを心から気遣っている。だが、だからこそ、アンネローゼは申し訳なくなって頭を下げる。
「こんなことになって、申し訳ございません」
「いや、おまえのせいでないことは、このわしが一番よく分かっている。おまえの母もまた、移し鏡の異能を持っておったからな」
母のアリスはアンネローゼを産んでほどなく亡くなっている。そのときに効果が解除されているが、それまでのウィードはずっと移し鏡の影響下にあった。
現代において、ウィードよりも移し鏡の効果について知る者はいない。
「ですが、ずいぶんと騒ぎになっているのではありませんか? その……ラインハルト様のお姿が大きく変わられたようですし……」
「……あぁ。婚約破棄の証明書にサインをしていただいたのは英断だったな」
「勝手なことをして申し訳ありません」
迂遠なお叱りだと思ったアンネローゼが頭を下げる。
「いや、あの書面がなければ、ラインハルト様の件で難癖を付けられていた可能性がある。婚約破棄にて生じる問題について、互いに一切関与しないという署名を得て正解だ」
移し鏡の異能は使う者によって、恩恵にも呪いにもなり得る。それゆえに、移し鏡の異能については箝口令が敷かれている。
だから事情を知る者は極わずかで、知らない者の方が圧倒的に多い。そんな状況下で、婚約を破棄したことでラインハルトは醜くなり、その才能も失うことになる。
婚約破棄にて生じる問題に、お互い一切関与しないという同意書がなければ、アンネローゼだけでなく、イシュタリカ子爵家まで難癖を付けられる可能性があった。
「しかし、イシュタリカ子爵家が賠償を得られる機会も潰えました」
「それなら心配はいらぬ。陛下より内々に、息子が迷惑を掛けたお詫びはするという確約をいただいた。詳細は後日話し合う予定だが、うちが不利益を被ることはないだろう」
「……そうですか、安心いたしました」
ほっと息をついていると、ウィードの視線に気付く。
「どうかいたしましたか?」
「いや、陛下がお詫びをしてくださると、おまえは予想していたのではないか?」
「予想はしていましたが……」
この国の王は無能ではない。当然、移し鏡の異能のことも知っているし、その異能を持つイシュタリカの一族を軽んじている訳でもない。
それなのに婚約破棄の許可を出したのは、ラインハルトのことを見限ったからだ。ゆえに、被害が及ぶイシュタリカ子爵家にはフォローを入れてくれると予測していた。
それでも不安だったのは、確信がなかったからだ。
「しかし、あの証明書にサインさせたのは本当に英断だぞ。ここだけの話だが、ラインハルト様が一時的に牢に入れられるほどの騒ぎに至ったらしい。その、ニセモノ騒ぎになって……」
「それは、また……」
アンネローゼの異能で美醜は変わるが、他人のような顔になる訳ではない。にもかかわらず、ニセモノと疑われるような変化が起きた、ということだ。
(一体どれだけ姿が変わったのかしら?)
「いくら姿が変わっても、自国の王子を見誤るなど……と思っていたが、さきほどその考えをあらためることにした」
「あら、どうしてですか?」
「アンネローゼ、おまえの姿を見たからだ。まさか、ここまで美しくなるとはな。移し鏡の異能を知るわしですら、本人かどうか疑いの気持ちを抱くほどであったぞ」
「まぁ、お父様ったら」
恥ずかしそうに身をよじったアンネローゼの肩口から、プラチナブロンドがサラサラと零れ落ちた。以前はツヤを出すのも一苦労だったその髪は、いまやなにをせずとも輝いている。
ラインハルトに醜いと揶揄された容姿は、彼の心の美しさを反映した姿だった。だが、彼との契約を破棄したいま、アンネローゼは従来の容姿を取り戻している。
ゆえに、美しくなったのは髪だけではない。
すぐに荒れて手入れが大変だった肌も透き通るように白く、瑞々しく変貌を遂げた。手足も細くしなやかになり、体付きも以前より女性らしくなった。
なにより、一番変わったのはその顔立ちだ。以前はどこか陰湿な印象のあった顔が、愛らしい天使のような顔立ちへと変貌を遂げている。
いまの姿でラインハルトの隣に立っていたら、誰も不釣り合いなどと笑わなかっただろう。
「しかし、思ったほど落ち込んでいないようで安心した」
「そうですわね。実は、自分でももう少し落ち込むと思っていたんです。でも、婚約を破棄したら驚くくらい身体が軽くなって……ちょっぴりワクワクしています」
移し鏡の効果がなくなった結果だ。
移し鏡の怖いところは、上乗せされるのではなく、上書きされるということだ。これにより、いままでのアンネローゼは本来よりも才能に恵まれない状態に陥っていた。
しかも、その才能のなさを埋めようと努力を重ねれば、ラインハルトの才能が満たされ、彼はますます努力しなくなる……という悪循環。
その状態から抜け出せたことに、アンネローゼは大きな喜びを感じていた。
「そうか……おまえが落ち込んでいないのならそれでいい。陛下が賠償金を支払ってくださったので、今後のことも気にする必要はない。その上で聞くが、これからどうしたい?」
