第2話
(2)
「いや、暑いですねぇ」
もじゃもじゃ頭の縮れ毛を手でくしゃくしゃにすると首筋から一筋の汗が背中を伝っていった。
汗が背に背負ったリュックと背中の隙間に吸い込まれたのか、縮れ毛の若者はリュ下ろすとシャツを背の中に風を入れ、汗を引かせようとバタバタとシャツを引っ張る。それから目の前の巨木を見上げると、その巨木の下で立ち止まった背の小さな老人に声を掛けた。
「いやぁ、見事な百日紅ですなぁ。実にこれ程の巨木になるのにどれ位の歳月が掛かることか。いやねぇ僕、ほらあちらの地蔵祠の方から歩いてきたんですけど。段々とこの百日紅が見えて来るんですが、その迫力と言ったら何というか、こう…心に迫るものがありますよ。思うにこの巨木を最新の映像で撮ったらどれ程の感動が動画サイトで起きるか…」
若者は巨木を見上げて独白めいた感想を言うや、リュックを開けて水筒を手に取ると百日紅の下にあるベンチに腰掛けて一気に喉へ流し込んだ。
老人は若者へ語ることなく、立ったまま沈黙している。
若者は喉を潤しながらちらりと横目でそんな老人を見る。見れば老人は茶色の何処にでもある様なズボンと肌着の上にシャツを着こみ、作業帽子のキャップの鍔の下で若者を見ている。
だがその眼差しはどこか探る様だ。まるで土地の者以外の者を警戒する、そんな眼差し。
しかし若者はそんな視線を気にする風もなく口を手の甲で拭うと水筒をバッグに仕舞い、返って人懐っこい笑顔を老人に精一杯向けた。
「現在の佐賀と言う土地はは遥かな古代、伊都国や周辺の諸国、まぁ倭とも言える連合国家とも交流があった地域であるのは吉野ケ里遺跡などでも証明されていますし、また時代が下れば竜造寺氏と言う強い戦国大名を輩出してます。もしかしたらこの古道もそんな歴史上の偉人が通ったかもしれません」
それから若者は首筋をぴしゃりと手で叩いた。それから手を広げて掌を見た。
首筋を叩く音が響いた時、老人は僅かに身体をビクリと反応させた。
この若者意外と背丈がある。だから手が無造作に動いて首筋を叩くとその音が意外と反響して、老人の鼓膜奥に響いたのだ。その様子を見て若者がはにかむ。
「いやいや、すいません。大きな音で驚かせて。おや、見てくださいよ。蚊に噛まれてしまいました。いけないですね、此処に長居は。きっと長居すると蚊に噛まれちゃって明日は全身かゆみでたまらなくなります」
言うと若者はリュックを背負い、腰を上げた。そして立ち上がりながら彼は老人に言った。
「いつも、此処を通られるんですか?」
先程の心の驚きで老人の沈黙する心の蓋がずれたのか、老人は僅かに咳込むと短く言った。
「…毎日な」
「毎日?」
若者は驚いて目を剥いた。いくらこの峠道が素晴らしくても毎日は歩けまい。ましてやこの老人、先程歩くのを見ていたが杖は無く、跛行しているではなかったか?そんな心の疑問が顔の表情に現れたのか、老人はそんな若者の心の奥底の動きを機敏に読み切ると言った。
「可笑しいかね?これでも私は信心深くてね。身体の事はその為には惜しまない」
「信心深い?」
若者は反芻する。一拍の間を措いて彼は老人に問いかける。
「一体何をです?こんな山奥で」
老人は若者の問いかけに、僅かに心を動かして何か言おうと唇を動かしたが、固く口を閉ざすと足を動かして歩き始めた。
「まぁ良いじゃないか、そこから先は個人の崇拝の事。さぁこの足だから速くあの地蔵の所まで行かないと陽が暮れてしまう」
そう言って老人が若者の前を過ぎようとした時、百日紅の花弁の影が老人の頬に落ちた。その影ははっきりと若者の目にも見えた。見えて若者は老人に言った。
「それはつまり――小暮万次さんが掘られたあの木地蔵をですか」
その言葉を老人が聞いた時、頬に落ちた百日紅の影が動いた。それはゆっくりとまるで蛇の様に…いや山の木葉の闇から落ちて来た山蛭の様にと言った方がいいかもしれない。それはぬめりぬめりと音鳴き音を立てながら影が手の様に伸びて来て、若者の首を掴み、やがて若者の耳奥に老人の声が聞こえた。
それは血を吸わないと生きてはいけない山蛭のような執念を含んで。
「あんた…万次を知っているのか?」
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