18、雨上がりに願いを
青年の利き腕には古傷があった。
今より少し前、相対している男に付けられたものだ。
その所為で同年代の中でもとりわけ成績の良かった射撃の腕は廃れ、剣はもちろん、箸やペンなど日常生活にも支障をきたした。
残ったもう片方を一から鍛え直し、自由に行動できる――男に復讐するための地位を得るには長い年月が必要だった。
――それなのに。
「喰らえ!!」
男に、一度も攻撃が当たらない。
こんなことは今まで、初めてだった。
くそ、と毒吐きながら、青年は鉄糸を編み込んだ特注の手袋をぎゅっと握りしめる。
「……物騒なもん着けてる割に、全然当たんねえな?」
東雲はそう言って肩を竦めると、懐から短剣を取り出した。
一族の伝統に習い、人間蠱毒で生き残った際に送られる『成人』の証である。
柄の部分を軽く握ると、剣背から仕込み毒が出てくる細工が施されていた。
青年もそれを知らないわけではない。
一目で短剣が蠱毒を生き抜いた者の証であることを見抜くと、露骨に表情を歪めた。
「蠱毒を勝ち抜いた者が、どうして一族を裏切った!」
「あそこが『普通』だと思ってるお前さんには、一生分からねえよ」
「何だと……!?」
薄暗い穴の中に落とされたばかりの頃は、まだ良かった。
人数が減るにつれ、まず視界がやられる。
狭い場所で戦っている弊害か、強い者ほど返り血を多く浴びることになるのだ。
清潔な水も、身体を拭う物も無い場所では、大量に浴びた返り血の所為で自身の視界を侵される。
炎症を起こし、充血した頼りのない視界で、動く物全てに攻撃を仕掛けなければならないのは、これ以上ないほど神経がすり減った。
視覚以外の五感を頼ろうにも、己から発せられる咽せ返るような鉄錆の匂いで、嗅覚はいつしか麻痺していた。
握っている武器は返り血で汚れ、掌にくっ付いて離れなくなり、最後の一人になっても、決まった祝詞を叫ぶまで、縄梯子が降ろされることはない。
いっそ、この血の海に溺れて死んでしまおうかと、虚無と絶望に苛まれたあの感触を、この青年は何よりの『誉れ』だと言わんばかりだ。
「里を抜けてから今まで、あれ以上の地獄を俺は味わったことがない」
東雲はそう言いながら、姿勢を低くした。
重心を下げ、獲物の急所を視界に収める。
「銃でしか人を殺したことのないお前に、良いことを教えてやるよ」
「……!」
「人の肉を断つ感触、その身で思い知るといい」
音もなく、青年の懐に飛び込む。
一瞬で間合いを詰められた青年が、苦し紛れに拳を放つも、それは東雲に届かなかった。
――ドスッ。
首に刺さった短剣に気が付くのと、青年が吐血したのは同時だった。
「仕込まれた毒の中身はお前も知ってるだろ。……苦しみ悶えながら、地獄へ落ちろ」
真っ赤に充血した青年の目を、東雲は汚いものでも見るかのように見下ろした。
きっと自分も彼のように碌な死に方はしないだろう。
梅雨に生かされた命。
もう少しだけ、生き汚く足掻いてみても罰は当たらない気がした。
◇ ◇ ◇
「…………急いで。術者に何かあったみたい」
梅雨が出入り口を睨みつけながらに、そう呟いた。
それはつまり、梅雨やこの場に居る他の蓮宿たちの術が途切れることを意味していた。
「術が切れたら、みんなはどうなっちゃうの?」
時雨が不安を色濃く宿した表情で、潮と淡に問いかける。
二人はゆっくりと顔を見合わせると、次いで淡が優しく微笑んだ。
『安心なさい。蓮は空に還る者。蓮宿との縁が消えれば、自然と天に向かうわ』
良かった、と胸を撫で下ろした時雨の隣に立つ潮が、眉間に深い皺を刻んで、淡を睨んだ。
『……淡、』
『大丈夫。あとは私に任せて。さ、お嬢ちゃん。さっき教えた通りに、出来るわね?』
淡はそう言うと、時雨の小さな両手を自身のそれで包み込んだ。
雨が降る前の、湿気が充満したような、水の匂いが部屋を満たしていく。
ぽつ、ぽつ、と部屋のあちこちから湧き出した小さな水泡に、小炎が「わあ」と驚きの声を上げた。
「すごいネ、しーちゃん。上手にできてるヨ」
「……ええ、ほんとうに、すごいわ」
小炎に同調するように、梅雨もこくりと頷く。
「彼岸は彼岸へ。この世ならざるもの、幽世へと渡りたまえ」
時雨が辿々しい口調ながらも、潮たちに教えられた祝詞を告げる。
