第七章 3

 飯を食う気にならないまま、夜も遅くなったので横になったが眠れなかった。何度も寝返りを打って、時々体を起こして捻ったり伸ばしたりしてみる。どうも頭のどこかが冴えちまってる。頭痛もするし、昼に泣きすぎたのかもしれない。月光が差し込む窓を眺めて、潮騒の音に耳を傾けた。夜の海ってのも、身近なようであまり行ったことがない。そう思ったら、なんだか無性に外に出たくなって、俺は適当な服を着て、物音を立てないようにしながら家を出た。

 夜風は湿っぽくて、冷たかった。昼間、太陽が出てるときはあんなに暑いってのに。恒星の力に改めて感心しちまう。灯台の光が、四方に向けて回転しているのを遠くに見ながら、俺はとりあえず近場の浜に行ってみることにした。ガキの頃、よく遊んだっけ。誂われるから学校には行かなかったが、島の子供全員が俺を『幽霊』だのと言ってくるわけでもなかったし、遊び場で出会う少し年長の子供の中には、それなりに仲よくできたやつらもいた。今頃どうしているのやら。兵役真っ最中のやつもいるだろうし、本土の方に引っ越したと人伝に聞いたやつもいるが、全員ここからいなくなったってわけじゃないはずだ。けど、もう誰とも何年も会っていない。どこかですれ違ってても気づいていないのかもしれない。

 広い砂浜に足を踏み入れると、細かい粒が指先に絡みついた。サンダルじゃなくてブーツの方がよかった。それに、もう一枚羽織るものが欲しい。思った以上に冷える。

 月が海面に反射して揺れている。黒い海が、薄ぼんやりと光る砂浜を侵食して、引いて、また飲み込みに来る。

 また満月か。ついこの間見たばっかりな気がする。俺が過去に囚われて立ち往生してる間にだって、時間は過ぎていく。

 海と空ばかり見ていたせいで、視界の端で浜に座り込んでいる人影に気づかなかった。たぶんずっといたんだろうが、俺はぎょっとして、目を凝らした。そいつもこっちを見た。月光の薄明かりに映し出された顔が俺と同じだったから、一瞬また心臓が跳ねたが、アンドレーアだと思い当たって落ち着いた。こんな真夜中に海に来て、こいつも物思いかよ。

「……こんばんは」

「……ああ」

 昼間の記憶が蘇る。まだ大して時間も経ってないってのに、顔合わすの嫌だな。とりあえず俺は近づかないようにして、そばのヤシの木に背中を預けた。

 そうしたら、アンドレーアが立ち上がって、腰についた砂を払ったかと思ったらこっちに来る。俺はなんとなく身構えちまう。

「……実を言うと、海はあまり好きではなかったんです」

「……へえ」

 『好きじゃない』なんて控えめな言葉を使ってるが、実際は『嫌い』だったんだろう。じゃなきゃ、わざわざ打ち明けるようなことでもない。だがジュールの神官が海嫌いって、どうなんだそりゃ。本人もそう思ってるから『実は』なんだろうが。あんまり他人に話したことはねえんだろう。それをなんで俺に言うのかは知らねえけど。

「でも、ここは海の音が近いから、気になって。いざ来てみたら、私が思っていたような、恐ろしい場所ではなかった」

「嵐のときは近づかねえほうがいいぞ」

「それは勿論。ただ、今日のように穏やかな海なら、私の心も穏やかになれるようです」

「海に嫌な思い出でもあるのか?」

 俺は何の気無しに訊ねていた。踏み込みすぎたかと言ってから思ったが、なんとなく、こいつが話したがってるから訊いちまったような気もした。

「……むしろ、いい思い出なんてないですよ。あなたは、海を恐ろしいと思ったことはないんですか」

「荒れた海には近づきたくねえけど、適当な距離で付き合ってりゃあ、別に怖かねえ」

「……不思議だな。あなたのほうが、私より海が好きなんだ」

 アンドレーアはそう言いながら、微妙に笑った。そりゃ、生まれてすぐ海に放り出されたのは俺だし、嵐の海に船ごと沈められそうになったことだってある。けど、赤ん坊の頃のことなんて覚えちゃいねえし、海の嵐だって結局は生きて帰ってこれてんだから、喉元過ぎれば何とやら、ってやつだ。

