第六章 5

「人って、案外他人を放っておけないみたいだ。良くも悪くも。子供の頃、わりと気にかけてくれるやつがいた。男だった。僕はあまり自分から話しにいく子供じゃなかったし、そもそも一人でいるのが好きだった。でも、集団に混ざろうとしない僕は誂われた。体のことを大っぴらにはしていないけれど、僕が男女それぞれの場に日毎入れ替わりでいたことは知られていたから。それは、あの国ではとてもおかしなことだ。ありえない。そいつだけが庇ってくれた。『どこにいればいいのか分からない』って言ったら、『俺といればいい』ってそいつは言った。それで、なんだか気楽になった。だから自分の意志で、初めて自分の体について話したのは、そいつだった。『お前と話すのが楽しい。悩んでいるなら話は聞くけど、俺は別にお前の体と話したいわけじゃない』。そう言われた。今でもよく覚えてる。だから、僕は男の方で生きていこうと思った。味方がいるから。……でも、やっぱり駄目だったね。段々、皆大人になっていくでしょ。僕はなれない。一人だけ置いていかれるばっかりだ。声も、これ以上低くはならない。努力したけど、どうにもならない。そうやって藻掻いているうちに、この前みたいに出血するようになった。でも、ちゃんと機能してそうなってるわけじゃない。ただ、時々、忘れた頃に酷く痛みながら血が出るだけ。子供が作れるわけじゃない。べつに望んじゃいないけどね。……たぶん、その頃からだな。それまで僕を庇ってくれてたあいつが、段々そっけなくなってきて、終いには一番に、率先して僕を中傷する人間に変わった」

 信頼してた人間に裏切られるってのは、しんどいよな。たぶん、俺も分かるんじゃないかな。少しだけ――、いや、どうなんだろう。あれは裏切りだったんだろうか。子供の俺にとってはそうだった。でも、今になっちゃあ、あいつを責めてもいいのか迷う。あの状況で、生物としての本能に抗う理性を保てるものだろうかって。きっと無理なんだろう。だって、あいつが無理だったんだから。

 もし俺があのとき、あんな子供じゃなくて、今くらいに体も成長していて、ものを考えられるようだったら、あいつがあんな様になって襲いかかってきても、穏便に受け容れられたのかもしれない。苦しみに同情して、憐れんで、焼け溶けていく苦痛にせめて寄り添えたんだとしたら、きっとあの程度の痛みなんて大したことないと思えただろう。或いは、『殺してくれ』という願いを聞き入れることもできたかもしれない。あいつをあいつとして死なせてやれたかもしれない。第一、俺はあいつが好きだった。男として憧れてた。あんな風になりたかった。もしかしたら、性的に惹かれていた部分があったのかもしれない。ガキの俺には分からなかったが、今思うと、そんな気がしないでもない。今更確かめようはないが。

 『分かる』なんて、簡単に言えるものじゃない。俺は黙って、ちゃんと聴いてるってふうに頷くことしかできない。余計な言葉を挟んじゃならねえと思うから。

 俺はこいつを裏切りたくない。こいつを傷つけた人間と同じにはなりたくない。けど、絶対を保証できるんだろうか。俺の人間的部分はそう思ってても、いざそれが失われるようなことがあったら、分からない。絶対に裏切りたくない。けど、『絶対』を証せないのがもどかしい。

「それから、別所に匿われるようになった。男女の要素を持っている僕には、他にいられる場所がなかった。体調も、あまりよくなかったし。何の役に立つわけでもないくせに、存在だけやたらと主張したがる女の臓器も、邪魔だった。だから、医者にも、スレイマン様にもずっと勧められてたんだ。取ってしまったほうがいいって。そうしたら、体だって楽になるし、フォルマの社会で生きていくこともいくらか容易になるんじゃないかって。男としてね。僕は……、ずっと承諾できなかった。なぜなのか、自分でも分からなかった。腹を捌かれるのが怖いんだろうと理由づけしてみたけど……、ずっと、それだけじゃない気がしてた」

 それで、リオンは黙った。まだ続きはあるが、少し言葉をまとめたいといったふうだったので、俺も特に口を出さずに黙っておいた。

 腹を切って、中身を取り出すなんて、医療技術が比較的発達しているアウリーでだって、容易なことじゃない。フォルマなら尚更、死ぬ確率は段違いだろう。そうであっても、周囲から勧められる程には、こいつの状態は深刻だったということか。生まれ持った身体的特徴のために。フォルマの社会的な仕組みも、理由には少なからず加わっていたんだろうが。いずれにせよ、こいつはそのままの体では生きていけなかった。

