第34話

「まだ吠えるの!?」


 ガラス窓越しに、ボーダーコリーの鋭い瞳がわたしを射貫く。これでは外に出られないじゃない!?

 奥のカウンターを見るも、スタッフはオーダー品なのか生花のアレンジメントにいそしんでおり、わたしの危機には気づく様子もない。 

 ほどなく、飼い主が犬に追いついたのが見えた。よかった、これで出られる。わたしはそろりと花屋の外に出た。


「ちょっとアナタ、うちの静御前しずかごぜんになにをしたのッ」


 今度は、日本語ばっちりの外国人(透けるような白髪にブルーアイが美しい)のマダムと思われる女性に食ってかかられた。泣いてもいいですか。

 わかるよ、ボーダーコリーは賢いもの。普段なら飼い主を振り切って走り出したりしない。だからってわたしに嫌疑けんぎをかけられても困る。


「いえ、わたしはなにもしてません。突然、追いかけられたんです!」


 誓ってなにもやっていないのに、マダムはわたしを犯罪者みたいな目でねめつける。もう、犯罪でもなんでもいいからあとにしてよ……っ。

 そのとき騒ぎに気づいたのか、清涼感のあるシャツ姿の若い女性スタッフが店から出てきた。


「その手の匂いが原因じゃないですか? その犬、ずっとあなたの匂いに反応してるようですよ」


 新橋駅で押しつけられた香袋の匂い。いまさらながら、威力を思い出してげんなりした。

 ある意味、静御前ちゃんの不審物への察知能力は、警察犬になれるレベルかもしれない。


「すみません、手を洗わせてもらえますか?」


 わたしはスタッフに手洗いを借り、これでもかとばかりに手を洗った。ついでに、社会人のたしなみのレベルすら下回ってしまったメイクと髪も直させてもらう。

 やっとひと息ついて戻ると、まだボーダーコリーの静御前ちゃんと飼い主のマダムはその場にいた。ちゃんと、マダムがリードを持っているな、よし。

 しかしもう心が摩耗まもうしすぎて、表情を作る気力もない。


「静御前がごめんなさい、噛まれなかった?」

「それは大丈夫です……」


 続いて、疑ってごめんなさいとマダムに頭を下げられた。でも「はは……」としかいいようがない。


「そろそろパーティー会場に行っていいですか……こんな格好ですけど、今日は大事なひとの結婚パーティーなんです……」


 目の奥がぐわりと熱くなった。

 ただかれんさんを、譲くんの家族をお祝いしたいだけなのに、こんなに邪魔されるなんて不運にもほどがある。

 どうしてわたしはこんな体質に生まれついてしまったんだろう。腕時計を確認すれば、もう時間は四時にさしかかろうとしていた。

 ビッグサイトを出たのは昼前だったのに? どうして……なんて疑問を浮かべたって結果は変わらない。

 ぎゅっと歯を食いしばって涙をこらえる。


「あら、おめでとうございます。ちょうどよかった、お花いかがですか?」

 花屋のスタッフが顔を輝かせた。

「パーティーはもう、終わりかけなんですけどね……」

「大丈夫、すぐにできますよ」

「じゃあ、ここはお詫びの代わりに私が払うわ」


 静御前、もといボーダーコリーが、マダムの提案に横でぶんぶんと尻尾を振った。さっきの鋭い目が嘘のように穏やかな表情だ。あんまり犬の表情に詳しくないけれど。

 ありがとうございます、と力なくつぶやくあいだに、優秀なスタッフが早くも花束を用意してくれた。


「え、ふたつ?」


 ひとつは、カップ咲きのピンクと白の薔薇をふんだんに束ね、あいだにグリーンを散らしたボリュームのある花束。

 もうひとつは、シンプルなすずらんの花束。


「薔薇は花嫁さんに、そしてすずらんはあなたに。私からのお詫びとお祝いよ。どうぞもらってちょうだい。今日はフランスではね、すずらんの日といってね。お世話になっているひとにすずらんを贈るの。幸運を願って――ね」

「幸運を……」

 繰り返すと、マダムがゆったりと微笑んだ。

「あなたにも幸運が訪れますように」


 わたしは目の縁ににじみかけた涙を、乱暴に手の甲で拭った。




 

 ふたつの花束を大事に胸に抱えて、ラストスパートをかける。

 このパンプスもきっと今日で履き潰れてしまいそう。つま先も踵も、熱をもってじんじんと痛むから、擦れたのかも。

 どうかもうこれ以上、不運よ襲ってこないで。わたしが辛かったときに出会ってくれた、あのひとたちの晴れの日にせめてお祝いを伝えさせて。

 心のなかで祈りながら歩道を駆け抜け、わたしは息せき切ってレストランに駆けつけた。

 会場はしん、としていた。

 素朴な木のドアは閉じられており、Closeの札がかかっていた。


「間に合わなかっ……」


 涙がこぼれ落ちた。

 一粒零れると、せきを切ったように止まらなくなった。


「お祝い、したかったのに……」


 レストランを優しく覆う大樹の下で、わたしはぼとぼとと涙を落とした。

 かれんさんのドレス姿だって見たかったのに。

 皆にお祝いされて喜ぶ顔だって、見たかった。

 この日のために、頑張ってきたのに。

 悔しさと悲しさとやりきれなさとふがいなさで、胸の内がぐちゃぐちゃだ。頑張れば頑張るほど不運に襲われるなんて、こんなのもう嫌だ。

 もう、頑張れない。

 わたしはその場に膝をついた。レストランのエントランス前の石畳に、ふたつの花束が落ちた。


「――女神ちゃーん。そんなところでなにしてるの。待ってるんだから、早くこっちこっち!」

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