メレーの子(前編) 3

 洞窟に戻ったメリウスは、呆然と立ち尽くした。彼と、彼の姉たちの棲家が消え去っていたのである。ウェヴィリアたちを探さねばと我に返ったところで、彼は巨大な声に呼ばれ、目を向けた。憤怒の形相を浮かべる海神の姿に、メリウスは生まれて初めて恐怖の感情を抱いた。

「ケーレーンを連れ出したのは貴様か」ピトゥレーはメリウスに詰め寄った。

 メリウスは、己の倍以上もの身の丈幅をした神の姿に怯えながらも、ようやく頷いた。

「愚か者め。無知でおもんばかりの無い半人など、やはり碌なことをせぬ」ピトゥレーはメリウスへの嫌悪や呆れも露わに吐き捨て、姿を消した。

 棲家が消え、姉たちの姿もなく、突然に海神から詰られたメリウスは混乱し、その場に座り込んだ。そこへメレーが現れたことにさえ、気づくまでに幾ばくかの時間を要した。

「メリウス、ウェヴィリアたちは無事です。皆、ピトゥレーの神殿にいますよ」メレーは言った。

 メリウスはウェヴィリアに会いたいと思いながらも、ピトゥレーの神殿へと向かう勇気を持つことができなかった。

「ジュローラの街に向かいなさい。あなたにはすべきことがある。人々はあなたの力を必要としているのだから」メレーは身じろぎもせず沈黙するメリウスに、続けて声を掛けた。

「僕は忌み子でしょう。皆アンドローレスを軽蔑しているのだから」メリウスは力弱く言った。

「それが悲しいのなら、尚のこと。あなたはあの街に行き助力しなさい。それとも、ここでずっと蹲っているつもりですか」

 メリウスの気は進まなかったが、メレーの後押しには逆らえず、仕方なくジュローラの街へと向かった。


 いざ再びやってきたジュローラの街には、惨状が広がっていた。建物は崩れ、奥の森は消え去り、泥に埋もれていた。広場であったはずの場所には壊れた船、浜から遠く離れた森の跡地にはクジラの死体があった。なぎ倒された樹木の枝にはサンゴの腕が絡まり、瓦礫の合間や泥の下には人々の体があった。

 メリウスは変わり果てたジュローラの様子に愕然とした。あの美しく栄えた街は、跡形もない。命を落とし声を失った人々の嘆きが、泥に塗れた瓦礫の下から、或いは水平線の下から、メリウスのもとへ届く。亡者の呻きに紛れる生者の気配を、彼は感じ取ることができなかった。そも、果たして生者など存在しているのかさえ、危うい様子である。

 だが、そのような中で、彼の耳は幼い子供の悲鳴をとらえた。それは確かに、生者の声であった。彼は声を目指し駆けた。通りの形跡もない場所を、瓦礫を乗り越え、泥の瘤を踏み越える。足の裏に奇妙な柔らかさを感じて何物かと確かめれば、その瘤は人間の、原型をとどめていない遺体だった。メリウスの体は恐怖に震え、視界は揺れる海中へと落ちた。それでも彼は幼い生者を救わんと――或いは己自身への救いを求めて――走った。

 男たちが三人、巨大な石を退けようとしていた。幼い悲鳴は、彼らが退けようと奮闘する巨石の下から聞こえてくる。メリウスは駆け寄って、何も言わずに男たちに手を貸した。退けられた石の下にはメリウスよりも幼い少女と、彼女を抱きしめたままで息を引き取っている若い女性がいた。若い女性の脚は潰れていたが、幼い少女は無傷だった。メリウスは喉を枯らすほどに泣き続ける少女を抱き上げた。

「あなた様は、お若い神であらせられましょうか。無知な我々はあなた様を存じ上げません。どうか、御名をお教え頂けませんか」泥と汗で汚れた男の一人が、メリウスに跪きながら言った。

 メリウスは悲しみに濡れた瞳を、男たちに向け答えた。「僕は愚かな子供です。神などではありません」

 しかし、男たちはメリウスの返答に納得しなかった。「我々は三人の力を振り絞り、長らくこの巨大な瓦礫と戦っていたのです。我々がやって来たとき、この子の母親はまだ生きていたというのに、我々ではこの巨石を退けることができなかった。そこへ駆け寄ってきたあなたが、その細腕を添えられるなり、あれほど重く微動だにしなかったものが、あっけなく退いてしまった。到底人の為せるわざではありません」

