蝶鱗粉毒(ちょうりんぷんどく)

さら坊

「有栖川 照也」という作家

 あなたはバタフライエフェクト、という言葉をご存じだろうか。聞いたことがある人はどこかでタイムスリップ系の作品を観たことがあるのかもしれない。逆に言えば、そういう経験がないと実感が湧かない人がほとんどだと思う。かくいう俺もそうだった。日常に未来人を名乗る少年が介入してくるまでは。






 気色の悪い夢から逃げ出すように、倦怠感とともに目が覚める。気付いたら昼の十二時を過ぎていた。最近はそんなことが多くなってきた気がする。カーテンの隙間を貫く日差しが鋭くなっている。



 今日も意味を持たない一日が始まるらしい。少し前までは起きるのが楽しみになっていたのに、いつからこんなに朝が嫌いになってしまったのだろう。



 気付いたら大学は二年にして休学してしまい、バイトもしばらく連絡を入れていない。一年の時に得た優秀な成績も、バイト内での真面目君のレッテルも、すべて水泡と化してしまった。ただ、人間不思議なもので、失う前は必死に守っていたものも、いざ失ってみるとすぐどうでもよくなってしまうらしい。現に俺の身体は、そんなメンツを取り戻そうなんてさっぱり考えていないようだった。



 机の上のパソコンはいつでも活躍を待っているようにランプを光らせている。その期待を裏切るかのように、ここ数日は触れてもいない。最後に触れたのは―――たしか一週間前に小説をちょっと書き進めたときだったかな。それに気付いた瞬間、唯一手放しに好きと言えた執筆すら手につかずにいる自分に嫌気が差した。



 高三のときに楽しさに目覚め、大学に入った瞬間に始めた小説の執筆。なんなら受験勉強は、早く小説を書く時間が欲しかったから適当に終わらせた記憶がある。そのせいで進路も志望校も全く興味のないものになってしまった訳だが、当時の自分にとってそんなことは好きなことの前では気にもならなかった。そうしてバイト、大学の勉強、小説の三つに全力を注ぐ一年間が始まった。



 正直、小説以外はやりたいことではなかった。しかし俺は、一丁前に見聞を広めることが小説につながると考えていたので、バイトはしっかり勤めることにしたし、大学のつまらない勉強も人一倍真面目に取り組んだ。こんな生活をしていると執筆には力が入らないのではと思われるだろう。しかし実際そうでもなく、逆に人間時間が無い方が限られた時間で集中できるようで、今に比べると非常に順調に進んでいた。



 俺は小説家になるために二つの行動をとっていた。一つはコンクールへの応募だ。これに関しては想像の通り、ネット上で行われている様々な大賞に片っ端から応募した。結局なんの賞ももらえなかった訳だが、そのコンクールに合わせた作品を何個も書いていたからか、文章力はグンと上がった気がする。そんなことなくても、そう思うことにする。



 もう一つはサークルでの展示である。さっき話したコンクールの為の作品達を学校でも展示し、販売していた。部室で作品を並べて販売していたから、当然ほとんど人は来ないし誰の目にもつかない。時々校内探検のついでにふと立ち寄り、記念に買っていく人がいるぐらいのものだった。しかし、学祭の時だけは一気に人の目に触れることが増えた。それが出店で販売していたからなのか、皆テンションが上がってアクティブになっていたからなのかは分からないが、こちらとしてはとてもうれしかった記憶がある。自分の世界を他人が旅している感覚は、何物にも代えがたい心躍るものがあった。






 こんなにも好きなことを、どうして毎日できなくなってしまったのか。それはひとえに、絶望したからだった。まず一つ、両手で数えられない数応募していたコンクールが全て形にならなかったことがあげられる。賞を取ることがそんな簡単なことでは無いのは十分分かっているつもりだ。それでも。一番下の賞くらいには引っかかってもいいものじゃないか。甘い、ぬるい、軽い。いくらでも言ってくれて構わない。それでもこの事実は、俺の自信を折るには十分すぎた結果だった。



