ガリアⅩⅩⅠ ~再生の時①

 1.



 ガリア。

 それは熱砂の大地。

 大地は遥か彼方まで波打つ砂の平原が広がる。

 吹き付ける風に砂埃が舞いあがり、

 砂塵は雲となり天を覆い、空もまた砂漠と同じ色に染まっていた。

 厚い砂雲の向こう側からは太陽が容赦なく地を焦がす。

 乾ききった灼熱の地に人は生き、

 ガリアとともに歩み続けている。



 2.



 乾いた風が熱砂を伴いオアシスに吹き付ける。

 フードやマントの上からでも日の光りが肌に突き刺さって来るようだった。

 砂漠の臭いと熱気が少女に活力を与えてくれ、その感触が心地よく感じられた。

 少女は通りを歩いていく。

 お昼を過ぎたこの時間帯は、商区のメインストリートも人通りが少なくなり、呼び込みの声すらない。営業時間が終わり店を閉めているところが大半だった。

 石畳は陽炎が揺らめき、遠くにあるものほどその輪郭ははっきりしない。先にあるものすべてが実体を持たないのではないかと思えてくることすらある。

 掴もうとしても掴めない。そして届かない幻であるかのようでもあった。

 確かにこの足で立ち、進んでいるはずなのに、どこか存在感がない。

 それでも少女は歩み続ける。

 少女は商工会の建物の前で立ち止まる。

 商工会議所は三階層ある古い石造りの大きな館だ。会議所として使われる前は大きな商家が営む大店であったというが、今は二階と三階は使われていないし、一階も一部は倉庫代わりとなっていた。

 廃業し長らく使われなくなっていた建物をシュトライゼ・グリエは買い取り、その理由を少女はいまだ知ることはなかったが、彼はここに商工会というガリア唯一の組織を作ったのである。

 ひさしの影でフードをとりマントについた埃や砂をはらうと、扉を開け中に入る。

 ロビーは薄暗く、少しひんやりとした空気の中で目を慣らす。

 少女の他に人影はなく、事務局の受付をしていたデリンダがカウンターの向こうから少女を手招きしていた。

「いらっしゃい、エアリィちゃん。会頭に御用?」

「はい。いらっしゃいますか?」

「何かしこまっているんですか」デリンダはカウンターから出てきて少女に歩み寄ると抱き寄せる。「ここはあなたの家なんですから」

「えっ、あ、あたしの? それに家って、なにそれ?」

 唐突な言葉に少女は素っ頓狂な声を上げる。

「ここも、かしら。エアリィちゃんはいろんなところにファミリーがいるからね」

 二十代後半のデリンダはふくよかで温かみある女性だった。

「あの~、それはどういう意味ですか?」

「行く先々にあなたをあたたかく迎え入れてくれる家があるじゃない? だからよ」

「あれがあたたかく、なのかな? 手荒な歓迎もあるのですけれど?」

「それも愛情のうちよ。うちもねお父さんがちょうど帰って来たところなのよ」

「え~っ、お父さんて……もしかして?」

「そうよ。商工会のお父さんと行ったら、シュトライゼ会頭しかいませんよ」

「あのようなお父さん遠慮したいです」

「あ~、そうよねぇ。私も父親があんな人だったら嫌かも」

 デリンダも素直に頷く。

「だったら、言わないでください」

「そうよねぇ。でも、二人でこんなこと言っているなんて知ったら、会頭もガッカリするわよ。特にエアリィちゃんに拒絶されたなんて知ったら」

「嫌うことなどありませんよ。それにシュトライゼさんがあたしの言葉に落胆することはありませんよ」なぜか楽しげに話しに食いついてくる。

「でも、エアリィちゃんの言葉に一喜一憂しているのも事実よ」

「からかわないでください」少女は苦笑いする。「えっと、それで、会えますか?」

「エアリィちゃんが来てくれたんですもの、たとえ商談中であっても、トイレでしょうが、どこにいようと最優先で会っていただきますよ」

「そ、そこまでは」

「いいのよ。会頭もエアリィちゃんと会うのが楽しくて仕方がないんですから」

「めんどうなことばかり頼んでいるような気がしますけど?」

「それが楽しくて仕方がないのよ。そうでなければエアリィちゃん絡みの取材に自ら進んでなんて出かけていきませんよ」

 商工会の会頭シュトライゼ・グリエは、商工会が発行しているウィークリー・ロンダサークの編集長も兼任しているのである。

「そうですよね~」声をあげて少女は笑った。「忙しいはずなのに、毎日店にも顔を出してくれますし」

「ネタを探しているだけかもしれないけれどね。でも、エアリィちゃんが商工会に来てくれるようになって、商工会も活気が出てきたような気がするわ」

「そうなのですか? あまり変わったようには見えません」

「変わっているわ。私の中では大きくね」デリンダは自分の胸を指さし微笑むと、回廊の扉を開けながら少女を中へと誘う。「例えるならモノトーンだった日常に色が付いたって感じかな。青や赤、光の中に影がくっきりと浮かび上がるように鮮やかに、見えなかったものが見えてきたの」

「見えなかった世界? それは不思議ですね」

 砂漠しかなかったはずのエアリィの世界にオアシスの人々が見え始めた今と似ているのかもしれない。

「日常だったはずなのに知らなかったことが多すぎたのよね」

「知らないことだらけですよ」

 少女は天井を見上げる。

「だからこそ、知らないことを知った時、様々な発見があるしそれがすごく新鮮で面白く感じられたりするのよね」

「けっしていいことばかりじゃありませんけど」

「そうねぇ、うちのお父さんがあんな性格だとは思わなかったわ」

「え~と、どこのお父さんですか?」

「決まっているじゃない。もう一人のエアリィちゃんのお父さんよ」

「だから、かんべんしてください」

「でも頼りにしているんでしょう?」

「そうでなければここにはきませんよ。自分ひとりで全部解決できればいいのに、あたしにはそいう力はない」

「そんなスーパーな人はこの世にいませんよ。ああ、エアリィちゃんをのぞいてね」

「あたしはなにもできないし、なにもしていませんよ」

「本当にそう思っている?」デリンダは両手で胸を抑え熱烈な視線を少女に送る。「こんな気持ちになったのは、誰のせいなんでしょうね」

 その熱い思いに少女は恥ずかしくなりデリンダから視線を外してしまう。

「こ、恋でもしたの、デリンダ?」

「そうよ。これが恋焦がれる気持ちなら、あなたにね。エアリィちゃん」

 頬を赤らめるのではなく、満面の笑みで少女を見つめるのだった。

「こ、困ります」少女はなるべく明るくはぐらかすように言葉を探す。「え~と、あたしには心に決めた人が……だから、デリンダ……」

「いいの、私が二番目でもかまわないわ。あなたのそばに置いてもらえれば」

 真剣な口調でデリンダは言う。二人は見つめ合い、そしてすぐに耐えきれなくなり噴き出すのだった。

「な~んてね。でも、エアリィちゃんといると期待しちゃうのは本当かな」

「期待されても困ります」

「そうはいっても次はなにを起こしてくれるのか、みんな楽しみなんじゃないかな」

「起こすだなんて、そういうつもりはないし、あたしは誰かを楽しませたくてやっているわけではないです。あたしはあたし自身が後悔したくないからやっているだけなのに」

「たとえそうだとしても、それが私達には型破りなのよ」

「どうしてなのかしら?」

 少女は眉間にしわを寄せため息をつく。

「私達の日常が狭い範囲のもので、それに馴染み過ぎていたのよね。ただいつもの流れに乗って無為に時間を過ごしていただけなのかもしれないと私は思うの。エアリィちゃんが気付かせてくれたように隣人のことも他の人のことも知ろうとしなかったし、興味も持たなかった」

「もったいないよね。ロンダサークはこんなにも広いのに」

 そしてガリアはもっと広い。

「怖かったのかなぁ。見ず知らずの人の輪の中に入って行くのが。日常とは別の場所に行くのが怖いし億劫だったのかもね。だから近しい人だけで集まってしまう」

「新しい場所にふみ出すのはむずかしいわ」

「そうね。日々の暮らしに流されてしまうと今ある世界、日常だけで十分だと思ってしまう。どこかで人は場所や時間に線を引いてしまい、その殻の中に収まってしまうとそれが常識になり外の出来事を遮断してしまい、なにも知ろうとしなくなる。正しいのは自分達だと思い込んで、外の者を異分子だと思って排除してしまう。いま思うとおかしいことなのに、不思議なことにそれが当たり前のことになってしまっていた」

「不変なものはどこにもありはしないのにね」

「新しいことへ向き合うには勇気もエネルギーもいるわね。だからかな、エアリィちゃんは凄いって思えるのは」

「だからってあたしをあてにしないでほしい。確かに引っぱってもらうほうが楽かもしれないけれど、それでは自分たちで解決したことはならないし、つまらないでしょう? それにあの時はみんなが頑張ってくれたからできたことなのですし」

「そうよね。自分で考えなければ進歩がないですものね。いままでいっぱい損をして来たし、時間を無駄に使ってしまっていたのだから」デリンダは伸びをしながら笑みを漏らす。「でも、そうだと判っても自分の殻から抜け出すのは難しいわ。私達には私達が暮らしていた時間しかないのよね」

