第38話 区切り
被害を受けた者たちは、苦痛を抱えたまま生きていく。
消えない怒り、癒される事のない心の傷はとても深く、目に見えない鎖でぐるぐると巻き、私達を締め付けて苦しめる。
それも一生。
刑事事件の裁判を終えて、娘の口座には慰謝料が振り込まれた。
『終わり』を告げたその数字は、少しずつ少しずつ娘の心に落ち着きをもたらせると同時に、時折恐怖を思い出させる。
娘は裁判には出なかった。
いや、出れなかった、が正しいのだろう。
裁判が終わり、判決が出た。
だが、納得のいかない判決だった。
そして、娘にとっては始まりだった。
娘に少しずつ嫌な記憶が時折戻ってくる。
フラッシュバックに苦しむようになり、眠れない日が増えてきたようだ。
「性犯罪に遭った人が受けれる支援があるから、それを受けたらどう?3か月くらいなら仕事休めるよ?」
と私は話を持ち出したが、娘は首を横に振った。
「休んでしまって、復帰できるかどうか自信がないから嫌だ」
(あぁ、ごめんね。辛い思いをさせてしまって。)
私はひどく後悔をした。
こんな会話を最期に、娘は私と直接話をできなくなった。
母親を通じて話をする。
私は、娘にとって、
(私=犯罪者を思い出す存在)になってしまったのだ。
会社の上司も男性なので言いたくない。
仕方なく一番信頼できる女性の先輩に相談を
したようだ。
そして、調子が悪ければ早退する、休む、午後から出勤する、という許可を得た。
カウンセリングも受けるようになった。
(PTSD)と診断をされた。
何もして上げられない……。
また、私は苦しみが1つ増えた。
そして、娘にも苦しみが1つ増えた。
(私のせいだから仕方ない)
私はそう思い。
(私のせいでお母さんが苦しんでいる)
と、娘もまた辛くて堪らないのだろう。
娘の出勤は不安定になりつつあった。
何もしてあげられない自分が情けなかった。
そして、私の話もなかなか進まない。
弁護士さんからの連絡はなかなか来なかった。他にも案件は抱えていらっしゃる。
待っているのは私だけではないし。
そこへ、法テラスからの一枚の通知のハガキが届いた。
(◯月◯日より、細田瑠璃さんの口座から引き落としをします。)
ふーーーっ、と大きなため息をついた。
大きな進展もないまま、私は弁護士費用の建て替えてもらった分を法テラスへ返金をしなくてはならない。
まずは着手金の返済だ。
2か月が過ぎようとする頃、ようやく弁護士さんからの連絡が私の元に届く。
「相手からの文書が届いたので、メールにて送ります。ご確認ください。それと、その文書を踏まえて、調停の手続きの準備をしたいと考えております」
と、弁護士さんは私に言った。
「調停?」
私は無知でよくわからなかった。まずは弁護士が話し合いを代理で進める。そこで解決しなければ調停へと進み、それでもダメなら裁判となる。
そんな流れも知らずに私は生きてきていた。
「今まで数回、相手の弁護人と和解の交渉のやり取りをしてきましたが、話にならないんですよ。メールで送らせて頂く文書を読んで頂ければわかると思います。そして、ここで和解にならなければ、まず離婚調停を行う事になります」
と説明してくださった。
(はぁーー、って事はすぐには離婚できないなぁー。)
私の心はどんよりと重くなった。
「とりあえず、メールで確認をして、お返事を送ります」
と言って電話を切った。
私の考えは甘かったのだろうか。
犯罪者との離婚にこんなに時間がかかるなんて思ってもみなかったから。
慰謝料の金額で多少は揉めるであろうと覚悟はしていたのだが、こんな所でつまづくなんて。
(休みで良かった。ゆっくりと確認できるし、返信もスムーズにできるだろう。)
と、弁護士さんからのメールを開く。
PDFで届いている内容をクリックした。
……とても気分の悪い内容だ。
まずは今住んでいる部屋の家賃や駐車場の支払の料金をこちらに請求されている。
全くもって理解ができない。
そして、車の代金の差額を請求された。
(はぁー?私が1/3、勇二が2/3を支払う事で約束したではないか!しかも、私はきっちりと払い終わっているんだから!)
しかし、代理人からの書面は、半額で計算されたものだった。
そして、島での生活をしていた時の家賃を請求された。
「島で一緒に住んで欲しい」
と言われて引っ越しをして生活をしていた。
その間の家の家賃が発生しているそうだ。
細田由紀子と細田勇二と、親子の名前が書かれた賃貸契約書が添付されていた。
(一体何がしたいのだろう?)
(そんな賃貸契約したなんて聞いた事もない。)
(島の家の家賃と今の家の家賃も私に払えという事なのか?)
弁護士さん曰く、
「その支払いを免除するから慰謝料を減らせ!という事ではないか……」
との事だ。
何でだろう。
こちらは被害者なんですけど。
お金を請求されている。
今のこの、事件現場である部屋で一人で苦しんでいる私に家賃を払えと……。
休みで良かった。
私の携帯を持つ手は、怒りで震えてくる。
何度読み返しても、反省は感じられずに、聞いた事もない、見たこともない親子の賃貸契約書が添付されている。
もう限界だった。
慰謝料の金額が決まって、離婚が成立してから私は動き出す予定だった。
でも、もう無理だ。
慰謝料の話が進まないなんて、そんな生ぬるいものではなかった。
もちろん弁護士さん達も。
「ちょっと普通ではあり得ませんね」
と、頭を抱えているようだ。
弁護士同士の話なんてまともに出来ないので、調停に持ち込みたいとの事だった。
(調停の準備をお願いいたします。追加の料金を法テラスで申請しますので、用紙を郵送してください。)
と、メールの返信をした。
悔しくて泣きながら怒りで震える手で文字を打つ。
(あぁ、もうダメだわ、私。)
そして、すぐにその日から引っ越し先を探し始めた。離婚の成立を待っていても、何も始まらない。私がここに住んでいる限り、お金を請求されるのだろう。
何という親子なんだろうか。
憎しみがどんどん沸いてくる。
泣きながら、枕を叩きつけた。
何度も何度も枕を叩きつけた。
破れた隙間から、羽毛の羽が宙を舞う。
オッドが遊び、娘が笑っていた部屋に。何気ない会話をしながら食事をしていたテーブルに。寝転がって携帯を触っていたソファーに。
ふわふわと羽が舞い散っていく。
(家庭を壊したのはあいつなのに!)
事件現場となってしまった部屋で過ごす事が、どんなに辛いのかを犯罪者は考えていない。
娘とオッドがいなくなった部屋で、泣き続けている事を理解できないのだろう。
不動産屋さんへ行き、相談をしよう。
私がひとりで生活する新しい場所を。
娘の家にも、母親の家にも近い場所を。
私のお給料でこれから支払いができる金額を伝えて、最低限の条件をつけて。
次の休みの日に内見に行く予約をとった。
私は心に見えない線を引いた。
それは、真っ黒でどんなに擦っても消えないくっきりとした線だった。
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