第6話「好奇心は猫をも殺す」
それはあまりにも呆気なく訪れた。あれだけ毎日怯えていたにも関わらず、いざその瞬間になると、不思議とどこか冷静にこの状況を
『
朝刊の一面にはそう大きく報じられていた。『一二日午後一一時頃、埼玉県の住宅で職業不詳の
遂にこの時が来てしまった。いつかは来るとわかっていた。いつまでもこのままでいられるわけがないのだと。だから、こうなった時にとるべき行動も何回も考えていた。何回も、何回も考えていたからわかっている。もうここには居られない。新聞に報じられているということは、もうニュース番組等でも事件の報道がなされているだろう。顔写真は載っていないとはいえ、この状況で怪しまれないわけがない。終わりだ。今すぐにここから立ち去らなければならない。そうわかっているはずなのに、もしかしたらの六文字がどうしても頭の中をよぎってしまう。もしかしたら。桐枝さんなら、もしかしたらわかってくれるかもしれない。正直に全部説明したら、僕たちを受け入れてくれるかもしれない。そんなどうしようもない期待が、希望が、頭をついて離れないのだ。
桐枝さんの全てを見透かしたカトレアのような笑顔を思い出す。この数日間で何度も見てきた。昨日も、あんなに楽しそうな顔で、僕らを光の世界に導いてくれた。あの人なら、あの人ならもしかしたら——。
だめだ。そんな期待を抱いてはいけない。そんな期待を強いてはいけない。人が一人死んでるんだ。その重みを軽んじてはいけない。僕たちは一刻も早く、この家を立ち去るべきだと。初めからわかっていたはずだ。
そう決意して僕は、気休め程度に新聞から逢野の事件が記載された一面を抜き取って、残りを郵便受けに戻した。少しでも思い出が壊れないようにと祈りを込めて。僕に関する記述は一切載っていなかったその新聞を。
*
逢野はずっと黙っていた。バスの窓ガラスにもたれながら、黙って外の景色に視線を向けている。しかし僕には、その瞳が映す先は、本当はもっとどこか別の場所であるように感じられた。
眠っていた逢野を起こしてあの新聞を見せると、一瞬険しい顔を見せた後、すぐに全てを理解したように何も言わずゆっくりと一回頷いた。そうしてすぐに荷物をまとめると、僕たちは足早に桐枝さんの家を出発したのだ。まだ何も知らず眠りこけている家主に一言も告げることなく。
あの一瞬の間に、逢野も僕と同じことを考えたのだろうか。桐枝さんならもしかしたらと。わからない。しかし、このバスに乗って以来一言も発していない逢野の姿が、何よりもそのことを肯定しているように思えた。そして僕はそんな逢野にかける言葉を、またしても持ち合わせてはいない。ミズチ町から少し戻った町で電車に乗り換えても、逢野は黙りこくったままだった。僕だけが空疎な言葉を空打ちしていた初日とも、二人で意味のない話を交わし合った二日目とも違う、重い、重い沈黙が支配する、三度目の移動はそうして更けていった。
*
「猫だ」
数時間ぶりに耳にした逢野の声は、とても短く完結していた。沈黙の長旅を終え辿り着いた町の商店街で、少しでも顔を隠せたらと帽子を——入り口に扉がなく、通路に商品がはみ出しているいかにもといった感じの服屋で——購入してすぐのことだ。もう閉店が近いのか、あまり愛想の良くない中年女性の店員に急かされながら店を出たその瞬間だった。店の目の前を占拠するように、猫が身体を丸めて座っていた。首輪はつけていない。白黒茶で縞模様になった三毛猫だ、僕達を見定めるかのように、店の方へじっと向いている。
僕らが近づこうとすると、猫は徐ろに起き上がって裏路地の方へ歩き出した。駆けるわけでもなく、ゆっくりと進んでいる。それを見た逢野はこちらを
猫はそのまま裏路地を抜けててどんどん進んで行く。換気扇に飛び乗ったり、看板に登ったりジグザグと、気ままに。時折何かを気にするように後ろを振り返る姿は、まるで僕たちがしっかりついてきているかを確認しているようだった。その証拠に——なんて言ったら馬鹿みたいな話だが——、猫が塀に登ったり狭い道に入ったりしても、不思議と見失うことなく追いかけられている。この猫がどこに向かっているのかはわからないが、跡を追えば追うほどまるで僕たちをどこかへ手招いているような、そんな気にさせてくるのだ。
