とある夫婦の平凡な日常。
曇戸晴維
橋梁の猫:十一月
橋梁の猫:十一月 前編
喫煙者には肩身の狭い時代になった。
健康増進法やら税の話やら、難しいことはよくわからないが、兎にも角にも昔のようにどこかしこで吸えるような時代は終わった。
町のタバコ屋は消え果て、コンビニでは電子タバコに切り替えろとうっとおしいくらいにキャンペーンが目に入る。
簡易的な喫煙所は消え果て、喫煙できる喫茶店や居酒屋を探すのも一苦労であり、換気を重視して作られた新しい喫煙所も、ニコチンとタールを求めて餓鬼のように死んだ目をした喫煙者がごった返す。たいそうな売り文句でごうごうと音を立てる換気扇も負ける始末で、入ったら最後、衣服や髪にまで煙が染み渡り、街行く人にしかめっつらで見られるのだ。
そんな時代、ご家庭のほうでも漏れることなく「くさい」「煙い」「体に悪い」と追いやられ、換気扇の下はもちろん、ベランダで吸おうものならご近所さんからクレームの嵐と、どうにもやっていられない。
このような立場であるから、喫煙者は人のいない、人通りの少ない場所を探しては携帯灰皿を片手に幽鬼のように彷徨い、ひっそりとこの趣味だか中毒だかわからない行動に明け暮れるのだ。
私も御多分に洩れず、そのような有様で日々の喫煙ライフを送っている。
もう二十年にもなろうという、この趣味が唯一、継続性を持っているというのはなんとも情けない話であるし、何度も禁煙失敗を繰り返し、最後の砦と言うべきだろう禁煙外来まで投げ出した始末だから手に負えない。
幸い、金銭的に苦労しているわけでもないので「俺はどれだけ値段があがろうが吸い続けるんだろうなあ。」なんて開き直りにも近い台詞を、我が愛しの妻に吐いたところ、「結婚してからのタバコ代で、車が買えるくらいになろうものなら離婚してやる。」と脅しをかけられる始末であった。
というわけで、先細りの喫煙ライフを謳歌すべく、私は決まって、喫煙するときは誰にも目がつかず、何も気にしなくていい時間として大事にできるように工夫を凝らしている。
そんな私のお気に入りの場所が、家の近くの橋の上だ。
私はショートスリーパーというものらしく、寝る時間が遅く、起きる時間も早い。
逆に妻は、ロングスリーパーというものらしく、私より寝るのが早く、起きる時間も遅い。
なので、妻に迷惑のかからない時間帯をひとりでゆっくりと過ごすため、深夜と早朝にここで紫煙を燻らすのが日課であった。
鉄筋とコンクリートでできたその橋は、古い治水工事でできた用水路の上を跨ぎ、同じく川を渡る電車の線路沿いにあり、人がすれ違う程度の幅しかない。
出入り口は坂ではなく階段になっており、狭い路地に繋がっているし、明かりといえば電灯がひとつあるくらいなので、深夜になれば人通りもない。
渡った先にはいつも猫の餌が置かれており、どうにも近所のお婆さんが朝夕と野良猫に餌付けをしているようで、たまに茶色い毛糸玉の親分みたいなやつがいた。
だから、秋も深まり肌寒いあの日の夜明け前も、あの場所でいつも通りタバコを吸っていた。
自販機にはまだホットの文字はない。いつも通り冷たい無糖のコーヒーを買ったものの、今日は結構な寒さだ。
面倒くさがらずコートくらい羽織ってくればよかったか、と思いながら橋へ向かった。
人通りはまるでなく、しんとした音に神経が強張るのを感じる。不意にタバコを咥えたい衝動に駆られるが、もう少し我慢だ。
ほどなく、橋に着いた。
まだ暗い中を街灯が照らしている。
奥の向かって暗がりが広がるそれは、まるで立ち入ってはいけないような不思議な雰囲気がある。
人は本能的に未知のものに対して恐怖を感じるという。
この静けさや広がる闇は人類にとって長い間、畏怖の対象だったのだろう。
しかし人は、恐怖と同時にそれらを見据える好奇心があった。
その好奇心によって対象を分析し、理解して、恐怖を乗り越える。そうこうするうちに未知のものは未知ではなくなり、好奇心も恐怖もなくなる。