「あたしだって、そうよ」

 少女はトレーダーの生活しかそれまで知らなかったのだ。

「でも私達にはないものが、エアリィちゃんにはあるのよね」

 行動力とそれを実行するパワー、何よりも少女は人をひきつけてやまない情熱と活力があった。

「そのようなものあるわけないじゃないですか」

 少女はそっぽを向く。

 とはいえ自覚してやっていたら怖いものであるとデリンダは思い苦笑する。

「ところで今日は商いの帰り?」

「いえ、今日はクロッセやマサさんと打ち合わせをして来た帰りです」

「打ち合わせ?」

 デリンダの目が光ったような気がした。

「……サウンド・ストームのことで。ここのところ忙しくてかまってあげられなかったから」

 デリンダの顔は笑っていたけれど少し残念そうな声だった。

「そうねぇ、大会も準備もあったし、シェラのこともね」

「結局、最後までかかわるはめになってしまったし」

「あんなにノリノリだったのに?」

「あたし、そんなにノリノリでしたか?」

「ええ、影の実行委員長って言われていたくらいよ」

「そんなつもりはなかったのに」

 少女は頭を抱える。

「いいじゃない。楽しかったんだから」

「大変でしたけれどね」

「苦労があるから、得るものがあるのよ」

「確かに、苦労は買ってでもしろとは言われましたが、あたしは得るものがあったのかな」

「私は?」

「えっ?」

「私はエアリィちゃんとお近づきになれたのが一番の宝よ」

 キョトンとする少女にデリンダはなおも笑いかける。

「だって、あんなに怖い、恐ろしいって言われてきたトレーダーと、こうして楽しくお話ができるようになったんですからね。エアリィちゃんだけじゃない。農区や織物区の人達とも親しくなれた。いままで以上にあの大会に参加したスタッフは絆が生まれたと思うの。私だけじゃない、スーザンもフタヒラさんもエアリィちゃんと一緒に運営に参加できて世界が広がったと感じているはずよ。エアリィちゃんは私達と出会えたことどう思っているの?」

「あたしも……楽しかった」

「嬉しいわ」デリンダは照れている少女を強く抱きしめる。「私はさっき、ここもエアリィちゃんの家だって言ったけれど、あの大会にスタッフとして関わることができたことで運営に参加したスタッフ全員と家族になれたような気がしたわ。ファミリーって家族っていう意味だけど、血縁っていう意味だけじゃないでしょう? トレーダーもファミリーじゃない? 強い絆なんでしょう?」

「ええ、砂漠に生きるものとしてのつながりよ」

「そういうものが、私達にもできたんじゃないかなって思うのよ。そう思わない?」

「できたのならいいな」

「なに言ってんのよ!」デリンダは少女の背中を叩く。「エアリィちゃんがそう思ってくれなくちゃ、私達はただの仕事上のつまらない付き合いになってしまうじゃない」

「で、でもね」

「私達はここにこうしている。それはねお金や貸し借りやしがらみといった付き合いじゃない。強いつながりをつくって行っているんだよ」

「ありがとう。デリンダ」少女は照れながらも嬉しそうに笑うのだった。「家族か……」

「家族といえば、ところで」

 デリンダはさらに目を輝かせ少女の顔を覗き込む。

「な、なんでしょう?」

「シェラとクロッセ先生はどうなの?」

「ど、どうって?」

「プロポーズしてOKだったんでしょう。あとは式じゃない。結婚式! いつ挙げるの?」

「さ、さあ……」

「みんなの前であれだけ見せつけてくれたのよ。あとはその勢いで式を挙げるところまでいかないとね」

「デリンダは自分が楽しみたいだけでは?」

「そんなことないわよ。あれだけお騒がせしてくれたのですから、ちゃんと最後まで行っていただかないと収まりもつきませんわ。二人の間で話は進んでいないの?」

「それがさあ、あんなに熱烈なプロポーズをしてふたりのラブシーンを見せつけてくれたのに、全然変わらないのよね……。ソールに訊いても、ご近所さんの話でもいつもと変わらない普段通りの二人だって言うのよ」

「元の日常に戻ったってことかな」

「もうあの二人は最初から生活パターンが確立してしまっていたとしか思えないわ」

「つまり、二人は六年も前から夫婦だったってこと?」

「そうともいえるかも。気付かないうちに」

「お互いの気持ちに気付かないままというのも凄い話よね。でもあの二人、式は挙げるのでしょう?」

「そのつもりはあるのだろうけれど、はぐらかされてしまうのよね」

「またヘタレに戻っちゃっているとか?」

「笑えないわ、デリンダ……」

「またグズグズ言うようだったら、エアリィちゃんがはっぱかければいいのよ」

「もういいですよ。それにいまはまわりが放っておきません。長老さんなんて式を取り仕切るんだって張り切っていましたから」

「そうよね。あれだけお騒がせしたんですものね」

「あたしの労をねぎらってほしいくらいですよ」

 おどけて言う少女の頭をデリンダは撫でる。

「じゃあ、みんなでパーっとやろうか?」

「あたしをだしにするのはなしで。デリンダが楽しみたいだけだろうから」

 そんなことないとデリンダは笑うのだった。


 シュトライゼの執務室の扉をノックすると中からすぐに返事が返って来た。

 デリンダがドアを開けて少女を中に入れる。

 ディスクで書類を見ていたシュトライゼは少女を見るとペンを置き立ち上がる。

「お邪魔でしたか?」

「あなたがいらっしゃったのでしたら、何事にも優先しますよ」

「ねっ、言ったとおりでしょう」

 笑顔で笑いかけてくるシュトライゼを見てデリンダが耳打ちする。彼女はお茶の準備をするために隣室へと向かった。

「お仕事は順調ですか?」

「まあまあです。シュトライゼさん」

 勧められるままに少女は応接用のソファに腰を下ろす。

 当たり障りのない挨拶のような会話がしばらく続き、デリンダが二人の前にお茶を出し退出すると、ようやく少女は話を切り出すのだった。

「今日はまたお願いがあってまいりました」

「わたくしにできることでしたらなんなりと」

「……」

「どうかしましたか?」

「今回は言わないのですね」

「何をですか?」

「やりましょうとか、いいですねとか、先読みしたような答えをです」

「わたくしも空気を読みますよ」

「そ、そうですか」

 シュトライゼの笑みに少女は戸惑ってしまう。

「それで、どのようなお話しでしょう?」

「人を紹介してほしいのです」

「人、ですか?」

「はい。店と商品の利権を売ろうと思っています」

 冷静なシュトライゼの表情が一瞬動いたよう見えた。

「利権というと、油は五家の預かりとなっていますから、化粧品のことですよね? 全てを売るというのですか? お売りになればかなりの額になりそうですね。それであなたは隠居でもなさるつもりですか?」

「隠居するつもりはありません」少女は一笑に伏す。「商売替えをしようと思っているのです」

 それを見てシュトライゼはこわばらせた表情を少し和らげる。

「ほお。どのような」

「まだ具体的なことはお話しできませんが、サウンド・ストームを使ってやりたいことがあるのです」

「面白そうですね。しかしそれはクロッセ先生やマサさんにお任せしても出来ることなのでは?」

「あたししかできません。それに実をいいますと、あの子は金食い虫なのですよ。維持するだけでもお金がかかります。さらなる改良が必要ないまはもっと必要になります」

「そうは言いますが、利権まで売るほどではないと思いますが?」

「続けるのはむずかしいと思ったからです。それに」少女は少し言い淀む。「あたしはここの人間ではありません。いつかいなくなるかもしれない」

 少女がロンダサークにいる理由を彼もある程度ではあるが聞いていた。

「なるほど」シュトライゼは小さな吐息を洩らす。「それでもあれだけあなたを慕って買いに来てくれるお客がいるのにもったいない話です。これからもあの商品は人気が出るでしょうし」

「そこなのです。できればちゃんと引き継いでもらいたいし、品質も維持してもらいたいのです」

「シェラさんやフィリアさんでは駄目なのですか?」

「シェラはいま自分の道を進もうとしています」少女は首を横に振る。「あたしが言えばやってくれるかもしれないけれど、シェラのさまたげになることはしたくありません。フィリアは……計算はなんとかできますが帳簿をつけるまではできそうにありません。機転がきかないしお調子者だから、のせられて失敗そうで怖いです」

「そうですか……お店だけでなくブランドもとなると欲しがる大店も多いでしょうな」

「生産ライセンスは売りますが、あたしの名までは売りませんよ」

「それでもかなりの資産価値はある」

「利益だけを追求する人にはできれば売りたくありません」

「なかなか厳しい条件ですな」

「むずかしいでしょうか?」

 即断即決が常のシュトライゼにしては珍しく考え込んでいるようだった。しばらくして彼は少女を見つめる。

「そうですね……少しあなたの手間を取らせるような人物でもかまいませんか?」

「シュトライゼさんが紹介してくれる方でしょう? 一筋縄でいくとは思っていませんよ」

「そんなに変わった人を紹介していますかね」

「ひと癖もふた癖もあるような方たちばかりではありませんか」

 少女はニヤリと笑う。

「否定はできませんが」シュトライゼは苦笑する。「ですが、腕は保証しますよ」

「腕は、ですか。では大丈夫ですね」

「あなたも人のことは言えませんね」

「なにがです?」

「あなたも人の話を詳しく聞かずに即決する」

「聞きましたよ。腕は確かだと。それだけで十分です。だってシュトライゼさんが紹介してくれる方ですから」

 少女はそう言って微笑む。

 責任重大だ。

 シュトライゼは心の中で呟き笑うのだった。



 3.



