第三幕「満ち足りた日常の崩壊と落日の炎」
1.小公女リゼットの変わらずにいたい日々
軽快に靴音を響かせ、今日もリゼットは魔法図書館の扉を開く。
「こんにちはー! 来ましたよ、猫! クライド師匠!」
天井にリゼットの明るい声が反響する。穏やかな明かりに照らされた図書館内では、相変わらず麗しい装丁本が煌めきを放っている。いつも通りの光景とは言え、装丁大好き少女にとっては眩しすぎる輝きだ。
「う、麗しい……! あ、あああっ、すりすりしたい!」
「おいこら、また頬ずりか。変態ってものは理性がお粗末にできているのか?」
奥の通路から面倒そうな表情を浮かべたクライドが歩いてくる。その後ろには何やら大きな包みを抱えた猫が続く。リゼットは装丁に伸ばしかけた手を引っ込めると、フンと軽く鼻を鳴らした。
「大丈夫ですよ! わたしだってやっていいことと悪いことの区別はつくんですからね! 装丁を愛する者として、装丁にとって最良の結果となる行動を選ぶつもりです!」
「そりゃ結構。だがま、頬ずりをやめたことについては褒めてやろう。その調子で変態脱却を目指すといい」
「な、わたしから変態をとったらただの公女になっちゃうじゃないですか! 特徴づけって知ってます!?」
「知るかよ。何だその物語の設定的なやつは」
何気ないやり取りをしつつ、リゼットはバスケットをクライドに手渡す。今日の中身はおかずにも最適なミートパイだ。ちらりと中を確認したクライドは、仰々しい様子でリゼットを拝む。
「これは小公女様、再度のお恵み感謝いたします」
「何です? らしくもなく殊勝な……そんなに毎日お腹を空かせているんです?」
「にゃあ、主さまは自炊とかしないからにゃ。手作りの味に飢えているのにゃ」
「おいこら猫! 余計な情報を与えるな!」
包みを長机に置いた猫は、素知らぬ顔で尻尾を揺らす。手作りの味に飢えているということなら、普段ろくなものを食べていないのかもしれない。忌々しげに猫をにらむクライドに向けて、リゼットは悟りを開いた視線を向ける。
「クライド師匠、わかりました。師匠がとげとげしいのは寂しさからなんですね……」
「さ、さみしさ!? 何言い始めたお前! 俺は孤高の装丁師だぞ!?」
「そんなちょっと痛い言動も、すべて寂しさから出てきているんですね。わたし、全部わかりました……! さあ、わたしをお姉さんだと思って、何でも言ってください!」
神々しい笑みを浮かべ両手を広げるリゼットに、クライドは引きつった顔で数歩後退する。実際クライドが寂しさを感じているかどうかはともかく、リゼットの胸に飛び込んでくるほど素直な性格のはずがない。完全に引いているクライドに向かって、リゼットはにんまりと笑う。
「お姉さんってお前の方が年下だろ……ああもう、俺をいじろうとするな!」
「おや、わかっちゃいましたか? そういうところは鋭いんですね!」
「そういうところってどういうところだよ! くっ、そんなのはどうでもいい! それよりもお前に聞きたいことがあったんだ」
「聞きたいこと? はて、何でしょう?」
質問の内容が想像できず、リゼットはきょとんと首をかしげる。クライドは一瞬前までのふざけた気配を消すと、リゼットの顔の前で『それ』を振ってみせた。
「お前、『これ』に見覚えはあるか?」
「え? あ……ああっ! これ、わたしのしおりです! どこにあったんですか!?」
クライドが手にしていたもの――『それ』は間違いなく、猫が盗んだ装丁本に挟んでいたはずのしおりだった。いつの間にかなくなっていたそれが、どうしてクライドの手の中にあるのか。
「これはお前のもので間違いないのか」
「ええ、そうです。気づいたらなくなっていて、ちょっとがっかりしてたところだったんですよ。クライド師匠が見つけてくれたんですか?」
「見つけたというか……まあ、そうだ」
「ありがとうございます! 大事なものだったので、見つけてくれて本当に良かったです。もしこのまま出てこなかったら、わざわざ作って渡してくれたオーレンさんになんて言ったらいいかわからなかったですよ」
リゼットは感謝とともに笑みを浮かべる。クライドはその様子を、ひどく険しい表情で見下ろしていた。どこか嫌なものを含んだまなざしに、リゼットは笑顔を消して問いかける。
「クライド師匠? どうかしたんです?」
「確認だが、そのしおりはお前が誰かからもらったものなのか?」
「はい、そうですよ。古書街に行きつけの古書店がありまして。そのお店のご主人からいただいたものなんです」
「古書店の店主から? その、そいつは何という名前なんだ」
「名前ですか? 『オーレン』さんです」
オーレンの名前を耳にしても、クライドの表情が和らぐことはなかった。どこか腑に落ちない表情で天井をにらみつけ、ため息をつきながら頭を振る。
「オーレン? 聞いたことない名前だな。そんなやつ古書街にいたか?」
「そう言われましても。クライド師匠は古書街に知り合いが多いんですか」
「あくまでも仕事上の付き合いくらいだがな。だが、オーレンという名前は一度も聞いたことがない」
クライドの言葉には、オーレンに対する疑惑が満ちていた。しおりの贈り主がオーレンだから? だがしかし、リゼットにしおりを贈ったからどうだというのだろう。
「クライド師匠、オーレンさんがどうだっていうんです? あの人はいい人ですよ」
「お前の意見はどうでもいい。お前にとっての『いい人』が、必ずしも善良であるとは限らないだろ。だがま……少しくらいは反論の余地を与えてやってもいい」
クライドはバスケットを長机に置くと、猫に目配せする。猫は小さくうなずくと、包みを抱えて近づいてきた。
「主さま、装丁本の配達はおいらにお任せくださいにゃ」
「頼む。俺はちょっと、その『オーレン』とかいうやつのところに行ってくる。小公女、案内を頼めるか」
「え、は、はい……それは、構いませんけども」
何やら雲行きがあやしくなってきた。リゼットの中で、弾んでいたはずの気持ちがしぼんでいく。クライドだって、オーレンに会えば疑惑も晴れるだろう。そう思っていても、心にのしかかる重みが消えてくれない。
いつだって、何も変わらない日々が一番大切なのだ。そう理解しているがゆえに、リゼットは何かが変わってしまうことを恐れていた。
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