すると、梅雨たち僵屍となった蓮宿の身体が淡く光を帯び始めた。
ぱあ、と光る彼女たちの姿に、時雨が「あ、」と声にならない声を漏らす。
「お姉ちゃん」
妹の声に、梅雨は笑った。
「幸せになってね」
「え、」
「私のことは忘れてもいい。だから、時雨は時雨の『幸せ』を大事にして」
――ずっと大好きよ。
梅雨が、時雨の髪を優しく撫でる。
術者が完全に息絶えたのか、彼女の指先はボロボロと徐々に形を失っていった。
「……時雨ッ!!」
東雲が肩で息をしながら、部屋の中に飛び込んでくる。
その後ろには、バツの悪そうな顔をした銀がくっついていた。
「約束を守ってくれてありがとう」
「つ、ゆ」
「私の妹をよろしくね」
「…………待てよ!!」
行くな、と追い縋った東雲に、梅雨は首を振った。
「元の場所へ還るだけ。だから、泣かないで」
「泣いてねえっ!」
梅雨は崩れゆく身体を何とか持ち上げて、東雲の頬に触れた。
頤を伝う涙が、灰へと変わった梅雨の身体を濡らす。
それはやがて煤となり、東雲の肌にそっと跡を刻んだ。
「時雨」
「……っ、うん」
「東雲と仲良くしてあげて」
こう見えて、寂しがりやだから。
その言葉を最後に、梅雨は灰となって跡形もなく姿を消した。
はらはら、と零れ落ちていった掌だった部分の灰を握りしめながら、東雲がその場に崩れ落ちる。
「東雲」
頬を涙でぐしゃぐしゃにした時雨が東雲の胸に飛び込む。
返り血で汚れていることも忘れて、東雲は少女の小さな身体をきつく抱きしめた。
「怪我は?」
「してない」
「…………帰るか」
しん、と静まり返った部屋の中に東雲の声がやけに大きく響いた。
誰も、何も言わない。
ただ静かに彼の言葉に従って、地上へ戻ろうとした一行を激しい揺れが襲った。
「な、何だ!?」
「分かんない! ちょっと、銀! どさくさに紛れて、どこ掴んでんのサ!」
「わ、悪い! 今のはわざとじゃねえって!」
「東雲! あれ!」
振り返ると、そこには淡が立っていた。
先ほどの衝撃で、天井にヒビが入ったのを、黙ってじっと見つめている。
「淡!!」
銀が戻ろうと踵を返すのに、淡が『来てはダメ!』と叫んだ。
次いで、ガラガラと音を立てて、天井が崩壊を始める。
正気を失った蓮たちを守るように、大きな水泡を展開しながら、淡が己の愛し子を見つめた。
『これでいいのよ、銀。私は長く「地上」に留まりすぎた』
「何、言って」
『私が先導となって、彼らと共に天へ還るわ』
「……!!」
銀が息を呑む。
その間にも、部屋と外を繋いでいる階段が崩れ始めていた。
「これ以上は保たない。銀、一旦外へ出るぞ!」
「でもっ、」
東雲が銀の腕を掴むも、彼はまだ淡に視線をやったまま動こうとしない。
『坊や』
そんな銀の姿を見た淡が、可笑しそうに口元を綻ばせた。
『欲しいものはもう手に入れたのでしょう? なら、別れを惜しんじゃダメよ。――そんなにいい男に育ったのなら、尚更、ね?』
淡、と譫言のように自身に宿る蓮の名を呼ぶ銀に、痺れを切らした小炎が彼の背中に蹴りを放った。
「ちょっとは成長したと思ったのに、中身は昔からちっとも変わってないネ! いいから、さっさと前に進みなヨ!」
「しゃ、小炎」
「……こいつ、僕が貰っていくけど、良いよネ」
緋色の鬼が、蓮の女神を鋭く睨む。
淡は返事の代わりに、ゆるりと柔く微笑んだ。
次いで、銀に向かって、手を伸ばす。
『大好きよ、藤。姿は見えなくなっても、私の心はいつでも貴方の側にあるわ』
淡の言葉を待っていたかのように、瓦礫が部屋の中に降り注ぐ。
「淡!!」
銀の悲痛な叫びが、無情に響き渡る。
戻ろうにも、階段は既に落ちてしまっている。
上へ登ることしか出来なくなった一行は、瓦礫をかき分けながら、必死で地上へと這い出た。
「…………銀、見て!」
時雨が、ぐったりと倒れ伏した銀の身体を揺さぶる。
空中に咲いた無数の蓮の花が、ふわふわと空へ向かって浮かんでいた。
「淡、」
じわり、と目頭が熱くなる。
兄の仇討ちを誓ったあの日、彼女は銀の前に現れた。
珍しい毛色の子どもだ、とひどく嬉しそうに微笑んだ淡の姿を今でもはっきりと思い出せる。
『貴方の悲しみや怒りを私が糧として、消費してあげる』
