ガリアⅩⅩⅨ ~旅立ち③
1.
「あたしは見ていることしかできなかった」
悔しさをにじませエアリィ・エルラドはそう呟いたという。
スラド熱による死者は日に日に増えていく。
亡骸を前にぼう然と立ち尽くす家族や、目覚めぬ人の名を呼び泣き叫ぶ人々。たとえ生き延びたとしても、力なく壁に寄りかかり座り込み、無気力に壁や宙を見つめ続ける人々の姿がいたるところで見られた。
砂雲に覆われた、にごった空がさらに淀んでいるようにすら感じられてしまう。
街の活気は失われ、重苦しい雰囲気がロンダサークを包み込む。
オアシスの上を飛行するサウンドストームを目で追い続ける人たちのその瞳には心の慟哭が映し出されているように見えて、つらい。
聞こえるはずのない声が少女の耳にはエンジンの響きとともに聞こえてくるようだった。
少女は実際の現場すべてをつぶさに見てきたわけではない。
全体を知る数少ない者の一人ではあったが、エアリィ・エルラドが見た光景は下町で起きた出来事のほんの一部でしかなかった。
それでも救援物資や医療品を運ぶたびに少女は、もどかしさと無力感に、打ちのめされていく。
「動かせる身体も考える頭もあるはずなのに、なにもできない」
「私もそうだぞ」ベラル師は少女の頭を撫でる。「どれほどロンダサークのことを考えようとも、この手の平からは砂が零れ落ちるように命が失われていくのだ」
「もっと何かが出来るはずなのに」
「よくやってくれている」
少女が下町のことを思ってくれことが、ベラルには嬉しかった。
スラド熱発症地区で身の危険もかえりみず懸命に働き続ける療法士のように医療の心得もなく、そこに横たわる人々の命を救うことができない。刻一刻と伝えられてくる被害の現状の前に、ロンダサークは翻弄されスラド熱の進行を食い止めることができなかった。焦燥感だけが募っていく。
「不安をすぐに払えるような特効薬はない」
オーリス・ハウントは何度も繰り返しそう言った。
迅速な物資の移動と情報こそ、スラド熱の進行を食い止める要だと彼は言い、少女とサウンドストームの重要性を説いたが、少女の心は晴れない。
厄災を前に人の図り事は幾度となく後手に回ってしまう。過去を教訓とし、たとえ備えがあったとしても、想定外のことが起きる。その猛威の前に、彼らの試みは浅慮だと言わんばかりに、いとも簡単に打ち砕かれた。スラドという脅威の前に人の防衛手段は飲み込まれ、被害を食い止めることは出来なかった。
それでも少女の存在は悪化しようとする流れを押しとどめようとする力となっていた。
事実、サウンドストームは彼らにとって希望だった。
隔離地区の者達にとって、その飛行音は救いの音となる。
初飛行以来、騒音以外の何物でもないと言われ続けていたが、サウンドストームが飛び、彼らの元に物資が届けられると、人々はまだ見捨てられていないと安堵するのだった。
光はあるか
そこに道はあるか
漆黒の闇
導なき空と大地
灯すべき光もなく
進むべき明日はない
恐れ 怯え 足は竦む
されど歩みは止められない
彷徨いながらも 人は答えを求める
教えられてきたことと、体験することは別次元の話だった。
人が十人いれば、同じ場所で同じ時間を過ごしていてもそれぞれが違うことを語り始める。
同じ言葉であったとしても微妙な差異がでてくるのだ。
スラド熱の脅威は誰もが知っている。
幼い頃から、教えこまれてきたからだ。
しかし、それらは単なる知識でしかないと、少女は自らが体験することで思い知らされる。
のちに理解するが、その頃の少女にはそんな余裕すらなかった。それは周囲の人々も同じだったのかもしれない。
少しでも立ち止まり冷静に考えれば、判りそうなことでも人は気付くことができず理性を失っていくものなのだと。
2.
メモリアルホールがある広場が開放される。
スラド熱の発症が確認された翌日のことである。
隔離された三つの地区に隣接する地区の住人たちのためだった。
五家の、特にネクテリアは強固に反対したが、それでも最後はレイブラリーの強い意志の前に他家は折れる。その日のうちに長老会の方針は決定された。
長老達によって布告がなされると、人の大移動がすぐに始まった。メモリアルホールに続く道は人と荷車の列に埋め尽くされ身動きが取れないほどだった。その様子を周辺の住民達は物陰から不安気に見つめていたのである。
布告がなされた地区の七割近くの住人が大広場に避難してきたと言われている。
しかし実際にそこに避難したのは、布告された地区の住人だけではなかったらしい。想定以上の難民の数に広場は埋め尽くされた。
急ごしらえのテントが張られ、様々な色彩と模様の布が広場を彩る。テントとはいっても吹けば飛ぶような粗末なものであった。ほとんどの住人は着の身着のままで避難してきたといってもいい。
大広場はロンダサークでも一番の過密地帯となる。
テントとテントの隙間は人がやっと通れるほどで、少しでも隙間があればあとから避難してきたものが割り込もうとする。
隔てるものは何もなく会話は筒抜けとなり、いさかいも当然のごとく起きた。時間とともに普段なら気にならない些細な物音でも、耳障りなものとなり、ささやき声や小さな物音にも過剰に反応していく。
長老は同じ地区の住民同士で集まるように声を掛けたが、ほぼ同時に移動してきた者達を規制することは出来ずにいた。そのため自分の地区の住人がどれだけ避難しているのか把握することは不可能に近かった。
当初こそ連帯感があった避難者達同士でも時間が経つにつれてその意識は薄れていくものらしい。対立しすれ違ってしまうか、孤独の中に埋もれてしまうことが増えていってしまう。
そして彼らには根本的な救済の手が差し伸べられることがなかった。
五家も長老会もスラド熱が猛威を振るう地区にしか、目が行っていなかったのである。それはオーリスたち対策本部も同じだった。余裕がなかったといえばそれまでだが、彼らをかえりみることは出来なかった。
その環境下で死に直面した者さえいたのに当時は誰もその事実に目を向けようとしなかったのである。
二日目、患者は十五人に増えた。
まだ発症した患者はタンジンのみに限定されていたが、他の地区への感染拡大が懸念されていた。
仮設ではあったが診療体制は整いつつある。先遣隊として派遣された三人の療法士や見習いに加え、さらにもう三人の療法士が合流し、ル・ダルや地区の療法士二人と、ボランティアを申し出てくれた住民らの手助けを受け治療にあたった。
集会所のある小さな広場にベッドを備えた施設が三棟建てられる。
患者が発見されるとすぐそこに運び込まれ治療が行われ、前回流行した際に投入された薬が処方され、経過観察がなされたのである。
だが十年前に大流行したときに成果を上げたとされる薬は、その効果をあまり発揮してはくれず、自信を持って薬を投入した薬師達に動揺が走る。
「患者の具合はどうだ?」
スワノスが戻ってきた療法士に訊ねる。
「熱は少し下がりましたが、それ以外の改善は見られません」
「どういうことだ?」
「ど、どうといわれましても……」
ドイドは口を濁す。
「薬の調合は間違いないんだよな?」
「指示されたとおりに調合しています」
「薬草や材料の管理は?」
「それこそ厳重に管理しています」
「どうなってるんだ?」スワノスは頭を掻きむしる。「効果が限定的とは!」
患者のカルテを受けとり、読み込む。
体温は少し下がったが、誤差の範疇ともいえた。患者が高熱であることに変わりはない。
スワノスは苦渋の表情を浮かべ報告書に状況を書き込んでいくと、次の伝令にそれは乗せられ、診療所に届けられた。
物資の輸送以外でも緊急の要請があればサウンドストームは飛ぶ。本部や診療所、そして現地を結ぶのだった。
「テノーラの量を増やせと言っている」
「薬剤部からの指示ですか?」
「そうだ」スワノスは頷く。「それに今回の便でマルリダが送られてきた」
「重篤な患者にですか? 効きますかね?」
「それこそやってみなければ判らない」
「まるで実験場ですね」
「向こうも必死なんだよ。効果が限定的だからな。試すしかないんだ」
「用意してきた薬に即効性があると考えていたでしょうからね」
「まあな」スワノス自身そう考え、タンジンに乗り込んできた。「診療所のレスポンスが早いのは助かる」
「筆談であるのはもどかしいですがね」
「仕方がない。何が感染源か判らない以上、うかつに人も物も動かせないからな」
「どうしますか?」
「どうするもなにもない。指示通り薬は作らせる。その上で俺も診察に出る」
「ですが、サリア所長からは」
「そんなこと言ってられるか! 患者は増え続ける一方で、人が足りないんだ!」
スワノスは声を荒げた。その声にドイドは驚く。
「それにな、こんなところで報告書ばかり見ていたら気が狂いそうになるからな」
「そうですね」
「そういうことだ。ガドノ、行くぞ!」
スワノスは立ち上がると隣にいる療法士に声をかける。
そのガドノは顕微鏡を覗き込んだままだった。スワノフが大きな声をあげても気付かないのか、彼は集中している。
「何をそんなに覗き込んでいるんだ?」
「ああスワノス師」
肩を叩かれて彼はようやく呼ばれていたことに気付く。
「気付いてないのかよ」
