第二話 薬師見習い
宦官として後宮に入ってから三か月が過ぎた。
皇帝陛下や皇太子殿下、それに後宮に集められた妃嬪たちのために後宮内につくられている医局で明琳は医師手伝いとして働いていた。支給品である灰色の上着の漢服は宦官の中でも一番下の階級をあらわしていたが、ウナギの寝床ほどの大きさとはいえ個室ももらえ、そのうえ医術に関する仕事をさせてもらえるのだ。
ここに来たとき感じた不安が嘘のように、毎日が楽しくて仕方がなかった。
医局には全国から集められた膨大な薬草や生薬が管理されている。市井ではめったに手に入らない貴重なものも多く、それらは医局の壁に設置された大きな薬棚に収められていた。
この薬棚の中の薬草が切れていないか、傷んだり変色したりしていないか、それを確認するのも明琳の仕事の一つだ。
明琳は、今日も二百以上ある薬棚の引き出しの中身をすべて調べ終えて、ふぅっと息を漏らした。大変だけど、珍しい生薬を扱えるので大好きな作業だ。
足りないものは、一般的なものなら後宮の隅にある薬草園から補充できるものもある。補充できないものは、医局付きの文官に頼んで仕入れてもらわないといけない。どれの発注を頼もうかと選んでいたら、怒鳴るような声が飛んできた。
「おい、明藍! とっとと終わらせろ。それが終わったら、薬草園からクコの実を収穫してこい。そのあとは、ここの掃除だ」
三十代前半の、深緋色の漢服を着たちょびひげ男が明琳に叫ぶ。
彼は
その背後から、おっとりとした優しい声がかけられた。
「気を付けていってくるんだよ」
声をかけてくれたのは、この医局で一番偉い太医先生だ。
豊かな白髭に、目元が隠れてしまいそうなほどの長い白眉。齢八十を超えているという噂だが、少し腰が曲がってはいるものの医術と薬学に対する造詣は深く、この国随一と言われている。
宦官として最高位である紫色の漢服を身にまとう太医先生は皇帝陛下と皇太子殿下の筆頭侍医をされるほどの方だ。しかし、とても気さくな人柄で身分の低い明琳にもいつも優しい言葉をかけてくれるのだ。
「はい。薬草園の周りに生えている柿の木もそろそろ実をつけているので取ってきますね」
そう答える明琳に、太医先生は目を細めて頷く。
「ああ。柿はいくつあっても困ることはないからのぉ」
柿はそのままでは渋くてとても食べられたものではないが、干すと甘みと粘り気が強くなる。そのため、生薬を混ぜて丸薬にしたり、生薬の苦みを中和したりするのに重宝するのだ。干し柿の甘さを想像して、昔、父と一緒に半分こして食べた干し柿は美味しかったななんて思い出していたら、太医先生は朗らかに垂れていた目元をすっと細めた。
「でも、この時刻だからの。もしかしたら、李龍殿へ向かう皇太子殿下とすれ違うこともあるやもしれん。厳しいお方だから、もしお見掛けしたらくれぐれも失礼のないようにの」
この後宮は皇太子殿下が跡継ぎをつくるために作られた場所だ。そのために、この後宮には全国の貴族、有力士族たちから選りすぐりの美女たちが集められている。
にもかかわらず、皇太子殿下はいまだにどの
日中は李龍殿で執務をなさっているが、夜は後宮の奥にある鳳凰殿に引きこもってしまって一歩も外には出ないらしい。
そんな恐ろしい冷皇太子の住まう後宮で暮らすことが初めは怖くて仕方がなかったが、後宮の中はとても広いうえに皇太子は李龍城への行き来をするときにしか後宮内を出歩きにならないため、気を付けていれば出会わずに過ごすことはそう難しいことではなかった。最近では、この同じ後宮の塀の中に冷皇太子もいらっしゃるということすら、うっかりすると忘れがちになっているほどだ。
後宮の真ん中には蓬莱池と呼ばれる大きな人工池があり、その周りにツツジなどの低木が植えられている。池にはいくつかの小さな島が作られており、島を渡す弓形の橋が架けられていた。
その池の奥にそびえる一際大きく立派な建物が皇太子殿下が一人でお住まいになられている鳳凰殿。その周りに池を囲むようにして妃嬪たちの住まう宮が並んでいる。
医局があるのは、後宮の外と内とを隔てる門のすぐ近く。宦官たちの住む寮もそのそばにあった。
皇太子殿下ご一行は、いつもこの蓬莱池の橋を渡って李龍殿へと向かわれる。
だから、ここを通らなければ大丈夫だと明琳は判断して、籠を手に取り、「いってきます!」と元気に言うと医局をあとにした。
この蓬莱池に船を浮かべて船遊びに興じる妃嬪たちを目にすることも多いが、そろそろ秋も深まって肌寒さを感じる風が時折吹くようになったためか今日は誰もみかけない。
ここに来たばかりのころは、仙女かと見まごうほど美しく、上質で華やかな襦裙を身にまとう妃嬪たちに何度も目を奪われたものだ。