そして未知でなくなったものは日常に寄り添う当たり前のものへと変化していく。
なんとも味気なくなってしまうが、そうして人は繁栄してきたのだ。
橋の中ごろまで歩みを進めると、ずいぶんと大層に作っている手すりの部分に缶コーヒーと携帯灰皿、タバコの箱とライターを並べる。
並べる流れで、箱から一本取り出し、口に咥えた。そしてゆっくりと一呼吸おいてから、ライターを着ける。
カチッ、という無機質な音とともにゆらゆらと踊る炎で先端を炙ると、深めに息を吸う。
「はあ………」
思わず溜め息をもらしながら、同時に、まるでドライアイスを詰めたスチロール箱を開けた瞬間のように白い煙が放たれた。
行儀悪く咥えたまま、缶コーヒーのプルタブを開け、右手の人差し指と中指の間にタバコを落ち着かせ、一気に半分ほど飲み干す。
この一連の流れが、私にとって至福で、日々の生活に欠かせないものなのだ。
ここまでこなすと、闇にも目が慣れてくる。そしてこの闇がまるで私にまとわりついて包んでくれているような不思議な感覚に襲われる。
闇に溶ける、とはよくいったもので、この渾然一体となったような、自分が背景の一部に溶け込んだような感覚は安心を生み出してくれて、私はなかなかに好きだった。
聞く人が聞けば、まるで中学生の男の子がしそうな妄想にいまだに囚われているようなまるでキザったらしいものだが。
ふと、橋の向こう側に目をやると、一匹の猫がこちらを見ていた。
白く、大きな、見かけたことのない猫だった。
凛とした姿で綺麗に手を揃えているそれは、逆光で煌々と輝く金色の目でこちらを見つめている。
雰囲気に飲まれてニヒルを気取っていた私は、珍しく、その猫に声をかけた。
「なにしてるんだ。お前もこっちにくるか。食べ物はないけど。」
缶コーヒーに再び口をつけ、タバコを片手にしゃがみこんだ私を、じっ、と見つめいる。
その佇まいはまるで何かを見定めるように、小さめの口は無表情にも見えてどうにも容姿の整った美人に見られているようで、人生においてそのような経験になかなか恵まれなかった私は少し、たじろいだ。
「なあ、そんなところにいないでこっちおいで。ほら。」
そんな自分の感情を誤魔化すように、口を鳴らしてみたり、指を左右に振ってみたりと興味を向かせるために頑張ってみる。
しかし、そいつは微動だにしない。
諦めて、溜め息をひとつつき立ち上がると、携帯灰皿に灰とともに残ったタバコを押し付け消して、そのまままた一本、火をつける。
手すりにもたれ、川を眺める。
仄暗い川の水に街灯が反射してきらきらと光っている。
それに呼応するように、大きな魚がバシャンと飛び上がり綺麗な弧を描いて着水した。
ゆっくりと雄大に跳ねるそれは濡れた体から水を弾くかのようにハツラツとし、鱗は街灯の光を浴びて光り輝き、まるで金の魚のように見える。
「…だいぶ疲れているのかな。」
雰囲気のせいもあってか、どうにも気持ちが詩的表現になっているな、と、ひとりごちると手すりを背もたれにして、今度は空を見上げた。
あいにくの曇天だがかろうじて月が見える。
薄雲に隠れるようにして見えるそれは、うっすらと細長い輪郭を残し、弦のようであった。
青白く輝く、か細く光る月は、まるでさっきの川魚のような、それともさっきの橋の向こう側猫のような。
そういえば、と、向こう側を見る。
向こう側には何もいなかった。餌を食べてどこかに行ってしまったか。
そのときだ。
「にぃ。」
わずか1メートルほどの距離に、さっきと同じように澄ました顔で、姿勢正しく座る、白い猫。
思わぬところにいたことに驚き、声をあげそうになってしまった。
私の驚きが雰囲気で伝わったのか、それにつられて、白い猫は少し目を見開いている。途端にあどけなさの残る顔つきに変わった。
先ほどの、どうにも美人で近寄り難い雰囲気とは打って変わって、それは可愛らしい子どものようであり、思わず頬が緩むほどだった。
「来てくれてたのか。一緒に空を見てたのか?ごめんな。気づかなくて。」
