第17話「蝉がうるさかったから」
あれから三年が経った。あの忌まわしき八月一日、僕は何故かこの町に立っている。今、僕がここで、こうして自由に歩き回っているのは、本来であればあり得ないことだ。日本の法律はそれを許さないし、僕だってもう二度と戻るつもりはなかった。
それなのに僕はここにいる。いろいろな偶然が重なった結果だ。それは偶然というより奇跡と言った方がいいのかもしれない。それくらいあり得ないこと。それが今この町で起きている。だけど、もし僕の推測が正しいとすれば、これはきっと必然だった。それは僕が嫌というほど思い知らされた、運命によく似た顔をしている。もっとも、これは推測なんて言うよりも、ただの想像に過ぎないのかもしれないが。しかし、目の前に見えるその姿が、僕の想像を肯定しているように思えてならなかった。
「もう雨止んでるよ」
魔女が自分の傘を畳みながら言った。相変わらずのダッフルコートに赤いマフラーだ。先ほどまでパラパラと降っていた雨が止んでいるのを手で確認して傘を畳む。
「久しぶり、匂坂くん。元気にしてた?」
「あんまりかな。逃走中の身だからさ。生きた心地がしないよ」
「それは大変だ」
そのケタケタという笑い声がなんだか懐かしい。
「昔、君が他の人にどう見えてるかって話したの覚えてる?」
「覚えてるよ。それが?」と魔女が不思議そうな顔で訊き返す。
「あれって、カメラとか鏡はどうなるのかなと思って。吸血鬼は鏡に映らないって言うだろう?」
「そんなの気分次第だよ。映りたかったら映るし、映りたくなかったら映らない。ずっと言ってるでしょ? それが魔女だよ。吸血鬼なんて化け物と一緒されるなんて心外だなぁ」
魔女もまたいつかのように不満を露わにしたので、僕も「ごめん。人と話す機会が少なかったんだよ、この三年間」と笑顔で返す。
「それにしても、久しぶりに会って訊くことがそれ?」と魔女は首を傾げた。
「そこかしこに防犯カメラがあるだろ? 君があれに映らないなら、僕は一人でキョロキョロしている不審者だ」
田舎道には似つかわしくない無骨なカメラが点々と設置されている。きっと三年前の事件が原因なのだろう。
「意外と気にしいだね、匂坂くんは」
「映る気分になってくれると助かるよ」
飽きもせずにケタケタ笑う魔女に僕はリクエストする。
「いいよ。それでどう? 久しぶりの故郷は」
「あんまりいい気分じゃないかな。だって僕の想像が正しければ、僕は今日また人を殺さなきゃいけないんだろ?」
僕は魔女の目をじっと見つめてそう口に出した。改めて言葉にすると、なんとも物騒な話だ。それを聞いた魔女の顔を見て、想像は確信に変わる。
「やっぱり君は面白いな。私の期待通りだった」
「少しでも魔女の役に立てたなら光栄だよ。君には随分と世話になった」
もし魔女に出会えなかったとしたら、僕はきっと一生後悔の中で生きていくことになったのだと思う。
「そ? でも私もたくさん楽しませてもらったよ」
「だったら君の期待に添えたご褒美に一つお願いを聞いてほしいんだけど」
「いいよ。なに?」
優しい魔女はあっさりと快諾する。だから僕も意を決してそれを言うことができるのだ。
「ちょっとそこまでデートしようよ」
*
「時計、まだつけてくれてるんだね」
隣り合ってあの裏山を登っている最中、魔女が僕の左手首に視線を落としてそう言った。
「この時計と、着ている服と、傘が今の僕の全財産だから」
これから最後の勝負をしに行くと言うのになんとも心許ない装備だ。
「それは可哀想だな。でも残念ながらもう私があげられるものはないんだ」
魔女が申し訳なさそうな素振りをする。いつもの芝居がかったあれだ。
「いいよ。前に言ってただろ? 君とデートができるだけで元気づけられるんだ」