 もう一つ絶望したことがあるとすれば、賞を取っている人間の格だろうか。毎度毎度悔しさから、受賞作品は一通り読んでいたのだが、どれもこれもまぁ面白い。引き込まれるというか、その話の中に自分が没入している感覚になるのだ。ただ、俺にはその”違い”が分からなかった。話の内容も当然のことながら興味そそられるものばかりだ。しかし、これに関しては自分の考えるストーリーも劣ってはいないように思う。多少の贔屓目があるとしても、そこまでの次元の近いがあるとは思えなかった。今までの人生で人一倍小説を読んできた俺の言葉だ、これだけは信じて欲しい。しかしそうなると本格的に行き詰まってしまった。文章力の差、なんてものも、経験の差からうまれるのだからきっとあるのだろう。だがそれだけでこれほど読んだときの感情の振れ幅に違いができるものだろうか。



 そうこう考えているうちに、俺の頭には一つの大嫌いな言葉が浮かんできてしまった。それは”才能”。生涯でも何回かこいつと出くわしたことがある。そしてその度に、その世界が嫌いになるんだ。うまれながらに反則技を使えてしまうような世界で勝負できるほど、俺は強くなかった。そんな悪魔がまさか俺の好きな世界まで侵食してこようとは。そして密かに、この世界ならこの悪魔は俺に微笑むと思っていたのに。そのかすかな希望さえも、ここにきて絶たれてしまったように思えた。



 絶望してから落ちていくのは驚くほど速かった。気付いたら今の生活になっていたんだ、俺という人間の脆さを改めて実感できるだろう。また、過去と現在とを比べて気分が沈んでしまった。ただでさえどん底のような生活をしているのに、気分まで下がったらとうとうこの心臓を止めてしまいたくなってしまう。





 気分転換に慣れないことをしようと、しばらく行っていない大学に出向こうとしたその時、玄関の郵便受けから紙切れが落ちるのが見えた。見たところ郵便でもはがきでも無い、ルーズリーフを綺麗に折りたたんだもののようだ。つまり、これはわざわざ俺の家まで来て直接郵便受けに入れられたものであり、そんなことができるのはサークルの仲間くらいのものだった。そうであることを祈りながら恐る恐る開いていくと、案の定サークルからの呼出状であった。内心安堵しながらも、同時に違和感もあった。うちのサークルは活発に活動してはいるものの、幽霊部員を連れ出すなんて面倒なことするようには思えなかったのだ。最後に顔を出したのは二年の文化祭だが、それももう二ヶ月以上経っているはずだ。今更何か問題があったといわれることも考えにくい。詳しく目を通してみると、内容はこんなものだった。




 須藤 誠也 くん




 お久しぶりです。サークル長の牛頭です。近頃あまり姿を見かけませんが、お元気でしょうか。このたびは、須藤君改め、小説家としての君である”有栖川 照也”くんと話がしたいという中学生の子がいたので、一報入れさせていただきました。また学校に来れそうな時があったら、私にご一報ください。今の時点では私が彼の連絡先を持っておりますので、あなたが部室に来られるタイミングを、私の方から彼にお伝えするようにします。連絡待ってます。




                             牛頭 清子




 丁寧な文体と、知り合い特有の多少砕けた文体が混ざっているところに、彼女のしっかりさと部員を心配している優しさが感じ取れた。有栖川照也は、俺、須藤誠也のペンネームである。この名前は俺が好きな哲学者であるアリストテレスからとったものなのだが、この名前を知っていると言うことはどこかで俺の小説を手に取っているということだ。中学生とのことだから、コンクールの関係者であることは考えにくい。ということは文化祭で俺の小説を手に取ってくれた中にいたはずだ。



 記憶をたどりながら、牛頭先輩に明日学校に行けそうな旨を伝える。一応明日は土曜日のはずだし、中学生も予定を合わせやすいだろう。そう思いながらまた記憶の旅に出ようとしていると、一瞬で先輩からの返信が来た。「明日は金曜で彼の学校があるので、明後日にしてあげましょう。それでもいいですか?」と。曜日感覚が狂いきっている自分と、それを先輩にばれてしまったことによる恥ずかしさから、その時は了解のスタンプを押すことしかできなかった。それが先輩に対してなれなれしすぎる対応だと気付くのは、次の日の朝のことだった。

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