「僕は……、男として生きていける自信がなかった。僕が散々言われてきた言葉だ、『男の成り損ないで、女の成り損ない』。紛れもない罵倒だったけれど、でも、それがよかったんだ。どちらでもない自分が。女の成り損ないの部分を取り去ったら、ただの男の成り損ないだ。男になるわけじゃないけれど、……近づいてしまう感じがした。その後、男らしさを求められるようになるのも、怖かった。できる気がしなかったから。かといって、女になりたいわけでもない。女らしく振る舞える気もしない。僕は、……どちらにもなりたくなかったんだ」

 今、『羨ましい』なんて思いを湧かせた自分が嫌になる。こいつが苦しんできたっていう話を聴きながら、なんだって俺は、『男じゃないもの』でいられるこいつが羨ましくて仕方がないんだ。

 分かってんだ。俺は紛れもない男だって。外身も中身も。分かるさ、近くでマリアを見てきた。中身に外身が伴わない苦しみってのはどんなものか。隠れながらも嘆くあいつの姿を、ほんのガキの頃に垣間見て、ガキなりに想像したさ。俺は自分についてだって、よくよく考えた。男を寄せ付けなくなって、大人になりたくねえ、その象徴を取り去ってくれって騒いでたときだって、俺の意識は確かに男だって理解してた。だから、医者が『将来後悔するから』と承諾しなかったのも尤もだって、分かってたんだ。それこそが嫌だった。俺は、体がどうとか以前に、自分の『男だ』っていう意識を消し去りたかった。だから、こいつが羨ましい。その意識を持っていないこいつが、羨ましい。分かってんだよ、そのために苦労してきたんだろうってことくらい。だから絶対こいつの前で口に出したりはしない。けど、俺はお前が羨ましくて、しょうがねえ。

「……僕じゃなくなる気がした。それなら、生きていたって僕の人生じゃない。そう思った。だから、死ぬのならそれでもいいって、思ったんだ。だから、もう次はないって迫られたとき、僕は逃げ出した。僕のままで死ぬことを選んだ。何百フィートも下の海に飛び込んだんだ。生き延びられるはずはなくて、まして、こんなところまで流れてこられるはずもなかった。なのに、君たちと出会って、……生きるのが楽しいと思った。僕が、なにも取り繕わずに振る舞っても、君たちは受け容れてくれる。僕でいてもいいのなら、生きていたいと思った。それでも、体が変わったら、気持ちも引きずられるんじゃないかって思うと、やっぱり怖かった。僕は曖昧な人間だから。僕の曖昧な意識は、少なからずこの体によって作り出されたんじゃないかって。……たぶん、そういう部分はあると思うんだ。だって、僕はずっとこの体で生きてきたし、この体だったから僕の人生は……、言ってしまえば、普通じゃなかった。嫌な思いもたくさんした。でも、この体によって与えられたこれまでの経験の結果が、今の僕だ。それを否定したくはない。だから、もしかしたらこの先僕の心持ちは変わるかもしれない。でも、変わったら変わったで、それも僕なんだ。マリアさんと話して、納得できた。それで、ようやく決心できたんだ。……強い人だね」

「……ああ、あいつは強いよ」

 マリアは姉貴だ。けど、たぶんどこかで母親みたいに感じてる。実際にはどんなものか俺は知らねえけど、そんな気がするんだ。十五も歳が離れてるせいかもしれない。あいつは時々『私は親にはなれない』なんて笑って言うけど、俺にとってあいつは姉貴で、たぶん、母親でもある。

「……ごめん、長々と話しちゃって。顔色、少し良くないね。帰るよ。ゆっくり休んで。……聞いてくれてありがとう」

「いや、こっちこそ。ありがとうな、話してくれて。距離が縮まった気がする」

「ああ」

 少しだけ、リオンが笑った。初めてかもしれない。こいつの笑顔は、なんて綺麗なんだろう。


 リオンは帰っていった。また、そのうち見舞いに来ると言って。帰り際に見えた微笑が、ずっと俺の気持ちを惹いたまま離さない。

 自分が気持ち悪くて仕方がなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る