可惜夜 Ⅰ

 二階のあてがわれていた部屋へ赴こうと階段を一段、二段と足をかけていく。


 そうしていながら、リュディガーに頼りきりなのは気が引ける、と背中に添えられている大きな手から離れようと重心を動かした。


 ふわり、と身体が動いた直後、身体がしっかりと固定された。


「__大丈夫か?」


 腰回りに太い腕が回され、リュディガーの身体に引き寄せられて、先程よりも密着していることに気づいた。


「危なかったぞ」


「……危ない……?」


「しっかり」


「い、いえ、今のは__」


 弁解しようとするキルシェに、ほら、とリュディガーが促した途端、身体__足にかかっていた重さが軽減されて、軽やかに階段を上がっていく。


 腰に回された腕で少しばかり抱えられているのだ、と理解したときには、部屋の前だった。


 支えられたまま、リュディガーが開けた扉をくぐって踏み入った部屋。その暖炉は時間が経ちすぎていて、じんわりとくすぶる熾だけになっていた。


 他に明かりはなく、熾であってもそこが目立つ光源。流石にそれだけでは、暗すぎる。


「__明かりを」


 キルシェがいつものように声をかけて、二拍手を軽く打てば、呼応して魔石の温かみのある色の灯火が灯る。


「そこへ」


 リュディガーの誘導に従い、座らされたのは、暖炉近くに置かれているソファー。


 キルシェを座らせると、リュディガーは暖炉の火を熾しにかかった。


 ソファーの肘掛けと背もたれに身体を預けながら、キルシェは大きな背中を見守る。


 __本当に大きな背中だわ……。


 屈んで、大きな背中を丸めて、まるで__


「__熊……」


「ん?」


「ぁ……いえ、何も……」


 知らず知らず思った言葉がそのまま口から溢れたいた事を、リュディガーが振り返ることで知り、慌てて笑って誤魔化しつつ首をふる。


「リュディガー、袖が……」


 正装の飾り袖が、彼が腕を動かす度に床を擦っていることに気づき、声をかける。暖炉の傍であれば、まず間違いなく他の場所よりも煤や埃が大いに違いない。


「ああ、忘れていた」


 飾り袖の先を腰の帯へ挟み込み、暖炉の中へ薪をくべ始める。もう休むことを見越して、細い物を多めに、そして太いものは3本だけ。


「ごめんなさい、汚れることをさせてしまって」


 暖炉の中で、燃えさしに引火し、細い枝が炎にはまれ始めたのを確認して、手を打って埃を払う仕草をするリュディガーへ、キルシェは詫た。


 なんの、と笑って振り蹴ったリュディガーは、立ち上がりながら他の部分の埃を払い、皺を伸ばす。


「気分は悪くないのか?」


「えぇ……ふわふわするだけで……気持ち悪さはないの。まるで、ぬるいお湯に包まれている感じで……」


「なら、いいところで止められたらしいな」


「いいところ?」


 肩をすくめるリュディガー。


「褒められない飲み方の、手前ってことだ」


「そう……」


「介抱役というほどの役目がなくてよかった」


 冗談めかしたリュディガーにキルシェは苦笑する。


「米の酒は、葡萄酒に比べて強い。ものによっては癖がないし、甘く感じるものもあるから、口当たりも良くてするする飲める」


 説明をしながら、リュディガーは部屋に常備されている水差しを持ち、グラスへ水を注ぐ。


「今日のが、それ……?」


「ああ」


「そうなのね……」


 ふぅ、とキルシェは息を吐く。吐き出す息が熱く感じられる。


 そこへ水を注いだグラスをリュディガーが差し出してきた。


 ありがとう、と受け取って、キルシェは一口水を飲んだ。体温より遥かに冷たい水が、体の中を落ちていくのがよく分かる。


「結構なはやさで飲んでいたから、冷や冷やしていた。幸い、年長者のお二人は、よく気がついてくださる方々だから」


「ええ、そうね。とても気を利かせていただいたわ……ありがたいです。とても楽しくて……」


「とても楽しそうではあったな。おかげで、独りで均衡も保てないぐらいに飲んでいた」


「違うわ。あれは、貴方に頼り切りなのは駄目だから、と__」


「それだ。その判断のしかたが、もう酒が回ってる証拠だ。あの時、君、びっくりするほど急に身体が反れたんだぞ。一番ひやり、とした」


「またそのような……」


「自覚がないなら、そういうことだ」


 呆れたような表情をするが、どこか人の悪い笑みを浮かべているように見える。


「……本当?」


「嘘を言ってどうする」


 それは確かに、とキルシェは頷いて水を今一度口へ運ぶ。


「動けるうちに、身支度をしておいた方がいい」


 彼の言うことが間違いなく正しい、とキルシェは自嘲した。


 ふぅ、と熱いため息を零しながら、テーブルへグラスを起き、キルシェは化粧机へと移動しようと席を立つ__が、ぐにゃり、と視界が崩れるように滑って、たたらを踏みそうになりながら、背もたれに取り付くようにすがった。


 つぶさに異変を見抜いたらしいリュディガーは、背もたれにすがったときには、すでに手を背中に添えている。


「急に動かない方がいい」


「そんなつもりはないの……ただ、身体がふわふわして……」


 説明しながら、自分の状態を振り返ってみれば、先程よりもふわふわとした心地が増したように思う。自分の周りに視えない水の流れがあるように、重心を保とうとするのに動いてしまうのだ。


 身体の火照りも強くなったように思う。


「あぁ……あれだな」


「あれ……?」


「部屋へ下がって、緊張しなくてすんだから、一気に回ったんだろう」


「そういうもの、なの……?」


「なくはないな」


 くつり、と笑うリュディガーだが、直後、真剣な顔になる。


「__吐き気はないか?」


「ええ、それはないわ。気分は、相変わらずいいの」


「ならよかった。__手伝えることは?」


 ソファーへ再び座らされるキルシェは、化粧机を示した。


「箱を__」


「箱?」


「化粧机の上に、錫でできている平たい箱があるの。それを……」


 わかった、とリュディガーは化粧机に向かっていき、すぐに錫の箱を見つけて手に持つと、これでいいか、とキルシェに示した。


 キルシェはこくり、と頷きを返せば、彼は戻ってきて手渡してくれる。


「ありがとう」


 発する言葉は、身体の火照りの熱い息を孕んでいる。


 箱は平たく、手の平より一回り大きいもの。それを膝の上で広げ、中に敷かれている濃い紫の天鵝絨の布を一枚取り出して、蓋の上に置いてから、キルシェは右耳に手をかける__その耳飾りに。


 大ぶりのそれを外して、箱に寝かせるように置き、蓋の上に被せていた天鵝絨の布で覆うと、もう一方も同様に外しにかかった。


「その入れ物か」


 キルシェは外しながら、笑みを持って答える。


 天鵝絨の布の上に外し終えた耳飾りを置き、しばし眺めて、宝石の表面を軽くなぞった。

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