第5話

 失意のホワイトデーから二日後、わたしは同期で友人の友香ともかとともに職場近くのカフェにランチ休憩をしにきていた。

 セルフサービスなので先にお会計を済ませ、アボカドと海老のサラダとパンのデリセットをトレイに乗せて席に向かう。

 先に窓際のテーブル席についていた友香が、わたしに気づいて席から腰を上げた。


「フォーク忘れた、取ってくる」

「じゃあ、わたし取ってくるよ」


 レジ横に引き返そうとすると、友香に肩をつかまれた。ショートボブのすっきりとした黒髪が揺れる。


「いい、いい。直央になにかしてもらうとなにが起こるかわかんない。フォークを取りにいったはずが、ショーケースに頭突っこんでたりしそうだし」

「フォーク取りにいったくらいで、それはないって」


 友香が神妙な顔でかぶりを振る。ますます強く肩をつかまれた。


「でも、ほかの客のサンドイッチが飛んでくるくらいのことはあり得る」

「否定できない……」


 しかたなくテーブルにつくと、友香は満足して、オフィスカジュアルにモードを絶妙に絡めたパンツの足を颯爽とさばいて歩いていった。スレンダーな友香によく似合うな、とぼんやり思う。友香はファッションセンスが抜群にいい。あと小顔。

 ビジネス街の裏通りにあるこのカフェは、見た目がおしゃれでヘルシーなメニューが売りだ。男性に言わせると物足りないらしいようで、ランチの客はほとんどが女性である。

 かくいうわたしたちも、ここなら職場の男性に聞かれる心配がほぼないので、頻繁に利用している。

 ほどなく友香がフォークを手にして戻ってきて、わたしたちはさっそくいただきますと手を合わせた。


「直央と食べるの、久しぶりだね」

「だよね。ここんとこずっと外回りだったし。そっちもこの時期は忙しいんでしょ?」


 友香は総務部所属だ。


「春に入ってくる子たちの手続きがあともうちょっと、ってとこかなあ。若い子はいいよね、初々ういういしくて」


 友香が春雨スープをすする。春雨たっぷりのスープにサラダとデリが三品ついていて、いかにもダイエットメニューという感じだ。今でもじゅうぶんスレンダーなのに、これ以上痩せられたら隣に並べなくなりそう。

 わたしも海老にフォークを突き立てる。女子同士なら断然、こういう見栄え重視なメニューがいいんだろうけど、実は先日の焼き鳥とビール、みたいな組み合わせもわたしは大好物だ。オヤジくさい、と友香には言われるけれど。


「わたしたちもまだ二十五なのに」

「三年も働いてりゃ、それなりにれてくるもんよ」


 暖かみのある照明が、白と明るい木の色を基調としたカフェを照らしている。わたしたちは互いの近況を報告しあった。

 当然、大河さんとの一件も友香に報告した。友香は社内で唯一、わたしと大河さんのことを知る人物でもある。


「私もその噂、聞いたことあった。ほんとだったんだ」


 大河さんの、事業所荒らしの異名の件だ。友香は同期一の情報通でもある。


「本社の女には手を出さないって聞いてたから、直央は本命かと思ってたのに……やめとけって言えばよかった! でも別れて正解だよ。やっぱあのひとクズ。クズめ! 早く忘れな」

「忘れられたらいいんだけどね……」

「あー、席、あんたの斜め前だっけ。あの顔面偏差値東大生のクズ間瀬」


 容赦のない「クズ」の連呼にたじろぐものの、友香が怒ってくれるおかげで、かえって冷静になれる。


「今は直接の指導は離れてるし、客先への同行はないのが救いだけど」


 PCのモニターを見ていても、いい按配で間瀬さんが視界に入る。お互い、外回りが多いとはいえ、まったく見ないで済ませることもできない。

 職場には秘密にしていたおかげで、気まずいのはわたしひとりだけで業務は滞りなく進んでいく。営業部の同僚にも気づかれた様子はない。

 今となっては秘密にしておいてよかったと心から思う。

 それでも、大河さんが目に入るたびに心臓を針で刺された気分になる。目の奥に溜まる塩水をこぼさないようにトイレに駆けこんだのも一度や二度じゃない。

 裏切られてキツいのに、まだ心の端っこで嘘だと思いたいわたしもいて、失恋を消化するのにも苦労する。


「で、どうなの? 実際、譲られたの?」


 友香の追及に、わたしは物思いから戻った。


「まさか。あれは、フラれたわたしを不憫ふびんに思って言ってくれただけだって。あっちはわたしのこと、二股にも気づかない女って目で見てたよ。この、熟しすぎたアボカドみたいな頭の持ち主だろっていうのがひしひしと……」