彼女達が軽やかに談笑しながら蓬莱池に設けられた東屋で二胡や琴を弾いて楽しんだり、砂糖や牛酪をふんだんに使っているという最高級の茶菓子と全国各地から集めた銘茶で茶会を開いたりしている姿を見かけるたびに、こんな贅沢な世界もあるものなのか驚くばかりだった。彼女たちは生まれたときから蝶よ花よと大事に育てられてきたのだろう。
その日に食べるものすら事欠いていた自分のいままでの暮らしとは、まるで天と地ほども違う。
そんなことを考えながら池のそばを足早に歩いていると、向こうから賑やかな声が聞こえてきた。見ると、5、6人の女性が楽しそうにおしゃべりをしながら池に沿ってこちらに歩いてくる。真ん中には、薔薇色の一際高級そうな襦裙を召した女性が歩いていた。その女性がもっとも身分が高い妃嬪で、周りはその取り巻きの妃嬪と女官たちだろう。
明琳は、軽く頭を下げるとその横を通り過ぎようと足を早める。池を渡す橋はここからすぐ。もう少しすると冷皇太子御一行と鉢合わせしてしまうかもしれない。それだけはなんとしても避けたかった。
しかし、明琳が彼女達の横を通り過ぎようとしたとき、「あら」と軽やかな声があたりに響いた。声をあげたのは真ん中にいた一番位の高い妃嬪だった。
「あなた、私の影を踏んだわね」
彼女の視線はあきらかに明琳に向けられている。
「へ?」
思わず変な声が出てしまった。影といったって、薄曇りで影なんて一つも出ていないのだ。仮に影が一番伸びる夕暮れどきだったとしても、ここまではさすがに届かないだろうというくらい明琳と彼女の距離は離れている。
しかし、この後宮では少しでも身分の高い相手の言うことは絶対なのだ。
まして、皇太子のお相手として後宮に集められている妃嬪たちはみな、貴族の出か資産家のお嬢様たちだ。貴族出身でもなければ財力の後ろ盾もない宦官という立場である明琳からしたら雲の上の存在。
言いがかりをつけてきた妃嬪の取り巻き達も、黄色い声で騒ぎ出す。
「お前のような下賤な者が紅蘭景さまの影を踏むなんてどういうことですの!?」
「あり得ませんわ。無礼にもほどがあります」
騒ぎながらも、その表情はにやにやと笑みが浮かんでいる。どうやら、身分の低いものを虐めて楽しみたいだけのようだ。
これ以上かかわりあいになったら、厄介だ。顔を覚えられる前に退散しなくては!
明琳は傍に籠を置くと、すぐに土下座をした。
「申し訳ございません」
しかし、紅蘭景と呼ばれた真ん中の妃嬪は、
「そんなことで許せるわけがないでしょう?」
そう言って嗜虐に満ちた笑みを浮かべると、そばに控えたいた女官の耳に口元を近づけて何やら楽しそうにコソコソと話しかける。
女官は戸惑うような表情を浮かべて蘭景と明琳とを見比べたが、蘭景が「早くなさい」と冷たく言い放つのを聞いて明琳に近寄ると、申し訳なさそうに隣に置いてあった籠を手に取る。
(え……なにを……?)
明琳も戸惑うが、籠を取り返すことはできない。そんなことをしたら、余計火に油を注ぐことになるだろう。
黙って静観していると、女官は籠を持ったまま蓬莱池の淵までいくと、えいやっとその籠を投げたのだ。
「あ……」
籠は淵から明琳の身長2人分ほどのところへぽちゃりと落ちた。半分ほど沈みかけながらぷかぷかと浮かぶ籠を見て、蘭景は声をあげて笑った。取り巻きたちも、彼女に合わせて笑い出す。
どうやら彼女たちの憂さ晴らしのカモにされてしまったようだ。
皇太子の世継ぎを生むことが期待されて後宮に集められた妃嬪たち。彼女たちは実家の地位や後ろ盾の強さなどによって四夫人、九嬪、二十七世婦に分けられる。数字はそれぞれの人数だ。しかも皇太子の正妃となれるのは一番位の高い四夫人のみ。それ以下の地位の者たちは側室候補となる。
四夫人は、李国を支える『四家』と呼ばれる上流貴族から一人ずつ選ばれるのだそうだ。
昔は『五家』だったらしいが、一つの家は何十年も前に潰えて、いまは四家となっているのだと聞いたことがあった。
金融業で財をなし軍部にも強い影響力をもつ『伯家』、李国最大の商会を持ち国内外での商いで莫大な富を稼いでるという『泉家』、領地内に国内有数の炭鉱をもつ傍ら、著名な芸術家や美術家、作家などを数多く輩出している『紅家』、そして、国内最大の穀倉地を領土に持ち、土木技術に秀でた『塞家』の四つの家門。
蘭景は紅の苗字をもつことから『紅家』の分家らしいが、お付きの女官の数からして九嬪の一人かもしれない。
四夫人たち、四家の筆頭一族ともなると連れている女官はけた違いになる。