返事をするように、にぃ、と一鳴きすると、目を細めてまたこちらをじっと見つめ始めた。
よく見ると、それはもう整った猫であった。
猫にしては大きめなその体は引き締まっていて健康美を感じさせた。
座り込んだ足元から背中にかけるラインは見事な曲線を描いている。
そして、その全身を覆う白い短毛は決して野良ではありえない、飼い猫でもここまであろうかというほどに白い。
よく、黒々として美しい髪の毛に対して『烏の濡れ羽色』と表現したりするが、さしずめこいつは『白鳥の濡れ羽色』だろうか。
それでいて毛質は柔らかそうで、撫でてみたくなる。首輪はなく、首輪をしていると残る毛の癖もない。
大きめな体に反して、顔は小顔でいわゆる日本猫のようなずんぐりむっくりとした体型とは大違いだ。
小さな顔に見合うような小さな口もとは、下唇の薄い小口の美人を想像させる。
きちんとした立体的な鼻は綺麗な薄紅色で、濃い桜の花びらがちょこん、と乗っているようだった。
ぴんと立った耳は完全にこちらを向いており、美しい白の輪郭と、鼻よりも淡い桜色が見事なグラデーションを作っている。
目脂もなく、清潔な目元はアイラインをしっかり引いたように濃い輪郭で、大きめなそれを誇張していた。
細まった瞼から覗く金色の眼は潤いが多く、街灯の光と相まって、爛々と輝いているようで、耳と同様、こちらの身じろぎひとつ逃さない、という意志が伝わってくるかのようだ。
しかし、そこに敵意はなく、どうにもまるで私を見つめているような熱いものを感じる。
可愛らしく美人なそれは、もしかしたら、私に興味があるのだろうか。
そこまで考えたときに、不意に猫が、ぷいっ、とそっぽを剥いてしまった。
「ごめん、こんなに見られたら気まずいよな。」
猫に向かって何を気を遣っているのか。そんな考えも脳裏によぎりながら、私は吸いかけのタバコを携帯灰皿に押し付け、誤魔化すように缶コーヒーを一口飲む。
このずいぶんな「
私は、視線の高さをできるだけ合わせる心積もりで、ゆっくりと、柔らかくしゃがみ込む。
そして、さらにゆっくりと手を差し出してみた。
すると、猫は私の行動を訝しむように首を傾げながらも、興味ぶかげにこっちを見る。
尻尾は好奇心で揺れていて、そのあどけない目は少し大きめに見開いていた。
やがて、私の精一杯伸ばした手に向かって、おずおずと近づくと、すんすんと鼻をならして指先を嗅ぎはじめる。
これはいけるか、と期待に胸が膨らんだ瞬間、私の手はその野生味を感じさせるしなやかな手によって、ぱしん、と叩かれた。
びっくりして思わず手を引いたのも束の間
「みゃう。」
と、抗議めいた声が上がる。
細められた目と、すぼまったように小さくなった口、少し地面と平行になった耳はまさに不満気であり、それでいてまた整った様相をしていた。
驚きをかくせない私もすぐに得心がいった。
なんのことはない、私が精一杯伸ばしていた手は、先ほどまでタバコを持っていたのだ。
分かり合える、興味を持たれているとお互いに思い、理解するために近づいたのに、そこに突きつけられたのは有害物質に燻され煙い指先である。そんなもの、怒られて当然なのだ。爪を立てられなかっただけマシ、というものである。
なんとも居た堪れない気持ちになってしまい、悲しくなってくる。
そんな私の心中を察したのか、猫は「やれやれ。」とばかりに鼻をひとつ大きく、すん、と鳴らすと、おもむろに先ほど差し出した手と反対側に回り込み、ちょこん、と座った。
その佇まいはまるで姐さん女房のような、はたまた何か間違えをした子を「こうすればいいでしょう。」と叱るような母のような様子だった。
目を細め、こちらを伺うその顔は「早くこっちの手を出しなさい。」と言われているようであった。
猫に指図される自分になんとなく苦笑しながら、私は再び手を精一杯伸ばした。
もちろん、先ほどとは反対の手を。こちらは煙たくないはずだ、と緊張を抱えながら。
