『マティアス・オーレン』の行方 〜ところで、兄はいつ戻ってくるのでしょう?〜
青葉 ユウ
prologue...『マティアス・オーレン』の失踪
文字には魔力が宿る。
それが各地で発見されている古代文字ならば、尚更だ。
災害をも呼び起こすことが可能な魔法になるが、文字に込める意図や魔力が相応しくなければ決して発動しない。だからこそ、古代文字の発見と研究にはどの国も力を入れ、時には手を組み、時には敵対して古代魔法をあらゆることに利用していた。
それ程に稀有な魔法を、まだ知り得るはずもなかった兄は易々と使いこなしていた。強請る私に「私たちだけの秘密だよ」と言って教えてくれた兄は、私が発動させるととても驚いていた。
私としては、発動させたといっても兄とは比べものにならないくらい未熟で悔しかったし、兄を尊敬する思いが益々強まった。
――――そんな兄が失踪した。
『戻る気はないから従兄を後継者に迎えてくれ』だなんて置き手紙を残して――
◇◇◇
「やはりマティアスの筆跡で間違いないようだ。部屋も荒らされていないとなると誘拐の可能性は低いが、行き先が分からない以上、協力を願い出るしかないな」
脅迫されて無理矢理書かされたのなら手の震えや力の入れ具合が文字に表れる。しかし、滑らかに筆を流して書かれた一行は、日頃兄が記す文字と変わらない。
兄の身に不幸があった場合の次期後継者は血縁を辿ると従兄である。当人やその身内が地位を狙った犯行も視野に入れたが、探りを入れても結果は限りなく白に近いと分かっただけ。
領地内も一日、二日と休みなく大勢の騎士がひっそりと探し回った。
それなのに一切足取りを掴めないとなると、既に領地を出ているとも考えられた。
同格の伯爵領と比べると領地経営は極めて順調で、苦境に立たされているだなんてことは決してない。
貴族の次期当主が全ての権利を投げ出してまで失踪するなど、何代にも渡って語り継がれる家門の恥である。
だからといって対策が後手に回ると見つかるものも見つからない。
死ぬまで社交界で嘲笑われることになろうが公にして捜索に協力してもらう他ない、と苦渋の決断をした父を前に、マルティエナは喉の手前までせり上がって吐き出すべきか呑み込むべきか決められずにいた秘密をいよいよ口にするしかなかった。
「お父様、その前に知っておいてほしいことがあるの」
「なんだ。早く言いなさい」
明らかな苛立ちを声にのせた父と、その横に控えめに立つ母の気を失いそうなほどに青褪めた眼差しが向けられる。
とてもじゃないがそんな両親に真っ向から伝えることはできなくて、俯いたマルティエナは息を吸うなりひと思いに吐き出した。
「お兄様は闇の古代魔法を使えるの。術者が他の人からは別の姿形に見える幻覚魔法! だから、お兄様の意志で失踪したのなら簡単には見つからないし、見つかったとしても危険だわ」
兄が失踪したと聞いてから肺に溜まりに溜まっていた重しがなくなり、すっきりと体が軽くなる。そう感じれたのはほんの一時で、分かりきっていた父の怒声を耐えるためにマルティエナは指先から足先まで力を入れて身構える。
次いで、凄まじい衝撃音とともに足元が揺れた。
そう感じたのは目の前の父が感情のままに足を踏み出したからだ。
「冗談じゃない!! 古代魔法だと!? そんな重要な話をなぜ黙っていた!?」
兄の件で思い悩んでいたのは父だけではない。反射的に感情のまま叫びたくなる衝動を堪えて、なるべく冷静に声を絞り出す。
「お兄様が自分の意思でこの家を出て行くなんて信じられなかったの! 曖昧な状況の中でこの話が広まってしまえばお兄様の立場が危険になる。お父様にも分かるでしょう?」
光属性の魔力を有していれば歓迎される。反対に闇属性の魔力は忌避し、嫌厭される。それがヴァルトセレーノ王国の、ひいては世の常なのだ。
それなのに、己の姿を誤認させる闇の古代魔法まで兄は易々と使いこなす。監視や行動の規制がつくのは間違いがないし、内容が内容なだけに、事が起こった際には関わりがなくとも冤罪を簡単にかけられてしまう。
「それは――確かにお前の言う通りだが。私には伝えておくべきだっただろう!!」
「そうね、今となればそれが最善だったと思えるわ。だけど、もう過ぎたことなの」
「お前は!! いや、いい。ではどうしろと言うんだ。もう学院の入学式は迫っているんだぞ!」
兄が自分の意志で失踪したのなら。
その要因の一つは、きっとそこにある。
ヴァルトセレーノ王立魔法学院。