 ロンダサークは外周部へ向かって地区番が増えるほど貧富の差がはっきりしてくる。

 シュトライゼが案内してくれた三十九区はどちらかというと外周部に近い地区であり、その多くが粗末な長屋だった。

 これといった特産も産業もなく、ほとんどの住人が港湾地区や農区へと働きに出ていると聞いた。

「てっきり商区へ行くと思っていました」

「実を言いますと引退している人物なのですよ」

「隠居ですか?」

「齢はわたくしと同じですよ。今は店をたたんでここで暮らしています」

「では、まだお若いですよね。理由は?」

「詳しい理由は彼も語ってはくれませんでしたが、わたくしは家族が亡くなったことが原因ではないかと考えています」

 少し遠くを見るようにシュトライゼは呟くのだった。

「ご家族が?」

「そうです。もう十年になりますか。ロンダサークでスラド熱が発症したことがあったのです」

「スラド熱!」

 少女は思わず声を上げた。

 スラド熱は伝染病の一種で、一度猛威をふるうと感染が早くオアシス全域を滅ぼすことも過去にあったのである。トレーダーもこの伝染病にだけは注意をはらって来た。

「大丈夫だったのですか?」

「ロンダサークではスラド熱に備えて血清の準備は怠っていません。初期段階での処置さえ間違わなければ、被害は最小限で食い止められるはずなのです。十年前は初動の対応がうまくいきました」

「ですが、被害がなかったわけではないのでしょう?」

「確かにそうですね。十年前の発症は奇跡といわれるくらい沈静化したのが早かったですが、まったく被害がなかったというわけではありませんでした。不幸にも亡くなられた方は多くいたのです」

「その中にもしかして、その方のご家族も?」

「彼は本当に優しすぎたし、苦しんでいる人を見捨ててはおけなかった。スラド熱が発症したと知るや彼は拡大感染を防ぐために率先して医療活動にも従事したものでした」

「商人なのにですか?」

「彼の奥方は診療所勤めだったのですよ。そのため彼も少なからず医療の心得があったのでしょう。そして診療所の方々や多くのボランティアの尽力もあって感染は最小限にとどまり、発症した者も多くが救われた。しかし、その時に奥方も子供も亡くなられてしまった」

「なぜです? 医療に従事していたのでしょう?」

「自分自身を後回しにしていた。そういう話を聞きました。家族を救うことができなかったことが、自分だけが生き残ったのが許せなかったのかもしれない」彼はそして肩をすくめる。「ですが、本当の理由は彼にしか判りません。本当に」

「大丈夫なのですか?」

「判りません」少し口元を歪める。「ですが、あなたの話を伺ったときに、真っ先に彼の顔が浮かんだのです」

「わかりました」

 少女は目を細め微笑んでくれた。

「ありがとう」

「なにがです?」

「いえ、なんでもありません。では、そういうことで」

 ゆっくりと少女とシュトライゼは細い路地を抜けていくのだった。


 地面にある小石を男はゆっくりと動かしていた。その様子を集まっていた子供達は熱心に見つめている。

 それが少女には老人が子供のお守をしているようにも見えた。

 喪に服している以外で黒い服を身につけている者は稀だ。屋根が作る影に男は溶け込んでいるようで、服装のせいもあるが、まるで自らの存在を闇に閉ざしているようだと少女は感じる。

「オーリス! オーリス・ハウント」

 シュトライゼは日射しの中から声を掛けると、眩しさに目を慣らすように男はゆっくりと顔を向ける。

「シュトライゼ・グリエか」

 彼は疲れたような声で呟いた。顔には深いしわが刻まれており、話しに聞いていた以上に老けて見えた。

「久しぶりです、オーリス。ここにいてくれたよかったですよ」

「どこにも行きはしないよ」

「なんにせよ、無駄足にならずにすんでよかった」

 シュトライゼはおどけたように声を掛ける。

「なにしに来たか知らないが、ただおれの生存確認をしに来たわけではなさそうだな」

「そうですね」

 シュトライゼは目を細め微笑んでいた。

 一方オーリスは興味なさそうに視線をはずすと、彼のそばにいた子らを促しその場を離れさせるのだった。

 素直に日の光の中に消えていく子供達をオーリスは満足そうに見ているようにも少女には感じられた。

「息災でなによりです」

「これが、そう見えるかね?」

「ええ、生きてくれているだけで、わたくしは嬉しいですよ」

「よしてくれ、シュトライゼ」

 差し出られた手を取らず、オーリスは立ち上がる。

「それでも生きていれば希望はありますよ」

「おれにはもう何もない」

「どうでしょうね」

「お前さんも諦めが悪いな」

「そうですね。わたくしも頑固ですから」

「知っているよ」オーリスの言葉にシュトライゼは微笑むと礼を言うのだった。「本当に変わっていないな。それで何の用だ?」

「聞いてくれますか」

「聞く気がなくても話すだろう」

「はい」当然のような顔付きであった。「あなたの手が必要なのです。お手伝い願えませんか」

「手伝いだと、このおれにか?」

 オーリスは顔をしかめる。

「そうです。この子がね」シュトライゼはそう言って少女の背中を押し前に立たせる。「彼女に商いを教えてあげてほしいのですよ」

「えっ?」

 シュトライゼの言葉に少女は彼の顔を仰ぎ見る。

 表情を変えないシュトライゼに戸惑いながら少女は頭を下げ挨拶をする。

「エアリィ・エルラドです」

「こんな小さな子が商いを始めるというのか?」

「実を言いますと、すでに始めているのですよ」

「何の冗談だ?」

「何を言っているのですか、あなただって似たような年齢で商いをしていたでしょう」

「エルラド? そんな屋号、聞いたことがないぞ。この子はどう見たって大店の娘じゃないだろう。おれ達とは違う」

「流石ですね。ですが、小さな店ですがエアリィ嬢は商区で商いをおこなっています。ただやんごとない事情があって今は大変お困りなのですよ」

「知るか。お前さんがなんとかしてやればいいだろう」

「わたくしは会頭という立場と職務がありますからね。ひとりの方に肩入れすることはできないのですよ」

「なに言ってやがる。伝統とか規律とか平気で破るやつが。職務だって? お前はフラフラと歩きまわっているだけで全部フタヒラがやっているんだろう。お前ができないと言うのなら、お前さんが自分の職務とやらをちゃんとやってフタヒラにこの子の面倒を見させればいいだろうが」

「彼を出すわけにはいきません。それこそフタさんがいなければ商工会の仕事が立ち行かなくなりますから」

「あいつも救われないな。こんなやつに見込まれたばっかりに」

「それはあなたも同じですよ。今は暇でしょう?」

「そういう問題じゃないだろう。おれは店をたたんだ身だぞ。十年になる。こんなやつに教えられたかねぇだろう」

 シュトライゼを睨みつける。

「いいえ。ぜひ、お願いします」

 少女はもう一度頭を下げる。

「おい! シュトライゼ、この子になにをふき込んだ!」

「なにもふきこまれていません」少女は首を横に振った。「シュトライゼさんには信頼できる方を紹介していただきたいとお願いしました。真っ先に出てきたのがオーリスさんでありました。忙しい中、時間をさいてまであたしのために引き合わせてくれたのです。信用しています」

「こんな子供まで使って、落ちぶれたおれを引っ張り出そうだなんて、何が狙いだ?」

「他意はありません。わたくしとしては本当にエアリィさんに手を貸してあげてほしいのですよ」

「ちょっと待て! エルラドといったな」オーリスの言葉に少女は頷く。「あのエルラドか?」

「そうです」シュトライゼも頷いた。「エアリィさんは正真正銘のトレーダー、エルラド・ファミリーの子ですよ」

「噂では聞いていたが、この子が……」

「その辺の下町の子と変わらないでしょう?」

「あっ、ああ。それでお前か。なおさらシュトライゼ、お前がやるべきだろう」

「わたくしは助言くらいなら可能でしょうが、すべてを見てあげることはできません。あなたの力を貸してほしいのですよ」

「あれから十年。おれは何もしていない。時代遅れもいいところだ」

「そうでしょうか? あなたの商いは十年以上先をいっていると思っていました」

「もうあの時ことは忘れた」

「あなたは根っからの商人ですよ。忘れられるはずがありません。三つ子の魂百までというではありませんか」

「それでもおれは辞めたんだ」

 頑なに返事を拒む。

「これはこの子があつかっている商品です。エアリィ嬢が自ら考案したものです」

 シュトライゼは懐からハンドクリームなどが入った袋を取り出しオーリスに手渡そうとする。つき返そうとするオーリスを彼は押しとどめるのだった。

「朝に六番街に来て見てください」

 シュトライゼは困惑するオーリスに場所を告げ、地図を無理矢理握らせると、少女を連れその場をあとにする。


「来てくれるでしょうか?」

「来てくれないと困ります。それにあなたの作った品を見て商魂に火がつかなければ商人ではありませんよ」

「驚きました。いつのまに準備したのですか?」

「商工会のスタッフにはあなたのファンが多いのですよ。彼女達は快くあなたのためにあれを提供してくれました」シュトライゼは微笑む。「もっとも、明日の朝、新しいものを買わないといけませんけれどね」