 ベビーリーフの上に鎮座した角切りのアボカドを、フォークでぐさりと刺す。れ過ぎたアボカドはあっけなく形が崩れた。ここまで熟したアボカドを、お店で出されたのは初めてかも。


「そう? そのわりにはよさげに思ってるんじゃないの? 直央の不運にも巻きこまれてくれたんでしょ? しかも直央が無事に電車に乗るまで見守ってくれたの、いいやつじゃん」

「男を見る目を養えと言われたからね?」

「苑田で養えばいいのに」

「不運体質と巻きこまれ体質で?」


 熟れたアボカドが崩れ落ちないよう、慎重に口に運んだけれど、アボカドはわたしの口まで保たずにぽとりと皿に落ちた。うん、苑田さんとわたしもこうなるのが目に見えている。

 友香も同様に思ったようで、「それもそっか」とあっさり引き下がった。


「でも、ちょうど暇だし、苑田のこと探ってみよっかな。優良物件だったら、教えてあげる。今のうちに押さえときなよ」

「押さえるって、マンション買うわけじゃないんだから。連絡先も聞いてないし」

「ちょっとなにやってんのよ。どんな出会いが恋愛に繋がるかわかんないんだからね? まあいいわ、社内メールもあるし」


 友香はどうやら本気で、社内ネットワークを駆使して苑田さんを探るつもりだ。色恋話が大好きな友香らしいというかなんというか。


「それに失恋の傷は新しい恋で癒せって言うしねー」

「だから、苑田さんとはあれで終わりだって。向こうももうわたしには会いたくないはず」


 ただでさえ、他人に巻きこまれるのが心底うっとうしそうだったのだから。

 あれが最初で最後に違いない。


「だいたい、まだ新しい恋をする気になんて、ぜんぜん」

「そんなこと言って、いざというとき慌てても遅いわよー。ってわけで、これ代わりに食べて。私、夏の出会いに向けてダイエットするから」


 友香が、わたしの白いプレートの端にスーパーボール大のコロッケを三つ並べる。あ、と思ったときにはわたしのお皿にあったはずのエビが友香の皿の上で燦然と輝いていた。

 ちゃっかりした友香に苦笑したら、鼻の奥がつんとした。わたしはごまかすように笑って、ありがたくコロッケをいただいた。





 そんな風に、苑田さんのことはランチの話題にして終わるはずだったのが。

 ランチ休憩を終えて自席に戻ったわたしは、パソコンをスリープから戻してなにげなくメールチェックをしたところで首をかしげた。


『女神様へのお願い事につきまして』

「なにこれ」


 思わず声に出したわたしは、はっと左右を見回した。皆、まだ休憩時ののんびりした雰囲気から切り替わっていないようで、わたしのつぶやきに反応したひとはいない。斜向はすむかいの大河さんの席にもそっと目を向けたが、そもそも大河さんは出張中で不在だった。

 ふう、と息をつく。差出人のメールアドレスにも覚えがない。いたずらメールだろうか。願い事と言われても、わたしにご利益はありませんよ。

 神頼みならよそでしてください、と憤慨ふんがいしながらメールをクリックしたわたしは、手を止めた。

 差出人の名前に、設計部苑田と書かれている。

 わたしは慌てて本文に視線を戻した。お世話になっております、の定型文から始まったそのメールは一見、普通のメールに見えたものの。


『――ぜひとも、姉のたっての願いを女神様にお聞き届けいただきたく、お願い申し上げます』

「……なにこれ」

「どした? トラブルか?」

「あ、いえ部長。なんでもないです」


 わたしは窓際の広い机に座る部長に愛想笑いをして、モニターに視線を戻した。けれど、さっき見た以上の情報はどこにもない。なぜ苑田さんのお姉さんが出てくるのか。

 ん? 待った。

 メールの最後には苑田さんのプライベートな電話番号が記されている。詳しくは、連絡しろという意味か。なんだろ。嫌な予感しかないんだけど。

 わたしは定時になると同時に、苑田さんへ電話をかけた。

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