「すいません」ガドノは顔を上げる。「おかしいんですよ!」
「何がだ?」
「見てください」
そういって彼は席を譲り、スワノスに顕微鏡をのぞかせる。
「どこがおかしいんだ?」
「十年前に描かれた報告書の図と違うんですよ」
ガドノは手にした図を示し、説明する。
それは十年前に大流行した時、描かれたものだった。
「十年前に血球に付着していたスラド熱の原因菌と今回の菌の形が違うんです」
身振り手振りを交え説明するが、スワノスもドイドもその違いが理解できない。
それでもガドノはさらに絵を描き、熱弁をふるう。
「そんなに違うか?」
「違います」図を示しガドノは言い切った。「人というものが男女や大人と子供で個体差がありますが、総称は変わりません。それと同じようにスラド熱の菌も個体差があるのかもしれません」
「もしかするとだが、それが薬の効果がないことと関係があるというのか?」
「判りません」
「くそったれ」悪態を吐くスワノス。「言葉を変えるぞ、お前が見たものが違うことに意味があるのか?」
「あります。症状によって対処法が変わるのと同じです」
「やはりか」
「このような療法の研究は、前回から試みられたものです。もしかすると前回の検診が間違っていたという可能性もあります」
「そんなこと判るかよ」
時間は戻せない。しかもそれを試みたものはもういない。
「今回も前回も正しいという可能性もあります」
「だったら何を頼りに療法を試みればいいのですか?」とドイド。
「可能性があるなら何でも試すしかない」
「限界はあります」
「上からはどんな些細なことでも気が付いたことがあればすぐに報告しろっていわれてんだ。現に薬が効かないときている」
スワノスはガドノの肩をたたく。
「ぼくがですか?」
「他に誰がいるってんだよ。まったく、人が足りないっていうのによ」
「でもぼくは絵心がなくて……」
そういって先ほど描いた図を指し示す。
「うるさい。こぢゃごちゃ言ってないで、さっささと作業に取り掛かれ! 次の便が来るまで二時間もないんだ」
そう言ってスワノスはガドノの尻を叩くとドイドを伴い部屋を出ていくのだった。
三日目までの感染者の数は緩やかな伸びだった。
まだタンジン地区だけで納まっていた。診療所の治療が功をそうしたのかもしれないと期待された。
一部の地区では祈祷による呪いや、聖霊に祈りを捧げ舞いが行われるようになる。そうでない地区でも人は様々なものに拠り所を求めだすのだった。
隔離地区へと本来ならつながっているはずの大門の近くには、テントが張られていく。農区や漁に出ていて帰還できなくなった者達の姿がそこにはあった。
彼らは自警団の説得にもかかわらず、そこに残り続ける。
家族に近いところで待つと言ってきかなかったのだ。
四日目に入り事態に変化が訪れる。
感染者の数が一気に増え始めたのだ。
「潜在的な患者が多くいたということなのか?」
オーリス・ハウントはもたらされる報告書を前に呟いた。
「それが一気に爆発的に現れたと?」
シュトライゼはオーリスに訊ねる。
「判らん。判らんが何か鍵となることあって、そうなったとしか考えられん」
「昨日送られてきたというレポートは?」
「あれが、本当に判らん! そんなことがあるのか?」
「怒らないでくださいよ」シュトライゼは苦笑交じりいう。「見間違いだったとか?」
「その可能性もなくはないが、サリアは何度も確かめての報告書だったと言っている」
「本当に、あてになるのかい?」
「実際に、おれが見たわけじゃねぇ。そんなこと知るか」
「そうだよね」シュトライゼは頷く。「映像のようにその場にあったことを写す技術は失われています。医術の心得はあったとしても、絵までが正確とは限らない」
「それは今も昔も変わらない」
「ですが、そのレポートをくれた療法士が言うように今回と前回では感染源が別物だということがあり得るのでしょうか?」
「違う病だというのか?」
「そうはいっていませんが」
「症状はスラド熱と一致しているんだぞ」
「それが問題なのですよね。ですがスラド熱にも人と同じように様々な性質のものが存在しているのかもしれません」
「そんなんじゃ、抗しきれないぞ!」
「まさに今がそんな状況ですよね」
「薬の成分量を変えたりして、試しているらしいが……」
「効果は未知数と」シュトライゼは肩を竦めるしかなかった。
「やっぱり何か鍵となるものがあるとしか思えん。そうでなければ……、そうでなければ爆発的な感染の理由が説明付かない」
「その原因が判りませんとね」
シュトライゼの言葉にオーリスは唸るばかりだった。
五日目、さらに患者は増える。
本部の壁に貼られた感染者の数を示したグラフは急カーブを描き上昇している。
タンジンだけではなく隣接する地区にも患者が急激に増えだしたのである。
恐れていた爆発的な感染が始まったのだ。
「戻ったわ」
少女はタンジンと隣接する三つの地区からの報告書をオーリスに手渡す。
少し疲れた口調だった。
「遅かったな」
「ええ、飛び込みの依頼があってね、遠回りしてきたの」
少女はシュトライゼとオーリスを交互に見る。
「飛び込みの仕事? いまこの時にか?」
「そうよ」少女もため息交じりだった。
「向こうの様子はどうだ?」
「よくないわ。みんな疲れ切っている」
療法士達は不眠不休でスラド熱と戦っていた。
「だろうな……」
「新しい人は送れないの?」
「あと数人、派遣は検討しているらしいが」
療法士の中には尻込みするものも出始めている。
「数人?」
「たったそれだけと言いたげだが、それが限界だ」眉間にしわを寄せオーリスは言う。「判っているだろう。人が無限にわいて出てくるわけじゃない」
「向こうでは休みなしで治療にあたっているのよ。もう四日も続けて」
「きちんと休息を取れと言っているんだがな。そうでなければ判断が鈍る。そして体力を失えば彼らも感染の可能性すら出てくる」
「そのような状況じゃないのよ。患者が診療施設に入り切れないくらいあふれてきているのよ。助けを求めているのよ」
「そんなことは判っている。おれだって向こうに行きたいくらいだ」
「あたしだって、できればそうしたいわ」
にらみ合う二人。
「それでは、ここが回りません」シュトライゼが口をはさむ。「物資の搬送も」
「そんなことはシュトライゼ、お前に任せるよ」
「無茶を言わないでください。何度も言いますが、これはオーリスにしかできないことなのですよ」
「レイブラリーがいる。それにサリアだってな」
「なぜあなたはそこまで現場にこだわるのです。療法士でもないのに?」
「こんなところで数字やらとにらめっこしているよりも、現場で動いていた方がましなだけだ」その方が忘れられる。「そういえばサリアは? さっきまでいただろう」
「診療所に戻っていますよ」呆れ顔でシュトライゼは言う。
「気が付かなかったな」
「あそこも長蛇の列だったわ」
炎天下にもかかわらず診療所の外にまで人があふれ、スラド熱が発症したことが知られて以来人の列が途切れることはなかった。
そのため脱水症状を起こしたり、火傷したりして倒れる者まで出ているし、順番を巡って争いまで起きているのだ
「隔離地区以外では、感染者は出ていないのに」
「どいつもこいつも噂に惑わされすぎだ……」
「まだ低いレベルでの扇動にしか過ぎないが、それでも噂が広がる速度は馬鹿にできないのですよ」とシュトライゼ。
「そのうち聖霊の声を聴いたとか、いいだす人が出てきそうね」
吐き出すように少女は言った。
「出てくるだろうな」
「冗談のつもりだったのだけれど?」
少女はオーリスを見る。
「前回の時もそうやって診療所を壊滅させようとした扇動者がいたよ」
「信じられない」
「事実だ。徐々に理性的に考えられなくなっていくんだろうな」
「不思議だよね」とシュトライゼも呻く。
「正しいことをしていると思っていたはずなのに、ずれてしまってしまい、過ちに気付かない」
「誰も死にたくはありませんし、不平不満を抱えこんでいる。ですが頼るものを間違えている」
「シュトライゼ、人はそうやって正義を振りかざしたいんだよ。はけ口としての悪者を見つけたがるんだ。何が正しかが判断できなくなってしまう。最悪のパターンだ」
「ただの言いがかりじゃない。診療所は病気を治そうとしているのよ」
「そのために検体を集めたりしているからな。死者を冒とくしているとかいう奴らもいるよ」
「そして、それをネタによからぬことを考えていると言い出すものもいましたね」
「最悪」少女は拳を握りしめる。「現場をそのような輩には見せてあげたいくらいだわ。現地がどれだけ修羅場なのか教えこませてあげるわ」
「なにを言っても聞かない連中はそうしてやるのが一番なのだろうな」
「机上の空論でしか物事を判断できず、全体を見ることが出来ないものが多すぎるのですよ」
「もっとも長老だって地区のもめ事を何とかするのが関の山で、こんな事態は想定していないからな」
「現実を直視できず、自らが信じることこそ唯一無二と思い込み、視野を狭めてしまっている。厄介な奴らでしかなかったりするがな」
「何かに縋りつきたい一心なのでしょう。みな不安なのですよ」
「でもこのままでは共倒れよ」