「言うようになったじゃん」と魔女は満足げに頷く。
「君のおかげだよ。君はずっと正しかった。あの時からずっと」
「そうかな?」
「そうだよ。やっぱりあの時、君の言った通りだった。君の言う通り、僕は逢野に恋をしてた。僕は逢野昭が誰かに傷つけられることが許せなかったんだ。あの父親に汚されていくことが許せなかった。僕の知る逢野はそうじゃなかったから。逢野昭は、真っ直ぐで、綺麗で、自由でなきゃいけなかった。そう在って欲しかった。だから誰かに傷つけられて壊される前に、僕が自分の手で傷つけて終わらせることを選んだ。そんな身勝手で、我儘で、エゴイスティックな想い。相手のためにする、愛なんてとても呼べたものじゃない、それが僕の醜い恋心だったんだ」
ずっと認めたくなかった。そんな自分勝手な感情を逢野に押し付ける自分を。だけど僕が選んだ現実は、やっぱりそんな醜いものだった。だったら認めるしかない。僕は逢野昭に恋していたのだと。あれだけ認めたくなかった醜く幼い想いも、一度受け入れてしまえば案外楽になるものだ。開き直ってると言われればそれきりだが、これはもうどうしようもないことなのだろう。教室の片隅でツルを折ろうとしていたあの時から、僕はずっとそうだったのだ。
しかし、そんな僕の穏やかな心とは裏腹に、魔女は思案顔を作っている。そして優しい微笑みを浮かべながら、指を一本こちらに差し出した。
「やっぱり匂坂くんは一つ勘違いしてるよ」
「勘違い?」
あの日と同じようなやりとり。この期に及んで僕はまだ間違いを積み重ねているのだろうか。
「確かに私は君が逢野さんに恋してるって言ったよ。恋は自分のためにするものだからって。それは間違いない。でも私は別に、愛は相手のためにするものだなんて一言も言ってないよ」
それは思ってもみない一言だった。鼓膜の奥底で大砲を撃ち込まれたような衝撃。あの時僕の頭の中では、その二つは対極にあるものだと決めつけていた。コペルニクスも直立不動を貫くくらいに。
「恋は自分のためにするもの。愛は自分たちのためにするものなんだよ」
「……自分たち?」
「そう。自分たち。自分たち以外の全てを投げ打ってでも、それでも二人の願いを貫き通す。二人でいることを選ぶ。二人の究極的な利己主義。それが愛だ。相手のためにするなんて、そんな献身的なものじゃないよ」
二人の究極的な利己主義。なんと甘美な響きだろうか。その言葉を聞いた時、僕は胸の中でずっと引っかかっていた一つの感情に名前をつけることができた。もしそれが正しいのだとすれば——
「僕は君のことを愛してるんだと思う」
なんと間抜けな言葉だろう。それでも言わずにはいられなかった。
魔女は珍しく虚を突かれたとでもいうように一瞬静止し、奇妙な静寂がそよ風のように流れた。そうして、今度は耐えきれなくなったかのように、大きな笑い声が
「初めてだよ。そんな告白なんてされたの」
目尻に優しく触れながら魔女は言った。とびきり
「告白なんてものじゃないよ。ただの確認だ」
魔女と僕にはどうしても見たい景色がある。全てを投げ打ってでも見たい景色が。その景色を見るために、僕らは何度も過去に戻っては打ちのめされていたのだ。共有されたこの想いに名前があることを、ぼくは今初めて知った。身勝手で、我儘で、エゴイスティックな二人の愛。
僕は逢野昭に恋をし、魔女を愛している。
「本当に匂坂くんは面白いね。大好きだよ。私も」
今度はいつもの調子に戻った魔女が、またケタケタと喉を鳴らした。
「嬉しいよ。心から」
魔女がいたから僕は前に進むことができた。魔女に出会えて良かったと、切実にそう思う。僕は魔女からたくさんのものを貰った。たくさんのことを教えてもらった。だけど僕が魔女にできることと言えば、僕の物語で魔女の退屈を紛らわせることくらいなのだろう。それが愛する魔女に贈れる、僕のたった一つのもの。とっておきのたった一つだ。