そうしてしばらく跡を追いかけると、風景が次第に建造物から樹木へと変わっていき思わずあの森のことを思い出してしまう。しかし、猫はそんなことはお構いなしといった様子で前進していく。そうして少しすると、一面の緑の中で存在感を発揮する真っ赤な鳥居が目に入った。神様も気後れしてしまうのではないかと思うくらい、美しく荘厳な赤色だ。そんな鳥居の真ん中を、尊大な様子で突っ切る猫に僕たちも続く。そのまま猫は一段の深い石の階段をするすると器用に登って行った。その小さな身体のどこにそんな力があるのだろうか。人間としても登るのはなかなか億劫な階段だと言うのに。
僕たちが少し息を切らして階段を登り切ると、猫は拝殿の前の賽銭箱にふてぶてしく鎮座していた。まるで自分がここの主人だとでも言うような態度だ。まあ確かに、その大きさと鳥居の美しさににそぐわず、なかなかに寂れているこの神社は、猫一匹が仕切っているくらいがちょうどいいのかもしれない。ザッと見渡した限り
「ついて来いって言われたような気がしたの」
逢野が目の前の猫を見つめながらそう言った。
僕も道中、逢野と同じようなことを考えてはいたわけで、逢野の言葉を否定することはしない。もちろん、気のせいなのだろうが。こんなところに連れて来て、僕たちにどうしろと言うのだこの猫は。神に祈れとでも言うのか。
神に祈れば僕たちは助かるのか? 答えは明白だ。
まあ、元よりこんなのはただの気休めか。僕はそう苦笑しながら、ポケットから小銭を取り出して賽銭箱へ投げ入れた。服屋のお釣りだ。数枚の小銭がジャラジャラとぶつかる音がする。その音に驚いたように、猫が賽銭箱から飛び降りた。
「何か祈っとこうよ」と逢野の方を見ずに僕は言った。
「うん」と控えめな声で言った逢野も僕の方を見てはいない。
そうして僕たちは手を合わせる。
——どうか、少しでもこの時間が続きますように。
逢野が何を願ったかは訊かなかった。
*
「そろそろ行こうか」
神様に祈りを捧げてから、しばらく猫と戯れていた逢野に僕はそう声をかける。すっかり陽も落ちて辺りは真っ暗だ。これでは本当にあの森みたいだと思いだしてしまう。それにしても、逢野にいいように弄ばれるその姿を見る限り、やはりこの猫はただの猫だ。逢野は少し名残惜しそうにしながら立ち上がり、猫に別れを告げる。そうして僕たちは階段を慎重に降り始めた。
「いい人だったね」
鳥居を出る頃、逢野が突然そう言ったので僕は思わず「猫が?」と訊き返してしまう。すると逢野は、「違うよ。桐枝さん」と即座に訂正した。なるほど。流石の逢野も猫を人とは言わないらしい。
何故このタイミングで逢野が桐枝さんの名前を出したのかはわからない。自分なりに心の整理をつけたということだろうか。
「うんいい人だった。とても」
あの人については、これに尽きるだろう。
「手巻き寿司美味しかったなあ」
「僕の作った手巻き、綺麗だったでしょ?」
「匂坂はまず好き嫌いなくした方がいいよ」と逢野は悪戯っぽく笑う。
「好き嫌いじゃなくて防衛本能だから」
「たこ焼きも、お好み焼きも、ピザも美味しかった」
僕の抗議を無視して逢野は続ける。
「うん。美味しかったし、楽しかった」
「海も蛍も綺麗だった」
「そうだね」と首を縦に振る。
「本当に、全部、全部楽しくて……なのに」
逢野の声は震えていた。
「なんでだめになっちゃうんだろうなぁ……」
その絞り出したような掠れた声は、あり余る悲痛さを伝えるには十分だった。暗闇でも逢野の頬を涙が伝っているのがわかる。僕はやっぱりそんなに逢野にかける言葉を持ってはいなくて、だから代わりに逢野の左手をとって握った。あの時のように。強く、強く握った。呼応するように逢野も手を握り返して来て、また静寂が場を包む。そうして黙り込んだまま、僕たちは手を繋いでひたすらに歩いた。