 木の幹一本挟んで並んだアンドレーアの背丈は俺と同じだった。出会って二ヶ月程度。その間、大して会話もしていない。俺はこいつを知らない。こいつだって俺を知らない。今更双子の兄弟だと知ったところで、生まれた瞬間から二十二年も離れてりゃ、他人だ。そう思うのと同時に、この一本の木の幹分の距離が遠く感じる。これまで何百マイルも離れてたって、何とも思いやしなかったのに。今は、俺がこいつのことを知らなくて、こいつに俺を知られていないことが、なんとなくもどかしい。たぶん、俺たちは本来一人の人間として生まれてくるはずだったんだ。それが、どういうわけか二人になっちまった。

 俺は、きっと見栄が張りたかったんだ。別の環境で育った双子、片割れは偉い家で育てられて、誰が評価したって秀才か天才で、神官なんて大層な肩書を持ってる。負けたくなかった。俺だって、それに張り合えるくらい立派に生きてきたんだって知らしめたかった。だってのに、無様なもんだ。

「……あなたは、私を責めてはいないのですか」

「……なんでお前を責めるんだよ」

 こいつの親に対しては、多少思うところはある。だが、こいつに対してどうこうってのはない。ただ、張り合いたくても、俺がそれに到底値しないってのが悔しいだけだ。

「……情けないな」

 そう呟いて、アンドレーアは俯いた。そりゃこっちの台詞だ。お前は自分のなにが情けないってんだ。俺の無様さを見ておいて、よくそんな言葉が言えたもんだ。

「私は、元々双子だったのだと、幼い頃から聞かされ、知っていました。一人になった経緯も……。あなたが生きていたと知って、驚いた」

「だろうな」

「私はあなたについて聞く度に、悲しくなったし、申し訳なくも思った。でも、……時々無性に憎く思ってしまうこともあった」

 俺は黙っておいた。俺の知らないところで、俺は知られていた。そこで俺がどう思われてきたかなんて、知ったことじゃない。

「母は、あなたと共に海へと潜った。母は私と生きることよりも、あなたと共に死ぬことを選んだ。もしかしたら、それもあったのかも――」

「おい、待て。は?」

 俺は思わず言葉を遮ってしまった。俺と死んだ? 母親が? どういうことだよ。

「あ……、ええと……。私達が双子だと知ったとき、父母はそうすると決めたそうです」

「……なんだそりゃ」

 俺は一人の命を巻き添えにして、そのくせ一人で生き延びて、俺のために人が死んだことも知らずに生きてきたってわけか。じゃあ、あのおっさんは、子供だけじゃなくて嫁さんも一緒に死なすっていう決断をしたってのか。俺を一人で死なすのが不憫だったから? それで母親も納得して? いや、もしかしたら母親の方から言い出したのかもしれない。なるほど、そりゃ、相当な思いだったろうな。送った二人の片方が生きてて、再会できたと思ったら『他人だ』なんて言われりゃ、あんな顔にもなるだろう。俺は相当酷えことを言っちまったみてえだ。

「今どき馬鹿らしい慣習だとあなたは思っただろう。……正直、この場にいるから言えるが……、私もそう思う。決して口には出さなかったが、きっと父もそうだ。私は父と生き、母はあなたと死んだ。そのことに不満を抱きたくはなかった。ほんの僅かばかり早く産声を上げたがために、人柱となった兄弟の事を思えば……。しかし……」

「母親を殺した俺が憎かったわけだ」

「あなたと共に在ろうとしたのは母の意志で、あなたにはなんの責もない。まして、あなたが殺しただなんて」

「でも、そう思っちまうんだろ」

 アンドレーアが派手なため息をついた。つまりそういうことだってな。

「自分が被害者のような考え方はしたくない」

「それは分かるな。惨めな気分になる」

 俺はヤシの幹に凭れ直した。足に絡まる砂が鬱陶しい。

「『神の子として捧げられた俺』より、お前のほうがよっぽど神らしいと思ってた。でもまあ、安心した。ちゃんと人間だったんだな」

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