「どうしようもないだろうが。大丈夫だっていったとしても疑心暗鬼になるだけだし、不安を煽られて、そればっかりしか信じようとしないからな」
今の今に至るまでスラド熱に対して有効な手段が得られないまま来てしまった。
過去の流行りでは、様々な対処法が伝えられたりしていた。牛の生き血が有効だ、灰をかぶればいいなどという様々な噂が流れる。しかしそれらが正しかったと証明できる事実は得られていない。
嵐や竜巻が通り過ぎていくのを待つのと同じように、身を縮めスラド熱の猛威が過ぎ去るまで耐えるしかなかった。
それはトレーダーも同じである。
それ故にオアシスでスラド熱の感染が確認されれば近寄ることはなかった。もしもファミリーの中に感染したものが現れれば、感染者と、その接触者が乗ったウォーカーキャリアまでが放棄されたのである。
それで全滅したファミリーの話がいくつか伝えられている。
悲しい物語だった。
「何とか糸口だけでも見つけられればなぁ」
ため息交じりにオーリスは呟いた。
「それなのだけど……一助になるかもしれないわ」
少女の言葉にオーリスとシュトライゼは驚いた顔で少女を見る。
「なにかあるのか?」
「そのためにここに来るのが少し遅れたのよ」
「だったら、それを真っ先に言え!」
「そうしたいのはやまやまなのですけれど……」
少女は扉を開けて声を掛ける。
外で待っていた人物が中に入ってくる。
「ああ、あなたは」
シュトライゼは目を細め部屋に通された男を見つめる。
その服装を見てオーリスは眉を顰めた。
「シュトライゼはこいつを知っているのか?」
「以前、お会いしたことがありましてね」シュトライゼは面白がっている様子だった。「旧区の方ですよ」
「やっぱりか……」
「名は確か、トーマさんでしたよね?」
「そうです。トーマ・ガルデソムと申します。商工会議所の会頭、シュトライゼ・グリエ氏」
「オーリスは初めてですよね。クロッセ・アルゾン先生のお友達だそうです」
「どうも」
お互いに朗らかににこやかにあいさつを交わすのだが、それが嘘寒い。
「それでだ、シチズン様がこんなご時世に、こんなところまで出張ってきて、何の用だ?」
「そう睨まないでくださいよ」
「しかたがないわ。あなたの言葉遣いもなにもかもがうさんくさいのだから」
「それは心外ですね」トーマは抗議する。「爽やかに話しかけているつもりなのですが」
「それがうさんくさいというのよ」
「ご年配の女性の方々には受けがいいのですがねぇ」
「旧区のその連中がいかれているのね。だったら詐欺師にでもなれば?」
「そのようなことをして訴えられでもしたら、私はヴィレッジから追放されてしまいますよ」
「そうなった方が世のためよ」
「それでだ。もう一度聞く」
低い声でオーリスは延々続きそうな会話に割って入る。
「この非常時に何の用だ? またなんかいちゃもんを付けにきたのか? 警告はすぐに出したはずだ」
「その節は迅速な情報提供、ありがとうございます」
「約束だからな」オーリスは鼻を鳴らす。「差し出せるものなんて何もないぞ。もっともスラド熱が欲しいというならいくらでもくれてやるがな」
「まさにそれですよ。スラド熱です」
「はあ?」
「ああ、もう」少女は呆れ顔でため息をつく。「トーマもきちんと話をしなさいよ。追い出されたいの?」
「そのようなことされたら、私は路頭に迷ってしまうではありませんか、困りますよ」
「そうだとしたら、判るようにここに来た理由を説明してあげなさいよ」
「スラド熱に関する情報が欲しいのです」
緊張感なく聞こえてくるトーマの言葉に理解できないのか、オーリスはシュトライゼと顔を見合わせ、それから二人は少女をみる。
「あたしは通訳じゃないのよ」少女は頭を掻く。「どうして旧区の連中は交渉事がへたくそなのかしらね。高飛車で高圧的で上から目線でしか話ができない」
「そのようなつもりありません。フレンドリーに話しかけているつもりなのですが?」
「確かにそうでしょうとも。トーマはそのつもりかもしれないけれど、今度は言葉が足りないのよ。ヴィレッジで、なにを学んできたのよ」
「とりあえず興味あることですかね」
「クロッセと同じね」
「そうなのですか? クロッセも似たり寄ったりなのに、どこで差がついたのでしょうね?」
「知らないわよ」トーマを睨む。「話を戻すわよ」
前夜、少女のもとに管制塔からの伝文がもたらされる。
管制塔と旧区との間で通信がやり取りされたのは実に数百年ぶりのことだった。それが可能であることは管制塔のトレーダー達も理解していたが、今この時に実際に通信機器が動きだすとは思ってもいなかったのである。
旧区からの通信は、下町との仲介を求めるものだった。
門を固く閉じたはずの旧区の民が外部と接触しようというのは、その仲介をトレーダーに依頼してくるということも含めて、すべてが異例ずくめだった。
管制塔は送られてきた伝文をヴェスターに託し、判断を任せることにする。
すぐに彼は決断した。
少女へのメッセンジャーはフィリアがすすんで手を上げた。彼女はそのまま管制塔に戻ることなく少女の身の回りを世話し、対策本部での手伝いを申し出ることになる。
フィリアの思いもよらぬ来訪に少女は管制塔で何かあったのではと不安に駆られたが、渡された伝文を読み、その最後に記されている名を見て少女は眉を顰める。
無視することも出来たが、少女は回復の兆しが見えない現状を考え、状況を打開できる可能性が少しでもあるのならば、それに賭けてみることにする。
指定された時間に少女は白い外壁の大門へとやってくると小さな扉が開きすぐに閉められる。トーマ本人が姿を見せた時は判っていても驚きだった。
すぐさま少女は彼から話を聞くことにする。
旧区の外に出ることは、トーマ自身が申し出たことだったという。
大きな荷物を抱え、本人は決死の覚悟だったのだろうが、少女には物見遊山にしか見えず、呆れるしかなかった。
「もしも無視されたら、どうするつもりだったのよ?」
門は再び固く閉じられ、後戻りはできないのである。
「信じていましたよ」
意味不明な笑顔でトーマは少女にこやかに答えるのだった。
そして、トーマは彼が危険をかえりみず城壁の外に出てきた理由を語り、対策本部への案内を依頼したのである。
「なぜあたしを指名してきたのよ?」
「あなたなら、この出来事の中心にいるだろうと思ったのですよ」
「あたしが中心なわけがないでしょう」
「原因究明の中核ではないでしょうが、それでも、あなたのサウンドストームは日々ロンダサーク中を飛び回っていますからね。中枢またはそれに近い場所にいることは判りますよ」
「そうですか」少女は苦笑するしかなかった。「それにしても、よく出て来ることが出来たわね?」
「説き伏せましたよ」
「それは凄いわね」
「このままでは滅びの道を歩むことになるのです。ヴィレッジには知識と技術がある。それを使わないのは、我々の誇りを捨てるものだと言いましたよ」
「よくも耳が腐りそうなセリフを言えたわね」
「私の性分ですから」
「はいはい」
「ですが本当のことですよ。このまま何もしないということは我々も滅んでしまうというのと同義語です。我々のライブラリィにはそれを打開する手段があるはずなのですから」
「本当にあるの?」
「たぶん」
「期待させないでよ」
「ですが、可能性はあります。そのための資料と機材は持ち出しました。それをもとにあなた方と考えたいのですよ。スラド熱への対策をね」
「もっと早くから、そうしなさいよ」
「すいません。これでも急いだつもりなのですがね」
「そういう意味じゃないのだけれど」少女はため息をつく。「ようは死にたくないのよね」
「行きつく先は、そうなりますかね」
「スラドに関する資料がヴィレッジにはあるのか?」
オーリスは訊ねた。身を乗り出しそうな勢いだった。
「あります」
「今も何らかの研究が行われているのか?」
「今は誰も」トーマは首を横に振る。「資料がいつまとめられたのか正確な時期などの記録は失われていましたが、これらはおそらく初期の頃の研究資料だと思われます。ロンダサークの外壁がまだ白い壁で守られていた頃のものだと推測されます」
「そんなに古いものが残っているのか?」
「誰も手を付けなかったから、埋もれてしまいそのまま放置されていたのでしょうね」
「あんたらは、それを利用し有効な手段を考えようとはしなかったのか?」
「していたからこそ、資料が残っているのだと思いたいですね」
「なぜ継続しなかった? スラド熱を根絶することが出来かもしれないのだぞ」
「このような事態になってしまうと、そう考えますよね。ですが、当時の資料を読み解くと、祖先はそれほど重大な事態なるとは思っていなかったのかもしれません」
「なぜだ! これだけの被害がロンダサークに出ているのだぞ?」
「なぜでしょうね。当時のカルテには発熱の症状などが記載されていますが、風邪や普通の発熱と同レベルの病気としか見られていなかった節があります」
「旧区の連中は、そんな程度済んでいるのか?」
「今はあなた方と同じですよ。感染したら最後、死に至ります」
「本当にそれはスラド熱の資料なのか?」
「そう信じています。病気としての在り方が、今と昔で変化したのかもしれません。もしかすると人の方が変わってしまったのかもしれませんがね」