*
それから僕たちは神社の近くにあった公園まで向かって、結局七日目の夜はそこで明かすことになった。
*
翌朝、もう一度あの神社に行きたいと言ったのは逢野だった。あの猫がまた居るかもしれないからと。そうして出発前に神社で朝食を食べようという話になったのだ。
「コンビニで何か買ってくるから、先向かって探しといてよ」
神社とコンビニはちょうど反対方向にあるしその方がいいだろう。僕が「何食べたい?」と訊くと逢野は眠気を噛み殺すような声で「ルーベンサンド」とリクエストを告げた。眠そうに目を擦る手の上の頭には、昨日購入したキャップ帽がスッポリと収まっている。無地の藍色に飾りのボタンが付いたワークキャップだ
「似合ってるよ」と頭の方に目線を向けて言う。
逢野は「ありがと」と小さく呟くと、帽子のつばを目元が隠れるくらい下ろした。これも気休め程度にしかならないだろうが、まあ何もしないよりはマシだろう。
「じゃあ買ってくるよ」
そう言って僕は急ぎ足でコンビニへと向かった。
*
逢野のお目当てのルーベンサンドは、棚の一番上にこれでもかと言うほど陳列されていた。最近発売が始まったばかりらしい。商品説明のポップ広告がわざわざ展示されている。逢野は昨晩、夕飯を買いに来た時から気になっていたと言っていた。確かにコンビニではなかなか見かけないタイプのサンドイッチだ。日頃コンビニに通い詰めている僕が言うのだから間違いない。僕は横一面に並ぶ中から真ん中のルーベンサンドを一つ手に取ってカゴに入れた。
店内にはスーツを着たサラリーマンらしき男性一人と、高校生くらいの年代の青年三人組がいた。前者は非常に馴染み深い光景だと言えるが、後者のグループは朝七時のコンビニにはなかなかに似つかわしくない。もちろん僕が言えたことではないわけだが。むしろ僕としては、自分が悪目立ちするのを防げて好都合だ。そうして僕はおにぎりが陳列されたコーナーから焼きたらことツナマヨを選ぶと、そのまま入り口付近に戻り、立ち並ぶスポーツ新聞の下で息を潜めるように置かれている一般紙を手に取ってレジへと向かった。
「箸要りますか?」
会計をしようとすると店員がそう訊ねてきた。何故か視線が僕から頭数個分上を向いている。スキンヘッドの男だ。年齢は推察できない。左耳がこれでもかと言うほどのピアスで飾り付けられている。重くないのだろうか。そして眼力が凄まじく、今にも人を殺してしまいそうな血走った目をしている。これぞ強面のお手本といった感じだ。それなのにその風貌からは予想がつかないくらい声が高い。どこから出ているのだと言うような高い声。遊園地のマスコットキャラクターでも担当できそうなくらいだ。そのアンバランスさに僕は驚きを隠せず、咄嗟に「大丈夫です」と声が出ていた。すると店員は「はーい」と間伸びした声で返事をして、袋に商品を詰め始めた。当然のように割り箸も一緒に。
寝ぼけているのだろうか? 確かに、その充血した目はその可能性を支持している。しかし、それにしてはいやにハキハキとした声だ。いや、これは僕の返答が悪かったのかもしれない。「大丈夫です」ではイエスとノー、どっちの意に取られてしまっても仕方がないだろう。言葉の微妙なニュアンスの違いで、気持ちを伝えられるような能力がきっと僕にはないのだ。そうやって自己解決に至ろうとしたが、まてよの三文字が頭をよぎる。そもそもおにぎりとサンドイッチに箸は不適当だ。僕が知らないうちにおにぎりかサンドイッチが、箸で食べるものになったのだろうか。あるいはこの町では箸で上品に食べましょうというルールでもあるのかもしれない。それとも新聞に何が箸を使うのでは——。
「どうぞー」
僕がくだらないことを考えている間に、店員はトレーに乗せて置いたお金の会計を済ませていたようで、商品と割り箸を入れたレジ袋を僕の方へ突き出していた。視線は相変わらず明後日の方向を見ている。僕は「すみません」と短く頭を下げて袋を受け取って、すぐさま店を出た。箸の謎は迷宮入りだ。