「それでも、僕は神ではないのです」メリウスは繰り返し否定した。その頑なさに、男たちは食い下がるのを諦めたようだった。

 少女がいくらか安心したらしいのを確かめ、メリウスは何が起きたのか、男たちに訊ねた。

 三人は身を震わせ、口にするのを恐れる様子を見せた。だが、彼らは神ではないにしろ、神によって使わされたことには違いなかろう少年の問いに、真摯に答えようとした。「まず始めに、大地が揺れました。街全体が、まるで嵐に遭遇した小船のようでした。建物は崩れ、石畳が割れました。それから、浜の水が退いていきました。遥か彼方まで水は退き、大地がどこまでも続いているように見えました。我々はただ呆然として、海は何処へ行くのだろうと、サンゴを眺めていました。そこへ、リヨン様が雷光と共にやって来られて、メレー様の神殿へ逃げるよう言われました。我々は神殿に匿っていただき、そうしている間に海が戻ってきました。それはまるで山のようで、街を押し潰し、全てのものを攫ってゆきました。そして、あらゆるものを掴んだ大波は引き返していきました。けれども、その巨大な海の山は一度のみならず、三度もやって来て、この街を破壊し尽くしたのです。メレー様の神殿だけが、我々を守ってくださいました」

 メリウスは、泣き疲れてまどろみ始めた幼い少女を眺めながら、「この子はどうして生き伸びられたのだろう」と呟いた、そして彼は男たちに雷神リヨンの行方を訊ねた。かれはフェムトスの系譜に属する原初神である。

「リヨン様は、我々に神殿へ向かうよう告げられてから、その後お姿を見かけておりません」男たちは答えた。そして、「神殿に逃れた者たちは無事ですが、高台に住んでいた人々の様子が気がかりなのです。海に襲われはしませんでしたが、地竜が暴れた際に家々や崖が崩れてしまったことには違いありません。聞けば、瓦礫の下で生きている者が大勢いるようなのです。どうか、力をお貸し頂けませんか」と、メリウスに頼み込んだ。

「僕にできることならば、幾らでも」メリウスは男たちの頼みに応じ、少女をメレーの神殿に預けてから、急ぎ高台へと向かった。


 ジュローラの丘は海に襲われてはいなかったが、地面の至る所が裂け、崖が崩れ、家々は瓦礫となって潰れていた。重い石の下敷きになった人々、崩れ落ちた岩に当たり傷ついた人々、滑り落ちた土砂に埋まっている人々、多くの人々が命を失いながらも、未だ多くの人々が生きていた。軽傷の人やメレーの神殿に逃れ無事であった人は、崩壊した街の中で救いを求める声を探し、助け出そうとしていた。

 命は保っているものの、動くことのできない人々が、至る所で蹲り、横たわり、苦しんでいた。メリウスは街中を駆け廻り、人々の傷を癒やしていった。メリウスは動けるようになった人々に、他の人を助けるように言って、次の人、また次の人の元へと走り、癒やし、声をかけ続けた。その様子に、人々は「少年の姿をされた神が救いに来てくださった」と活気づいた。

 しかし、メリウスの心境は悲哀に満ちていた。真の神ならば、人々の傷をすっかりと治してやることができる。メリウスは半神であるがために、それができなかった。数千ともなる人々の全てに手を差し伸べられるだけの力もなかった。彼は人々を救いながらも、無力感に苛まれていた。

 夜が明ける頃、キュアストスがやってきた。かれはまさに癒しを司る神だった。その頃、メリウスは立っていることもままならないほどに疲弊していた。それでも尚次の怪我人の元へ向かおうとする彼を、キュアストスは引き止め、半神の少年に自らの気を吹き込んだ。そして、母か父か、年の離れた姉か兄か、そういった具合でメリウスを抱き横たわらせ、言った。「その幼い身で、力を使い続けるのはさぞ苦しかったことだろう。君の意志力を私も見習わねばなるまい。負傷者のことは私に任せてよろしい。まずは少し休んで、それから瓦礫の下にいる者たちを救けておやりなさい」

 キュアストスの気を取り込んだメリウスの体には力がみなぎっていたが、慣れない神気の取り込みによって思考は幾分混乱し、強い睡魔に襲われていた。うつろな意識の中で、かつては陽光神とも讃えられたキュアストスに寝かしつけられる己はまるで赤子のようだと、メリウスは思い、そのまま眠りへと落ちた。

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