形見の短剣

海堂 岬

本編

 星空を見上げた。暗い夜空に星が瞬く。故郷で見上げた星々に望郷の念が募る。故郷の村が寝静まる頃、街では歓楽街が目を覚ます。勇者の一行がこの街を一晩の滞在場所に選んだのだ。その事実だけで、この街の歓楽街は当面栄えるだろう。


 街を包む陽気な雰囲気が、俺の内にある陰気な思い出を引きずり出す。歓楽街に足を向けない俺に馴れたのか、最近は仲間も俺を誘うことはない。俺が彼らを引き留めようとしたこともあったが、昔の話だ。俺は俺、人は人だ。


 故郷の苦い思い出が、天まで届くかのように燃えていた炎が、俺の耳に囁く。宿に帰れ、一晩の快楽に身を任せるな。鼻が欠け落ちた顔で、唯一まともだった目が俺を見据える。お前は俺のようになるな。いいか、坊主、約束だ。約束は守るもんだ。いいな。


 周囲の喧騒が遠くなる。嬌声が遠くなる。俺は歓楽街に背を向けた。宿に帰るべきだ。約束は守るものだ。


「おや、お楽しみじゃないのかい」

暗がりからかけられた声に肩をすくめる。

「いや」

「あらまぁ。若い男が、なに湿気たことを。まだお盛んだろうに」

明け透けな老婆の声に苦笑した。

「詳しいな」

「そりゃあ。今の私はこんなだけどさ。昔はこのあたりじゃあ、ちょっとは知れた名だったもんさ」

「そうか」

客を漁る取り持ち女だろう。今日の売上がまだ足りないということか。


 俺は歩みを止めない。取り持ち女の言うとおりだが、言う通りではない。

「どうしたい。腰抜けかい」

挑発にも取れる声だが、俺の中の思い出が俺の背を押す。俺は宿に帰らねばならない。


 俺は、故郷のあの孤独な背中を思い起こす。あからさまな挑発に乗るなど愚か者のすることだ。あの背中にかけられた心無い声を、胸に木霊させる。あの男も昔はあぁじゃなかったのに。あんな風になるなんてね。いくら名声が手に入ってもあれじゃぁねぇ。情けないよ。可哀相に。あんな病気をもらっちまって、村に帰ってこられてもね。村の恥晒しさ。


 やせ衰えた男は、粗末な小屋で誰にも看取られずに一生を終えた。己が誰だったか、何を成し遂げたのかも忘れ、襤褸切れのようになって死んだ。男の死に様を見た者達は、男のようになることを恐れ、崩れ落ちそうな小屋に火を放った。燃え盛る炎が、天を焼くかのようだった。かつての勇者の無惨な末路を、天が嘆き、闇が嘲笑った。


 俺は腰の短剣に触れた。


 まだあの男が、泥まみれになりながら死物狂いで成し遂げたことを覚えていた頃にもらったものだ。吟遊詩人達がうたうあの輝かしい物語など作り話さと言いながら、男は自分が経験したことを語ってくれた。悲惨な旅の話を、男はどこか懐かしそうに誇らしげに語った。


 男の話が聞きたくて掘っ立て小屋に押しかけた俺に、男は必ず最後に一言、同じことを言った。坊主、いいか、俺のようになるな。約束だ。頷いた俺に、男がくれた短剣だ。何の変哲もない短剣だが、男の手元に唯一残っていた価値ある品だ。約束のあかしの短剣は、形見になった。


 かつての勇者を屈服させ、全てを奪い、荒屋あばらやに追いやったのはやまいだ。鼻は欠け落ち、服では隠せない病の痕で覆われた体を人々は忌み嫌った。お互い様さと男は笑った。俺は誰かからこれをもらった。誰かにこれをやっただろう。だから、お互い様さ。俺のせいで、こうなったやつが酷い目にあって無いといいけどな。坊主、いいか、お前は俺のようになるな。絶対に俺のようになるな。約束しろ、坊主、約束だ。腰にある形見の品の僅かな重みが、約束の証が、俺を正気にする。俺は明日からの旅に備えて宿で休む。


「夜の街には魔物が住むと言うだろう。故郷のじじいに教わったのさ。夜の蝶は、時に毒針をもってるって。年寄りの言うことは聞くもんだ」


「おやおや。当代の勇者様は腰抜けかい」

冷やかす声に熱くなりかけた頭に、あの燃え盛る小屋が蘇り俺は逆に冷静になった。

「世話になったじじいの遺言だ。俺は約束を守る」

ぶつくさ言いながら、取り持ち女は闇に消えた。


 先代の勇者の最期を知っているのは、村の者達だけだ。歓楽街での享楽の夜は、勇者から未来を奪った。治療法などないやまいだ。手の施しようなどない。誰にもどうしようもなかった。病にならなければ、治療法があれば、村で待っていた幼馴染と幸せな家庭を築いただろうに、それも叶わず勇者はたった一人で、掘っ立て小屋で襤褸切れのように死んだ。


 勇者の幼馴染は別の男に嫁ぎ、俺が生まれた。俺が物心付く前に死んだと聞く父親が、母を好いていたのか俺は知らない。母が何を考えていたのかも、わからない。母は幼馴染だった男の所に、俺が行くのを止めなかった。その母も、もういない。


 歓楽街では今日も、俺の父親になるはずだった男から未来を奪ったやまいが、人と人との交わりに紛れて、やまいの種を人の身に植え付けているだろう。


 坊主、いいか、お前は俺のようになるな。


 俺は形見の短剣の柄を握った。


 故郷に残してきた許嫁の顔を思い浮かべる。

「待っていてくれ」

返事など無い。俺は俺の父親になるはずだった男のようにはならない。俺の母親のような思いを、お前にはさせない。

「約束は守るから。元気に帰るから」

俺が形見の短剣に誓った約束は、一つではない。


 俺は、宿の冷たい寝台に身を横たえた。この世を去った男との約束が俺を守り、故郷で待つ女との約束が俺を支える。


 俺は知らなかった。


 形見の短剣が本当は対になっていたことを。対の短剣を俺の許嫁が持っていたことを。対の短剣が、夜毎よごとの俺の囁きを、俺の許嫁に伝えていたことを。

「酷い話だ」

文句を言う俺に、母親に似た娘が頬を膨らませる。

「あら、父様。素敵なお話なのに」

「だって、父様は母様の声を聞けなかったんだよ。寂しかったのに」

一人冷たい寝台で、許嫁が待っていてくれるだろうかと不安に駆られていたあの日々は何だったのだ。

「とうちゃま、かあいちょ」

同情してくれる息子を肩車してやる。

「俺は、お前の声を聞きたかった」

今更言っても仕方ないとわかっていても、愚痴が俺の口からこぼれ出る。

「だって、恥ずかしかったんですもの」

頬を染めた妻を、俺は抱きしめた。


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