外に出ると僕は、備え付けられたゴミ箱の横に陣取ってすぐに新聞を開いた。反対側では、先程店内にいた高校生たちが屯している。車止めのブロックに腰掛けて、面白そうに何かを話していた。その声をBGMに僕はいつものように新聞をめくる。大まかに目を通した限りでは、捜査にこれといった進展はないようだった。僕に関することも載ってはいない。もちろん一般に公開されていないだけで、追っ手はもうすぐそこまで迫って来ているのかもしれないが。
そうして僕は、毎日続くこの作業にどこか虚しさを覚えながら、新聞を閉じて神社へと歩き出した。高校生たちはまだ話を続けている。新聞を確認している際も、狩りやモンスターといった単語が聞こえていた。断片的に聞くとなんとも物騒な話だ。そう言えば、コンビニを入ってすぐのところに新作ゲームが発売されたなんて広告が打ち出されていたと思い出す。恐らくはそのゲームの話なのだろう。
僕と逢野にも、こんな風にゲームの話なんかで笑い合える未来もあったのだろうか。そんな夢想もまた、今となっては虚しさが残るばかりだった。
*
異変に気づいたのは階段を登り切ったその瞬間だった。何かがおかしい。階段を登りながら遠目で見ている時は、しゃがんでいるのだと思っていた。しゃがんで地面にいる猫と戯れているのだと。でも違った。明らかに様子がおかしい。これは「しゃがむ」ではなく「
理解ができなかった。何が起きているのか。わからない。どうしての四文字が頭の中をこだまする。そうして理解の範疇を超えたそれに、思考は完全に停止した。静寂の中、蝉の声だけが馬鹿みたいに鳴り響いている。
——そこには力無く横たわる猫の死骸があった。
左目が潰れている。右の前足がおかしな方向に折れ曲がっている。腹部が切り開かれている。首が、鼻が、口が、前足が、後ろ足が、尻尾が——。無惨。この状態を表す全てがその一言に尽きた。
意味がわからない。何が起きればこんなことになる? 自然現象でこの状態を説明することはできるわけがない。人為的な何かがなければこうはなり得ない。
誰が、なぜ、どうやって。頭の中を埋め尽くす疑問符のうちの一つが、どうしてか合致してしまった。考えたくはない。だけど、ぴたりと当てはまってしまった。一度その可能性に至ると、この状況の全てがその仮説を支持しているように感じられる。一度気づいてしまったらもうだめだ。
気づくと僕は階段を駆け降りていた。
*
そいつらはあの公園にいた。僕らがさっきまで寝ていた公園だ。ブランコに一人。もう二人はブランコの前の柵に腰掛けている。僕は息を整えながらそいつらにゆっくり近づいて行った。ブランコに座っていた一人が僕に気づく。そうして残りの二人も振り返り、僕に注目が集まった。
「なんだよ?」
ブランコの男がそう言った。刺々しい低い声だ。
僕は大きく深呼吸をして、声を発する準備をする。
「なんで殺した?」
自分でもわかるくらい声が震えていた。
「は?」とブランコの男。
「神社の猫」
声の震えが少しだけ落ち着く。
間違いならそれでいい。僕が勘違いをしていて、難癖をつけているのだとしたら、謝ってそれでおしまいでいい。僕が気の狂った人になってそれで終わる。それでいい。だから一言否定してくれればよかった。それで全てが解決する。それが一番良い終わり方だ。だから本当に、ただ一言「違う」と言ってくれればいい。頼むから、そう言ってくれ。そうすれば僕は納得できる。この仮説はただの勘違いなのだと、一瞬で捨ててみせる。だから、頼むから、ただ一言——。
「は? あれお前の猫なん?」
柵に腰掛けていた男が、ヘラヘラとしながら言った。当たり前のことを言うように。呼応するように他の二人も気味の悪い笑みを浮かべている。
もうだめだった。たった一言で全てが肯定されてしまったのだ。仮説が事実へと昇華されてしまった。こいつらだ。こいつらがあの猫を殺した。たった今、そう宣言された。つい先刻、コンビニで見かけたこの高校生たちが。あの猫を殺したのだ。
