10、おもかげ

「ふっかーつ!!」


 赤鬼を象った真新しい面を身につけた小炎の姿を見て、銀は目尻を和らげた。

 昨日までの不調が嘘のように明るさを取り戻した様子に、ほっと胸を撫で下ろす。


「小炎、新しいお面もかっこいいねぇ~!」


 小炎の膝で寛ぎながら時雨が溢した言葉に、東雲と小炎の二人がゆっくりと顔を見合わせた。


「……しーちゃん、それ本気で言ってる?」

「うん。どうして?」

「お前、初めてこいつの面見たとき悲鳴上げてただろーが」

「あ、あれはビックリしたから……。い、今はもう平気だもん!」

「本当に~~??」


 大人二人分の揶揄いを含んだ嫌な視線に晒されて時雨の目がキッと吊り上がる。

 そんな彼らのやり取りを眺めながら、銀は気付かれないように小さく喉を鳴らして笑った。

 楽しそうな笑い声が耳に馴染んで心地良い。

 これ以上見ていれば、笑っているのがバレるかもしれない、と何とはなしに中庭へ視線を向ければ、いつからそこに居たのか黒猫がジッとこちらを見ていた。


「……小炎か?」

「いや、お前でも構わん」

「んじゃ、俺が行きますよっと」


 縁側に置かれた草履を引っ掛けながら、夜雨の後に続く。


「女の意識が戻った」


 簡潔に告げられたそれに、銀の眉間に皺が寄る。


「どうする?」

「……一つ聞きたいんだが、常世あっちに物を届けてもらうことは可能なのか?」

「ああ。こちら側とあちら側は表裏一体。住所さえ分かれば簡単だろう」

「なら、ここにあの女を送ってほしい。あとはこっちで処理する」

「承知した」


 懐から取り出したメモ用紙に万年筆で住所を書くと、銀はそれを夜雨に託した。


「悪いが、よろしく頼む」


 紫色のレンズの奥で、銀の目が緩く細められる。

 まるでどこぞの狐を彷彿とさせるその表情に、夜雨は奥歯にものが詰まったような何ともいえない気持ちになった。


 ◇ ◇ ◇


 滅多に来られない幽世に来たのだから、せっかくだし観光でもして帰ろうということになり、一行は手始めに和笑亭の温泉を満喫することにした。

 それというのも、数日は滞在しているにも関わらず、小炎の暴走を監視するのに付きっきりだったこともあって、真面に風呂に入ることが出来たのは初日だけだったのを今更ながらに思い出したのである。


「それじゃ、僕としーちゃんは部屋風呂に入るから、君らは大浴場を『しっかり』満喫してきな」

「小炎が部屋に残るなら、俺も部屋がいーい!」

「ダメに決まってんデショ! こんなときでもないとドンはちゃんとお風呂に入んないんだから、しっかり監視してよネ!!」


 親の仇を前にしたかのように荒ぶる小炎に気圧された男二人が脱兎の如く部屋を飛び出す。

 そんな情けない彼らの背中を、時雨はぼんやりと寝惚け眼で見送った。


「ふわあ……」

「ふふっ。あんなにいっぱい寝ていたのに、まだ眠いのしーちゃん」

「ん。ちょっとだけ」

「寝る子は育つって言うし、将来はドンよりおっきくなるかもネェ~」

「え~……」

「すごい嫌がるじゃん。ドンが聞いたら泣いちゃうヨ?」

「だって、あんまりおっきいとドアにおでこぶつけちゃうから」


 自分がぶつけたわけでもないくせに、時雨はやけに真剣な顔付きで自身の額を小さな両手でそっと隠した。

 