後宮の中の妃嬪たちもまた、厳しい階級社会で生きているのだ。ただ、もしお世継ぎを生むことができれば、下の階級の者でも成り上がることができる。さらにその子が次の皇太子にでもなれば、いっきに大出世だ。妃嬪の後ろについている実家の未来をも大きく左右する。
そのため四夫人たちも、うかうかとはしていられないという。一日でもはやく男子を生みたいと妃嬪たちはお互いに牽制しあっているのだ。
そんな状態の後宮にあって、当の皇太子はいまだどの妃嬪とも夜を共にしないのだ小耳に挟んだことがある。それもあって冷皇太子、冷後宮なんて人々に噂されたりしているようだ。
そのため、誰が一番に皇太子と夜を共に過ごすのか。そのことで妃嬪たちは競いあっているというのだから、妃嬪たちの抱える重圧は計り知れない。
そんな歪な籠の中で、いじめが起きないはずもない。上の立場のものが下の立場の者で憂さ晴らしをする。そうなると、一番最下層にいるのは宦官の中でも身分の最も低い明琳のような者だ。
蘭景たちからすれば、いいおもちゃをみつけたといったところだろう。
ここで泣き叫んでみれば蘭景たちは喜ぶのかもしれないが、明琳は嘆息一つついただけだった。
(仕方ない。池の水はちょっと冷たそうだけど、泳いで籠を取りにいくしかないわいわね)
そう思って腕まくりをして池の淵へ向かおうとしたところで、笑っていた妃嬪たちの声がピタリと止んだ。
あれ? どうしたんだろう? と妃嬪の方を振り向くと、彼女たちは深く腰を折って頭を下げるという最敬礼をしている。どうしたんだろう? 数秒考えて、明琳はハッと蓬莱池を渡す橋に目をやった。
橋を二十人ほどの集団が歩いて来る。その姿を目にした次の瞬間、明琳は弾かれたようにその場で男性の最敬礼、左右の袖へ交差するように手を入れて輪にしたものを頭の上に掲げ、腰を折った。
いま橋を渡ってくるのは、まぎれもなく冷皇太子の一団だ。すぐに頭を下げてしまったためよく見えなかったが、先頭を歩くのが冷皇太子なのは間違いない。一瞬見ただけだったが、明らかに他の者たちと纏う空気が違った。
キンと張りつめた空気の中、彼らの足音だけが通り過ぎていく。
足音が過ぎ去るまで、何事もなければいいと心の中でひっそりと祈る明琳だったが、その祈りは一人の声によって破られた。
「あ、あの……殿下!」
意を決したような声の主は蘭景だった。彼女の声で、一団の足音が止まる。思わず明琳もなにごとかと顔をあげた。
「文を、送らさせていただいてもよろしいでしょうか!」
そう訴える蘭景だったが、答えたのは皇太子ではなく後ろに控えていた高齢で高位らしき宦官だった。
「このような場で殿下に言葉をかけて引き留めるなど、無礼であろうが!」
強い言葉で叱責され、蘭景は「ひぃぃぃぃ」と地面に付きそうなほど頭を下げる。
「もうしわけございません……!」
蘭景の身体は傍目に見えるほど、震えていた。
冷皇太子は怯える蘭景に視線を向ける。
皇族の直系にだけ伝わるという深青の瞳が、凍りつきそうなほど冷たく彼女を見下ろしていた。
蘭景だけでなく、他の妃嬪と女官たちも地面に頭がつかんばかりにひれ伏す。
もし彼の怒りを買ってしまえば、蘭景だけでなくその場にいる全員が処罰されてもおかしくはない。
それほど皇太子は絶対的存在なのだ。
明琳も同様に平伏すると、再び足音がして、やがてそれも遠のいていった。
皇太子一行が見えなくなるまでみな低く頭を下げていた。彼らが門の向こうに消えて、ようやく明琳は、はぁぁと深い息を吐き出してその場に座りこむ。まったく生きた心地がしなかった。
(あれが、冷皇太子……)
視線だけで人を殺められそうなほどの威圧感だった。もう二度とお会いしたくない存在であることは間違いない。
さて、池に落とされた籠を拾わなきゃと立ち上がったところで、しくしくと泣く声が聞こえた。
見ると、蘭景が地面にへたりこんだまま肩を揺らして泣いていた。きっと恐ろしくてたまらなかったのだろう。周りの妃嬪たちも、どうしていいのかわからずオロオロとしている。
明琳は蘭景に近づくと、彼女に申し出る。
「心が落ち着く薬湯を作ってお待ちしましょうか? 身体も冷えたでしょう。あったまりますよ」
すると、彼女は一瞬迷ったもののコクリと頷いた。明琳の顔にも笑顔が広がる。
「宮の方はお待ちしますね」
そして、お付きの女官に彼女の住まう宮の名前と場所を聞くと、すぐに医局に戻って薬湯を作り、彼女の宮へと届けた。
医局にもどると、呂成の「明藍! どこ行ってやがった! クコのみはどうした!」という罵声が飛んできて、池に籠が浮いたままだったことを思い出すのだった。
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