指先を鼻もとに突きつける。
すると、さっきと同様に、すんすんと匂いを嗅ぎ始める。
やがて、指先に、ちょん、と柔らかく湿った感触が触れる。
そして続けて頬を、狭い額を擦り付けられた。
その瞬間のえもしれぬ感動は、感触と柔らかさでだけでなく、自分の何かが許され、認められたような幸福といっても過言ではなく、束の間の幸福に酔いしれる。
人に触れてもらうというのは、それだけで敵意がないことを示したり、安心につながったりするのだというのをまさに肌で感じ取った。
――この場合は人ではなく猫であるが。
たかだか猫に触れてもらうだけで大袈裟な感動を味わっている私をよそに、猫はより大胆に頭や首を擦り付けてくる。
その様子に気をよくした私は、勇気をもって、その背中に触れてみることにした。
ゆっくりと手のひらを傾け、できるだけ頭の上を通らないように、回り込むようにして肩から背中に向けて滑り込ませる。
驚くような様子もなく、笑っているような細めた目でこちらを見ながら受け入れる猫。
そして触れたその体は特筆しがたいほどの感動をもたらした。
『白鳥の艶羽色』と表現したその毛並みは、触れるとしっとりとして手のひらに吸い付く。
柔らかくも重厚な感触と滑らかさは、アヒルの羽毛のような軽さと羊毛フェルトのような密度、そしてカシミヤのマフラーのような手触りを一気に感じさせた。
そして、触れた手のひらから伝わってくる哺乳類特有の体温は、生命の温かさを感じさせ、冬前のまだ日も登らない冷え込んだ早朝という時間もあって、どうしようもなく多幸感を生み出す。
一方、猫のほうは、というと、どうやらお気に召したらしく、これもまた私の体温と手のひらの質感を確かめるように、糸のように目を細め、尻尾の先をパタパタと降りながら、気持ち良さげに味わっているのだった。
しかし、時間というのは残酷なもので、そんな私たちの蜜月の時も、唐突に終わりを迎える。
キキィーーーー!!!!!
突然の大きな音に思わずびっくりして立ち上がり、後ろを振り向く。
夜は白んできていて、いつの間にやら、街灯がなくてもそこかしこが見えるほどになっていた。
さっきの大きな音は、どうやら新聞配達の自転車が整備不良でブレーキ音が出たのだろう。
少し離れたところで、ポストに新聞を入れるような、ガタンッ、という音が聞こえた。
「あっ。」
音の正体に安堵し、そういえばと橋を見ると、そこにはもう何もいなかった。
猫もびっくりして逃げ出してしまったのだろうか。
残念な気持ちと、幸福な時間だったという感謝が胸に広がり、なんとも温かい気持ちになる。
東の空を見ると、陽光で照らされた薄雲が淡い紫を広げていた。
橋の手すりに置いたままのタバコの箱を手に取り、一本取り出し、口に咥える。
流れるようにライターに持ち換え、火をつけ、大きく深呼吸をするように、吸った。
晩秋の朝の冷たい空気が体一杯に満たされると共に、熱を纏った煙が肺に満ちていく。
日が登るほどに長い時間、ここにいたのだろう。背伸びをすると身体が軋む音が聞こえた。
と、同時にポケットの中でそのままになっていたスマートフォンの振動が伝わる。
『どこで何してるの。』
取り出して見てみると、妻からの連絡だった。
時計をみると、もう妻が起き出すような時間だったので、どれだけ夢中になっていたのか、と、自分に呆れながら、
『タバコ吸ってた。すぐ帰るよ。』
と、我が愛しの妻に返信をする。
スマートフォンをポケットに入れ、タバコを携帯灰皿に押し込み、ぐりぐりと消すと、缶コーヒーの残りを一気に流し込み、それらを手に取り歩き出す。
吐き出した息は煙のように白いが、それにはまだ、先ほどの熱がこもっているような気がする。
始発電車が高架の上を通り過ぎていく。
橋から戻り、去りゆく私の後ろのほうで、大きな魚が、ぼちゃん、と水面を跳ねた音がした。
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