第85話

 湯に濡れた四肢は常ならぬ艶やかさで傾きつつある陽の光を反射し、見る者がいたならばぱしゃりと湯面を叩く音にすら動揺したに違いない。

 

 「ふうううぅぅ」

 

 堪えられずに漏れた吐息が、石で飾られた温泉のへりを乗り越えて風に運ばれて行く。

 少し離れた位置にある憩いの泉に人間がいれば、きっと聞こえたことだろうが、今は誰もいないということでこの場を吾輩とアイラで独占している。贅沢なことだ。

 

 『そういう用途なのですねっ』

 『熱は……生命にとって恵みと……なる……』

 『わたくしの整えた形状はお気に召していただけたようで、何よりでございますね』

 『落ち着くわぁ~。ええなぁ、これ』

 

 風、火、地、水の精霊たちもそれぞれに出来栄えを誇っている。実体を持つ訳ではない精霊には湯につかることはできないはずだが……、吾輩の隣でしれっと肩までつかっている水精霊はどこまで本気で言っているのであろうか……?

 

 まあ、それはよいか。おそらくは気にしたら負け、という類の存在だこの半人半魚の精霊は。

 それより我が弟子はどうであろうか。

 

 「渋っていたが、良いものだろう? 温泉は」

 

 聞くと少し頬を赤くしたアイラが、裾を膝までまくって湯につけていた足を振り回す。

 

 「し、渋るに決まってるっすよ! こんな野ざらしで水あ……いや、湯浴びするために裸になれだなんてっ!」

 「吾輩は気にせんぞ、弟子がどんな格好であろうが」

 「ここは外っす! 私は気にするっす!」

 

 アイラの視線を追うと、少し離れている泉や、さらに遠くにあるセヴィの外縁部を見ているようだった。今は付近に誰も人間はいないが、往来があっては困る、と主張したいらしい。

 ……ふむ、難しい年ごろというやつなのであろうか? であれば、これ以上は追求すまい。

 

 「足湯でも心地良いであろう?」

 

 吾輩が話題を戻すと、アイラは勢いを逸らされて一瞬きょとんとしたものの、結局は足の動きを止めて表情を緩める。相変わらず素直な弟子だ。

 

 「確かに、これだけでもすごく気持ちがいいっす」

 「吾輩の邪魔をしないのであれば、人間どもがここに衝立や小屋を建てる程度は咎めはせんぞ?」

 「――はっ! それはとてもすごいことをおっしゃっているのでは!?」

 

 口も目も大きく開いたアイラの表情は大げさに見えるが……、それだけ温泉を気に入ったと思えば吾輩の気も良くなるというものだ。

 案外とこの場所をきっかけに、この辺りの人間どもに流行はやりが訪れるかもしれん。そんな妄想をしながらつかる湯もまた心地が良いと感じられたのだった。

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