「そんなことはあとで考えればいい」オーリスは鼻を鳴らす。「その資料とやらを見せてくれ」
「その前に約束していただきたい」
「なにをだ?」
「もし、この資料によって有効な手段が得られたとしたら、その情報すべてをヴィレッジにもご教授願いたいのです」
そのために危険を冒してまでトーマは旧区の外にやって来たのだと言う。
「なるほど。しかしその対価が資料だけというのもな」
「無論、私も手伝わせていただきます」
「それは当然だ」
「それ以外に何を求めるのです?」
「本来なら、水門の権利だな」
「それに関しては、交渉の余地はありません」
トーマにその権限まではヴィレッジも与えてはくれなかった。
「だろうな」オーリスも言ってみただけのことだった。「あんたらが脅威と感じているものの解決策を、過去の役に立つかどうかわからない資料だけで、教えることが出来ると思っているのか?」
「共同研究ということではいかがでしょう?」
「あんたがいなくても、おれ達はやりとげてやるよ」
「私はどうすればいいのでしょうね」
トーマは困り果て少女を見るが、エアリィは無言だった。
「ではあなた方は何をお望みなのですか?」
「水だ」
「そうなりますかね。水門の権利は無理ですが、水量に関しては交渉の余地はあります」
「お前さんにその権限があるのか?」
「私の名に懸けて」
「なるほどな。では少しだけ時間をくれ」
「なにをするのです?」
「ちょいと、向こうにいる五家の連中と話をしてくるだけさ。なに時間は取らせん。何が飛び出してくるか、楽しみにしていてくれよ」
オーリスはそういって、シュトライゼを伴い部屋を出ていった。
少女はトーマとともに残される。
「本当に、あなたたちは話の持って行きかたがへたね」
「では、どうすればよかったのでしょう? エアリィ嬢にお願いすればよかったのでしょうか」
「あたしはごめんよ」
「どうしてですか?」
「ヴィレッジがきらいだから」
「勘弁してくださいよ」
「それに、資料が本当に重要なものなのか、あたしには判断できませんからね」
「重要なものだと思って持ち出したのですがね」
ここに来る前に少女もその資料を少しだけ見せてもらっていた。
何が書かれているのか理解できなかったが、それでもそれが必要な物だと直感した。だからこそ、ここにトーマを連れてきたのである。
「それに案内はしたけれど、対価をあたしはいただいていませんからね。これ以上の無料奉仕はごめんだわ」
「そうでしたね。あなたはトレーダーでした」
「ヴィレッジからは、なにがいただけるのかしら?」
「人の未来」
トーマがそう口にした瞬間、少女は彼の腹を思いっきり殴りつけていた。
「信用できますかね?」
シュトライゼは足早に歩きながら訊ねる。
「やる気はあるだろうな。ここまで出て来るだけでもあいつらにとっては勇気あることだ」
あれだけ頑なに自らの保身しか考えていなかった連中が、一人だけとはいえこうやって外と接触しようとするのである。変われば変わるものである。
「そうですね。考えてみれば一部とはいえトレーダーとヴィレッジの協力があるということは凄いことなのですよね」
「もっともエアリィと比べれば、当人の能力は未知数だがな」
「シェラ嬢の弟君の先生であるそうですよ。彼はよい先生だと喜んでいました」
「なるほどね。研究に向いていなかったとしても、やつが持ってきてくれた機材は十分役に立つだろうしな」
顕微鏡など診療所など使われているものよりも性能の良い機材をトーマは持ち込んでいたのである。
「それで、何を要求するつもりです。やはり水ですか?」
「最初はそれも考えた」
「他に何があるのです?」
「もうひとつが税となっている食料などの軽減かな。それも抱き合わせて交渉するつもりだったがな」
「あまり大事にしない方がいいのでは?」
「こんな時だからだろう。ロンダサーク全体の存亡がかかっているんだ。それが判っているからこそ、出てきたんだろう」
「相手に交渉の余地があるかどうかも判らなのに」
「確かにそうかもしかもしれないが、あいつは人柱にされたというわけでもないだろう。ある程度の権限がなければ、ここまで出ては来れないだろうからな」
「そうだといいのですがね」
「美味しいとこ取りだけはさせない。そのために条約は五家を交えて正式なものを作らせるさ」
「抜け目ないですね」
「最低限の保険だよ。お前さんだってやるだろう」オーリスはニヤリと笑う。
「そうですね。実際、彼にすべてを教えるのではなく事実はあくまでも本交渉の席で教えるようにはしますね」
「そういうことだ。水や食料もだが、あいつと話をして、ヴィレッジのライブラリー開放も必要だなと思えたんだ。それか人材の育成だな」
「今でも派遣はありますが?」
「だが、それはかなり限定的だろう? 多くの分野の人材を育てるべきなんだ。そうすれば、おれ達のように苦労しなくても済む時代が来るかもしれない」
「ずいぶん長期的ですね」
「即効性のもなんて、そうそうあるもんじゃない。お前さんだって判っているだろう」
「眼前の利益よりも、先を見据えてですか」
「もちろん頂けるものはもらう。今回の件でかなり下町は疲弊するからな」
「そうですね。ですが、風呂敷を広げ過ぎると、及び腰になる人もいるのでは?」
「確かに、ネクテリア辺りは、そんなこと言いそうだな。かまうものか、レイブラリーなら理解してくれる。あとは他を味方につけてしまえばいい」
「その辺りはあなたにお任せしますよ」
「なに高みの見物しようとしてるんだよ。お前さんも手伝うんだよ」
「そうなりますかね」
「飴と鞭なんだよ」
「まあ、そういう役回りですかね」
シュトライゼは苦笑する。
オーリスは本部にいる五家を集め、トーマの申し出を説明し、下町の意向をまとめ上げる。
一時間もかからぬスピード交渉だった。
「これが写真ですか?」
顕微鏡と手元にある資料を見比べ、リチカ・モーガンは感嘆の声を上げる。
「気持ち悪いくらいそっくりね」
少女も同意する。
「これで私は再び失業ですね」
リチカはシュトライゼが編集長を務めているウィークリー紙の挿絵を担当していて、その緻密な絵は写実的であると好評だった。
彼女は大店の娘で、眼鏡をかけおおらかな笑みを絶やさない女性である。
「しかし、失われた技術であります」
「本当ですか?」
「安心しましたか?」トーマは微笑む。
「無くなったことが、残念でなりません。これがあれば簡単に正確に、その時の様子を知らせることが出来るのですから」
本当に惜しいですと、何度もリチカは繰り返した。
「それは失礼しました。ヴィレッジにはカメラなる写真機は残っていますが、それをこのようにプリントする技術は無くなってしまっているのです」
トーマはクロッセに同意を求める。
「そうだね」
クロッセも呼び出されたのだった。
「たぶん映像は撮れるとは思いますが、それをもう一度このように見ることはかないません」
「宝の持ち腐れだよ」とクロッセ。
「だからこそクロッセが、映像を再生できたという話を聞いたときには驚いたものさ」
「あれは設備の保存状態が良かっただけだ」
運がよかったとクロッセは言う。
「ライブラリーのものもそうだと思うけれどね。こちらのも直してもらいたいものです。観たい映像や写真が山ほどあるのですから」
「させてくれるかな」クロッセは懐疑的だ。「まあ観たければディスクとかをこっちに持って来いよ。そうすれば観ることが出来る」
「許可が下りれば、だなぁ」
「まあ、無理だろうけどね」
「リチカ師ほどの絵師は、ヴィレッジにも欲しいくらいですよ」
「師などわたしにはもったいないです」
リチカは持て余していた時間で絵を描いていたところをシュトライゼに見られ、ウィークリー紙立ち上げの時にスカウトされただけで、本来ならただの趣味で終わるはずのものだった。
「ですが、褒められるのは嬉しいですね」
結婚もしていない彼女は両親にも疎まれ、家族には持て余されていた。それだけにウィークリー紙での活躍は自立のきっかけだった。
「そうよ、リチカは自分を誇っていいのよ」少女も頷く。
リチカは顕微鏡で見たものを描くために呼ばれていたのである。
「ヴィレッジにはもっと解像度の良い顕微鏡があるのですが、それは持ち出せませんでした」
「これ以上のものがあるというのですか?」
「あるにはあるけれど、あれは大きすぎてひとりでヴィレッジから持ち出すのは無理だろう」クロッセは同意しながらも首を横に振る。「もっともあれがあれば詳しい検体の調査も可能なのかもしれないが……」
「そのようなことを勤勉に行っているものなどヴィレッジにはいませんけれどね」
「そうだな」
「使うのは私やあなたのような、奇人や偏屈者だけですよね」
「一緒にするな」
「否定できると?」
トーマにそう言われ、クロッセは苦虫をかみしめた表情になる。
「どのみちあなたたち二人は同類よ」少女がさらに追い打ちをかけた。「あなたたちも話ばかりしていないで、調べるものはちゃんと調べなさいよ」
「やっているだろう」
クロッセが抗議する。
「口ばかり動かしているようにしか見えないわ」
写真を模写し続けるリチカを指し示しながらトーマとクロッセにはっぱをかけるのだった。
3.