「言っていただければおとり置きしておきますよ」

「ありがとうございます。ところで、あなたの目から見たオーリス・ハウントは如何でしたか?」

「あの方の目は死んでいませんでした」

「ほお」

「あたしたちが訪れた時、子供たちと小石で遊んでいましたよね? あれはただ遊んでいるのではなく子供たちに数の計算を教えているものでした」

「よく見ていらっしゃる。本当にあなたを紹介してよかった」

「それにしても一筋縄ではいきそうにない方を紹介してくれますよね」

「普通の人ではあなたについていけないでしょうから」

「あたしは化け物でも超人でもありませんよ」

「ええ、あなたはエアリィ・エルラドだ」

 その言葉に少女はニヤリと笑い頷いた。

「シュトライゼさんの紹介ですから、信用していますし、期待していますよ」

「わたしくしの我がままかもしれません。ですが、彼には是非とも復帰してもらいたい。そう願っているのです」

「善処します」

「お手柔らかに」

 シュトライゼと少女は目で頷き合うのだった。


「髪、のばそうかな」

 少女は前髪をいじりながらため息まじりに呟く。

 給仕をしていたフィリアはその突然の言葉に目を見張り驚いた。

「急にどうしたのですか、お嬢様?」

「変かな?」

「おかしくありませんが、前に伸ばさないのかと訊いた時、動くのに邪魔だからとおっしゃっていたではありませんか?」

 ちょっとでも伸びると切ると言いだし、本当に刈り込んでしまうのではと心配した時もあったのである。

「そうなのだけど……」

「何かあったのですか?」

「な、なんでもない」

 子供だと見られたのが悔しかったとはいえなかった。

 まだ本当に一人前のトレーダーとはいえなかったけれど、それでも儀式は経ていたし、同い年の子らと比べても背丈はある方だった。

 なによりも大人達の間に入って活動しているとなおさら子供だと言われ相手にされなかったりするのが悔しかった。

「ただ、シェラのように髪を伸ばしたら少しは大人っぽくなれるかなと……」

「シェラ様の髪は綺麗ですものね。どうしたらあんなにきれいな髪を維持できるのかお訊ねしたいところです」

「あたしはくせっ毛だからシェラのようにはできないかもしれないけれど」

「そんなことはありませんよ。フィリアはお嬢様が髪を長くしたお姿もみたいです」

 フィリアの言葉に少し照れながら礼を言うと少女はその話題を切り上げる。

 それでも少しずつでも髪を伸ばして行こうと少女は誓うのだった。


「どうかしているな」

 オーリスは商区に足を運んでいた。

 商区に来るのは何年振りだろうか……。

 日も昇らない時間だったが、オーリスはフードを目深にかぶり、周囲を気にするように歩いていた。

 通りに人はまばらだったが、ふと少女の店を見るとまだ開店前であったが、主婦らしい何人かの女性が店の前に陣取っている。

「信じられんな」

 開店前の店を見てみようと思ったが、それどころではなかった。

 あまりジロジロ見ていると不審者と思われてしまうだろうし、通り過ぎるふりをして店を観察するのがやっとだった。

「本当にどうかしている」

 しばらく遠巻きに見ていると、あの時の少女がもう一人の、手伝いの者だろう女の子を連れて現れる。

 店の前で待っていた人々に挨拶をすると、手早く開店の準備をしていく。

 手際は悪くなかった。

 店の前に明かりが灯るとさらに客が訪れ、ところどころ聞こえてくる会話から馴染みの客は多いようだ。

 オーリス自身、ほんの少し言葉を交わしただけだったが、下町の子らと変わりはしなかったはずなのに少女はなぜか印象に残った。

 特にあの瞳に引きつけられた。第一印象から不思議な感覚がして、どこかしら懐かしくて忘れてしまうには惜しくなってしまう。

 それにシュトライゼから渡された商品も興味深いものだった。

 あってもおかしくない品だったが、それを思いつく者は少ない。ましてや自ら考案し作ろうとするとは普通思わない。

 それ故に気になってしまい、手の中にある地図の場所へと足を運んでしまっていた。

「ようやく重い腰を上げてくれたようですね。オーリス」

 突然掛けられた声にオーリスは思わす後ずさる。

「三日ぶりですね」

「な、なんでお前がここにいる?」

「見回りですよ」

 いつものことですとおどけた口調でシュトライゼは言う。

「見回りだと? そんなに暇なのか?」

「忙しいですよ。心外ですね」

「嘘をつけ、フタヒラに仕事を押し付けているだけだろう」

「こうして商店や人の流れを見るのもわたくしの仕事うちなのですよ。実地に見なければ判らないことが多いではありませんか」

「確かにそれはあるが……、体のいいさぼりだろう」

「そう見えますか?」

「違うのか?」

「次からはもっと調査でもしているようにメモでも取った方がいいでしょうかね」

「まったくお前さんらしいな」

「まあまあ。それであなたから見たエアリィ嬢は如何ですか?」

「いいんじゃないか。店の雰囲気も悪くない。ディスプレイはもっとはっきり見なければ何とも言えないが、いい声でお客さんを迎えている。手際もいいしきちんと客の心を掴んでいるようだな」

「なかなかの褒めようですね」

「あの年齢にしては上出来だ」

「そうですね。あの子もトレーダーでありながら、根っからの商人なのでしょうね」

「おれが教えるところなんてありはしないよ」

「そうでもありません。あなたも気付いているのでしょう。あの子には経験がありません。アイディアもあり行動力もありますが、どうしてもそれが足りなさすぎる」

「だったらお前がフォローしてやればいい。フタヒラだっていいし、他にもいろいろと人材はいるだろう」

「わたくしではダメなのですよ。オーリス・ハウントでなければね」

「なぜそこまでおれにこだわる」

「あなたが持っているノウハウと経験です。あの子は順調すぎた。小さなつまずきはありましたが、それも幸運にも恵まれ回避できたし周囲が手助けしてくれた。しかし、これからはそうはいかないことも起きるでしょう。そうなった時に自らの力で決断し対処できるように教えてほしいのですよ」

「そんなのは教えられてできるもんじゃない」

「そうです。しかし、知っているのと知らないのでは違うでしょう? エアリィ嬢はトレーダーだ。彼女のやり方はそれに近いものがあり、我々のノウハウとは別次元のものであるともいえます。それだけではどうしても商区では軋轢が生まれてしまうこともあります」

「ロンダサーク流に矯正しようというのか? お前好みに」

「そのようなことは考えていませんよ。そうなってしまっては面白くありません」

「面白いとか、そんな問題じゃないだろう!」

「彼女の持ち味はトレーダーということであり、その本質を消してしまうつもりはありません」

「お前は本当に何を考えているんだ?」

「わたくし流に言わせてもらえれば、面白い方ですよ」

「おれをそんなことにまき込むな」

「白いキャンバスを色で染めるには、わたくしのようなものではいけない。わたくしの知るかぎり、あの子の素質をあるがままに伸ばすことができるのはあなたしかいないのですよ」

「おれにそんな資格はない。おれの決断は……」

「しかし、善処した結果でもある。導き出す力をあの子にも分けてあげてください」

「無理だ!」

 思わず大声になっていた。


「フィリア、店番をお願いね」

「どうしたのですか、お嬢様?」

「向こうにお客さまが来ているのよ」

「へっ? お客さまって、どこにですか?」

 フィリアは周囲をキョロキョロと見回す。

「あの先にね」

「ああ、シュトライゼさんですか。それでしたらじきに顔を出されるのではありませんか?」

 目を凝らすと少女が指さす先にはロンダサーク商工会議所の会頭がいて、誰かと一緒のようであった。シュトライゼなら少女が出向かなくとも毎日店に顔を出すのが日課のようなものだったので不思議に思ってフィリアは訊ねた。

「少し話に時間がかかるかもしれないから、今日はあたしからあいさつしてくるわ」

 まだ暗くランプの明かりしかなかったが、シルエットとその声からシュトライゼと一緒にいるのはオーリス・ハウントだと判った。まだ少女の動きに気付いていないようだったので、気付かれないように店の裏から出て、回り込むようにシュトライゼとオーリスの元に近づいていく。

 少女が後ろから挨拶するとオーリスは驚きの目で少女を見る。

「見つかってしまっただろうが」

「そのようですね。良いではありませんか。おはよう、エアリィさん」シュトライゼは朗らかに答えた。「そうしていただくつもりでしたからね」

「助かります」

 少女はシュトライゼに礼を言う。

「オーリスはこっそりと見て、帰るつもりだったのでしょうからね」

「そうだよ。悪いか」

「それではつまらないですからね」

「まったくです」

 彼の言葉に少女は頷くとオーリスの手をとり引っ張る。

 その絶妙のタイミングに一瞬オーリスは引っ張られるままになってしまう。慌てて踏みとどまろうとして振り返ると今度はシュトライゼが逃がさないように後ろに回り込み両肩を掴もうとしていた。

 なんとか立ち止まるが、少女とシュトライゼは有無を言わせぬ笑みで彼を見つめ、力を入れてくる。

 オーリスは深いため息をつくと、あきらめて歩きだすのだった。

「悪いやつらに見つかってしまった……」

「興味はあるのでしょう?」

 シュトライゼは何を今さらという感じだった。

「うんうん。その気があるからこそ来ていただけたのでしょう?」

 少女に営業スマイルで嬉しそうに言われると、オーリスは苦虫を噛みしめるしかなかった。

 まだ営業中だったので少女に引かれるままオーリスは店と店の間の狭い通路に入り裏から店内に連れ込まれてしまう。

 思った以上に店の中は狭く、大の大人が三人はいると窮屈に感じられるくらいだった。

 少女がこのような店で商いを続けているのが不思議だった。

 オーリスが近所付き合いをしている長屋の住人達も少女の店のことを知っていて、盛況であると聞く。それならもっと表通りで手広く店を広げることも可能であるのではないか。

 もっと楽をして稼ごうとするなら、ブランド展開し製造だけして販売は他の店に任せてもいいのである。

 何かこだわりがあるというのだろうか。

「どなた様ですか?」

 客を相手していたフィリアは突然のことに驚いていた。少女がシェラ以外の者を奥に引き入れたのは初めてのことだったのである。

「オーリス・ハウントさんよ」

 彼はフードを取らずにいて、無駄なことは話さず頷き返すだけだった。

「フィリアさん。彼はわたくしの古くからの友人でしてね。エアリィさんのお仕事に興味があるのですよ」

 店先から中を覗きながらシュトライゼが付け加える。

「そ、そうですか」

「彼女はフィリア。あたしの店の手伝いをしてもらっています」

 館の使用人であることや忙しくなる時はもう一人、手伝いを頼んでいることも少女は付け加える。

「では、商いに戻ります」

 少女は店頭に出ると明るく元気な声を出して客に話しかけていく。

 それだけで店内は夜が明けたかのように明るく雰囲気が変わったような気がする。

「では、ってなぁ」

 立ちあがろうとして店先から見ているシュトライゼと目が合う。

 無言のプレッシャーだった。

 オーリスは今ここから逃げ出すのは無理だと諦めの表情を浮かべる。それを見たシュトライゼは少女に目配せして頷き合うのだった。

「いまさらおれがどうしろというんだ」

 舌打ちし店の隅に腰を下ろすと、そこから商いの様子を見つめる。

 ただ彼は影になり、大人しく傍観者を決め込むのであった。

 耳に聞こえてくるのは懐かしくもある客とのやり取りだった。微妙な駆け引きもあれば、一方的な愚痴にも聞こえてくる客の話など、様々な会話がそこにはある。少女が相手にしているのは同い年の子らではなくなかなかに手ごわい主婦達であった。

 自分が少女と同い年だった頃、ここまで商いができただろうか?