国内のみならず、地続きの近隣諸国も全て含めた大陸で最高峰と讃えられるそこへ、マルティエナと兄は通うことが決まっていた。
けれども兄は入学審査が始まる前から何度も拒否していた。他の学院に通うために父の説得を試みていたが、結局意味をなさなかった。
当然だ。
ヴァルトセレーノ王立魔法学院は、王族や貴族、優秀な官僚や騎士の子息など、国の次代を担う見込みのある秀でた者が集う学舎で、社交界に踏み出す前の足場固めでもある。
誰もが望む王立魔法学院への入学はその分競争率も高く、注目を浴びる。
だからこそ次期伯爵である兄は如何なる理由があろうとも、そこで良い評価と人脈を得なければならない。
幼い頃から秀才と称えられ、その期待に応えていた兄の名に泥がついてはいけない。
胸に手を当てた。ドクドクと脈打つ心臓を手のひらで感じて、気持ちを奮い立たせる。
「私が、お兄様の代わりになる。――だから、お父様はどうにかしてお兄様を連れ戻して」
口に出してしまえば、マルティエナにとってはもう確定事項だ。
物心ついた時から尊敬してきた、同じ日に生まれ育った瓜二つの兄。兄のようになりたいと必死で追いかけてきた。いくら努力しようと兄に並べたことはなくて、些細なことでも勝てた経験がない。
――それでも、兄の名誉を守れるのは私しかいない。
身体の震えは止まっていた。
飛び出しそうに暴れ回っていた心臓も、落ち着きを取り戻している。
そんなマルティエナに反して、父が冷静になれる訳がなく。
「お前は自分の発言がどれだけ甘いか分かっているのか! そもそもだ。お前たちが見分けもつかんほど瓜二つだったのは、よくて数年前までだ。男女の体格差はどうにもならん!! 騙し通せる筈がない」
最もな反論である。
兄は決して筋肉質でも体格が良いわけでもない。線の細い、中性的な少年だ。それはマルティエナにも言えることで、女性にしては高身長でスラリとした長い手足を持った、中性的な外見を持っている。
しかし、生まれもっての男女の違いは確実に存在する。成長するにつれて顕著に現れる骨格の違い。筋肉のつき方。肌の柔らかさときめ細やかさ。
いくら容姿が瓜二つでも、男物の制服を着ようとも、騙し通せるものではない。
男子学生には剣術や体術の講義もある。身体の構造を学ぶ講義もある。
視界の奥に映る程度では気づかないとしても、学院生活という長い時を過ごしていれば、もしくは腕や肩に触れてしまえば、いとも容易く違和感を抱かせる。
些細な違和感が積み重なれば、意識せずとも要因を探ろうと注視する。
結果として、マルティエナが兄に成りすましていたことが暴かれる。
内密にする代わりに金銭を要求されるだけなら、まだいい。けれど、純潔を奪われてしまえばどうなる。脅迫が一度で済む筈もない。
学院を卒業すれば綺麗さっぱり関係が途切れる世界ではないのだ。
なにより、成り済ましたことを公にされてしまえば、それこそ伯爵家は滅ぶ。爵位も財産も全て取り上げられるし、身分を詐称したマルティエナの死罪は免れない。いや、死罪以上に酷い報いを受けるだろう。
実際に王立魔法学院を卒業し、その後何十年と伯爵当主として社交界で息をしている父は、マルティエナの解決策は楽観的で馬鹿馬鹿しいと切り捨てる。
「できるわ。お父様」
けれども、マルティエナは至って冷静だった。
人差し指を唇に触れて湿らせると左手の甲へと押し当てる。
指先へと流れる魔力を感じながら、渦を巻く絵のような文字を描いていく。
特別な言葉は必要ない。
身体の内を巡る魔力を感じて、記す文字の成り立ちを理解して、精霊に語りかける。
止まった指先を離すと透明な文字を刻んだ手の甲が熱を生む。
「なぜなら、私もその古代魔法が使えるから。ほんの少し、体格の差を誤認させればいいだけなの。――――これが、最善の策よ。お父様」
目の前に立つ父と母の、驚愕と悲嘆の混じったか細い息が耳に届く。
マルティエナが兄に成り代わるということは、マルティエナ自身は学院に姿を現さないということ。
相応の理由が必要になるし、結果として高位貴族の婚約相手には相応しくない評判になることは目に見えている。
それでも、オーレン伯爵家としての優先事項は後継者である『マティアス・オーレン』の名に傷をつけないことで、それをマルティエナ自ら望んでいた。
膝から崩れ落ちた母の、啜り泣く嗚咽が陰った書斎に木霊する。
反論の声が上がることは、なかった。
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