9 私を壊して

「ヘディの顔が見えないといけないから」

 そう言って彼は私を隣に座らせる。

 月明かりがあるから側にいれば顔が見えるだろう。


 すぐ隣に座った男は肩に手を回す。身体が近い。

「なかなか君の側に近付けなくて」

 私の髪を指でくるくると弄びながら、身体を寄せて耳に囁く言葉。

「ヘディの親衛隊が俺を邪魔するんだ」

「そうなの?」

 私に親衛隊なんていたかしら。ミシェルとコーデリアの事なのかしら?

「やっと二人きりになれたね」

 しっかりと身体を引き寄せて抱き締められる。


 逃げた方がいいかしら。でも反対に手がおずおずと彼の身体に触れる。ビロードではないけれどほわりと温かい。

「獲物は逃がさない質なんだ」

 身軽に近付いて、人が見たら何と思うだろう。

「男と見れば色目を使う」とか「男を惑わせるふしだらな女」とかまた言われるのかしら。身体が震える。湖の上だから寒いのかしら、怖いのかしら。


「お妃が3人、側室が5人、恋人は沢山か──、まったく」

 見上げると直ぐ近くに顔があった。闇に紛れそうな群青の瞳。

「君はその内のひとりがいい? それともその上に君臨するかい?」

 君臨ってどういう事? それは私が決める事なの?

「あなた次第だわ」

 見知らぬ異国、それはこの世界と同じ。私は何も知らなかった。いきなりゲームオーバーになって戻された。


「私はただの男爵家の庶子、母親はメイドだったの。私は何も持っていない」

 群青の瞳を見ていると無性に言いたくなった。吸い込まれそうな瞳に何もかもさらけ出したくなる。多分これは彼の特技だろう。


「そして厄介な事に、何度も断罪されて、何度も繰り返しているの」

 母は亡くなる時に私に魔法をかけたんだわ。それとも呪いかしら。

「何度やり返してもゲームオーバーなの。私はゲームの世界に居るの」

 いつまで経っても辿り着けない未来。

 抜け出したい、ここから。でもどうすればいいのか。


 ちょっと苦しくて誰かに聞いて欲しくて話してしまった。こんな話なんか信じられないと思うんだけど、彼は言ってくれる。

「素敵な経験だ、君は何度も航海して、俺の所に辿り着いたんだ」

「そうかしら」

 自信家なのか、顎に手を添えて唇が笑う。暗い瞳がじっと見ている。

「お妃が3人、側室が5人、恋人が沢山いる人に?」

 笑ってる──、婚約者がひとりいても私は断罪されるのに──。


「どうしたんだい、辛そうな顔をしている」

 そう、私は辛いの、囁く愛も、育む愛も見つけられない内にゲームオーバー。やり直しが怖くて、怯んで立ち竦んでいる。何処にも行けなくて──。


「もし、ゲームが終わっても、何度でも会える?」

 またゲームオーバーになるのかしら。そしたらどうやってこの人と会おう。

「君とやっと会えたんだ、離す訳がないだろう」

「離さないで」

 ゲームオーバーの文字がまた浮かぶのかしら。身体が少し震える。

「大丈夫、離さない」

 訛りもなく言い切る男に縋り付いた。




 最初のキスは唇を軽く啄ばんで離れた。目を上げて男を見るとじっと見透かすように見つめる。顎を持ち上げられてまた啄ばまれる。顎やら鼻やら頬にそして掠めるように唇に──。

 まるで追いかけっこのように戯れながら、だんだんキスが深くなる。

 身体が熱くなってナジュドにしがみ付いた。


 まだゲームオーバーにならないわ。

 抱き上げられてボートを下りた。いつの間に桟橋に?


 桟橋の付け根には立派なボートハウスがあって、内部には部屋がいくつか並んでいる。その一つにナジュドは私を運び入れる。綺麗に整えられた大きなベッドにそっと私を下ろした。



「ナジュド……」

 掠れた声が出た。起き上がろうとしたけれどベッドに縫い付けられる。

「俺のものだろ?」

 ナジュドも掠れた声で聞いて来た。

 私はここでナジュドに食べられるのかしら。

「優しくして欲しい……」

 でも熱くして、猟犬に貪られるみたいに食べられたい。

 ゲームオーバーはその後でいいわ。


 手を伸ばしてナジュドを引き寄せ自分から唇を重ねた。

「ヘディ──」


 今だけ、明日がなくてもいい。

 貴方の理性を蕩かして欲しい。

 めちゃくちゃにして、今の私を壊して欲しい。

 今だけでも愛して──。


 でもそれは結構無謀な事で、後で痛い目を見るのは私の方で──。



  ***



 翌朝、目が覚めると側に日に焼けた男の顔があって、長い鈍色の髪の隙間から嬉しそうに私を見ている群青の瞳と出会った。

「ナジュド」

「おはようヘディ」

 男は私を抱き寄せてキスをする。

 まだゲームオーバーになっていない?


 起きようとして起き上がれず、ベッドの中でぐったりとして、

「だ、誰がこんなにしろと──、優しくしてって言わなかった?」

 側にいる男に当たったが、男は嬉々として私の世話を焼くのだった。



 ゲームオーバーの文字はいつ浮かぶのだろう──。

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