 聞くところによるとひとりで始めた店だという。

 突如、この場所に店をかまえている。しかもそれはシュトライゼの仲介でもあったらしい。

 大店が軒を並べるような大通りではなくだいぶ奥まった通りでひっそりと始めている。商いを始めた頃の少女は一部で名は知られていたが、商売人としてはまだ無名の存在だったはずで、知り合いも多くはなかっただろう。

 商いの成功、それを夢想することは簡単だ。それでもまったく知らない土地で本来ならなんの力もコネもない子供が商いを成功させるなどとは到底思えなかっただろう。

 自分には無理だ。オーリスにはそう思えた。

 見ず知らずの場所で人と交わり生活して行くには勇気とエネルギーがいる。それなのに少女はいとも簡単にやってのけていた。

 隔たりや壁を越えていくのが怖くなかったのだろうか……不思議な少女だった。

 エアリィ・エルラドは野性味を感じさせる精悍な顔つきをしている。その目の輝きは少女らしさを感じさせない。自信に満ちあふれ、力強ささえ感じさせる。小さな体にありったけの活力をため込んでいるといってもいい。

 見た目は下町の子らと何ら変わりないはずだが、やっていることは大人顔負けだった。

 トレーダー故なのか、天性のものなのか判らないが、エアリィ・エルラドは人を惹きつけてやまない何かを持っている子だった。些細な出会いではあったが、彼は少女の持つ力にひきつけられたのである。

 トレーダーというだけでも印象的な子だ。

 オアシスの中でトレーダーが商いをすることは異例ともいえる。彼らは孤高の運び屋で、砂漠を渡りオアシスを行き来するが、オアシスの民を地根っ子と呼び蔑み、相手にしない。

 そんなトレーダーが、子供とはいえオアシスの人々と交わり、商いまでしているのである。それだけでも興味を覚えないわけがなかった。

 最初に商いに少女が選んだ品は油だったという。

 オアシスでは水やイクークと並びポピュラーな売り物で、料理や明かり取りなどに使われる生活必需品であり、多くの店がそれを扱っている。

 競争の激しい商品ともいえたが、少女はどこよりも安価な価格で商いを始め、しかも品質は最上のものを用意した。料理でも使える高級品として売り出してもおかしくないものであったが、それらを少女は誰にでも買える価格で販売する。

 口コミでそれは広がり、人気の商品となり売り上げを伸ばす。クロッセ・アルゾンという稀代の天才と港湾との太いパイプを使い誰もが敬遠してきたイクークから、徹底的に無駄を省き上質の油を提供した着眼点はロンダサークの商人にはないものだった。

 少女の成功を大店は苦々しく見ているのは明白だ。古くからのものにとって少女は秩序の破壊者ともいえる存在であるが、それは商いにおいてはよくあることではない? 異分子のような存在によって大きな変革がもたらされ、それらによって旧態依然とした体制は突き崩されるのである。

 少女はオアシスの商人達にとって異質な存在だといえるだろう。

 あっさりと成功した商品を手放したのである。

 順調に伸ばしていたはずの売り上げ、独占してもおかしくない状況で、少女はなぜか方向転換する。

 その技術を五家に預け、広く公開したのである。そのため商人のみならず品質のいい油が作れることになるのであった。

 少女は、次に化粧品という分野に進出する。またゼロからのスタートだったはずだが、油で得た客を中心に女性をターゲットとした戦略は徐々にシェアを伸ばし始めていた。ここでも少女は安価な価格と高い品質を実現している。

 シュトライゼから手渡されたハンドクリームを使ってみて衝撃を覚えた。男が使っても良いくらいの効能がある。そして本来なら贅沢品であるはずの化粧品を誰にでも買えるよう安価で売り出している。

 油に関してはタネを明かされてみれば、簡単な原理であったが、ロンダサークの誰もが思い当たらなかったことを平気でやってのけている。

 そこに思い至らなかった自分が情けなくもあった。

 トレーダーの娘だからこそそれらは可能だったのだろうか?

 そうは思いたくない。商売のネタは身近に転がっていたのであるから。

 目の前で堂々と大人達と渡り合う姿は、商区の商人と変わりないように見えるが、それは錯覚でもあった。ほんの一瞬みせる子供らしい態度、そして言葉遣いにハッとさせられる。彼の前に現れた少女はなんら下町の子と変わりなかったのである。

 違和感はそれだけではない。

 それはトレーダーということにも起因するのだろう。トレーダーは不特定多数の個々の客を相手にすることはないので、オアシスの商人とは根本的に違う。見た目は変わらないように客商売をしているが、それは少女が商区を調べてのことなのではないか? それらを元にアレンジしているのが今のやり方なのだろう。

 そこには彼が目指していたものも含まれていて、大店や他の店では見られない手法でもある。

 店頭だけではなく店の中も整理整頓が行き届いており、砂も埃もないように掃除している。それが来店者に好感を与えていたし、少女が効率よく動けるように計算されていた。

 ただ客と売り買いをする関係ではなく、話をすることで情報を引き出し客の興味を引いていく。客の反応を見て、手伝いの子に時折り話を振ったりしながらうまく客をその気にさせている。店のディスプレイも客の目を引き、商品を手に取りやすいように展示している。すべてが計算されたものではないだろう。それは少女の感性であり資質といったところなのだと考える。

 手際も良く、オアシスの子らにはない計算能力の高さがあった。

 油だけを売っていた頃、最盛期には店の前に客が列をなしたというが、今は訪れる客はそれほど多いというわけではない。

 これくらいの来店者数であれば少女一人でも切り盛りすることができるとオーリスは感じた。

 それくらい彼女は手際がよく計算も早く、さすがにトレーダーの子というべきだろうか。

 そしてなによりも目を引いたのが少女のその瞳であり、その目の中にある光は、誰よりも輝いているように見える。

 自分が無くしてしまったもの、恋焦がれていた輝きがそこにはあるような気がしてならない。

 だが、それは危うさでもあった。

 利発で快活、行動力もありそれを実現させる力も持っているように見えるが、いざこうして間近に、少女を見ていると心がざわつき不安になる。

 エネルギッシュな活力を感じるとともに、なにか目の前にあるものが不安定で土台のないものに感じられて来るのだった。

 それらが良い方向に働けば大きいだろうが、人生は常にそうであるとは限らない。

 シュトライゼは何故トレーダーの娘に肩入れするのだろうか?

 こうして観察していると自分が少女に教えることは何もないよう見えるが、それなのにシュトライゼはトレーダーの娘に自分を引き合わせた。

 オーリスにはシュトライゼがこうして行動を起こす理由が判らなかった。自分を復帰させたいからだろうと最初は思ったが、そうではなかったし腹黒き悪友は無償で何かをしようとしているのではないだろう。

 彼が利用しやすいように少女を染め上げ、取り込もうとしているわけでもなさそうだった。そうでなければ人任せになどせず自ら行動を起こしていたはずだ。

「いったい何がしたいんだ」

 呟きながら頭をかきむしるともやもやした気持ちを振り払う。


 日が昇るとともに照りつける強い日差しとともに暑さが増してくる。

 通りを訪れる客も少なくなった頃、少女は店じまいの準備、商品の残を数え売り上げを計算し始めた。

 ピークを過ぎたのは明らかだったが、ずいぶんと早い店じまいだった。

 フィリアもそれを手伝っているが、オーリスの存在が気になるのだろう。しばしば彼の様子を伺っていた。

「お嬢様、仕事の後ではなく、なぜ今、オーリス様をお店に招いたのですか?」

「まずはあたしのやり方を見てもらいたかったからかな」

「やり方、ですか?」

「オーリスさんに、商いというものを教えてもらうつもりなのよ」

「今さらですか?」

 小声で話をしていたフィリアは驚きの声を上げる。

「いまだからよ。このままなにも知らずに行くとあたしは無知のまま、オアシスを理解できずに進んでいくことになる」

「そんなことはないだろう」

 二人の会話が聞こえていたオーリスの声は、充分だろうと言いたげだった。

「いいえ」少女は首を横に振る。「そんなことはありません。あたしはオアシスでの商いのノウハウがわからないまま商いを始めています。見よう見まねだといってもいいです」

「でも商売繁盛していますよ」

「いまはね」少女は肩をすくめる。「目新しいことをやっているうちはいいけれど、あたしのような小さな店は大店にはかなわないわ。あっという間にまねされておしまい」

「そういうものなのですか? でもお嬢様なら、そうなった時にまた新しいことを始められるのでしょう?」

「あたしはそんなに無尽蔵にアイディアがあふれでてくるわけじゃないわ」

「え~っ、お嬢様ならすぐに百も二百も新たなことをやってしまいそうですよ」

「できるわけがないでしょう。それに大店がうちよりも安く大量に同じ商品を出してきたらどうするのよ? 安いほうがいいでしょう?」

「確かにそうですけれど、お嬢さんの品は品質では負けません」

「その通りよ。自信をもって作っているわ。でもね、それだけでは商売はできないのよ。あたしたちが大店に負けないようにオーリスさんに商いを教えていただくの」

「商売繁盛の秘訣をですね」

 フィリアは期待の眼差しでオーリスを見る。

「そんなものありはしないよ」

「え~っ」

 あっさり否定されてフィリアはがっかりした声を上げる。

「そんなものがあったら誰でも商いで成功している」

「そ、そうですよね~」

「でもねフィリアさん。どんなときにでもオーリス・ハウントという男は最善の手をうち最悪の事態を避けることができるのですよ」

 再び現れたシュトライゼが店先から言うのだった。

「よけいなことは言うな! それにお前は帰ったんじゃないのかよ」

「いつも閉店前に寄らせていただいているのですよ。事務の女性陣にお使いを頼まれていますしね」

「いつもありがとうございます」

「いえいえ、わたくしも助かっています」シュトライゼは朗らかに笑う。「それでですねフィリアさん、オーリスは、先見の明があるのですよ。誰よりも鼻がきくんですよね」

「本当かよ」呆れるオーリスにシュトライゼは笑みを向ける。「ええ、あなたは他の誰よりも危機回避能力がありました」

 ただ先見の明がありすぎたのかもしれない。そう心の中で付け加えた。

「そんなものがあったら、おれはもっと成功していたよ」

「成功するだけが、商いではないでしょう。どんなに悪い時でも最低限の売り上げを上げて維持できることも重要です。それにあなたは面倒見も良かった」

「昔の話だ。おれは教えるなんて承諾していないぞ」

「言ったでしょう、オーリス。あなたは根っからの商人だ。くすぶったままでいいわけがない」

「結局はそれが目的か、シュトライゼ。おれは商いを辞めて十年経っているんだ。今さら出来ることなんてありはしない」

「そう思っているのはあなただけですよ。確かにこの十年で錆ついているかもしれない。だが、それは錆がついているだけで、それをどう落とすかによって違ってくるのではないか? もしかすると前よりももっと動くかもしれない」

