第九章 4
引潮になる時を見計らって、俺たちは邪魔になる上着を脱いで水の中に入った。肋が浮いたリオンの白い体は、初めて海から拾い上げたときとまるで変わりはしない。自力では泳げないこいつを担いで、俺は外に続いているだろう道の近くまで水を掻いた。
「……君が抱えてる重荷を、少し寄越してほしかったのはさ、ただの我欲なんだ。誰かの役に立てたら、自分に価値を見いだせると思った」
唐突に、リオンが言った。〈星の砂〉で泣き出した俺の顔を掴んで、こいつが言った言葉を思い出す。こいつの話を俺が聞いたから、その報答のつもりだと思っていた。それもあるんだろうが。
「それと、君のことが知りたかった」
「……情けねえところ、あんまり見せたくなかったんだ」
「僕は信用できなかった?」
「そうじゃねえ。ただ格好つけたかっただけだ」
「どうして?」
「……どうしてだろうな」
これが最期の会話かもしれない。これで終わりなら、さらけ出してもいいか? でも今更、なにから話せばいいのか分からねえ。こいつの前で格好つけたかった理由も、分からねえ。アンドレーアと張り合いたくて意地張ってたのとは違う。それと違うのは分かるけど――。
「君が憧れてる雷神に、僕はまだ似てる?」
「…………」
答えられない。『似てるよ』なんて返せない。俺は、こいつに嫌われるのが怖かったんだ。『陽気で頼れるやつ』でいたかった。なんてことねえ、俺は脆い人間だってのに。
こいつは俺に、自分のことを話してくれた。なのに、俺はこいつになにも伝えられていない。こいつは俺を信頼していることを示してくれたのに、俺は……。
こんなの、公平じゃあない。与えられた分返したいのに、俺にはその度胸がない。俺の意思で、俺の口から、自分の過去について、今の思いについてを話せば、きっと信頼をかたちで示して返すことはできるんだ。なのにできない。『嫌われたくない』という思いが手放せない。
なぜか、依存してるんだ。俺の周りには昔から頼れる人間がいくらでもいて、皆がそれぞれ、俺の弱いところを知っている。信用できる家族と、仲間。誰にも、こんな恐れを抱いたことはない。俺はリオンが嫌いなのか? いいや、好きすぎるんだ。そのくらい分かる。けど、なんでこんなにも臆病になってしまうのかが、どうしても分からない。ずっと。
四角い穴が足の下に見える。あとはできるだけ空気を体の中に溜めて、運に身を任せるだけだ。神にでも祈るか。メレーでも、
神よ、神々よ、どうかこいつだけでも生かしてくれ。もしこの命でこいつの人生が続くなら、いくらでも差し出す。どうか、頼む。
さあ、行こう。呼吸を整えて、地底の大気を深く取り込む。
「レナート。僕はね、君が好きだよ。咄嗟に駆け出して、こんなところまで一緒に落ちてきちゃうくらいにはさ」
限界まで吸い込んだ息が止まる。なんだってんだよ。今、そんなこと言われたら動揺するだろ。
「……それと、たぶん君が思っているより、僕は『汚いもの』が嫌いじゃない」
薄い唇が俺のとぴったり合わさるのと同時に、水の中に引き下ろされる。一瞬見えた笑みが、やたら妖艶に感じられたのは、もうこれが死に際だと体が身構えていたからだろうか。だが、その笑みも、俺の中に湧き上がった感情も、不快ではなかった。
終わりまで辿り着けそうもない、長い道の中を、引潮の流れに身を任せて、空気を交換し合って泳ぎ進む。ほんの僅かでも無駄にしないように密着させた唇が、やたら熱い。
あまりにも長い道程。交換し続けた息が、使い物にならなくなる。体を震わせて俺から離れたリオンの口から、古くなった空気が大きな泡になって溢れ、どこかへ流れていった。もがき出した体を抑えつけて、緩やかな流れが導いてくれるのに任せる。やがて動かなくなったリオンの体を抱えて、俺はまた青い水路を泳ぎ進む。もう、肺の中が空になって暫く経ってるってのに、苦しいという感覚がない。
どれだけ泳いだだろう。たった一本の道は、延々と続いていた。出口なんて、なかったのかもしれない。吸い込んじまった水の感触を体の中で感じる。やっぱり、ここで終わりだよな。俺は泳ぐのをやめた。最期にもう一度リオンの体を抱き寄せる。
なあ、俺も好きだよ。この感情を、名前がつけられたどれか一つに振り分けることは、やっぱりできねえけど。言えたらよかった。でも、どうせお前は気づいてたんだろ?
まだ道半ばだったよな。俺も、もう少し生きてみたかったよ。お前と一緒に。
ずっと、そう思っていたんだ、本当は。俺はお前と消えるより、お前と生きたかった。
やっと、望めた。
波音。濃紺の空に光環を描き出して浮かぶ、白い満月。
――メレー。もし、私の命に代えられるのなら、この子に人としての生を与え、幸せを教えてください。
耳慣れない、けれどなんとなく懐かしい女の声が、穏やかな水音に重なる。
――あなたがどうなっても、どこに行っても、いつも一緒にいるからね。
ああ、知ってる。思い出した。俺は――、
――メリウス――。
そんな名前でもあった。
陸に打ち上がる海の音。遠い……、遠い――、……近い。アンバーの光が、青に染まって久しい意識を塗り替える。手に触れる湿った感触は、藻の土台となった珊瑚の骨。
体を起こす。水平線の彼方に、頭の先だけを覗かせているルビーみたいな太陽が見えた。アンバーと、アメジストと、ラピスラズリの空。夕焼けなのか、朝焼けなのか、分からなかった。視界の端に一瞬閃いた雷光。朝か。
「……リオン……」
あいつの姿を探す。水平線を一周、二周、三周と眺める。珊瑚の道から続く島を囲む、王国の旗を掲げた十数隻の船。
「リオン……、どこだ……」
ふらつく頭を宥めながら、より広い視界を求めて立ち上がる。そうしてまた、あいつを探す。
「レナート――」
呼ばれて振り返れば、遠くに片割れがいた。珊瑚に躓きながら駆け寄ってくるアンドレーアを、待った。腫れた瞼の合間から覗く海色の眼から涙を垂れ流して、抱きついてくる体を受け止める。
「リオンがいねえんだ」
片割れと再会できた安堵より、自分が生きている感動より、あいつがいない不安ばかりが俺の意識を占領する。
アンドレーアはただ泣いていた。なにも言わなかった。『生きていてよかった』と、俺に言葉で伝えることもしなかった。
だから理解した。俺だけが生きて帰ってきたんだって。
なぜだ。あんなにきつく抱きとめておいたのに。この意識が消えてしまっても離さないと、決めていたのに。
どうして手放した? ようやく、気づけたのに。どうして――。
死ぬときは俺も一緒だって、約束したのに。
俺は――、俺たちは。また、繰り返すんだな。同じことを。
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