僕の人生が、魔女に当てた一通の手紙のようなものになるのだとすれば、それほど良いことはない。
*
「いい景色だねぇ」
壮大な確認を終え、切り立った崖の上まで辿り着くと、魔女が大きく手を広げてそう言った。町中と大空を一望できる最高のロケーションだ。
これを見るとやはり彼のことを思わずにはいられない。ララ・エイビス。彼はどんな思いでこの空を駆け巡ったのだろうか。
「やっぱりエイビスは飛んだんだよ」
今ここにきて、やっとそれを確信できた。僕がララ・エイビスを信じ続けた理由を。
「エイビスはさ、ずっと馬鹿にされてた。空なんて飛べるわけがない。北の森になんて行けるわけがない。それでもエイビスは諦めず直向きに空を目指し続けて、ようやく辿り着いた北の森は手垢の付いた汚い世界で、自分と同じように窮屈な世界にうんざりしている人間がいて、それが何よりの絶望なんだって君は言ったよね」
「うん。それは最期に目指した宇宙だって同じことだって」
「でもさ、きっとエイビスは楽しんでたんだよ」
「楽しんでた?」
「そう。他の鳥たちに馬鹿にされながら、その小さな翼を精一杯羽撃かせていた時も。わけのわからない人力飛行機と毎日睨めっこしながら整備していた時も。何度も失敗して、何度も馬鹿にされて、それでも何度も挑戦する。そんな時間をエイビスは楽しんでたんだ」
魔女は僕が吐き出す言葉を決して聴き逃しはしないと言うように、真剣な顔つきで耳を傾けてくれていた。そんな魔女がいるから、僕は安心して全てを話すことができる。
「だからエイビスは飛んだ。焦がれ続けていた場所に未知も自由もなかったと知っても、新しい未知を求めて、新しい自由を求めて飛ぶことを選んだんだ。トリカゴの外を目指そうと踠き羽撃くその瞬間こそが、エイビスにとっての何よりかけがえのない時間だったんだ」
「それが匂坂くんの答え?」
「そうだよ。それが僕の信じた、ララ・エイビスだ」
空に焦がれ続けたエイビスは、新しい空を目指しながらその一生を終えた。憧れ続けた大空で彼は人生の幕を下ろしたのだ。その瞬間彼はこの世界の誰よりも自由で、誰よりも幸福だった。彼は幸福の絶頂の中死んでいったのだ。
「やっぱり匂坂くんは最高だね」
そう言って魔女は嬉しそうに手を鳴らした。僕にはそれが祝福を告げる音色に聴こえる。
「ねぇ、匂坂くんは私の名前知ってる?」
「時の魔女でしょ?」
「それは人間の呼び方。本当の名前は別にあるんだ」
そういえばいつかの中華料理屋で、安直だと笑ったことを思い出す。あの時はこんなことになるなんて、思いもしなかった。全てが始まったあの場所にも、もう戻ることはないのだろう。
「私の本当の名前は、
徒花。安直ではなくなった。むしろややこしい。気取ってるようにも聞こえる。それでも、なんだか耳に優しく馴染む。
「素敵な名前だ」
「本当に思ってる?」と魔女は訝しげな顔を浮かべる。
「思ってるよ。でも間違ってる」
そうだ、間違ってる。だって——
「無駄じゃなかった。君の魔法で僕は救われたから」
君に会えて良かった。君の魔法はとても綺麗だった。だから無駄なことなんて一つもない。実る必要なんてないんだ。その花がなによりも美しいのだから。
「優しいね。匂坂くんは。私も君に会えてよかった。君じゃなきゃだめだった。だから——私を見つけてくれてありがとう匂坂くん」
それは僕にとって、この上ない賛辞だった。
「そろそろお別れの時間だね」
惜しむように魔女がその時を告げる。僕は返事をする代わりに、地面に窄めた傘を突き立てた。魔法の力はないから、雨でぬかるんだ土の上に。これが愛する