「それは買いかぶりだろう。そんなことあり得ない」

「オーリスさん。あたしは人を見る目はあるつもりです」

「それじゃあ今回ははずれだな」

「そんなことはありません」少女はきっぱりと否定し首を横に振る。「あたしはオーリスさんに教えをこいたい」

「ほらね」シュトライゼは嬉しそうに頷いた。「どんなに言葉で否定しようと、エアリィさんには判るのですよ」

「おれの何が判るというのだ?」

「あたしはオーリスさんのことをほとんど知らない。人となりを知るのはこれからになります。でも人としてすぐれた方だというのはわかります」

 少女は一歩も引く気はなかった。オーリスの目を真っ直ぐに見つめるのだった。

「ここまでやって来ておいて今さらおれに教えることなんてあるとは思えないぞ」

「そのようなことはありません。先達の教えは重要です。それにあたしはトレーダーです。ロンダサークの作法を知らなさすぎる。様々なところで知らないうちあやまちを犯しているかもしれない。その失敗をくり返さないために多くのことを学ばなければなりません。地に足をつけての商いをするにはそれが大切なことだと思います。オーリスさんの目から見たあたしは当たり前のことができていないのではありませんか?」

「うっ……」

「どうだいオーリス?」

「……確かに気になることはあったが……」

「それを教えていただきたいのです」

「だから、何でおれなんだ? シュトライゼだって気がついているだろうが」

「いいえ、全然」シュトライゼは白を切る。「わたくしは人のやり方など気にしませんから」

「この嘘つきが」澄まし顔で肩をすくめるシュトライゼに、オーリスは口元を歪め鼻を鳴らす。「トレーダーが、おれたちに教えを請うか?」

 その問い掛けに少女は頷く。

「無知は死を意味する。特に砂漠では」

「ここはオアシスだ」

「どんな人であっても学べることはあります。それにお気づきでしょう? あたしの感覚はどこかずれているはずです」

「トレーダーなら、それでもいいじゃないか。その感性を活かしているからこそ今があるのだろう」

「今まではそれでもよかったかもしれない。どこかでそれでは行き詰ってしまいます。あたし自身だけではどうしても見えてこない部分でもあります」

「お前さんは幾つだ?」

 トレーダーというだけでも驚きなのに、とても子供とは思えない発言だった。

「オーリス、君だって言っていただろう。教えを請うのにプライドはいらない。訊くは一時の恥でしかないとね」

「あたしは子供です。誰にも負けたくないし、負けない自信もありますが、それでもはたから見れば子供です。その事実は覆い隠しようがありません」

「自覚はあるのだな」

「いやというほど認識させられています。ですが、なにをやるにしても早すぎるということはないでしょう?」

「そうだな。この世界は実力主義でもあるのだから、面白いな」

「そうでしょう」シュトライゼも頷く。「なにせマサ・ハルト氏も彼女にぞっこんなのですからね」

「噂では聞いたが本当なのか?」

「事実ですよ。経緯についてはそのうちお話しします。それこそ長く中味の濃い話ですからね。そしてマサ・ハルト氏だけでなくわたくしも含め、コードイック・ドルデン氏やベラル・レイブラリー師がエアリィさんを巡って争奪戦を繰り広げているのですからね」

「そんな有名人ばかり周りにいるのなら、なおさらおれは必要ないだろうが」

 まだオーリスは納得がいかないような顔であった。

「シュトライゼさんはあなたを紹介してくれました」

「彼女は頑固ですよ」

「そろいもそろって、そんなやつらばっかりだな」

「気にかけられているうちが華ですよ」

「それがお前だとしたら全然嬉しくねぇよ!」

「それは諦めてください」

 シュトライゼはオーリスに向かって微笑む。

「それにしても信じられんな。何者なんだよ、この子は」

「エアリィ・エルラドです」

「……そうだったな」深く吸い込んだ息を吐き出す。「判った」

「では」

「ただし、見るだけだ。明日も見に来るが、それで何か気付いたことがあったら、君に伝えよう。それだけだ」

「ありがとうございます」

 少女は一礼すると微笑んだ。


 日差しが強く照りつけ始める。

 陽炎揺らめく石畳をシュトライゼとオーリスは並んで歩いていく。その表情は対照的だった。

「戻らなくていいのか、会頭さんよ」

「ええ、仕事はあなたが言うようにフタさんや事務局の方々にお任せしていますから」

「お前さんは何のためにいるんだ」

「そうですね。しいて言えば、見守るってやつでしょうか」

「おまえさんに、そんなふうに見守られたら、お終いだろうに」

「そうかもしれませんね」

 砂色の空を振り仰ぎ、シュトライゼは呟く。

 まだ人通りの多いメインストリートを二人は影を引きずるように歩いていくのだった。

 沈黙が続くとやけに人のざわめきが耳についた。

「これで満足か?」

 憮然とした声で、再び口を開いたのはオーリスだった。

 シュトライゼはただ前を見て歩いていた。口元は微笑んでいるようにも見えたが、眼鏡の奥の表情はうかがえない。

「まだ足りません。まだまだ」

 しばらくしてシュトライゼは口を開いたが、その声は平たんだった。

「これ以上は何もないぞ」

「いいえ、まだこれからです」

「いまさらおれを担ぎ出して、何をしようというんだ! こんな落ちぶれた抜け殻みたいな人間を引っ張り出して」

 掴みかからんとする勢いだった。

「落ちぶれてもいなければ、空洞でもありませんよ」ゆっくりとオーリスに顔を向けたシュトライゼの細めた眼も口元も笑っていない。「あなたは疲れただけだ。ただ現実から逃げたかっただけだ」

「疲れ? 逃げる? お前に何が判る」

 顔をそむけるオーリスだった。

「判りません。わたくしはあなたではありませんからね。だが、あの時大切なものを失ったのはあなただけでない。それでもわたくしは現実から目をそむけようとは思わない」

「おれはお前じゃない。そんな強さもない。おれをもう巻き込むな」

「当事者でもあったあなたは逃げることは許されませんよ。そもそもあれはあなたが唱えたものだ。そしてそれが商工会の礎となった」

「忘れたよ。そんな大昔の遺物なんぞ。あれがあってもおれは失ってしまった! 大切なものを!」

「スラド熱は誰にでも発症する可能性があった。それはわたくしであったかもしれないし、あなたであったかもしれない。なぜ、とは問わないでほしい。聖霊にさえそれは判らないことであるのだから。だがあれがあったからこそ、失わずにすんだものもある。あれがなければ、今我々だけではなくロンダサークも存在していなかったかもしれないのですよ」

「おれもあの時いなくなってしまえばよかったんだよ」

「いまでも悔いていますか」

「当たり前だ!」

 あの惨状は今でも鮮明に頭にこびりついている。それが目の前にちらついて身動きが取れなくなってしまう。

 震える自らの手を見つめるオーリス、その足元はふらついているようにも感じられた。

「それでも、立ち止まることは許されないのですよ」

「……我の強さだけは相変わらずだな」

「人はいくらいても困ることはありません」

「はあ?」

「優秀な人材が今は必要なのですよ」

「お前のところにいるだろう」

「それだけでは足りないのですよ。オーリス、あなたの経験と先読みの確かさは、このロンダサークに必要なものだ」

「そんなものがあったら、あんな事態にはならなかった」

「被害と病気の蔓延を最小限度に食い止められたのはあなたの行動があってのことだったと、わたくしはそう信じています。わたくしやベラル師が思い付くよりもオーリス・ハウントは数マイル先を行っていた」

「そんなことがあるわけない。あれは間違った選択だった」

 十年前を悔いるように何度も何度も首を振る。

「最善手とはいえずとも、最良の手を打ったのです。誰があなたを責めよう」

「おれ自身がおれを許せないんだ」

「本当にすべてを失ってしまったと思っているのですか? 守りたいものが無くなったというのですか?」

「未練だろうな……なぜおれはここにいるんだろうな……」

「いまさら一人だけ隠遁なんてさせませんよ」

「十年だぞ。いい加減諦めろ」

「わたくしも頑固でしてね。食らい付いたら離れませんよ。それにね、どんなに打ちひしがれようと、最後の一瞬まで人は生きようとあがくものなのですよ」

「何もないんだよ。もうおれにはな。それにあの子がいるだろう。おれなんかよりもずっと出来がいいだろうが」

「あの子は……本当ならわたくしの手元にほしい優秀な人材です」

「だったら、お前が立派に仕立て上げればいいだろう」

「それはできません」

「なんでだ! トレーダーだからか?」

「それもありますが、そうですね。しいて言えばあの子が、ベラル・レイブラリーの弟子だから、ですかね」

「そんなことが関係あるのか? 必要ならどんな手を使ってでも手に入れようするお前が」

「ええ、そうしたいのは山々ですがね。あの子はね。あの天空の太陽よりも輝かしい存在なのですよ。わたくしの我がままだけでは済ませられない。エアリィ嬢はこのロンダサークに必要な人ですからね。汚れ仕事は我々だけでいい」

