6-3 蛍

 湖に晩夏の夕日が沈みかける時、その最後に燃え上がる紅い炎に湖面は真っ赤に照らされる。ケインは全身を赤く染められながら木にもたれ、その光景を眺めていた。


 自分が意識的に他人に心を開け放っていると気づいたのはいつのことだったろうか。

 もちろん、初めは無意識だった。幼くしてみなしごになったケインにとって、それは自分を守り生きていくための手段だった。孤児院には、心を鎧うことで生き抜いていく子供たちがたくさんいたが、ケインは違う方法を選んだ。限界まで心を開いて素通しにして、相手の心に触れる。そうやって、ケインは周囲の人の優しさや、信頼を勝ち得てきたのだった。


 ケインが初めて使い魔――当時は「友達」と呼んでいた――を得たのは、母が出て行った直後の6歳の時だ。夏のはじめのことだった。ある日ふいに出て行った母を、ケインは10日ほど、家で一人、じっと待っていた。やがて近所が異変に気付き、隣のおばさんが、文字の読めなかったケインに母の残した書置きの内容を聞かせてくれた。

 母はもう戻ってこない。それがはっきり分かった日、とにかくその場に居たくなくて家を出て彷徨い歩き、日の暮れたころ、気が付くとケインはこの場所にたどり着いていた。


 宵闇が下りたばかりの大木の下には、薄黄色の頼りない光が無数に咲き乱れていた。光の一つが、ふわふわと飛んできてケインの胸に止まる。黒い小さな昆虫の尾が、ぼんやりと光っていた。その点滅する微かな光を眺めていると、だんだんにその光はゆがんで見えなくなる。ケインは立ち尽くしたまま、歯を食いしばって泣いた。

必死に目をこすり涙を払うと、目の前に、虫たちとは違う、光る小さな人のようなものが静止して、ケインの顔をしげしげとのぞき込んでいた。それは、にっこり笑うとケインの涙を掌に掬い、飲み込んでくるりと回って見せた。ケインは思わず泣き笑いになった。こうして、ケインは初めての「友達」を手に入れた。


 それからたくさんの精霊がケインの前に現れた。ケインはいつでも、初めの友達にそうしたように、自分の与えられる唯一のもの、飾りのない心を精霊に与えた。それが、人の世を渡っていく上でも大事なことであると、少年のケインは徐々に理解していった。自分が曲がらず生きてこれたのは、胸の内にいつもあの蛍の飛び交う夜があったからだ。


 それなのに。

 今の自分は、一番大事なはずの妻に対して、ありのまま向きあうことすらできていないのだろうか。だとしたらそれは何故なのか。


 茜色の空が徐々に薄墨に侵されていく様を眺めながら、ケインはぼんやりと考える。


*


「……もしもし」


 ささやくような呼びかけに、ケインはゆっくりと目を開け、あわてて飛び起きた。

 いつの間にか、寝込んでしまっていたようだ。目の前には見慣れない人物が座っている。


「夏の終わりとはいえ、日が落ちれば少し冷えます。こんなところでお休みになっては、風邪をひきますよ」


 柔らかい口調で、その人物は微笑んだ。それほどの年齢とは思えないが、蓄えられた長い髭や落ち着いた瞳には老成した空気が漂っている。長く垂らされた髪、ゆったりとした衣服は、ケインにはあまりなじみのない異国の風習を思わせた。


「……これは失礼」


 ケインは礼を取る動きをしながら身構える。人の形をとってはいるが、目の前の人物の気配は人ではなく、かつ圧倒的な魔力を帯びている。今日は繊月、夜更けた頭上に月はない。あまり良い状況とは言えなかった。


「そのように用心されなくとも、大丈夫ですよ」


 相手の微笑みが深くなる。ほのかに漂ってくるどこかで嗅いだことのある香りに、ケインは目を見開いた。


「貴方は、……えんじゅの精?」


 そう、とうなずく顔はひどくうれしそうで、ケインも知らずに微笑みを浮かべる。


「どうして私にお姿を」

「いえその、ちょっとですね……あなたが、地底の精霊に、取り込まれそうになっていたもので」


 その言葉にケインの背筋に悪寒が走る。


「あなたにはたくさん守り手もいるようですし、余計なお世話かとも思ったのですが、今、あまり、気の流れも良くないようなので。何かお悩みなのか、ここの兄弟たちも、非常に気を揉んでいまして」


 人の言葉を話せるのは、私くらいしかおりませんで。私も、得手とは言えないのですが。槐の精は少し困ったように笑う。


 そもそも精霊が呪言以外の人語を解するということすら、知らなかった。木陰でベスと交わした言葉のあれこれを思い出し、ケインは思わず赤面する。


「……あなた方が、俺にそれほど心を砕いてくださるのは、何故なのですか」


 思わず漏れ出たつぶやきだったが、本当に聞きたいことは別にあった。俺は、自分で思っていたほどあけっぴろげでも何でもないな。ケインは再確認する。


「奥様がご心配ですか」


 槐の精はニコニコと言う。かなわないな、ケインは苦笑いしかできない。


「奥様に伝言があります。湖の主から」

「湖の主……?」


まさか。嫌な予感に思わず顔をしかめる。


「奥様のお父様と契りを結ばれている、水竜です。この湖に住まわれています」


 やっぱり。ケインは頭を抱えたくなる。


「大丈夫ですよ。あの方はそれほど無粋ではありません。人語も操れないですし。お父様に、告げ口などされてはいませんよ」

「いや、それはそうでしょうけど、単純にものっすごく恥ずかしい……」

「主からの伝言は、『もちょっと自信をもって、声を張れ。小さすぎて、全然聞こえない』だそうです」

「小さすぎ」

 ケインは気の抜けた声を出した。


「彼女の声は、私たちにはとても魅力的ですよ。ただ、とても遠慮がちで、聞き取りにくいのです」

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