六日目、さらに感染者は倍以上に増える。
仮設の診療施設からあふれ出てしまい、さらにテントを張り急ごしらえのベッドを作り患者を収容するありさまだった。
感染者だけでなく不調を訴える者も多く出て、対応が追いつかなくなっている。
「ガドノ、お前の見立ては間違っていなかったようだぞ」
スワノスは送られてきた資料を見ながら、ガドノに言う。
「……そうですか」
「どうした? 少しは喜べよ」
「はあ」
疲れ切った表情でガドノは答える。目は赤く充血している。
「まあそれが判ったとして、何かが決定的に変わるというわけではないがな」
慰めるように彼は言った。
「そうじゃないんです……」
「どうした? 何か悪い知らせか?」
「昨日まで見つけたと思っていた感染源が消えてしまいました」
苦しそうに彼は口に出した。
「消えた? どういうことだ」
「ここに来てから、検体を見続けているのですが、昨日から忽然と見えなくなってしまったのです。今日採取された感染者の血液からも見つけることが出来ませんでした」
「新しい顕微鏡になったからじゃないのか?」
ヴィレッジからトーマが持ち出した顕微鏡のうちのひとつが、タンジンにももたらされていた。
それを嬉々としてガドノは使いこなしていたのである。
「あれは見間違いだったのでしょうか?」
「おれに訊くなよ」
「今まで使っていたものに欠陥があったのかもしれない」
「……そうでしょうか……」
ガドノは半泣き状態だった。
「ああもう、判った、判った。おまえは没頭しすぎたんだ。疲れているんだ。休息室で少しでもいい寝てこい」
「ですが……」
「そんな状態じゃ、考えすらまとまらん!」
強くスワノスは言い、休んで来いと促すのだった。
ガドノはうなだれ部屋をあとにする。
「イシリア、どう思う?」
「見間違いではなかったのですよね?」
それまで黙って二人の会話を聞いていたイシリアが口を開く。
「ドイドもおれも、ガドノに顕微鏡に映るものを見せられたが、はっきり言って自信がない」
そうと言われればそうかもしれないといった感覚でしかなかった。
「しかし、診療所や本部の見解はガドノの説に肯定的でしたよね?」
「ああ、こうしてヴィレッジからもたらされたっていう資料まで送られてきているからな。ご丁寧に図解付きで」
向こうでは何が起きているんだ、という顔付だった。
「それだけガドノが見たものを重要だと判断したのでしょう」
「ガドノにだけはっきりと見えるなんてことがあるのか?」
「あります」
イシリアはその問い掛けに頷く。
「本当かよ」
「ガドノは誰よりも目が良いのです。視力という点だけでなく、本当に細かいところまで見えています」
「信じられないな」
「スワノス師はガドノとはあまり接点がなかったでしょうから」
彼は経験から治療を行う古いタイプの療法士だった。
「確かにガドノと組むのは今回が初めてだ」
「同期の中では随一の目の持ち主です。それは私が保証します」真顔で彼女は言う。「どれだけ突拍子ないことをガドノが指摘してきたとしても、それは彼が見えているからなのです。私たちが見逃してしまっているような小さなものや人体の体温差を彼は表情や身体を見ただけで言い当てることがあります」
「凄いな」
「まさに聖霊の目ともいわれています」
「そんな話きいたことが、あったな……。あいつがそうだったのか」
「ドリトンの案件を覚えていますか?」
「話だけは聞いている。皮膚病でも奇病中の奇病だったっていうやつだよな?」
「そうです。虫に刺されたときの炎症と似ていますが、本来は木々の樹液によるアレルギーからの病気でした。対処を間違えば死に至ることすらあると言われる危険な病です」
「初めに診断したうちの療法士が、違いが判らずに見逃しかけたっていうやつだったかな」
「はい。一度は塗り薬を渡して帰したのですが、それでも治らず二度目に受診したころには日にちも経っていたので炎症が拡大てしまっていました。原因が判らず対応に苦慮していた時にガドノが患者の炎症の状態から気付いたのです」
「気付けるものなのか?」
「ガドノが、その違いを明確に示したのです」
「それがドリトンの案件の明確化だったのか」
「彼はそれで見習いから療法士になりました」
もっとも同期では一番遅い出世でしたが、とイシリアは付け加える。
「それがガドノがここに派遣された理由か?」
「顕微鏡をあつかえることなど、彼の目にサリア所長は掛けたのでしょう」イシリアは頷く。「ですから、彼が見たと言えば、それは見間違いではありません」
「そうだとして、感染者が増えたことと、昨日まで見えていたものが見えなくなってしまったことに因果関係はあるのか?」
「そうですね、乱暴な言い方をすれば、感染している菌が変化してしまっている、ということでしょうか」
「そんなことがあり得るのか?」
「体内で病原菌が変化しないとは言い切れません」
「勘弁してくれ、対処のしようがない」
「この検診は前回の流行りから始まったものでしょう? しかも爆発的な感染が拡大してから行われたとか。研究は不十分であったのではないでしょうか。スラド熱に関して我々は知らないことが多すぎるのです」
「そうだとしてもだな」
「判っています。それにガドノの言葉から納得の行くことも出てきました」
「まだ何かあるのか?」
「薬です」
「まだ効力に問題があるのか?」
「実は患者が増えたことで、診療所から指示されている薬が不足してしまいました」
「爆発的に増えたことで調合が間に合わないんだろう?」
材料があったとしても人手が圧倒的に不足していたのである。
「はい」
「どうやってまかなっているんだ?」
「通常の解熱剤に加え、以前から大量に持ち込んだ薬を使用して、しのいでいます」
「効果が限定的だからと、使用をひかえていたやつか?」
「そうです。患者が苦しんでいるのでやむなく」
「何もしないよりはましだってやつか?」
「気持ちだけでも安堵できればと思ったからです。気の持ちようで症状が改善されることもありますから」
「スラド熱にそれを求めてもな……」
「判っていますが、何もしなければそれだけ手遅れになる可能性もあります。以前の薬を使って症状が悪化したというケースはありませんでした」
「それがどうかしたのか?」
「それらの薬を使った患者の方が、新配合の薬を使った患者よりも安定してきているのです」
「なんだって! どういうことだ?」
スワノスは耳を疑った。
「ガドノの話を聞いて思ったのです。前回の検査で確認された状態に感染源が変化ないしは元に戻ったのではないかと」
「本気でそう思っているのか?」
「そう考えれば薬の効果が説明付きます」
「体温の変化や脈拍などの個々のデータは取れているのか?」
「なんとか」
「次の便で」彼は時計を見た。「ガドノの話と薬の効果を含めて、イシリア、お前の考えを報告書として送れるか?」
「かなりざっくりとしたものになりますが、やれます」
「向こうもおれと同じ気持ちになるかもしれんが、そんなこと知ったことじゃないな。できるだけデータはそろえろ」
「判りました」イシリアは手にしたメモを広げだした。「ガドノはどうします?」
「あいつは休ませておけ。今回の一番の功労者になるかもしれん。これからもガドノの目は必要になるだろう。ここで浪費だけは避けたい」
「そうですね。今は我々だけでやりますか」
スワノスはドイドを捕まえ検診へと向かい、イシリアは次々とデータを書き込んでいくのだった。
彼女の目には少しだけだが、光が見えたような気がしたのである。
日常品が不足してきた。
工の民も織物工房も隔離地区に目がいってしまっている。
商区のほとんどの店舗が店を閉じていた。大店は営業を続けていたが、流通が途絶え気味になり水や食料などの値段も高騰していく。
スラド熱の流行で商いどころではなくなっていたからである。
商工会議所は食料や水の確保を優先し、隔離地区以外の人々にも行きわたるように会議所前でも臨時の店舗を開設し販売を始めるが、効果は限定的だった。
多くの地区で不満がくすぶり始める。
はじめは小さな声だったが、その弁舌に耳を傾け徐々に人々が集まり始めたのである。彼らは口々に不満を並べ立て、声高に騒ぎ立てる。さらには集まった人々を扇動しようとする者が現れだした。
標的は商工会議所だった。