「よっぽどなんだな」

「ええ、ひと目惚れですよ。どうです、あの子を見て?」

「そうだな……いいんじゃないか。うらやましいかぎりだ。あれだけの活力があればいい商人になれる。おれが教えることなんてありはしない」

「本気でそう思っているのですか」

「教えることがないというのは本当だ。あの年であれだけの商いをできて商品を生み出すことができるのは才能だ」

「商人としては信じられないくらいですよ。アイディアも確かなものだ。トレーダーだからということを割り引いても、エアリィ・エルラドはまぎれもない天才と言ってもいいでしょう」

「だったらそれでいいじゃないか、あとはお前が見守ってやればいい」

「子供だ、トレーダーだという偏見があったとしても、その逆境を乗り越えたエアリィ嬢は順調すぎる。あなたも感じていたのでしょう? 本当の挫折の怖さはあなたがよく知っているはずです」

「挫折は乗り越えてこそ価値があるものだ。だからこそ自分自身の力で解決しなければならない」

「手を貸すことはできますよ。あなたの言葉が大いなる糧になるでしょう」そう言ってシュトライゼは、オーリスの背をそっと押した。「今あなたが言った言葉はあなた自身にもいえることだ。わたくしではあなたの傷を癒すことも真に理解してあげることもできない。だが、それでもなおわたくしは、あなたに手を差しのべますし、つき合ってもらうのですよ」

「勝手だな」

「ええ、これはわたくしの想いでもあるのですから」

 シュトライゼはそういうと振り向きもせずひとり歩きだした。

 立ち止まっていたオーリスに手を振りながら。

「まったくどいつもこいつも勝手なやつらだ」


「いまさらどうしたのですか、お嬢様?」

「オーリスさんのことかしら、フィリア?」

 それは帰り道のことだった。

「そうですよ。なぜ今になって教えを請うのですか? わたしには必要のないことだと思います」

「そうかもね」

 少女はもっともだと頷く。

「それに、あの人である必要があるのですか?」

 精気の無い目で奥から見つめられていたのは怖かった。

「シュトライゼさんや旦那様がいるではありませんか?」

「どうしたの、フィリア?」

「お嬢様らしくないです」

「そうかしら?」

「そうです」

 少女はいつも自信に満ちあふれ、圧倒的なパワーで自らの道を切り開いているのである。

「こういうところだけは、フィリアは勘がいいのよね」

 少女は苦笑する。そして内緒の話としてフィリアに言うのだった。

「あの店を売ろうと思うの」

 その言葉にフィリアは仰天する。少女にたしなめられるが、それでも頭の中が真っ白になり思考が停止してしまう。

「どうして? 誰にです? 急に? それであの人なのですか?」

「わからないわ。本当に助言だけで終わってしまうかもしれないしね」

「やっぱり理解できません」頭を抱えるフィリアだった。「旦那様は知っているのですか?」

「知っているわよ」すでに話はしてある。「ただ、オーリスさんとは簡単には終わらないと思うのよね」

「お嬢様の勘ですか?」

「そういうことにしておきましょう」

 運命とかそういう言葉は使いたくない。

 最初から敷かれた道はないのである。自分の身体で砂漠のようにまっさらな平原を進むようなものなのだ。

「お嬢様がそういうのでしたらいいのですが……」

「本当のことを言うとね、あたしもあの人はなにを考えているのかよくわからないの。なにか秘めたものはあるようなのだけれど、それがまだ見えてこない。でもきちんとあたしのことは見てくれていたのは確かよ。話したいことはいろいろとあったように感じたわ」

「そうだったのですか?」

「それこそ、なんとなくだけれどね。シュトライゼさんのお友達でもあるというのならただの商人ではないでしょう?」

「それもそうですね。でも、残念です」

「なにが? あたしは商いを辞めるとは言っていないわよ」

「えっ! ですが?」

「あきたわけでも、いやになったわけでもないわ。あたしはあの店だけでなくやりたいことができたの。ただそれを始めると続けられないものも出てしまう。あのお店もそう。だからあの店を続けてくれる人を探そうと思ったの」

「お得意様も出来たことですしね」

「そういうことなのよ。やめることは簡単だけれど、今までひいきにしてくれているお客様を見捨てるわけにはいかない」

「そうでしたら」

「あなたはダメよ、フィリア」

「まだ何も言っていないじゃありませんか~」

「言わなくてもわかるわよ。自分が一番弟子なのだからとか言い出すのでしょう?」

「はうぅぅ」

「あたしと商いするのが楽しいのかな? でもあなた一人だったらどうするの? それにフィリアはどうやって化粧品をつくるのか理解できていないでしょう」

「でも、クロッセ先生がいます」

「クロッセはあたしに付き合ってもらうわ。だから化粧品のライセンスもいっしょに売るつもりなの。それには化粧品というものをちゃんと理解してもらわないといけないのよ。それにフィリアもマーサさんから厨房の仕事をまかされることになったのでしょう?」

「そうでした」

「フィリアが店番を楽しんでいることは知っているけれど、いつまでもあたしにつきあわせているわけにはいかないわ。あなたは館に必要なのだから」

「お嬢様……」

「フィリアがどうしても商いをしたいというのであれば、元手を作って独立すればいいわ」

「わたし一人でできることなんてあるのでしょうか?」

「知らないわよ。それこそ自分で考えなさい」

「それにわたし一人では無理ですよ。お嬢様のような商才はありません」

「そうかしら? あたしの尻馬に乗っていたって面白くないわよ。それにね、自分を卑下するものではないわ。フィリアにだって出来ることがたくさんあるはずなのですからね」

「お嬢様やシェラ様を見ていると、わたしなんて」

「人をうらやむことなんて誰だってできるわ。あたしだって、シェラのようになりたい。ベラル師のようになりたい。マサさんや親方を見ているとうらやましくなる。でもね、あたしはあたし自身にしかなれない。どんなに頑張ってもあたしはやっぱりあたしでしかないの」

「でも、お嬢様は負けないくらいいろんな事をなさっています」

「それはね、あたしだからよ。あの人たちのようになれないのなら少しでも近づけるように頑張るわ。あこがれたり、ただながめているだけなんてあたしにはできない」

 あたしは立ち止まっていられないのかもしれない。少女は自分自身の言葉を聞きながらそう思った。

「誰かのようにはなれないかもしれないけれど、なにかを成すことができるのよ。可能性は無限大なのだから。あとは自分がなにをしたいかよ。あたしなんかになるよりもあなたはフィリア自身になればいい。何者でもないあなたにね」

「はあ……」

「あたしだって、何者でもないあたし自身になろうとしているのだから」

 少女はそう言って笑うのだった。

 陽炎揺れる石畳を歩いていくエアリィに、フィリアは煙にまかれたような気持ちだった。



 4.



 地を焦がすように照りつけていた太陽が地平の彼方に沈むと、その熱気も闇に吸収されていくかの如く下がっていく。

 辺りが闇に包まれて数時間もすると、外を出歩く者はほとんどいなくなる。

 静寂の中に冷気が忍び寄り、オアシスの夜はひっそりと過ぎていくのだった。

 少女は商いのあとも忙しく動き回り、ようやく館に戻るとヴェスターと二人で夕食をともにしていた。

 時折り給仕に執事が現れるだけで二人だけの時間だった。

「今日は何かあったかね?」

 今日の出来事を話す、それはいつものやり取りでもあった。

「商いはいつもの調子でした」

「あとはベラル師のところに行ってか、毎日よく続くね」

 そのバイタリティには呆れるばかりだった。

「今日はマサさんの工房にもよっていますよ」

「なるほど。マサさんとの話し合いは成果があったかね?」

「あったような、なかったような……やってみないとわからないというところが本音です」少女は肩を竦める。「本当に計画を実行に移すのはむずかしいです」

「ひとりですべて出来るのなら、そう難しいことはないのかもしれないが、話が大きくなればなるほど時間も労力もかかるものだよ」

「頭では理解しているつもりなのですが、なかなかもどかしいです」

「そういう顔をしていたよ」

「表情に出ていましたか?」

「少し難しい顔をしていたかな」

「今日はシュトライゼさんに紹介していただい方がようやく訪ねて来てくれました」

「あの話かね? シュトライゼ君の紹介だ。それは一筋縄ではいかなそうだね」

「やはりそう思いますか」少女は苦笑する。「ヴェスターはオーリス・ハウントとい方をご存知ですか?」

「オーリス・ハウント?」ヴェスターはその名を記憶の底から呼び覚まそうとする。「名は聞いたことがあるな。かなりやり手の商人であったが、今は店をたたみ引退していたのではなかったかな?」

「本人はそう言っていました。ヴェスターは引退した理由を聞いたことありますか?」

 その問いかけにヴェスターは首を横に振る。

「そのオーリス・ハウントという人物が、シュトライゼ君が紹介してくれたという人なのかい? なるほど、君は頼りにされているのだな」

「意味がわかりません」

「ではその意味を探そうではないか」

 謎掛けでもしているように彼は言うのだった。

「ヴェスターも興味がおありなのですか?」

「そうだね」

 少女が関わろうとしていることだからとは彼も口にはしなかった。

 ふいに会話が止まる。

 執事が皿を片付けお茶を運んできて、二人の前にカップを置く。

「ねぇ、ヴェスター」先に口を開いたのは少女だった。「あたしはここに……ロンダサークにいてもいいのかな?」

 少女のその問い掛けにヴェスターは一瞬驚きの表情を見せる。

「なぜ……そのようなことを訊くのかな?」

「いろいろと考えてしまうことがあります。あたしはいつまでここにいられるかなと。ヴェスターなら知っているかなと思って……、父さん、いえ、頭目とあたしのことは話をしているのでしょう?」

