第三章 3

 握りしめた右手の甲が痛んだ。考えるよりも先に、僕は動いていたのだ。気づいたときには僕の目線は海から離れ、人を虐げることが趣味の悪魔に向けられ、その顔面を殴りつけていた。

「誰が――、僕がどう在ろうが、どう生きようが、お前には関係ないだろ!」

 喉から血の臭いがする。初めて誰かを殴った気がする。こんな大声を出したのも、初めてかもしれない。

「……殴ったな。男に反抗するなよ、この半端者が!」

 そうだ。分かっていた。何かを言えば何倍もの暴言を返されるのだから、殴れば何倍もの暴力が返ってくるだろうことくらい。まず、腹の上の方を殴られた。僕は飛ばされるように、脆く、あっけなく倒れた。塩辛い砂が口の中に入り、迫り上がってきた胃液と混ざる。とてつもなく不味い。回復してきていた味覚をあだと感じた。

 砂を掻く僕の腰骨を踏みつけて、悪魔は喚く。

「籠の部屋に閉じ込められて可哀想になあ! そのおかしな身体を慰み者に使われてるんだろうって、皆んなよく話してたもんだぜ。人格者のスレイマン様が聞いて呆れるじゃねえか!」

 妄想で恩人をも貶す。あの人は誓って、僕らの保護者だった。彼は僕らの偉大なる父だった。この、僕に暴言を浴びせ暴力を振るう男が貿易商の弟子になれたのも、全てスレイマン様の慈悲によるものだ。

 だが、確かにあの人の博愛精神は陰の者たちによって捻じ曲げられ、事実無根の噂に変えられ流されていることを、僕も知っていた。彼は五十になっても妻を娶っていない。それは、身寄りのない未亡人や妙齢を過ぎた貧しい女性を多く保護するためだ。フォルマの神の法に則って一人を妻にすれば、他の女性に手を差し伸べることはできない。ならばと仮に三十人を娶って、平等に夫としての愛情を与えられるかと問われれば、到底無理な話だろう。だから彼は誰も妻にしないのだが、嫌な噂好きはそういった事実など気にも留めない。とことん馬鹿な連中だ。

「スレイマン様を侮辱するな。媚びて生き永らえたくせに、恩知らずのクズ野郎。尊大に振る舞いたいなら、潔く貧民街の川で溺れ死んでいればよかったんだ!」

 悪魔の暴言に負けじと言い返す。こんなに感情的になったことはない。ズフールの外れに広がる貧民街を流れる川は、糞尿で濁り死体が浮く不浄な場所だ。子供が溺れたところで、誰も助けやしない。誰にも、そんな余裕はないのだ。こいつの気の毒な過去を持ち出して罵倒してしまうなんて、僕も堕ちてしまったのだろうか。情けない。

「……ふざけやがって……!」

 さぞ嫌な記憶を思い出したのだろう。侮蔑の笑みばかり浮かべていた悪魔の顔に、苦悶めいたものがちらついたのを見て、こいつも人間らしく苦しめるのかと、僅かばかり感心した。

 そんなことを思う間にも、振り被られた脚は迫る。

「リオン!」

 覚えのある声に呼ばれながらも、僕は反射的にきつく目を閉じていた。襲い来る暴力に備えて。けれど、重い打撲音が耳に届いただけで、痛みを感じない。僕は救われたような、けれど不穏な予感を抱いて、目を開けた。倒れて身動きもとれずにいた僕と暴力男の間に入り、その身で盾となってくれていたのは、マリアさんだった。

 華奢な背中に受けたであろう激痛に息を詰まらせる彼女の、磨き上げられた銅の色に似た髪を無遠慮に掴み上げて、その顔を確かめた鬼畜はしかめ面で鼻を鳴らした。

「噂をしたからか? 女ごっこが板についた変態が来ちまった」

 未だ蹴られた痛みから解放されないでいるらしいマリアさんは、抵抗することもできずに襟を掴まれ、乱暴に投げ転がされた。布が裂ける音がして、色白の胸元が一瞬あらわになった。彼女は破けた布を引き寄せて、肌を隠した。暴力と辱めに蹲るその様子があまりにもむごくて、僕は砂を這って彼女の前に座り込んだ。殴られた腹が痛んで、背すじを伸ばすことができない。反抗になんてなりやしないと分かっていたけれど、僕は悪魔の顔を睨み上げた。さも腹立たしいと言った顔で僕らを見下ろす人の皮を被った下劣な生き物は、右手をぶらつかせて舌を打った。

「汚らわしいものに触らせやがって。似た者同士で庇い合いってか。お前らにアーリャが定めた法を唱えてやろう。『女は男に逆らってはならない。男は決して女に暴力を振るってはならない』。俺は頭に一本残らず神の法を刻み込んであるし、だからこそ探ったんだよ。半端者と女もどきについて。だが何も決められていない。つまり、殴っても蹴っても罰せられない。何故かって、神はお前らみたいな存在を認めていないからさ。でも、現にお前らは生きている。存在しねえはずのものがよ。嘆かわしい。むしろ、そうさ『嘘を吐くべからず』ってんなら、男のふりだの女のふりだの――、神の法に反してるじゃないか。お前らみたいなのは居ちゃあならねえんだよ。神に反逆する不届き者共。俺は神の御意志を承ってお前らを罰してやるってんだ。さあ、ありがたく罰を享受しろ! 他人を欺く衣装なんざ剥ぎ取ってやる。真実の姿を天に御わす神に示し悔い改めろ!」

