第14話 イメージすれば、叶うよ

 舞火の手元のアイスコーヒーの結露が、ひた、と音を立てて落ちた。

 彼女はさっさとノートPCを閉じると、あたしのトレイに手を伸ばして勝手にナプキンを取った。

 スラックスに落ちたらしい水滴を、おさえるように拭いている。

 伏せられたまつ毛がきれいにカールされているのを、あたしはバカみたいに見ている。


「あたしと話したいことって、なによ」

「ん〜? 聞きたいことがあるなら先に答えるけど?」


 ないよ。と言おうとして、思い直した。

 フルーリーのカップをトレイの上にわざと乱暴において、うつむいたままの舞火を睨みつける。


「アッキちゃんにはもう近づかないんでしょうね?」

「もちろん。あたしが興味あるのはいちご大福ちゃんだけ。あ、もうひとりいたかな?」

「もうひとり?」

「毒虫ちゃん」


 やはり、と思った。

 アッキちゃんの周りを探っていたなら、いちご大福よりもむしろ毒虫に先に行き当たるはずだからだ。


「なんで二つのアカウントが一緒だって分かった?」


「そんなの簡単だよ? 現れた時期も近いし、雰囲気が変わった時期も近い。例の事件を挟んで。それに、最近はどっちもあまり活動しなくなってる。それに、……ふふ、空の写真なんか上げるようになっちゃって、恋する乙女だよね〜? 空だけ上げてるつもりでも、映り込みには気をつけたほうがいいよ? 浮かれちゃって、かわいいんだね?」


 上目遣いに、舞火が言う。

 だからその疑問形をやめろ! と叫びそうになる。頬が赤くなるのが分かった。

 黒歴史絶賛更新中ってことなんだろうか。だれだあたしにSNSなんかあたえたバカは。

 ……あたしだ。


「あー、だめだ。あたしってほんとバカ」


 がっくりきたあたしはついそう呟いて天をあおいだ。背骨にパイプむき出しの椅子の背もたれが当たって痛い。


「まあ若いしそんなもんじゃない? いいね〜、恋してるね〜? で、アッキはもうすぐ復帰なんでしょ。不安?」

「不安だよ。だって――」


 そこまで言いかけて、あたしは固まった。

 舞火は何も知らないはずだ。だって、アッキちゃんは、元カノには話していないようなことを言っていたんだから。


「だって?」

「だって、休養明けなんだから、心配しないファンの方が少ないでしょ。推し変した人はどうだかしらないけど」

「ふうん。まあ、それはそうだね?」

 

 にこにこ笑いながら同意を返す舞火を見ていると、無性に腹が立った。

 今度こそ席を立とうとしたときだ。

 舞火があたしの右腕を掴んだ。ひやりとした水滴がついて、不快だ。


「なに?」

「アッキのこと、本気で好きなんだね? ねえ、好きを貫くためにはなにがいると思う?」

「なにって、真剣さだよ。あたしはアッキちゃんに対して真剣だもん。それで十分」


「ほんとうに、十分? 想像して? 復帰してステージに立つアッキ。チェキの列にならぶファンを見るアッキ。どんなファンが近づいてくる? ステージに水を撒いたやつみたいなのが、また来ないとも限らないけど」


「……なにが、いいたいの?」


 舞火の手の力は強かった。腕に指が食い込んで、跡がつきそう。


「守らないとだめだよね? あなたは本当はわかってるよね? アッキへの好きを貫くには、守るための力がいるって。アッキがアイドルを続けるなら余計にそうだよね?」


「そのくらい分かってる。あんたに言われるまでもない」


「なら良かった。じゃあ、どんな力が欲しい? アッキを守るために。イメージしてみて? イメージすればきっと叶う。いちご大福じゃなくて、毒虫の方かな? 毒虫はどんな虫かな? 私が想像したのはね、トゲトゲの毛虫。とってもグロテスクなの。触ると皮膚がただれるの。でも地面を這っているだけだから、簡単に潰される。それがある日さなぎになる。さなぎからは、どんな虫が出てくる? イメージすれば、叶うよ」


「なにを言ってるのか、全然わかんない! 疑問形やめてって言ったはずだし! もうホントに行きます! さよなら!」

 