「君のことは話をしているよ」

「それで、なにか言っていた?」

「戻りたいのかね?」

「そ、それは戻りたいわ」少女は口ごもる。「でも……」

 それをヴェスターの前で口にすることが少女は怖かった。

「君は君の判断で、ここにいればいい」

「あたしが決められることではないでしょう」

「たとえそうだとしても、君自身の心は君のものだ。最終的に心のあり方を決めるのは自分自身だからね」

「ずるいですね」

 少し拗ねたように少女は口をとがらせる。

 時折り見せる子供らしい表情が微笑ましくもあった。

「私としてはエアリィには居てもらった方が助かるのだがね」

 今の彼の役割を少女に譲りたいと思っているのは事実だった。

「あたしはヴェスターの役に立っていないわ」

 彼のように荷の仕入れや取りまとめ、そして取り引きをすることはまだできない。

「そう、今はまだ無理だな」

「だったら、そのようなことは言わないでください」

「将来的に私の仕事を引きついでほしいというのは本当だよ。君にはその才能があるからね」

「本当に? ありがとうヴェスターにそう言ってもらえるとうれしいな」

「だが、君はそう遠くない未来にここを出ていくことになるだろう」

 その言葉に少女は体を一瞬震わせる。

 トレーダーの規律を乱し、その罰としてキャラバンを下ろされロンダサークに流刑されたかのように置き去りにされた。ファミリーの許しが出るまで、無期限でだった。

「ファミリーの許しが出るのがいつなのかは私にも判らない。次の寄港の時に許されるかもしれないし、まだ先のことなのかもしれない」

「次に?」

「その可能性もあるということだよ。君の処罰が永劫続くわけではない。戻ることを望んでいるのだろう?」

「ええ。あたしはトレーダーですもの」

「そうは言うものの、ベラル師や親方、工の頭もエアリィにはロンダサークに居てほしいだろうし、それを望んでいるだろうね」

「そうなのかな?」

「私もそう願っているよ」

「あたしはなにかの役に立っているのかな……」

「自信をもっていい。そして誇りに思うべきだ。君は誰も成し得なかったことをロンダサークでやってのけているのだからね」

「……そんなことはありません」

「しかし、一方で私は君がここにとどまり続けるべきではないと思っている。エアリィにはもっと広い砂漠を見てほしい。ロンダサークだけでなく多くの人々と出会い、そしてたくさんのオアシスを君自身の目で見て感じとるのだ。そこで様々なことを吸収して来てもらいたい。今のエアリィなら広い視野と心で他のどのトレーダーよりもオアシスを見聞きできるはずなのだからね」

「できるでしょうか?」

「君自身が望むならね。そこで得た知識や体験を私達だけでなくもっと多くの人に伝えることが君には出来るのではないかとね」

「あたしは、あたしがそのようなことができるとは思えません」

「だが、今のままで終わるつもりはないのだろう?」

「立ち止まるつもりはありません。あたしはこのままでいたいと思わない」

 それでもなにができるのか、本当に成長できるのか不安は少なからずあった。

「君は何者にもなれるだろう。それを望むなら」

「あたし以外ものにですか?」

「エアリィはエアリィだよ。人として変わることはないだろう。ただね、トレーダーだけではなく、商人にも長老にも君はなれるのだよ」

「あたしはトレーダーです」

「これは私の希望であって戯言だよ」

 ヴェスターは笑った。

「からかわないでください」

「これを妄想ととるかは君次第だよ。それに君は生き方を決めているではないか」

「えっ?」

「誰も未来のことなんか判らない。そうだろう? ならばエアリィ、君のやるべきことはなんだ?」

「悔いなく生きること」

 後悔はしたくないと、少女は迷いなく言った。

「そういうことだ。気の済むまでロンダサークで出来ることをやりなさい」

「できること……か」

「君はまた何かやりたいことができたのだろう? その目標に向かって突き進めばいい。時間は貴重だ。立ち止まっている時間は君には無いのだからな。刻一刻と姿を変えていく砂漠のように」

「ええ、やりたいことがたくさんあります。ありすぎて困るくらいです」

 いい笑顔だった。

「いろいろとやってみるといい。それが良い経験になるし、生きる糧になる」

「そうするつもりです」今の自分に満足することなく、前を向いて進んでいきたい。どんな時にも。「あたしは負けたくない」

 少女は拳を握りしめて不敵に笑う。

 その言葉にヴェスターはただ頷くのだった。


 はきだした息とともに煙草の煙が目の前で揺らめく。

 ヴェスターは背もたれに体を預けぼんやりと紫煙の流れを眺めていた。

「どうしたのですか旦那様?」

 執務室に入って来たマーサはティカップをヴェスターの前に置きながら訊ねるのだった。

「やあ、マーサ。私は今どういう顔をしているのかな」

「お優しい顔をなさっていますよ。何か良いことが御有りのようですね」

「ああそうだね。嬉しかったよ。あの子がね『いつまでここにいてもいいのか』と訊くのだよ」

「いつまでも居ていいに決まっているではありませんか」

「ああ、その通りだね」ヴェスターは頷く。「あんなにここにいることが嫌でたまらなかったあの子が、そう言ってくれたことが嬉しくてね。マーサ」

「まあまあ、そうですね。本当に喜ばしいですね、旦那様」マーサの顔もほころぶ。「そうでしたかお嬢様が、そのようなことを」

「ああ」小さくではあるが何度も頷くヴェスターだった。「ふさぎこみあれだけキャラバンに戻りたがっていた。そして自分の殻に閉じこもっていたあの子が自分の力でオアシスを歩き始めてくれた」

「あの頃、私にはお嬢様がなぜそこまでふさぎ込んでいるのか、その理由がわかりませんでした」

「そうだな。それは我らトレーダーの生き様に起因するのだからな。私もオアシスの人々のことが理解できなかった」

「それでも旦那様は私達を受け入れてくれました」

「そこに辿り着くまで時間がかかったがな」

「その時間が旦那様の心の内を解決してくれたのでしょうね」

「どんなに隔たりがあろうとも理解できると思いたい。だからこそあの子にも克服してもらいたいと願った。そして気付いてほしかった。トレーダーとしてオアシスを理解する意味を」

「お嬢様はロンダサークでの自分を見つけてくれたのですね」

「そう思いたいな。もともとオアシスとトレーダーや砂漠を隔てるものはなかった。エアリィもそれを判ってくれた」

「旦那様は、子供を見守る父親のようですね」

「私が?」

 ヴェスターにはその言葉の意味がすぐには理解できなかった。

「そうですよ。血はつながらずともお二人は親子なのですよ」

「私は家庭をもったことはない。マーサが言っていることは理解できない」

「家族とは理屈でわかり合うものではありませんよ」

 マーサは苦笑する。

「もともとトレーダーはひとつの運命共同体、ファミリーだ。巨大な鋼鉄の塊が家であり、砂漠を庭として暮らしてきた強い絆をもった家族ではあるが……」

「絆は家族だけに出来るものではありませんよ。ひかれ合う気持ちや相手を思いやる心から生まれてくるのだと私は思っています。私達のように生まれも育ちも違う者達がこうして語り合えることが絆の始まりであるのではないでしょうか」

「私はトレーダーとして先達としてエアリィを導いてあげなければと思っただけだった」

「たとえ始まりはささやかなことであっても、それがきっかけであり始まりであるのでしょう。それが無ければ何も始まらないのですから」

「そうだったな」

「お嬢様もですが、旦那様も以前とは比べ物にならないくらいよく笑い、活力に満ちていらっしゃいます。そんな旦那様だからこそお嬢様ものびのびと下町を駆けぬけていっていらっしゃるのだと思いますよ」

「ありがとうマーサ。私がここにいる意義はあったのだな」

 大けがをして元のように身体を動かすことができず失意のままキャラバンから離れ、彼はオアシスで暮らすことになった。彼自身も異邦の地で生きている意味を探し続けていたのかもしれない。

「なにを言っているのですか、旦那様。誰の人生にも無意味だったものなどありませんよ」

「そうだろうか」

「私はそう信じています。生きてきた軌跡とその経験が人の糧になるのですからね」

「ああ、そうかもしれない」

「旦那様もお嬢様も私どもにとって大切な家族です」

「嬉しいね。そうすると、マーサは私やエアリィの母親のようなものだね」

「ええ、そのつもりですよ」マーサは笑う。「お嬢様には健やかに育ってほしい。それは館の全員の願いでもあります。お嬢様の元気が私達にも活力をくれるのですから」

「私もそれは同じだよ」

 ヴェスターは目を細める。

「それでもお嬢様はいつかこの館を出ていかれるのですね」

「ああ、あの子にはもっと広いガリアを見てもらいたい」

「それが必要なのですね、お嬢様には」

「あの子はトレーダーだからな。このままというわけにはいくまい。それがいつの日になるか判らないが、覚悟してほしい」

「寂しいですね。ですが、子は育つもの。同じ場所にとどまり続けるよりも前へと進むことがお嬢様をもっと大きくするのだと思いたいですね」

「ああ、あの子はもっと大きくなる」

「楽しみですね。成長なされたお嬢様を見るのは」

「どんな姿を我々に見せてくれるのやら」

「お嬢様のことです。想像できませんね。ですが、その楽しみがあるからこそ、私達はお嬢様を送りだすことができます」

「マーサは強いな」

「そうですよ。私は母親ですから。それにその時が今生の別れというわけでないでしょう? 私は成長なさったお嬢様とお会いできるのが楽しみで仕方ありませんよ」

「私もだよ」

「その日まで私はお嬢様を見守り続けることでしょう」

「よろしく頼むよ」

「旦那様もですよ」

 マーサの言葉にヴェスターは微笑み頷くのだった。

 会話は途絶え部屋に静寂が戻る。

 その中で二人はそれぞれに少女のことを考えていたのかもしれない。

 ヴェスターはお茶を飲み干すとゆっくりと立ち上がり寝室へと入って行くのだった。



 〈第二十一話了 第二十二話に続く〉


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