「いいね。どこに刺したの?」
当然のことを確認すると言った様子で、魔女はこちらに視線をやった。僕はそれに答えるように、
「神様の掌」
気づくと魔女の姿はいつかのように消えていて、あのケタケタという笑い声だけがしばらく響いていた。
*
それからしばらく一人でエイビスに思いを馳せていると、すぐにその時は訪れた。懐かしい声が耳に突き刺ささる。途端に僕の頭はその人で埋め尽くされた。そうして僕は声の先へ目をやる。一番会いたくなかった。だけど、一番会いたかった人。
「やっと見つけた」
——そこには逢野昭が身構えるように立っていた。
僕はいつかの約束を思い出す。「どこにいても絶対わたしが見つけるから」。あの日、逢野はそう言った。あれから僕は何回逢野に見つけてもらったのだろう。何回も、何回も、僕がどこにいても逢野は必ず僕を見つけに来てくれる。自分がどこにいるかわからなくなったとしても、逢野さえいれば大丈夫なのだと僕は信じられた。僕はずっと逢野に救われていたんだ。僕の隣にはいつも逢野がいて、それだけで自分の存在を信じることができた。隣にいなくても生きて行けるなんて、呆れるくらいの嘘っぱちだ。逢野がいないと僕は駄目だった。逢野昭がいたから僕は僕でいられたのだ。
そして今日もやっぱり逢野は僕を見つけてくれた。
「どうして、……どうしてお父さんを殺したの」
目を潤ませながら逢野が掠れた声を出す。きっと何度も考えて来たのだろう。この三年間ずっと、その答えを探して彷徨い続けて来たのだ。
だけど、僕の答えは決まっていた。
「——蝉がうるさかったから」
僕にあるのは、ずっとそれだけだ。彼を殺すのは逢野であってはいけなかった。逢野が彼を殺す未来だけは許してはいけないと。そう蝉の声が僕を駆り立てたのだ。だから僕が殺した。それで終わると思っていたから。
「……ふざけないで!」
怒りだ。身から沸々と湧き上がるような怒り。それは逢野のこの三年間を何よりも如実に表していた。父親を殺した僕を怨み続けて、毎日生きて来たのだろう。いつか来るこの日を待ち続けながら。
きっと逢野は、心の底から父親のことが好きだったのだと思う。彼は本当に優しい父親として逢野に記憶され死んでいった。それでいい。幸福の象徴として彼は、今でも逢野の心で咲き誇り続けてくれている。代わりの怒りや悲しみは僕が全て引き受けよう。
いつの間にか逢野の手には包丁が握られていた。手を震わせながら、鋒を僕の方へ向けている。
神様ってやつは本当に性格が悪いのだなと思う。僕らはこの夏からはどうやったって逃れられない。過去や未来で何をしてもだめなのだ。結局僕たちはここに戻って来る。僕らはこの八月一日に打ち克たなければ前に進めないのだ。
だからやっぱり、僕が殺す。逢野に殺させるわけにはいかない。三年前の先延ばしを今ここで清算しよう。
逢野がこちらに向かって走り出した。その顔は怒りに打ち震えているようにも、悲しみに打ちひしがれているようにも見える。どちらにせよ僕が引き受けるべきものだ。これが最後だ。これで全てが終わる。
——僕は手を大きく横に開いて、倒れるように崖から身を放り投げた。
落ちていく。風を切るように落下している。地球が僕の到着を歓迎するようにその力を働かせていた。
空中に刃を突き刺した逢野の取り乱した顔が目に映る。ああ、これが僕のハッピーエンドだ。見てるか? ようやく僕の長い長い八月が終わる。ふと魔女に貰った腕時計が目に入った。あと三秒だ。二秒、一秒。時計の針が七時二八分三七秒を指したその瞬間、僕は勝ち誇った顔で天に手を伸ばした。
「これが僕の飛び方だ」
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