途端、コンビニでの会話がフラッシュバックする。彼らは狩りの話をしている。僕はそれをゲームの話だと思った。モンスターを狩るゲームの話だと。だけど違った。あれは現実の話だった。蹴り飛ばしたと言っていた。石を投げたと言っていた。ナイフで刺したと言っていた。全部真実だった。全部、全部、あの神社で行われた現実だった。あの猫に対して行われた現実だった。
猛烈な吐き気に襲われ、口に手を当てる。胃の中の全てのものが逆流してくるのがありありとわかった。臓器ごと出てきてしまうのではないかと思うくらい、激しく咳き込む。思い切り叩かれたかのように心臓が脈打つ。激しく、何度も。
「おーい! もういいか?」
柵に腰掛ける男の声で現実に引き戻される。意味がわからなかった。なんでそんなことをした。なんのために。どんな理由があったらそんなことができるんだ。疑問符と感嘆符がぐちゃぐちゃに混ざり合っているような気がした。
「……なんで……なんでそんなことができるんだよ」
絞り出すように出たその声が僕の精一杯だった。
「なんでって」と柵の男が笑う。
そうしてブランコの男がそのニヤけた口を開いて言い放つ。
「気になったからに決まってるじゃん」
何を言ってるんだこいつは。そんな理由であれができるのか。そんな理由で、あんな
感情が理解を追い出していた。
どうしてそうなったかはわからない。気づいたら手が出ていた。手が勝手に動いて、柵に腰掛けた男を突き飛ばす。
怒号が上がった。ブランコに座っていた男が立ち上がって、「抑えろ!」と叫ぶ。頬に強い衝撃を感じて、気づくと僕は地面に押し倒されていた。三人の男が何かを喚きながら、僕を蹴り飛ばしている。何を言っているのかはわからない。きっとなんの価値もない言葉だ。
生きているのが嫌になるくらいの激しい痛みが毎秒続いて、もう声も出せなくなる。僕はどこかに手を伸ばそうとするのだけれど、その手もすぐに蹴り落とされる。時間が永遠のように感じられた。もう何時間もこうやって蹴り飛ばされているような、そんな気が。
だけど本当はもっとずっと短かったのだろう。恐らくは、その声が聞こえるまで、数分も経っていなかったのだと思う。
「おまわりさん! こっち!」
その声ははっきりと僕の耳に届いた。女性の声だ。そしてそれは、どうやら彼らにも聞こえていたようで、僕を蹴り付けていた足が止まる。そうしてまた何かを喚くと、彼らはどこかへと逃げ去って行ったようだった。
「ちょっとあんた! 大丈夫!?」
そうして誰かが僕に駆け寄ってくる。地面に倒れる僕を覗き込むその顔には見覚えがあった。僕は掠れた脳味噌を振り絞って記憶を辿る。そこにいたのは昨日帽子を買った服屋の店員だった。
「警……察……?」
僕が声を振り絞ってそう訊くと、服屋は「あれ? 嘘だよ。なんかヤバそうだったから咄嗟に」と返した。昨日と同じような無愛想な顔で。だけどその表情から受ける印象は昨日とは打って変わって見えた。
「今から呼ぶから。救急車も」
服屋はそう言ってポケットから携帯電話を取り出した。僕は重い腕を持ち上げてその手を掴み「だめ」と制する。警察を呼ばれて困るのは僕らだ。
「は? あんた何言って——」
「……大丈夫……だから」
「大丈夫なわけないでしょ!」
その無愛想な顔には、何故だか溢れるほどの感情を感じられた。だけど僕はもう一度言う。
「本当に大丈夫……です」
僕は起き上がって「ありがとうございました」と頭を下げる。鈍い痛みが身体中に走り、ぎこちない動きになってしまう。そうして僕が公園から出ようとすると、服屋がまたその感情に溢れた声で僕を止めようとした。しかし、僕はそれを振り払って前へと進む。僕は戻らなきゃいけない。これ以上逢野を、あの場所で一人にしておくわけにはいかないのだから。
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