第2話 ドイルの本は恋の伝言-告白と換字暗号-
彼女は一限目から授業。一般教養科目の履修授業に出席している。その授業が終わるのは十時半ごろ。林太郎はその時刻に彼女が通る校舎通用口の前で準備をしている。
するとすらりと伸びた綺麗な脚線美とその先にある白いヒール、麗しいイメージの風にそよぐ長い髪がエレベーターを降りて通用口にやって来た。出会い頭のロビー前で林太郎は彼女の前をわざとらしく横切って、一冊の本と紙切れを落とした。
「ぼてっ!」
それに気付く美紗。彼女は脚をかがめ、彼の落とした絵本版の『踊る人形』を拾い上げる。勿論、林太郎は彼女が推理小説好きということを知っていたので、わざと彼女が食いつきそうな本をチョイスして落とした。他人から見れば、ご苦労さま、と言った感じだ。だが推理の知識や内容を訊かれるとおそらく太刀打ち出来ない。それで、読むのに苦労しない絵本で一夜漬けというわけだ。ドイルの原書というわけにはいかない。
彼女は本と一緒に落としたメモのような
「夏芽君、これって私宛の伝言かしら?」と嬉しそうに本とメモ書きを見ながら言った。
「え?」
わざとらしい疑問符で返す林太郎。下心が見え見えだ。
「まあ、そうかなぁ」と戯けて見せる。
彼女はその紙片を見ただけで、全てを理解し彼の恋慕の気持ちを酌んでくれるという、その推理力、そして読解力のすばらしさに感動した。彼女が嬉しそうにしているところを見るとこの恋、成就出来た、と一瞬彼は思った。
だがその彼の結論は甘すぎた。世の中、万事がそんなに上手いこといかない。
彼女の手にしたその紙片のメモ書きは、鉛筆書きの単純な数字が並んでいる。
『B2 G2 B1* C3 B2 』というような英字と数字の組み合わせだ。
彼女は水を得た魚の様に、その文字配列からいとも簡単に意味を読み当てる。お得意の推理力をご披露というわけだ。
「うふふ。もう解けたわ。ごく初歩的な
そして彼女は「この件について、そこのベンチに座って話しましょう」と彼を誘ってベンチを指さした。とても嬉しそうな表情の彼女。だが明らかに告白されて嬉しいのではなく、別の意味である。
その原因となる、幸せに満ちた笑顔を彼の書いた紙片が作り出す。
ベンチに腰を下ろした二人は恋人のように寄り添って、暗号の書かれた紙片を頬が触れそうな至近距離で見つめている。彼女が長い髪をかき上げて、紙片を見入っている姿は、遠目からはまるでカップルの二人がキャンパスで仲睦まじく寄り添っているようにも見える。
「換字式の暗号は、
「うんうん」
その手紙の内容に触れてくれることを望んで、期待する林太郎。
「そもそもこの紙片の換字暗号は日本語特有の五十音表記のなせる技で、母音の明瞭な言語ゆえの、それに属する『段』と子音による音の多様化を用いた『行』という、誰もが知っている、故にわざわざ解読サンプル表を別紙添付しなくても、既に出来あがった換字の読取表を皆が脳内に持っているという利点を活かした暗号なのよ。ずばり五十音表ね」
「うんうん」
想定内のうんちくを披露している美紗。そこから一気に文章の内容、すなわち恋の核心に突き進んでほしいものだ、と林太郎は思った。
「それを鑑みて置き換え作業、すなわち解読を始めると英字アルファベットは『行』を、数字は『段』を表している。だから『B』は『カ行』、『2』は『イ段』を表すので、『き』が正解。同じように『G2』は七番目の『マ行』と『イ段』を表すから『み』が正解。次の記号には『*(アスタリスク)』が付加している。そこで処理に困るのが日本語には五十音の派生系となる音、清音と濁音、そして半濁音、促音がある。そのためここでは濁音にはアスタリスクを用いて、『〃(だくてん)』の代わりを受け持たせているわ。なので『B1*』は『か』の濁音で『が』となるわね。それを続けて変換していくと、『きみがすき』という謎めいた文章が成立する」
