有栖川VS文学賞
「いえ―――それが―――」
「なにか、悪い知らせ―――だったりします―――?」
俺も恐る恐る聞く。俺の眉間にしわが寄っていることを見た揚羽も、神妙な表情のまま冷蔵庫からそーっと近づいてくる。そして小声で「なんですか、スピーカーにしてくださいよ、僕静かにしてますから」と俺のケータイをちょんちょん指さした。お前は同棲中の彼女か、とツッコミを入れたくなったが、今はそれどころじゃない。静かにスピーカーモードに切り替えると、丁度同じタイミングで竜胆さんも話し始めた。
「まず―――結論から申し上げますと―――有栖川先生の最優秀賞受賞が取り消されるかもしれません」
俺たちは自分の耳を信じられなかった。俺は目がギョロギョロ動いて定まっていない感じがして、しばらくまともに頭を働かせられそうになかった。揚羽の様子さえ確認する余裕もなかったが、きっと揚羽も俺と同じような反応なのだろう。
「そ、れは、どうして、みたいな理由?は聞けたり、しますか?」
声も文法もぐちゃぐちゃになりながらも、なんとか会話を続ける。揚羽は一向に口を開かない。
「それが、正直私も納得していないんです、こんな決定には。なのでこれから私の方で色々抗ってはみますが―――最も大きな理由といたしましては、作品の内容が政治に大きく関わりすぎている、という点らしいです」
俺はそれだけではいまいち分からなかったが、その後も竜胆さんに質問攻めをしてなんとか事情を把握した。
要するに、俺の”怨嗟の鬼”が実際の政治家を批判するような内容であるため、出版社の方に圧力がかかっている、といったものだった。過去にもこのような事件はあり、当時注目されたのはプライバシーの侵害についてだったらしい。実際に、ある人が書いた小説の内容がある政治家の人生と丸かぶりしすぎていたせいで、個人のプライバシーが侵害されている、と訴えられたこともあるらしい。
しかし今回我々が言われているのは名誉毀損についてだ。ほとんど大学の内容を忘れかけている俺でも、今の俺の状況が名誉毀損に当たらないことくらいは分かる。こういう法律の問題は色々と複雑で、何かを満たしていなかったらそれには当たらない、というケースが割と多いのだ。
これを受けて今回出版社は万が一問題が起きる恐れを危惧して、俺の受賞そのものを一応取り消しておきたいらしい。しかし流石に全てなかったことにする訳ではなく、世間に目立ちすぎる大賞はなかったことにするが、逆にそれ以外は全て変わらないという扱いとのことだ。
「要件は―――把握しました。またそちらの方で進展があったら―――連絡ください」
「了解しました。しかし先ほども話したとおり、私もまだ納得していません。当日まで抗ってみるつもりなので、もし有栖川先生の方で、この扱いに納得なされるようなことがありましたら、それこそいつでもご一報ください。私の正義よりも、先生の意思の方が優先されるべきですので」
力の抜けている俺をたしなめるように、竜胆さんは澄んだ声に力を込めてそう言った。初の担当さんとの電話は、これ以上ないくらい不穏な空気で幕を閉じた。
俺は、正直納得できなかった。大賞を獲ったこと以外の全てが俺に確約されていたとしても。おかしな話だ、何も持っていなかったときに今の俺の状況を教えてやったら、興奮を抑えられないほど喜ぶだろうに。最優秀賞の賞金三百万円、巨大出版社とのつながり、そして大々的にとはいかずとも自分の本の出版。これだけでも十分すぎるほどの出世だ。俺は、こんなにも強欲な人間だったのか。
しかし同時に俺はあることを思い出し、少し安心したりもした。それは未来での俺のことである。最近は執筆に熱中していて忘れていたが、このままいったら揚羽の望む大犯罪者になっていたかもしれない。ここで一つ最悪な未来へのトリガーを引ききらずに済んだと思えば、全ていいとこ取りできているともとれる。
「何をぼーっとしてるんですか、有栖川さん」
揚羽が未だ目に怒りを孕ませながら、俺の顔をのぞき込む。
「あいつら、絶対今の支持率が悪いからって焦ってるんですよ。自分たちが悪いってのに、まさか文学にまで手を出してくるとは。これは炎上待ったなしですよ」
あぁ、今は少し静かにしていて欲しい気分なんだけどな。
「知ってますか、最近では今の政権に生活を狂わされた人たちが政治家相手に殺害予告をするレベルなんですよ。そんなご時世なんです。それくらいあいつらは、恨まれてるんですよ。今更文学の一つや二つ取り締まったところで、何も世論は変わりませんよ。なんなら一層悪くなって自分たちにとってトドメとなるかもしれないのに―――」
明後日の方向にスピーチしていた揚羽が、それを無関心に聞いている俺に気付いた。
「―――まさか有栖川さん、この決定を受け入れるつもりじゃないですよね」
「―――まだ決めきれないよ」
「選択する余地もないですよ、こんなの」
揚羽は目を歪ませながら、上を向けない俺に詰め寄る。
