第214話 土と蜘蛛(2)

 実菜穂みなほの心の中に、この場に漂っている感情が伝わってきた。


(‥‥‥これは、人の感情なのかな。恐怖、絶望、悲しみ、なんだろう。あそこにいるのは人なの?)


「みなも、正面の舞台の右側にある扉。あの奥から感じるものがあるよ。あそこにいるのは人なの? 呪って言ってたけど、あそこにいる人が呪の根源なの?」


 実菜穂が扉からの空気を敏感に感じている姿を、みなもが見ていた。


「実菜穂、お主の感は、儂とよく似ておる。儂の巫女となったのは、人として儂に一番近いからじゃ。巫女となったお主には、儂の力がある。よいか、その感じている空気を、糸を手繰たぐるるようにそっと追ってみよ」


 みなもに言われるまま、実菜穂は感じている空気を、糸をゆっくりと手繰るイメージで追っていった。感情の空気を追っていくと、扉の奥に潜む者にたどり着いた。


(これは‥‥‥!)


 実菜穂の脳裏に潜む者の姿、記憶、感情、想い全てが一気に入ってきた。その情報量と感情の重さに、実菜穂の頭はすぐに一杯になってしまった。


「ああああああああっ!」


 実菜穂の瞳孔どうこうが大きく開いていった。目の前には、恐ろしい怪物が襲い来るような映像が浮かび上がり、いまにも飲み込まれてしまうという恐怖で、身体が凍りついていた。


 ピッ!


 水滴すいてきが弾かれるような音が、実菜穂の耳を届くのと同時に、手繰っていた空気を、みなもが青色のオーラを纏わせた手刀で切り離す姿が見えた。


 感情の空気が実菜穂から切り離されると、意識はもとに戻った。


 ハァ、ハァと荒くなっていた呼吸が落ち着き、実菜穂の顔にも色が戻ってきた。


「みなも、いま私、どうなっていたの?」

「お主は、扉の向こうに潜む者の全てを受け入れようとしておった。危うく呪まで一緒にのう。お主らしいと言えば、それまでじゃが、飲まれてしもうては、元も子もないでのう」


 みなもは、実菜穂の頬を撫でながら、瞳を覗き込んだ。


「よいか、実菜穂。これが儂の力の一つじゃ。お主の瞳の前では、人はおろか、物の怪、神でさえ、嘘偽りはつうじぬ。お主も経験があるじゃろ」

「あっ、水波野菜乃女神みずはのなのめかみの神社‥‥‥」


 実菜穂は、以前に訪れた水波野菜乃女神の神社で、自分の心のうちまで全てを見つめられた経験を思い出していた。水波野菜乃女神は、みなもの姉であり、姿はいまのみなもが、さらに美しく成長したというのがピッタリであった。その水波野菜乃女神に、実菜穂は自分の全てを見通されたのだ。


「この力は、母さと姉さから受け継いだものじゃ。お主が見ようと思えば、その者の記憶、秘めていること、考えていること、全てを見通すことができる。知ろうと思えば、その者の全てを知ることができるのじゃ。じゃが、気をつけねば、さっきのお主のようにその者の想いに飲み込まれることもあるでな。知ることが、必ずしも良いことではないのじゃ。まあ、儂は心に土足で入ることを好まぬでな、使うことが殆どないのじゃが。力は使い方次第じゃ」


 みなもが優しく頬を撫でながらくと、実菜穂は素直な眼でゆっくりと頷いた。


「うん。分かるよ。みなもは、昔から私にもそうだったもんね。知ろうと思えば簡単に知ることができるのに、無理に心に入ってくることはなかった。私も、あまりこの力は使いたくないな」

「じゃが、必要な時もあるでな。知りたくなくとも、知らねばならぬこともある。それが、巫女としての性じゃ。気をしっかり持たねば、飲み込まれるぞ」


 みなもの優しく触れる手と言葉が、自分を護り気遣っていることを、実菜穂はしっかりと感じた。


「うん。さっき、私が使った力で、あそこにいる者が分かったよ。悲しみと、怖さに震えているがいる。あれは、人だよ。みなも、救えるかな」

「かの者の肉体は、もはや朽ちておる。じゃが、御霊は捕らわれておるが、救うことができる。御霊が救われれば、ユウナミの神のもとに戻れる。実菜穂、弓を出すのじゃ」

「はい」


 実菜穂が、くろがねの弓を手にした。


「儂が、かの者をはらうでな。万が一、この建物を出ようとすることがあれば、撃つのじゃ」

「はい」


 実菜穂は躊躇ためらいなく返事をした。それは、撃つことを覚悟しての返事ではなかった。みなもが、必ず祓ってくれる。必ず助けてくれるという信頼の返事であった。


「出てくるぞ」


 凛とした声がステージの奥に届くと、一気に扉が開く音が体育館内を震わせた。


 黒い大きな影が現れた。影は思いもよらない速さで、みなもの方に飛び出してきた。

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