 僕の骨に守られた心臓の上を、硬い膝骨が打った。また迫り上がってきたものを、無抵抗に口から吐き出すと、それは赤い液体だった。打たれた反動で後ろに仰け反れば、暖かな手に支えられ、泣き出しそうな声で帝国の神から借りた名を呼ばれる。次は顔でも殴られるだろうか、それとも服を剥がれるのだろうか。僕はもう、何だっていい。ただ、僕を庇い傷つき、後ろで震えている優しい人にこれ以上の辱めを与えるのなら、僕はどうにかしてこいつを殺してやる。

 ああ、そうだ。もう、殺してやろう。怒りは痛みを忘れさせた。なんとしても殺す。今。

 けれど、潰される瞬間の豚のような醜い叫び声を発して、悪魔は弾け飛んだ。状況なんてろくに把握できなかったが、非人間に制裁が与えられたらしいことは、かろうじて理解した。

「ここはアウリーだ。フォルマの神が定めた法はフォルマ王国のもの。アウリー王国にいる以上は、アウリーの法に従ってもらう。現行だな。暴行罪」

 堅い男性の声が、そう言った。僕は今にも天地が入れ替わりそうな視界で、同じ服を着た三人のアウリー人に抑えられ、大地を舐めさせられながら縛り上げられる、悪魔の無様な姿を認めた。

「都合の良い時ばかり縋る神を鞍替えする節操のなさが、こんな変態を生むんだよ。ファーリーン人の方が余程まともだぜ」

「連れて行け」

 問答無用で立たされ、家畜のように縄で引かれ消えていく様子に、蘇った鈍痛に苛まれる胸が幾分かすいた。

「過激な若者がいたものだ。この国ではあまりお目に掛かれない類いだが」

「……あいつが狂ってるだけだ」

 フォルマ人というものがあんな傲慢な畜生連中だなんて思われては堪らない。僕は掠れてろくに声にならない弁明をした。体が痛んで、息が詰まる。

 そんな僕の前に、アウリー人が片膝をついた。上がりづらい顔をかろうじて上げれば、その男性と目が合う。見覚えがある顔だが、どこで見たのか思い出せない。

「今朝、聖ルドヴィコ病院から通報があった。無断で抜け出したのは君か?」

「……すみませんでした」

 謝罪しながら、男性の左腕に巻かれた腕章に気づいた。アウリーの国章と、六本のでできた、車輪のような標章。官憲だと、ようやく理解した。そして、どこか覚えのある目の前の人物は、以前〈星の砂〉にてひどく酔った状態で見かけたことも思い出した。あのときは大層情けない雰囲気だったから、今のいかにも仕事人といった様子との差に驚く。僕は思い出したが、相手は僕を思い出しただろうか。たしか、徹夜続きで飲酒をし、ディランさんに怒られる程度には判断力が失われていたようなので、覚えていないかもしれない。僕とは少し同席しただけで、会話をしたわけでもないから。

「外出許可を申請した方が良かったかもしれないな。とりあえず、戻ってくれるかい? 君からも、彼とのことで話を聞く必要があるかもしれないからね」

 叱りつけられるかと思ったが、官憲の人はむしろ同情的な様子だった。

 ほんの束の間の自由だった。他人に迷惑を掛けて、自分だけならばまだしも、親切にしてくれる人までもが、僕の軽率な行動に巻き込まれ傷つけられてしまった。こんなことなら、病室で大人しくしていればよかったのだと、悔いたところで今更、だ。そして、僕の心の中では、自分の行動に対する後悔よりも、悪魔に対する激しい憎悪が勝っていて、自分ばかりを責めきれない。それでも、やはり僕がこんなところにいたから招いてしまった事態に違いないということも理解している。

「……はい」

 暴れたがる感情を抑えるのが、これほど苦しいとは知らなかった。今ほど、自分の非を認めたくないと思ったのも、初めてだった。

 官憲の人は、僕が立ち上がるのを助けてくれた。肋骨が痛い。踏みつけられた腰にも鈍い痛みが走った。

「少し、待ってくれませんか。この子と話をさせてほしくて」

 マリアさんが、僕を病院に連れて行こうとする官憲の人を引き止めた。

「病室ではいけませんか?」

「……できれば、私の家で」

 何を話すのだろう。彼女が僕に言いたいことがあるのなら、僕はそれを聞く必要がある。怪我をさせたし、散々な目に遭わせてしまった。それに、ちゃんと謝りたい。

「分かりました」

 官憲の人は、ほんの少しだけ考えたようだけれど、結果了承してくれた。そして、まだ蹲ったままでいるマリアさんに歩み寄って、自分の上着――官憲の腕章が付いた制服を脱いで、彼女の肩に掛けた。

「その状態で帰るのも不安でしょうから、お供しますよ。私の上着で良ければ、お使いください」

「……ありがとうございます」

 マリアさんは胸元の金具を留めた。隠れた肌に幾分か安堵したようだった。

 結局、二人とも体を痛めていたから、官憲の人が同行してくれて助かった。両腕でそれぞれの怪我人を支える、動く柱みたいなこの人が、本当に先日の酔っぱらいなのかと疑りたくなる。

 表通りに面した〈星の砂〉の入り口とは別の、住居用の裏口から僕らは中へ入った。

「今日中に病院へ戻ってください。あなたも怪我をしているのなら、診てもらった方が良いかもしれない。事情は明日にでも聞きに伺いますよ。お大事に」

 マリアさんから返される上着を受け取った彼は、念押しするように、けれどあくまで気遣うように、僕らに言い、たぶん彼の職場に帰っていった。

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