本来なら、無垢な心を好むはずの蓮が、どうしてそんなことを言ったのかは分からない。
けれど、その言葉に、そして彼女自身の優しさに、銀は何度も救われてきた。
「ありがとう」
蚊の鳴くような声で呟いたそれは、彼女に届いただろうか。
涙を堪えながら蓮の花を見つめる銀の手を、時雨の小さな手が優しく包み込む。
「淡、ありがとう。銀のことは、任せてね」
「……っ、何だい、そりゃ。俺は嬢ちゃんに面倒見てもらうほど、ガキじゃねえぞ」
「でも、泣いてるから」
「泣いてないよ。でも、どうせなら、小炎に優しくしてもらいたいねぇ」
「……小炎がいいって」
選手交代だ、と時雨は銀の身体をぎゅっと抱きしめてから、後ろに立っていた小炎にその場所を明け渡した。
造ってもらったばかりの面は、煤や血で汚れ、真新しさは見る影もない。
ふう、と嫌味も言わず、ため息を吐くだけに留めた小炎に、銀は珍しいものでも見るかのように瞬きを繰り返した。
「…………淡から君を貰い受けたんだ。今日だけ特別だヨ」
力なく座り込んだままの彼の腕を、小炎が無遠慮に引っ張る。
薄っぺらい身体のどこからそんな力が出るのかと言わんばかりの怪力に、銀の身体は簡単に傾いだ。
ぽふ、と音を立てて着地した場所から、規則正しい心音が響く。
「……いつもこれくらい優しくしてほしい」
「調子に乗るからダメ」
「ケチ」
「何とでも、言いな」
そう言って、徐に面を外したかと思うと、幼子のように己の胸に顔を埋めた銀色の青年に小炎は目を落とした。
逃げる途中にどこかで落としてしまったのだろう。
常は彼の目を覆っているはずのサングラスの姿がない。
そうっと、興味本位に伸ばして触れた眦の熱さに、小炎は思わず指先を強張らせた。
「……どうした、」
「思っていたよりも、熱くてびっくりした」
「何だよ、そりゃ」
「君の肌って白いから、もっと冷たいものだと」
意気消沈した銀を気遣ってか、いつの間にか東雲と時雨の姿は見えなくなっていた。
二人きりになったことを認識して初めて、何かとんでもなく恥ずかしいことを仕出かしてしまったのではないかという焦燥感が小炎の胸を襲う。
逃げようにも、自らが引き寄せた青年が身体を預けている所為で、上手く身動きが取れず、歯噛みする。
「…………あの、」
「ん?」
「重いから、ちょっと退いてほしいんだケド」
「自分から引き寄せたんじゃねえか」
「それはそうなんだけど、」
「ぶふっ」
「何、笑って」
「お前のそんな顔、久しぶりに見たなと思って」
銀が笑いながら小炎の肩に額を預ける。
数秒の後、じんわりと広がった熱に、小炎は言葉を失った。
この青年――少年の頃から知っていると先ほど判明した――が、泣いているところを見るのは、殆ど初めてのことだ。
どうしよう、と言葉に詰まった小炎を察してか、銀色の睫毛を濡らした銀がそっと顔を持ち上げる。
「……何だよ」
「それ、僕のセリフじゃない?」
不貞腐れたように唇を尖らせる彼に、小炎がくふ、と笑みを溢した。
「そうしていると、子どもの時とあんまり変わらないネ」
再び肩に顔を伏せようとした銀の顔を、小炎の両手が包み込む。
兄を取られたと思って怒っていた時のそれと同じだ、と小炎が懐かしそうに目を細めた。
「…………ガキ扱いすんな」
ぽつり、と溢れた銀の言葉に、鬼女が声高に笑う。
「あっははは! ごめんごめん。そうだったネ、もうガキじゃないんだった!」
「小炎、」
「……んふふ。は~、可笑しい」
「おい、いい加減に――」
銀が怒りのままに叫ぼうとした、その時。
柔らかい感触が、唇を掠めた。
次いで、近すぎる距離に小炎の緋色があることに気付く。
「え、」
状況を上手く飲み込めず、間抜けな声を漏らした銀に、小炎がもう一度顔を寄せた。
ちゅ、と二人の間に似つかわしくない、可愛らしい音が響く。
「続きがしたいなら、さっさと立ちな。僕の気が長くないことは、よぉく知ってるデショ?」
茶目っ気たっぷりに片目を閉じた小炎が、茫然自失となった銀の身体を押し除けて立ち上がる。
「うええっ!?」
カラスが飛び上がって逃げ出すほど響いた銀の大きな声に、小炎は歩みを止めることなく肩を震わせるのであった。
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