【短編集】氷柱奇譚
平蕾知初雪
初めてのイギリス旅行
三十代の頃の篤子さんはいわゆるキャリアウーマンで、人間関係にも恵まれ、忙しくも充実した日々を送っていた。しいて悩みを挙げるなら、有休消化をしようにも一緒に出掛ける相手がいないことくらいである。
あるとき篤子さんは一人旅でもしようか、と思い立った。
折角なら多めに有休を取って海外へ行きたい。フットワークの軽い篤子さんは、すぐにホテルと飛行機の予約を済ませた。必要なものも買い足して、あとはもう当日を迎えるばかりだ。
そして出立の数日前、普段から足繁く通っているカフェを訪れた。
「あのね、マスター。私こんど旅行行くの。海外旅行」
注文もそこそこにそう告げる。既に篤子さんが興奮しているのが伝わったのか、カフェのマスターはにやにや笑っていた。
「どこに行くんだい?」
「イギリス、ロンドン。初めてだからすごく楽しみなの」
それを聞くと、マスターはますます口角を上げて笑んだ。
「なに? なんでニヤニヤするの?」
篤子さんがしつこく聞いても、マスターは首を振るばかりでまったく口を割らない。コーヒーを飲み終わった頃、たった一言だけこう言った。
「行けばわかるから、いってらっしゃい」
翌週、イギリスから帰国した篤子さんは再びそのカフェを訪れた。
「ちょっとマスター! なんなの? この道を歩けばあの建物があるとか、ここを曲がればあの川沿いに出るとか、この道は見たことがあるとか、私全部わかったんだけど。一体なにあれ!」
篤子さんが息を荒げて捲し立てると、マスターは声を上げて可笑しそうに笑った。
「だって僕は、初めて篤子ちゃんに会ったときから見えてたんだよ。広いホールで、きみが裾の長いお姫様みたいなドレスを着て階段の踊り場のような所でお辞儀をしてる、そんな光景だったの。きっと篤子ちゃんから前世の記憶が滲み出ていたんだと思う」
篤子さんには真偽のほどはわからないし、ドレスを着た前世の自分など見えたことはない。
しかし世の中には前世の記憶を持っている人がいて、そういう人からは前世の気配が漏れ出ている。そしてそれが見える人が稀にいる、ということらしい。
「マスターの淹れるコーヒーも美味しいんだけど、さすが兼業占い師だわ。よく当たるわけだよね」
以来、篤子さんはときどき前世の記憶を思い出すようになったそうだ。
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