メレーの子(前編)
メレーの子(前編) 1
カエラスに降り立った〈月の
海の担い手となったメレーは、先ず一束の髪を切り取り、海水へと投げ入れた。すると、黒く淀み渦巻く水は間も置かずに透き通りはじめ、泡を湧かせた。水泡は広がり、飛沫を上げ、やがて巨大な神が現れた。その者はラリマーの肌とサファイアの瞳、そして波のようにうねるエメラルドの髪から成っていた。メレーはその雄々しい姿をとった分身に『ピトゥレー』という名を与え、カエラスの広大な海を治めるように命じた。
しかし、ピトゥレーの気性は激しく、その身よりも巨大な波を興し人々を攫い、また或いは小島を沈めるなどといったことをして時を過ごすばかりであった。
メレーは彼の者の宥め役として、十二人の海の妖精姉妹ウェヴィリアをつくった。初めこそ友好的に関わろうと努めた彼女たちだったが、次第にピトゥレーを恐れるようになった。しかし、長女のジャメナは勇敢だった。彼女はピトゥレーの神殿へ通い、かれが人々を苦しめることがないよう日々願った。ところが、激高したピトゥレーはジャメナを殺してしまった。彼女の妹たちは一層ピトゥレーに怯え、かれに意見することはおろか、話しかけることすらできなくなってしまった。
ジュローラの街に、アンドローレスという人間の若者がいた。彼はメレーの神殿で育った神官だった。
ある日、常日頃おこなっているように祭壇で祈りを捧げていたアンドローレスは、メレーの言葉を聴いた。それは、「今からあなたの元へ一人の女が行くから、その者と子を成すように」というものであった。アンドローレスは己の気が違えたのかと感じ狼狽えた。メレーの神官は結婚することも、血の繋がった子を持つことも許されていない。アンドローレスは若くして模範的な神官であったので、そのような望みを抱いたことはなかった。「それはできません」と、アンドローレスは答えた。
メレーは言葉を続けた。「私に仕える人間のうち、最も私に信を置き、常に頼らんとするあなたにこそ伝えている。生まれた子はピトゥレーに託す。他の者ではならない。何故ならば、子への愛着によって、その時に手放すことができないためである。あなたは私の言葉に従うので、この役目を担うことができるだろう。他の者では務まらぬ役目を、私はあなたに与えよう」
「私にとって最も敬愛すべきメレー、どうか戸惑う私の心をお赦しください。私は今、邪悪なる者があなたの気配を真似て、私を堕落させようとしているのか、または私の中に存在する邪なものが、さも偉大なるあなたの言葉であるかのように私自身に語りかけているのか、判らないのです」アンドローレスは祭壇に飾られた七色の光を放つ水晶球へと跪き、言った。
「立って、振り返り、そこにいる女を見なさい」メレーは命じた。
アンドローレスは疑いの晴れぬまま、メレーのものと思しき言葉に従った。そうして振り返れば、すぐそばに一人の女がいる。アンドローレスは顔を覆う薄布を上げて、その者の姿へ人の目を凝らした。美しい女は、古代人のように青白く透き通る肌をして、髪は神殿の銀色を反射させ、瞳はアンドローレスと同じサファイア石の輝きをたたえている。
アンドローレスは焦り顔の覆いを戻し、女に背いて水晶球を仰ぎ縋った。「メレー、この女の名はなんというのですか」と、彼は神と語らう言葉で問いかけた。
しかしメレーは答えず、代わりに彼の背後に立つ女が、人の言葉で答えた。「好きなようにお呼びなさい」
アンドローレスは恐ろしげに再度振り返り、顔の覆いを外し、またよくその女を見た。そして「メレーなのですか」と確かめれば、女は微笑み、アンドローレスの手を取った。だが、彼の問いには答えなかった。
しかし幼少より神に仕え、語り合ってきたアンドローレスには、触れ合った手より通じる気がメレーのものと同一であることが分かった。女の中にメレーの霊が存在していることを、彼は確信した。
親も兄弟もなく育ってきたアンドローレスの居場所は、常にメレーの神殿であった。身寄りのない女を保護したといって、仲間の前では人の姿をとったメレーを『メーリア』と呼び、親しんだ。
やがてメレーはその人間の女体に子を宿した。他でもないアンドローレスとの子である。アンドローレスは初めこそ素知らぬふりをしていたが、元来正直者で嘘のつけぬ性分であるところに、神官仲間から疑われ続けることに耐えきれず、間もなく神官の誓いを破ったことを告白した。
アンドローレスは糾弾され、神殿を叩き出された。メーリアもまた、その霊が休むべき場を追われ、ふたりは露頭をさまようこととなった。尊敬を預かる神官の規則を破ったアンドローレスの噂は忽ちにジュローラ中へと知れ渡り、誰もが彼を見下げ、美しきメーリアは高潔なる神官を堕落させた汚らわしい女と罵られた。
メーリアは食事を要さなかった。十二回の満月を見送る間、彼女は食物はおろか水さえも口にはしなかった。しかしながらその体は決して痩せ細ることはなく、瑞々しい美しさを保ち続け、その胎の中で成長してゆく生命を護り続けた。
しかし、純然たる人間のアンドローレスが衰えるのは早かった。物を乞うたところで見向きもされず、時に暴力をも振るわれた。しかしながら盗みを働けるほど堕ちることもできず、彼は泉の水を飲み、野草を食んで過ごした。英気ある若さを湛えていた肉体が、あらゆる骨を皮の下に浮き上がらせるようになるまでに、さほどの時間は要さなかった。
月の満ちた凍える夜、メーリアは男児を産み落とした。その嬰児を抱き、衰弱し立つこともままならないアンドローレスを支え彼女が向かった場所は、波が激しく砕ける海だった。そして、朦朧とするばかりのアンドローレスに、メーリアは言った。
「あなたは私を恨むこともせず、疑いもせず、いかなる時も私と共に在ることを望み、他者から蔑まれ、飢えても、その意志を貫き通した。あなたの魂に、私は祝福を与えましょう。間もなく私はこの肉体を離れ、霊としてのメレーに戻る。あなたもまた肉体を離れたなら、霊として在り続けなさい。私と共に在りなさい。私の手として、時には足となり、私の一部となるのです。あなたが生前に負った不名誉はやがて消え去り、いずれは讃えられることでしょう」
アンドローレスの喉は乾き、人の声は出なかった。ゆえに、彼は神の言葉で答えた。「名誉が欲しいとは思いません。
メーリアは嬰児とアンドローレスを抱き、ふたりと共に波打つ海の中へとその身を沈めた。濁流の中で、メーリアは嬰児を手放した。そして、小さくなった肺から僅かばかりの気泡を吐き出したアンドローレスを、強く抱いた。
間もなく、ふたりは人の身を抜け出した。かれらは〈永遠なる者〉たちの住まう
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