白い蝶々
月寧烝
第1話 白い蝶々
子供は走った。息を切らして走った。
何かに足をとられ転ぶ。
気づけば片方は裸足だった。
子供の後ろには赤い足跡が続いていた。
暗い木々に囲まれ、子供は星に願う。
「お星さまお願い、あの子を連れていかないで」
子供はボロボロの体で星に願う。
「お星さま…」
子供の顔は赤く、瞳には涙が溜まる。
すると、見かねた誰かが子供に声をかけた。
「星たちは話さんよ。お主に何があったかは知らんが夜も深い、はやくお帰り」
老人のような声。
子供は声の主を探すが誰も見つけることは出来なかった。
「誰ですか」
子供は先ほどまでとは別人のような顔つきで息を飲んだ。
「そう警戒せんでもええ、お前さんの目線にいる」
声をかけたのは小さな繭だった。
「あなたはお星さまを知っているのですか」
子供は素直に目の前の繭に問う。
「知っているとも。
あやつらは見ているだけだ。耳が遠いから願いを聞き取れんのじゃ」
「…そうですか。
あなたは、良いですね。そこから出ることが出来れば、お星さまの元に直接お願いしにいけるのですから」
「お前さんも行けるじゃないか」
「今行かなきゃ意味がないんです」
子供はムキになった。
それから子供は、星が良く見える夜にやってきては祈ることを繰り返した。
健気に祈り続ける子供を繭は静に見守っていた。
犬でも人間でもなく小さな繭だけが子供を見守っていた。
子供はいつも同じ願いを口にした。
子供が帰り、いつもの静寂な夜が戻る。
繭はとうとう星へ、怒りをぶつけた。
「こんなに必死に小さな子供が祈っとるのに、あいつらは一体何をしとるんじゃ。返事ぐらいしてやらんか」
そんな繭の声が響く。
「良い子の願いしか叶えられない。例えそれが繭の願いでも無理なものは無理なんだ。虫けらなんかが話しかけるな」
星は反論した。
繭は怒りで揺れた。
「貴様らは自分が無いのか」
そんな星たちの言い争いを知ってか知らずか、子供は夜になるとまた祈りにきた。
だが今宵の子供はいつもよりもボロボロで見ても耐えない格好だった。
いったいこの子供に何があったというのだ。
祈り終わるのを待って、繭は子供に聞く。
「その格好は、どうした…」
子供は血だらけの手をぷらんと無気力に下げた。
繭を見つめる子供の瞳は夜の海のような息苦しさを訴えているように思えた。
「自分が子供だからです。強くないから」
「…そうか」
繭はそれ以上何も聞くことはなく、ただただ自分の無力さだけを呪った。
あの夜から子供は繭に心を開いた。
毎晩子供が繭の元へやって来ては、今日はどんなことをしたか話した。
寺子屋で何を習った、おさがりの下駄を貰った、下の子たちのお箸を作った、など他愛のない話をしながら、子供が持ってくるパンを二人で分けて食べる。
話が終わると、子供は来たついでにと、星に祈りを捧げる。
子供はいつしか星ではなく、繭に会いに来ていた。
星以外にも自分を見てくれている人がいるんだと思えたのかもしれない。
いつしか二人の間には友情と呼ばれるものができていた。
そんな日々がしばらく続いた、ある夜。
子供はいつぞやの時のような、いやあの時よりもずっと身体中傷だらけでやって来た。
その時も子供は
"自分が子供だから、弱いから"
と、小さな声で言うだけだった。
その日、子供は星に祈りを捧げなかった。
繭はいてもたってもいられず子供に祈りの内容を、星にすがり付いてまでいる理由を聞いた。
「死んだんだ」
静まり返った夜の森に溶け込む子供の声。
子供はそれだけを言うと大粒の澄んだ涙を流しながら、これまで秘めていた思い、悩みを繭に打ち明けた。
いつもの静かな夜の森も子供の話を真剣に聞くかのように、風が頬を撫でた。
血が繋がっていなくても、たった一人の兄妹なんだ。
妹が死んだ。
元々病弱だった妹は、いつしか村の子供たちのいじめの標的にされていた。
親は気づいておらず、先生も助けてはくれない。
妹を助けるために、子供は相手を殴ったのだ。
こんな小さな体にこれだけの悩みを一人で抱えていたのだ。
せめてもの思いで、繭は同情せずいつもの口調で助言をした。
「お前さんはいいやつじゃ、今までしてきたことは消して悪いことじゃない。確かに兄弟を守るためでも暴力は良いことじゃないがそれで良かったんじゃ。
…後は、私が引き受けよう」
世界の影になるかわりに、
命など無い、世界の言いなりに。
妹が死んでからも相変わらず朝は来る。
子供は寺小屋へ行くために森を抜ける。
森を抜けた道の先で、誰かが投げた小石が子供に当たった。
いじめっこたちだった。
今までは妹を守るためだけに、いじめっこたちに立ち向かっていたがもう守ってやる妹はどこにもいなくなった。
ひとりの幼い子供には、もう何も失うものは無かった。
子供は変形してしまった手を握った。
「僕は…、暴力は嫌いなんだ」
喧嘩が始まった。
いじめっこたちは驚いた。
この子供はこんなにしぶとく、強かっただろうか、と。
いじめっこたちは逃げて行き、子供だけがその場にポツンと立っていた。
冷たい頬に涙が流れる。
「勝ったのに、ちっとも嬉しくないや」
妹を守るために変形してしまった手は今や醜いだけのように思えた。
その光景を全て、ただじっと見てきた繭。
「闇には慣れているさ」
繭は、誰にも聞こえないであろう言葉を呟く。
すると、何処からともなく影が現れた。
影が繭の体を取り囲む。どう足掻いてもここからはもう逃げられない。
繭は腕が伸び、足が地面についた。
その姿はまるで人間のように。
だが、吸う空気は氷のように冷たく、体中に突き刺さる。
「どうか、あの子が大人になっても笑っていて、幸せでいて。
そう願うのが友だろう」
繭は影をつたう。
繭はとうとう蚕にはなれなかった。
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