商工会が物資を買い占め、彼らだけが高みの見物をしているというである。
徐々に集まった人々は膨れ上がり、会議所を取り囲むと、不穏な空気が周囲を包み込んでいく。
少女が戻るのが少しでも遅れていたのなら、人々は暴徒化し商工会議所は破壊され、大切な救援物資は暴徒達に強奪されていたことだろう。
サウンドストームのあげる轟音とエンジンから吹きつけられる熱風に人々は度肝を抜かれ、鋼の機体の前に無力化された。
「次にこのようなことをしたら、命はない」
そう少女は首謀者達を絞り上げると、彼ら暴徒は散り散りなって逃げていったのだ。
少女の機転と対応のおかげで商工会議所と対策本部の人々は難を逃れる。
それでも臨時の店舗は破壊され、一部の壁や窓ガラスは破壊されてしまっていたのである。
「めずらしいわね。こんなところでタバコなんて」
少女は探していたオーリスを見つけ声を掛ける。
彼は石畳に腰を下ろし座り込んでいた。
「なんだエアリィか」
「どうしたのよ、こんなところにいて大丈夫なの?」
標的とされたものの中には、オーリスの名もあったのである。
他にも五家やシュトライゼ、サリアへの個人攻撃が行われ風当たりが強かった。
「さあな」オーリスは呟く。「だが、助かったよ。ありがとうな。お前さんが来なかったら、皆生きていなかったかもしれない」
「本当に間にあってよかったわ」
「たいした騎士様だよ。おまえもサウンドストームも」
「騎士というのは物語の中だけのものだと思ったわ」
「まあ、大昔にそんな輩もいたってことだろう。信じている奴もいたからな」卑屈な笑いだった。「初めてウォーカーキャリアが脅威とか畏怖の対象ではなく、頼もしい味方だと思えたよ」
「それはうれしいわね」
「本当だぜ」
「それで、これからどうするの?」
「なにが?」
「今回のような暴走がこれからも起きる可能性があるのよ」
「そうだな……」
「なによ。心配しているのに、その気のない反応は?」
憤慨する少女をオーリスは手招きする。
「どうしたの?」
「ちょっとそのままでいろ」
次の瞬間、少女は大声を上げそうになる。
オーリスが少女の胸に顔をうずめ抱きしめてきたのである。
「生きていればナタリスも同じくらいか……」
ささやくような声がする。それは泣いているようにも聞こえた。
少女は手を回し、オーリスの背中を優しくさする。
「ナタリス?」
「死んだおれの娘だ。生きていればお前さんくらいにはなっていたかもしれないな……」
「そう」
平坦な声が出てきてエアリィ自身驚いた。
「オレは死んでもいいと、そればかり考えていた」
「だから今日も暴徒の前に出ていったの?」
「ああ、そうだとも」
時間稼ぎになればいいと思った。
「贖罪のつもりなの?」
「……生きている自分が許せない。生きていることが苦しい……」とぎれとぎれに言葉が出て来る。「なんでなんだ。なんでおれなんだよ?」
「あなたが生きているからよ」
「無責任なこと言うな」
何かが決壊したように彼は肩を振るわせる。
「怖かった。怖かったんだよ。いざ死ぬのかと思ったとき、おれは、おれは、また逃げた。助けられてしまった。生き残ってしまったんだ。なんでなんだよ」
「あなたに生きてほしいから」
少女だけでない。サリアもシュトライゼも、彼を知る多くの人達が生きてほしいと願っている。
「苦しいんだよ」怖いんだよ。
「生きるのは簡単ではないのですものね」
「そんなことは判っているんだ。だから楽になりたいんだろうが」
「でも苦しいことばかりではないのよ。喜怒哀楽すべてがここにある。悪いことばかりではないわ」
「そうだったな……」あいつと同じことを言いやがる。「……ティナ」
彼は亡き妻の名を口にしていた。
その瞬間、少女にオーリスの体重が一気にのしかかってくる。
なんとか支え切ったが、危うく石畳に体を打ち付けそうになる。
オーリスを見ると、彼は寝息を立てていた。彼も徹夜が続いていたため、張りつめていたものが途切れたのだろうか。
少女は毒気を抜かれてしまう。そして彼の頭を優しく撫でるのだった。
「よい夢を」
聖霊の名を呟き祈った。
4.
七日目、さらに感染者は増えた。
三つの地区を合わせると千人は超えているものと推定された。
スラド熱で亡くなった者も三百人以上にのぼっている。
派遣された療法士や手伝いの者達だけでは手が足りない状況だったが、この日をピークに、スラド熱で亡くなったものの数は抑えられるようになっていく。スラド熱への対処療法が徐々に確立されていったからである。
効果が実証されると薬が大量に調合され、患者が運び込まれると、すぐに薬が処方される。
効果にはまだばらつきがあるが、高熱にうなされ続け死に至ることはなくなっていった。
それが療法士の希望となる。
本部や現地では懸命の研究が行われていても、原因を究明することは出来ずにいた。彼らはまだスラド熱を封じ込めるまでには至っていなかった。
「本部を移す」
オーリス・ハウントは現場に戻るやいなやそう本部で働く者達に宣言すると、その場にいた事務員達はざわめきだす。
「ずいぶんと急ですね。昨日の一件が原因ですか?」
代表してシュトライゼが訊ねた。
「それもある。ここでは暴徒を止める術はないからな」
「他の理由があると?」
「ここで備蓄していた薬草などの物資のほとんどは隔離地区に送ってしまっているからな。物資を集めて搬送するには不便になって来た」
「まだ保存食とかがありますよ」
「それも七割がた無くなってしまっている。それにエアリィには輸送関連の仕事はひかえさせる」
「では誰が?」
「おれ達でやるんだ。あいつには感染地区や診療所、対策本部を結ぶため伝令に飛んでもらうことに専念させる。荷造りとかしている時間がもったいないからな」
「場所はもう決めているのですね?」
「五家には承認を得てきた」
「彼らも一緒なのですか?」とシュトライゼは訊ねる。
「いてもらわなければ困る。全体の決定権や布告には彼らや長老会の許可が必要だからな」
「ずいぶん義理堅いですね」
「議論に無駄な時間をかけるつもりはないが、あとから文句も言われたくない」
「面子にばかりこだわっても何の足しにもならないのですがね」
シュトライゼはさらりと皮肉を込める。
「納得できずとも、正規の手続きにのっとってさえいれば何かと都合がいいこともあるのさ」
「正規の、ですか」
「そんなことに時間をかけるつもりはないが、後ろ盾は作っておいて損はない」
「そうでしょうとも」シュトライゼはニヤリと笑いかける。「それでどこへ行くのですか?」
「ベリール・ナハだ」
「確かにほとんど人は住んでいませんね」
今は工事も時節柄なので中止している。
「物資の輸送にはモービルを使い外周経由で行う。搬入は向こうまかせになるが」
「それはサウンドストームであったとしてもあまり変わらないでしょう」
「そういうことだな。その分エアリィの負担が減る」
「決行はいつですか?」
「今すぐだよ。工の頭には許可を取っている」
使用場所もすべて手配済みだったため、オーリスの手回しの良さに最初から計画されていたのではと思えるほどだった。
「物資はどうします?」
「置いていくよ。今在庫として抱えているものは予備とするし、支援を求めてくるところがあったなら、ここにあるものから出せるようにする」
「では支援物資はどこから手に入れるのですか?」
「幸いあそこは、シルバーウィスパーも入港が可能だからな。農区からのものも直接、ベリール・ナハに届けさせるようにする」
「保安要員や物資調達係は? そうですよね、ここを無人にしていくわけにはいきませんからね。あとは診療所の関係者や研究者はどうするのです?」
「検証なども向こうで行う。ベリール・ナハに造られていた診療施設を拡張するようにマサさんには依頼してきた」
「すべて考えた上で、手配済みなのですね」
「行き当たりばったりなんて、愚の骨頂だ。それにゆくゆくは拡張した施設を第二診療所として将来使えるようにしてもいいと思っている」
「先を見据えているというのですね」シュトライゼは呆れる。
「先? そんなことは、今を乗り切らなければ見えて来やしないんだよ」
「判りました」シュトライゼは目を細める。
「他に質問はあるか?」事務員を見回す。「ないのなら急ぎ作業にかかってくれ」