 腕を振り払って、店を飛び出す。

 八月の日差しが、日に焼けはじめたあたしの腕に刺さる。産毛が金色に透ける。


 手には舞火の指の跡がついていたけど、これはアッキちゃんの部屋にたどり着くまえには消えそう。


 念のため振り向くが、舞火が追ってくる気配はない。

 珍しい赤い蝶が飛んでいて、舞火の声が思い出される。


『さなぎからは、どんな虫が出てくる? イメージすれば、叶うよ』


 冗談じゃない。

 バッグから折りたたみ傘をとりだして、蝶に向かって振り回す。

 めちゃくちゃに振り回しているうちに、羽根に当たったらしい。蝶はおかしな軌道をえがきながらどこかへ飛び去って行った。


 なんだか嫌なものを見たって気がした。周りを見回してから、アッキちゃんの部屋へとまた走り出す。

 今度は蝶がついてきませんように。




「時間ぎりぎりに来るの、珍しいね。いつもはもっと早く来るのに」

「ぴったりに来て文句言われると思わなかったけどね」


 インターホンを鳴らすと、寝起きのままのアッキちゃんが玄関に居た。

 あたしはそっと周りを確認して、誰もいないことを確認して中に滑り込む。

 先週資源ごみを少し出せたから、玄関はこころなしかスッキリしている。少なくとも、二人で玄関にいても畳んだダンボールの山を崩さないで済むくらいには。


「で、今日はなんのお呼び出し?」

「用が無くても呼んでいいでしょ。しいて言うなら、来週の復帰まえに遊びに行きたかった。復帰したら、またライブとイベントで忙しいもん」


 唇を尖らせて、あたしのTシャツの裾をつかむアッキちゃんはかわいい。アッキちゃんがかわいいことをするたびにそんなことを思っていたらきりが無いんだけど、かわいいものはかわいいから仕方ない。


「そうだね。そういえば、一緒に外で遊んだことなかったもんね」

「そうそう! あたし、戴天たいてんくらいとしか遊んだこと無いんだよね」

「また戴天!」

「友だちって他に居ないんだもん。でも戴天も彼氏と仲悪いときしか絡んでくれないし」


 そうなんだ。

 さらっとメンバーに彼氏が居ることをあたしにバラしてるけどいいのだろうか。まあ、あたしが特別な友だちだから信用してるってことかなあ。

 ふふ、そっか、戴天に彼氏ね。じゃあアッキちゃんとは本当に営業百合ってわけか。


「ねえ、戴天に彼氏いるって聞いて安心したでしょ。すぐ嫉妬するもんね、顔に出るから、分かりやすい」

「そんなこと、あるけど。じゃあ早く出かけよ! 着替えるでしょ?」

「着替えるし、メイクもするよ。……あ、そういえばあたし、メイク前と後の顔見られたことないかも。恥ずかしいな」

「いいじゃん、見せてよ」


 なんて風に甘い空気のあたしたちは、短い廊下のゴミを踏みしめて、ぺきぺきがさごそ、おかしな音を立てながら部屋へと進んでいった。

 舞火と会ったって話は、なんとなく切り出す気になれなかった。

 どう話しても、アッキちゃんを不安にさせるだけだからっていうのが、あたしがあたしに与えた言い訳。


 これ以上汚くできないでしょ、ってくらい化粧品の粉で元の色が分からなくなったポーチから取り出した数々のコスメで、アッキちゃんの顔がどんどん出来ていく。

 左頬の傷がカバー力抜群のクッションファンデーションで塗りつぶされていく。

 なにもなかったみたいになる頬が、かえって悲しい。


 アッキちゃんの痛みも恐怖も、こうして塗り込めて、なんでもないみたいな顔をしないといけないんだって思うと、喉に空気がつまったみたいになる。

 それって、ずっとそうなのかな。これまでもそうで、これからもそうなのかな。


 目の周りを囲んで、クマを強調するみたいなアイメイク。憧れていたかっこいいアッキちゃんの強い目元。

 リップは赤紫。

 それから、大きな黒のカラーコンタクト――。


「まって! ねえ、今日は髪と目、そのままで出かけない?」


 思いつきで出た言葉だ。

 アッキちゃんは驚いた顔で、コンタクトのパッケージに爪をかけたままあたしを見た。


「なんで?」

「なんでって、外、暑いし? ウィッグダルいって言ってたじゃん。コンタクトもめんどくさいって言ってたじゃん。目も髪も、そのままできれいだと思うの。今日の日差しに透けるアッキちゃんの髪も目も、見たい」


 これは本音。

 初めてアッキちゃんの素の姿を見たときには、驚きが先に立って、薄っぺらい励ましみたいになってしまった。

 同じ言葉でも、いまのあたしなりの本気をこめたつもりだ。他に理由がないでもないけど、それは横においておくとして、ごまかしでもお世辞でもない。

 でも、アッキちゃんは悲しそうに首を振った。


「あたしはまだ、そこまであたしを認められない。毒虫ちゃんの言葉を疑うわけじゃないけどね」


 そう言って、アッキちゃんはコンタクトレンズのパッケージを開いた。

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