「揚羽の怒りもわかるよ、俺たちで作り上げた作品が獲った最優秀賞を、よくわからん圧力に潰されたんだ、こんな理不尽はないよ」
「それならどうして―――」
「俺は、満足しちゃってるのかもな、今の境遇に」
揚羽には申し訳ないが。未だに未来人という単語を信じ切れはしないが。
「だって最優秀賞という名前は無いけど、逆に言えば最優秀賞がないだけだ。最優秀賞を獲ったものに与えられるものは、全て手にできるんだぜ」
万が一の未来を避けるために、俺の嘘に乗ってくれ。
「賞金だってちゃんともらえるんだ、焼肉でも食べながら祝おうぜ。なんなら寿司でも―――」
「何言ってるんですか」
揚羽の表情が曇りきっている。
「ここまで一緒に過ごしてきたんです、今更僕の世界線の有栖川さんはそんなこと言わない、なんて言いませんよ。あの有栖川さんと今ここにいる有栖川さんが別人であることは、僕もわかってます」
揚羽の目に涙が溜まる。
「僕は、今、悔しいんですよ。誰よりも有栖川さんが一番輝いてる時を知ってるから。気付いてないかもしれませんけど、これも違う、あれも違うって自分の文と向き合っている有栖川さんは、とてもカッコいいんですよ。そうやって魂削りながら書いたものを、自分の立場の問題で軽々と足蹴にされたんです。これ以上腹が立つことがありますか」
声にならないような訴えに、俺の心も揺れていく。目の前の、まだ見た目に幼さが残っているような少年の感情に、胸ぐらを捕まれたかのような衝撃を感じた。
「有栖川さんがどう思うかは、有栖川さんの自由ですけど。僕は絶対、許せないです。やっぱり、あいつらはどうしようも―――」
「ありがとう」
俺はまた揚羽の毒舌な批判が始まる前に、彼の頭を自分の肩に預けた。
「俺もさ、悔しかったよ。なんだ名誉毀損って。自分の都合で物言いやがってってさ。でも―――自分の作品が全然受け入れられなかった過去があるからかな。この待遇に満足してたんだ。こんな俺が、こんなにも多くのものを貰えるのかって」
再び揚羽を身体から離し、彼の顔を見る。そこには年齢相応の、くしゃっとした泣き顔があった。俺は、またもこの少年に気付かされてしまったみたいだ。
「でも、自分の必死さって、意外と周りの人の方が気付いてたりするのかもな。俺がどれほど自分の作品に想いをかけてるのかってのは、紛れもない揚羽に気付かされたよ。ここで素直に受け入れてちゃ、過去の自分に失礼だよな」
揚羽は俺の言葉を聞いて、安堵したのか「そうですよ、全く、憧れの人がこんなに手がかかるとは思わなかったですよ」と震えた声で、それでもいつも通りの口調で言った。後は竜胆さんからの連絡を待つだけだ。―――いや、まだ俺にはできることがあるのではないか。俺は再度受賞者の発表ページを開きながら、頭を働かせる準備をした。
俺が最優秀賞を獲ったこの文学賞の受賞項目は、最優秀賞、優秀賞、審査員賞、佳作の四つに分かれている。そのうち最優秀賞は当然一枠で、優秀賞も見た感じある程度枠の上限が決まっているようだ。審査員賞に関しては議論するまでもなく、一審査員につき一枠なのだからこれ以上枠が増えることもないだろう。しかし佳作に関しては歪な受賞数だった。思った通り、佳作は数受賞数の上限がないらしい。
俺たちが今不満に感じているのはなぜか?せっかく二人で最優秀賞を獲ったにもかかわらず、そのタイトルをふざけた理由でかき消されたからだろう。言い換えれば、俺たちの”怨嗟の鬼”が元々持っていただろう価値を奪われたのが、許せなくてたまらないんだ。それなら、今からでも佳作に入れて貰えないか聞いてみるのはどうだろう。当然それですべての感情がなかったことにはならないが、何も賞が無いよりかは幾分かマシだろう。たとえ貰ったタイトルが佳作だとしても、俺たちは一度最優秀賞を獲ったということを知っている。紛れもない事実として受け止めている。それならせめて何かしらのタイトルを貰えるよう交渉するのが、最後の足掻きってもんじゃないか。これが叶えば、何も持たないまま世に出るはずだった”怨嗟の鬼”に少しものおめかしをしてやれる。
こんなことを言っていると「お前、大犯罪者となっている未来を回避することは忘れたのか」と言われそうだが、実はこの問題はちゃんと頭の端っこにこびりついている。しかし正直今の俺の脳内を支配しているのは紛れもなく小説のことばかりだった。―――というか本来気にしない人もいるレベルの不確定要素をここまで覚えていることを褒めて欲しいくらいだよ。しかも、揚羽が来てからこんな賞を獲っている段階で未来は大きく変わっているはずだし、今の時点で因果律よりもバタフライエフェクトが優勢なことは火を見るよりも明らかだ。だから、きっと気にすることはない。何か忘れている気もするが、そんなたいしたことではないはずだ。―――きっと。
そうして一人で納得した俺は「?」で埋め尽くされたままの揚羽を差し置いて、スマホの着信履歴をタップした。
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