オーリスははっぱをかける。
オーリス自身ももう少しで何かが見えてきそうだった。
何かが頭の片隅に引っかかっているような感覚だった。見えているはずなのに認識することが出来ない何かが……目の前にあるような……。
それさえ見つけ出すことが出来たなら、糸口がきっと見つかるはずだった。
商工会議所から一部の人間を除き、迅速に移動が行われた。
夜逃げ以上のスピードだと揶揄されたほどである。
ベリール・ナハを拠点として活動がすぐさま再開され、五家も、そこへと移り指揮を執ることになった。ここでもベラル・レイブラリーは自ら先頭に立ち状況把握に努め、長老達へと指示を出していく。
不安を取り除き、第二、第三の暴徒化を防ぐためでもある。
しかし、それでも事件は起きた。
深夜、闇に乗じて外壁の上を歩く者達がいた。
明かりも命綱もつけず、彼らは高所を進む。
彼らが目指したのは隔離地区に面した外壁の上だった。遠回りをしてでも見張りに見つからないようにやって来たのである。
タンジンに面した壁の上にたどり着いた彼らは荷をおろし準備を始める。
持ち物のほとんどは油の詰まった革袋だった。
革袋の口に火薬の入った袋と導火線を通し、火をつける。それを次々と場所を移動しながらタンジンへと投下していったのである。
落下途中で導火線から火薬に火が付き爆発が起きる。革袋は吹き飛び火のついた油をまき散らしていくと、さながらそれは花火のように広がり眼下の住宅地へと大小様々な火球となり降り注ぐ。
闇に咲いた死を呼ぶ火の花だった。
彼らの中には薄ら笑いさえ浮かべているものすらいた。その後、彼らはすべての作業を終えるとその場に座して何かに祈りを捧げるように古き言葉を唱え始めるのだった。
彼らは共謀者らとともに捕らえられると事態が収束したのち、ロンダサークから追放された。彼らは自分が犯したことを罪とは認識することなく、タンジンを燃やし尽くすことで下町を救おうとしたのだと主張し続けたという。
狂っていた。
火の手が上がると、すぐに警鐘が鳴らされる。
深夜にもかかわらずサウンドストームが飛ぶ。その迅速な初期消火もあって、火災の規模は小さく被害も少なくすんだ。
八日目になっても感染源を特定することは出来なかった。
患者は増え続ける。
さらなる拡大は時間の問題にも思えた。
日も明けぬころから対策本部では人々が動き回っている。なかにはタンジンでの火災による緊急呼集から、そのまま寝ていない者もいる。
少女もその一人だった。
疲れ果てていたが、気が高ぶって寝付けないまま本部にいたのである。
夜の飛行はライトがあるとはいえ、目測を誤ると壁に激突する危険すらあった。それでも少女は何度も砂を運び、サウンドストームからの空中散布を試みた。
そのかいあって延焼は食い止められ、鎮火も早かった。
「お嬢様、お疲れ様です」
フェリアから熱いお茶が少女の前に置かれる。
涼しげな香りに頭の中がすっきりし、飲むと体に染み渡るようだった。
「それにしてもひどい話ですね」
フィリアは憤慨していた。その様子を少女はぼんやり眺めている。
「感染源を根絶やしにするつもりだったらしい」
サウンドストームの整備を終え、現れた工の頭が言うと彼にもお茶が差し出される。
「あの小人数で運んだ量の油ですよ?」フェリアには想像できなかった。「タンジンを燃やし尽くすなんて無理です。なぜそんなことを考えたのでしょう?」
「やつらにとってあれは聖なる油だったらしいぞ。何かが狂ってしまうとまともな計算すらできなくなるんだろうな」
「それでも多量の火薬まで用意していたのは、厄介でしたね」とシュトライゼ。
「火の勢いが増して、消すのが容易ではなかったからな」
いったん火が住宅から燃え上がると、その火勢は厄介なものだった。
マサは工区で火災が起きた時、実際に体験していた。
「サウンドストームがなければ、消火は明け方までかかっていたかもしれません。被害も広がっていたでしょうね」
「スラド熱だけでも大変なのに、火災までなんて、死体に鞭打つようなひどい仕打ちですね」
「本当よ」
少女はフィリアに同意する。
「生死にかかわらず燃やし尽くすつもりだったのだろうな。そうなっていたらあそこは逃げ場のない棺桶も同然だった」
「そうならずに済んでよかったですね」
「もっと警備を増やすことは出来ないのかしら?」
「どこから外壁の上まで登ったのか判らないが、自警団も手一杯で監視の手が回らないだろうな」
すべての外壁同士がつながっているわけではないが、壁の上にのぼることは禁止されていなかった。
「どうしたの、オーリス?」
気が付くとオーリスが何かつぶやいている。
少女が聞き耳を立てると『…死体…死体…』とつぶやいているようだった。
何事かと訊ねようとすると、オーリスは勢いよく立ち上がる。
大きな物音に誰もが驚き、彼の意味不明な言葉に顔を見合わせるだけで、部屋を飛び出していったオーリスをすぐに追いかけたのは少女だけだった。
「スラド熱患者の亡骸はどうなった!」
扉を破壊しかねない勢いで、オーリスは研究部屋の中へと飛び込んできた。
クロッセもトーマも、他の療法士や薬師も意味が判らず、ただオーリス・ハウントを見つめるだけだった。
「死体はどう処理しているんだ?」
部屋の中の面々を見回しながら、何度も声高に訊ねる。
「亡骸はタンジンの習わしにそって火葬になっていたわ」
オーリスの後ろから少女がかわりに答える。
「焼いたのか? 砂に還すのではなく」
猛然と少女に詰め寄って来た。
「そうよ。火葬にしてから砂にまいたらしいわ。いくつもの火葬にした煙の筋がタンジンにはのぼっていたの」
煙の筋が天まで登っていくようだったと少女は付け加える。
「いつの話だ?」
「いつとは……?」
詳しい時期を求める意味が判らなかった。
「それが始まったのはいつだ?」
「二日目以降だったはずよ。そう三日目の朝かしら、まだ亡くなった人は少なかったからひとりひとり火葬にしていたみたい」
狼煙のように何本もの煙の筋が立ち昇っていた。
そのまま放置していると腐敗が進んでしまうため、葬儀とともに迅速に行われたが、爆発的に感染が広がるとそれも追いつかなくなっていた。
「そうか……風向きはどうだったか、覚えているか?」
「それが重要なの?」
「いいから思い出せ」
「のろしのようにといったでしょう。ほとんど無風だったはずだわ」
「そうか……前回の爆発的感染も……」
「どうしたのよ、オーリス!」
「そうだとすれば……」光がさした。「灰だ」
「灰?」
「灰、灰からなんだ!」
オーリスは叫んだ。
点と点だったものがつながり、ひとつの仮説が生み出される。
オーリス・ハウントがそれを導き出した
スラド熱のもととなる病原菌は、本来感染力の弱いものだった。
それ故に最初の感染者は身体の弱っているものか、不衛生な環境下にさらされ続けた者に限定されていた。
最初期の頃、スラドと命名された病気は、処置が遅れれば高熱によって死に至ることもあったが、それも稀な病気である。それが当初、ヴィレッジで研究され、写真にも残る病原菌の姿だった。
移民が増えロンダサークの外壁が広がっていくにつれて病気に変化が起きた。貧困層が増え、人口増で水の量が制限される下町では、高熱が続くことによって体力が奪われ亡くなるものが多く出始めた。
問題はそのあとだった。
スラド熱が強い感染源に変化するのは。
体内に残りまだ生きていた菌が、死滅していく細胞や血と融合し体の外に放出されるか、大気中に漂う菌が元になるのかはまだ不明だったが、それらが火葬によって出た灰などに含まれる成分にふれ活性化していくのである。
変化し増殖した感染源は健康な者もスラド熱に感染させてしまう。
そこから爆発的な感染が始まるのである。
ガドノが顕微鏡で見たという感染源はごく初期のスラド熱の病原菌と一致していた。その後、活性化した菌に十年前に流行した際、効果的とされた薬が有効だったことからも、感染源となる病原菌が変化していったと推測された。
オーリスの提言により、スラド熱の死者を火葬にすることは禁止される。
反対の声も上がったが、亡骸は外壁の外へと運び出され砂葬となった。
十日目以降、感染者が急激に減り始めたことからもそれは実証され、ここに至りようやくスラド熱は収束の兆しを見せ始めるのだった。
5.