「謎めいた?」と林太郎。この文章に他意はなく、実にシンプルな意味だ。普通に考えれば、愛の告白以外何物でもない筈。彼は疑問に感じ首をひねる。
だが時すでに遅し、彼女の思考回路は違う方向に動き始めている。いとも簡単に暗号を解読してくれた美紗だったが、林太郎の思惑とは異なる方に事態が展開している。停車駅に止まらない暴走列車並みの勢いだ。
「そう、一見甘い愛の告白文章の様に見せておきながら、これは警告文を表しているの。この文章をさらに料理するには転置式暗号でこの文章を濾過させることが重要なの」と言う。
内心、林太郎は『そのままで良いんだ。濾過しないで!』と困惑の表情を始めた。だが美紗の曲解は止まらない。
「そうね。転置式暗号で文字を置き換えると『きみがすき』は『みすがきき』となる。そう『ミスが危機』を招くという意味になるわ」
林太郎の心の声は『置き換えないでほしいし、そうならないよ』と動揺を隠せない。推理好きの血が騒ぐ美紗、もう止まらない。
「それは君が持っている、そのバインダーに挟まれたプリントに繋がるってことね」と不意に、次の授業で使う予定の『七福神』の版画を指さす美紗。
「なんで?」とようやく声に出す林太郎。彼女の推理の迷宮はどこに繋がるのだろう?
「今さっき、一限目の一般教養で私は居眠りをしていた。大きなミスだわ」
「はあ?」
そう言った彼の手からすっとその版画のプリントを抜き取る美紗。
「ここには、『ながきよの とおのねぶりのみなめざめ なみのりぶねのおとのよきかな』という清音と濁音の区別をいとわない一首の和歌が記されている。読み人知らずと言われる初夢の伝統に使われる和歌で、回文でもある。回文こそが文学の醍醐味。上から読んでも、下から読んでもおなじ文章は究極の技巧であり芸術だわ」
『ええっ? そっちまで話ひろがっちゃった』と思い、『違うよ』と言いたげに無言で首を横に振る林太郎。
「ながきよは長い夜であると同時に『長い治世』すなわち長い時間でもあるし、ふねは船と同時に『不音』、すなわち無音静寂でもある。いわゆる懸詞ってやつね。昔風の風流なダジャレ。授業中、長時間寝ていて、音を感じなかった私、その時出席をとっていたにもかかわらず、先生の声が聞こえなかった。そして出席確認に返事をしなかったことは、私にとって最大のミス。出席していたのに、欠席になってしまう。とてもマズイ状況ね。まさに『ミスが危機』。教えてくれてありがとう! 今から講師の先生のところに行って、お願いしてくる。まだ間に合うはず」とベンチから立ち上がり、校舎に向かって早足を始める。焦りを見せている美紗。
「ええっ?」
三段論法以上の訳の分からない推理の末に、置き去りにされた林太郎。一世一代の告白は波の合間に藻屑と消えた。そんな気分だ。
建物の入り口付近で、思い出したように、一旦踵を返して彼の方を振り向いた美紗。
「林太郎君。OKだから!」と笑顔で言う。
「え?」
彼女はウインクすると、
「君の告白、嬉しかった。明後日の日曜にデートしましょう。よろしくね」とはにかみ顔で投げキッスを送った。ちゃんと伝わっていたのだ。
そう、彼女は既に彼の気持ち、この告白は理解していた。だがストレートに返事をするのが恥ずかしくて、照れ隠しにお得意の推理のフリでごまかしていたようだ。彼の告白は一応成功。どうやら彼女は恋の推理のほうはあまり得意で無いようだった。
(了)
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