「そう、ですね。よい縁談があれば、とは思いますが……」
アンネローゼにも、そっと胸を押さえた。彼女にも、結婚に対する憧れはある。というか、ラインハルトがあんな感じだったせいで、むしろ幸せな結婚に対する憧れは強い。
けれど、婚約破棄の憂き目にあったアンネローゼは、いまや立派な傷物令嬢だ。加えて、王子の姿が変わり果てたことに対しても、あらぬ疑いが掛けられるだろう。
もはやまともな縁談は期待できないと俯いた。そこにシャロが近付いてきて、空になったティーカップと、淹れたての紅茶が入ったティーカップを入れ替えてくれる。
「大丈夫ですよ。アンネローゼ様ならきっと引く手数多です」
「……そうかしら?」
シャロの言葉に希望を抱いて顔を上げるが――
「いや、わしが息子を持つ親なら、アンネローゼと息子の結婚は、なにがなんでも避けようとするだろう」
ウィードに現実を突き付けられた。
「ちょっと、私がアンネローゼ様を慰めているのに、なに余計なことを言ってくれてやがるんですか、このすっとこどっこい!」
「……すっとこ。シャロよ、わしはおまえの主なんだが?」
「私の主はアンネローゼ様ですがなにか?」
シャロがジロリと睨みつければ、ウィードは大げさに肩をすくめた。
「まあ聞け。シャロ、おまえにはたしか独身の兄がいたな?」
「はい、騎士団で働いています」
「そうか。中々に優秀な人物だと聞いているが、アンネローゼの夫としてどう見る?」
「はあ? あり得ませんわ」
シャロはさも当然のように言い放った。それが自分にはもったいないと言われているように聞こえて、ちょっぴり傷心中のアンネローゼは胸を押さえた。
「……なぜだ?」
「たしかに兄は優秀ですが、それでも聖人君子という訳ではありません。そんな兄と結婚したら、アンネローゼ様の天使のごとき美しさが損なわれて……あ、なるほど」
「なぜ、アンネローゼとの縁談を避けるか分かったか?」
「……たしかに、心の醜さを見せつけられるのが分かりきっていますものね」
アンネローゼと結婚すれば見目麗しい男になり、あふれんばかりの才能を得ることが出来る。それはラインハルトで証明済みだ。
だが、ラインハルトのときと同じように、アンネローゼが醜くなったら?
「恥を掻くことが分かりきっている。まともな貴族なら縁談を申し込むはずがない」
縁談は絶望的――そう宣告されたアンネローゼは俯いた。だが、そのタイミングを見計らったように、ウィードが「普通ならな」と言葉を続け、テーブルの上に手紙をとりだした。
「……これは?」
「昨夜に届いた、おまえへの求婚状だ」
「昨日、ですか?」
建国記念パーティーがあったのは昨日だ。つまり、その騒動を聞きつけて、すぐにでも手紙を送らなければ、昨日のうちに届く、なんてことはあり得ない。。
(ずっとわたくしを思い続けていて殿方が、わたくしの婚約が解消されたことを聞きつけ、慌てて求婚を……なんて、そんなロマンス小説のような展開はありませんよね)
もしかしたらと、一瞬だけ胸を高鳴らせ、だけどすぐにあり得ないと希望を捨てる。そうしてたどり着いたのは、移し鏡の異能を必要としている誰か、という結論だった。
(いまのわたくしには相応しい縁談ですわね。でも……お父様が私に伝えたと言うことは、そこまで悪い縁談ではないはずよ)
「その求婚のお手紙は、どこのどなたがお送りになったものですか?」
「エクリプス公爵家の若き当主、ロベルト様だ」
(……怪物公爵)
アンネローゼは声に出さずに呟いた。
この国では知らぬ者がいないほどの英雄だが、いつも顔を隠している。それゆえ、顔がとても醜いという噂で、人々から怪物公爵と呼ばれている。
(……なるほど。移し鏡の異能を使って、その顔を変えることが目的ですね)
「ウィード様、いくらなんでもその縁談はあんまりです」
シャロが静かな怒りを滲ませ、ウィードに詰め寄ろうとする。
「シャロ、止めなさい」
「ですが……っ」
「私に取って重要なのがなにか、貴方だって分かっているでしょう?」
アンネローゼにとって、相手の容姿は重要じゃない。
重要なのは、性格と向上心である。
「……お父様、その点はどうなのですか?」
「問題があればおまえにこの手紙を見せたりはしない。それに、おまえが望まぬのなら断ってもかまわぬ。わしとしては、悪い話ではないと思っているがな」
「……そう、ですか」
アンネローゼは素早く算段を立てる。
怪物公爵と呼ばれていること自体は問題にならない。そして公爵と言えば、貴族の中では最高位だ。子爵令嬢として見れば玉の輿もいいところである。
まあ……そのまえの婚約者は王子だった訳だが。
「たしか……歳も近かったですよね?」
「ああ、二十四歳だ」
「六つ年上ですか。年回りも悪くありませんね。……分かりました。では、本人に会ってたしかめようと思います」
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