十二日目以降、スラド熱を発症した者は現れなかった。
感染していたものもほとんどが快方に向かっているという。
少なからず亡くなるものは出ていたが、あと一週間以内に収束宣言を出すことが出来る見通しだった。
レイブラリーやオーリスはそう考えている。
「感染者が、四つの地区だけで済んでくれたよかった」
「運がよかった」
会議の席で口々に出席者の声が上がる。
長老会は診療所を称賛する。非難していた長老すら彼らを讃えていた。
「それでいいわけがない。もっと早く気づければ、もっと対応が早ければ……」
オーリスはテーブルを叩いた。
「それは、もしもの世界であって、現実はこうでしかなかった」ベラルはオーリス・ハントをいさめる。「防ぎようがなかったよ」
「これからは、くい止めるのではなく防ぐことが重要になるんだ。今がいいならそれで終わりというふうにしてはいけないんだ」
オーリス・ハウントは長老達に訴える。
「被害が少なかったとしても、現実には多くの人が亡くなっているんだ。それでよかった、なんてことはあり得ない話だ」
「誰も亡くなった人をないがしろにしているわけではない!」
議長であるネクテリアは言う。
「だが、被害は甚大であり、多くの人が家族を失っている。それを運がよかったで片付けるわけにはいかないんだ!」
「では、どうしろというのだ」
「恒久的に病気に対して研究を進めること、それを理解し支援することが必要なんだ。いまが何も起こっていないから大丈夫なんて思いこんでいてはいけないんだよ。自分の地区が被害を受けなかったら、そんな他人事ではいけないんだ。判るか?」
オーリスは、ネクテリアをその横のバラガを睨みつける。
「彼は小さなことからコツコツと続けていかなければならないことを実証してくれた。実際支援の在り方を見ても判るだろう? あれは我々の手柄ではない。商工会議所と診療所が自ら進んでやってくれていたことなのだよ」
ベラル・レイブラリーは静かな口調だったが、その場の全員に染み渡る声で付け加える。
「ではどうしろと?」
「本当に、判らないのかい?」
目を細めレイブラリーはネクテリアを見据える。
温和な彼からは想像できないほど威圧感があったという。
「い、いや……五家も長老会も進んでやればいいのだろう?」
「ではネクテリアとしては何をなすべきかと?」
「え?」
「五家や長老会だけでは、まる投げしていると同じではないか? 他家もそうだ。レイブラリーもバラガもエジノアも、五家すべてが長老会の指針となるべく行動しなければならない。全員がなすべきことも大切だが、我々は下町の上に立つ立場だ。これらのことを教訓として個としても成すべきことはあるのではないか?」
「レイブラリーは考えているのか?」
「そうだね。君は何をする?」
オーリス・ハウントの言葉を理解するなら自らの言葉で応えろと、レイブラリーは促した。
こうして長老会の方針だけではなく、五家がロンダサークに対してなすべきことが宣言され、記録された。
そのことをのちに少女はベラルとオーリスから聞かされることとなる。
「これが始まり、というか続きであって、終わりではないよな」
オーリスは隔離された地区からの報告書を読みながら呟いた。
疲れ切っているようでもあった。
「終わりがあるとしたらスラド熱が根絶されてこそだね」それからシュトライゼはふと訊ねた。「しかし十年前と今回とで、どこに違いがあったのだろうね?」
「風、だろうな。あいつらは風とともにやってくる」
「それが、あなたの予測なの?」と少女。
「そうだ。まだ完全に証明できるわけではないがな」
「いまも、その辺を菌がただよっているというの?」
「数はそう多くないだろうが、いるよ」
オーリスは肯定する。
「本当に?」
少女は少し辺りを見回し、なぜか服の誇りをはらう。
「毒性は強くない。だからこそ、今こうして話をしていられる」
「見えないから厄介よね」
少しホッとしながら少女は言う。
「あいつらは大気中を漂う何かと一緒にやって来るんだろうな」
「大元がどこかにあるというのかい?」とシュトライゼ。
「無から有が生まれるわけではないからな。あるだろう。それが何かは判らないが」
「一番いいのは、それを叩き潰せればいいわけよね」
「目に見えるものであればそうしたいところだ」オーリスは苦笑する。「あの時は感染者を隔離したはずなのに、いたるところに感染者が飛び火していった理由が判らなかった」
ロンダサークに風の強さや風向きなどの公式の記録は残っていない。天候に関しては嵐や竜巻が来るか、そうでないかしかなかったのである。
十年前、スラド熱が蔓延していた期間の風向きや風力などの記録がないかを訊ねた結果、農区や漁師などの関係者から情報提供があった。それらから当時の風向きや強さを推測し診療所に残る感染者の情報と照らし合わせることが出来た。
「十年前、何日か風が強く吹いた日があった」
「それがいたるところで感染者が出た理由なのかい?」
「そういうことだろうな」オーリスは遠くを見つめ頷いた。「火葬による大気中への拡散が起きて、それが風に乗って広がってしまった」
オーリスはそう推測した。
「あの時はなぜそうなったのか、本当に理由が判らなかった。薬の開発が遅れていたらと思うと、冷や汗どころじゃなかったよ。被害の拡大をくい止めることは難しかったからな」
「スラド熱のことを理解できていなかったからですよね?」少女は問う。
「系統立てた研究が行われてこなかったのが、最大の理由だ。これを見る限り」オーリスは資料の束をつつきながら言う。「ヴィレッジがもっと研究を進めてくれていたらと思うよ」
「君やティナのような推進役がいて、ようやく研究というのは成り立つものなのだろうね。今回否が応でも思い知らされた」
「診療所にも、いまだ経験や勘に頼っている療法士も多いからな」
「これを一過性のものにはしたくないわよね」
「古いままではダメなんだ」
「まだまだ、確立されていない分野だからね」
「しきたりとか慣習とか慣習にこだわっているのではなく、意識すべてを変えていかなければならない。スラド熱の検証も、これからのものが多い。おれがこれまで話をしたことは、仮説にしか過ぎないのだからな」
「そうだったね」深いため息をシュトライゼは付いた。
「あたしは十分、納得出来たけれど?」少女は言う。
「筋道立てて解説したにしか過ぎない。間違っているところはまだあるはずなんだよ」
「説得力はあったけれどね」
「あたしもそう思ったわ」
「自然崩壊する話なんて特にね」
「無限にスラド熱が強化、変異していったとしたら、十年前に、いや、それ以前にロンダサークは滅びている」
いや人すべてがガリアから滅んでいるとオーリスはそう付け加えた。
「ぞっとする話よね」
「打ち負かすことなど不可能になってしまう」
「どうしてそうならなかったの?」少女はオーリスを見る。
「スラド熱の病原菌には、ある種の吸収能力みたいなものがあるんじゃないかな。赤子が言葉を覚えてくような、何でもいいからとり込むような能力が」
「本来であればいいことなのよね」
「単純だからこそ、何物にもとらわれずできることなのかもしれない。しかし、際限なくとり込んでいけば、終いにはその力に本体が耐え切れなくなり、自己崩壊を起こす」
「それが大流行の終焉となるわけだね。我々は聖霊に見捨てられていたわけではなかったわけだ」
「それじゃあ自己崩壊するように、力を与え続ければ勝手に滅んでくれるわけよね?」
「逆療法的な考え方だな。まあ微弱な菌を与えることで体内に抗体を作るという療法もあるが」
「あら、いけるのかしら」
「加減が難しい。どれだけの人が亡くなるか判ったもんじゃない。そうならないよう事前に予防するのも医術だ」
「衛生の問題、貧困の問題。診療所だけに任せておけない事象も多いわけだがね」
「これからの課題だ。それらは五家や長老会に任せるしかない」
「本気で解消していかなければならないはずなのだけれど、一番おろそかにされがちな部分ですがね」肩を竦めながらシュトライゼは言う。
「こんな小さな世界であってもまとまることか出来ないんだ。滅んでしまう方が早い気がする」
「まったくオーリス、あなたはどうしてそう両極端なのですかね。思考の振れ幅が大きすぎます」
彼は悲観的で破滅的なのに、未来も見据えている。滅びの結末も予測しながら、本気で人々を救おうと考えている。
「救おうとしているのはあいつだ」そう言ってオーリスは胸元に手を触れる。「逃がすまいとおれの背中を押し続ける」
「どうなのでしょうね」
シュトライゼは暖かい眼差しで彼を見つめる。
「二人の残してくれたものが、今回は下町を救ってくれた。特にタンジンの医療チームは大きな成果を上げてくれた」
「彼らは変異体の崩壊も追い続けているよ」
「あなたの説が実証されつつありますね。しかし、そんな強力な病原菌が簡単に滅んでくれますかね」
「それは大丈夫だろう」
「どうして?」
「うちの研究班に観てもらったよ」
彼は胸元の遺灰の入ったペンダントを取り出す。
「嫌ではなかったのですか?」
「おれはそう思ったが、あいつはそんなことお構いなしだな。むしろそうしなければ夢にまで出てきて文句を言いそうだったよ」
「彼女ならやってくれそうですね」
「死んでも、なお人の役に立たないと気が済まないらしい。研究班には遺灰の中にスラド菌が残ってなかったかを徹底的に観てもらった」
「結果は?」
「すでに影も形もなかったそうだ。自己崩壊し、消滅しているのだろう。そうでなければ砂葬した際、イクークが体内に取り込んで、それを食ったものが感染してしまう可能性が出て来るからな」
「うかつに食べられなくなってしまいますね」少女は苦笑する。
「それでは人は生きていけない。それにな、大気中にはいろいろな感染が潜んでいる可能性だってあるんだ」
「見えないから、なおさら怖いわね。息すらできなくなるわ」
「まだまだ人はガリアに見捨てられていないのですね」
「どうだろうな」
「あきらめないから、強い気持ちがあるから、あたしたちは生きているのではないのかしら」
少女はオーリス・ハウントを見て、そう思えるのだった。
「そうありたいものだな」
オーリスの呟き声が聞こえた。
二十日目。
ベラル・レイブラリーは長老会で、スラド熱の脅威が去ったことを伝えた。
終息宣言だった。
事態が完全に収束するまでにはまだ時間がかかるだろう。
死者は四百人以上にのぼっていた。その中には診療所の療法士も二名含まれている。
ヴィレッジとの交渉も待ち構えていた。
すべてが終わったわけではないが、この安全だという宣言が出たことにより、人々は安堵する。
人の往来が少しずつ戻りつつあり、下町と通りに活気が満ちてくると、下町に日々の暮らしが戻って来たと人々は感じはじめる。
だがスラド熱にかかわる事態は終わっていなかった。
その日、緊急を告げるのろしが砂漠の向こうで上がるのを物見が見つける。
同じくして、管制塔からも連絡が入るのだった。
<二十九話完 三十話へ続く>
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