「ぶふっ」


 東雲が高身長なばかりに鴨居や扉の縁に額をぶつけている様子を思い出し、小炎が噴き出す。

 傭兵を名乗っているくせに、時々恐ろしく鈍臭い彼は自身の身長とドアの目測を誤って、三回に一度、額を打ち付けているのだ。


「そうだネェ~。そしたら、星羅くらいの身長がしーちゃんにはお似合いかも……」

「時雨もそう思う」


 力強く頷いた少女に、小炎はまたしても笑い声を上げそうになったが、寸でのところで何とか堪えることに成功した。

 肩を震わせながら、何とか脱衣所の扉を開き、時雨の背中を押す。


「さ、ドンたちが戻ってくる前に、僕たちもお風呂済ませちゃおう」

「お~!」

「ふふっ。いいお返事だネ」


 そう言って服を脱いだ小炎に、時雨はまんまると目を見開いた。


「小炎って、女の人だったの?」

「そうだヨ。びっくりした?」

「んーん。なんとなく、そうかなって思ってたから」

「ありゃ、どーして?」


 服を脱ぎながら、時雨はこてんと首を傾げた。


「優しい、から?」

「どうしてそこで首を捻るのさ」

「だって、時雨『優しい』とか『綺麗』とか、そーいう言葉、最近になって覚えたんだもん」


 使い方があっているのかどうか分からない。

 暗にそう告げられてしまえば、小炎はうっかり零れ落ちそうになった意地悪な二の句を飲み込む他なかった。


「東雲は知っているの?」

「勿論。じゃなきゃ一緒に旅なんて出来ないでショ」

「じゃあ、銀は?」


 小炎の眼に宿る焔がゆらり、と妖しく揺れた。


「アイツには絶対、教えない」

「どうして?」

「知られたくないから、だヨ」


 時雨は再びこてん、と首を傾げた。

 その仕草が妙に似合っていて、ともすれば癖になってしまいそうだと小炎は笑みを零す。


「しーちゃんも銀には僕のこと秘密にしてネ」


 お願い、と時雨の小さな手を握りしめながら小炎が言えば、彼女はぱちりと一つ瞬きを落とした。


「でも、」

「『でも』は無し」

「小炎」

「ごめん、しーちゃん。でもこればっかりは、僕も譲れない」


 小炎が緩慢な動作で面を外す。

 すっかり元の色合いに戻った緋色の瞳が剣呑な光を瞬かせながら、時雨を射抜いた。


「……分かった」


 見慣れない真剣な顔付きの小炎に、時雨はそれだけ堪えるのがやっとだった。


 ◇ ◇ ◇


 東雲たちが温泉から出てくるのを待って、一行は幽世の街へと繰り出した。


「それで? まずはどこから攻める?」

「あー……。俺はちょっと人に言えないもんを新調してくるんで、」

「普通に武器屋行くって言いなさい。子どもに悪影響だろうが」

「だってぇ、何か恥ずかしいじゃん? 武器を研いできますって言うのぉ」

「お前の恥ずかしさの基準が俺には分からん」


 ふるふる、と真剣な顔を崩さずに全力で首を振る東雲に、銀は苦笑を零す。


「それじゃ、僕も付いて行こうかな」

「お、珍しいな。お前が自分から銀と一緒に行動したがるなんて」

「ちょっと変な言い方しないでヨ」


 小炎が心底嫌そうな声を出した隣で、銀が嬉しそうに「小炎……!」と目を輝かせた。


「勘違いしないで。こっちの素材じゃないと僕の槍は研磨出来ないから、仕方なく付いて行くだけ」

「うんうん。つまり、俺とデートしたいってことね」

「都合の良い耳だな。違うって言ってるデショ」


 ぎゃいぎゃいと言い合いをしながら、目的の方へ向かい始めた二人の背中を呆れながら見送っていると、不意に時雨が東雲の服を掴んだ。


「東雲」

「んー??」

「アレ見たい」


 時雨の視線を辿った先には、カラカラと波打つ風車の花畑が広がっている。


「おー。すげぇな。俺もこんなに並んでるの見るのは初めてだわ」

「綺麗」

「どれ、お兄さんが一本買ってやろう」


 現実と夢の狭間で船を漕いでいる店主の老人を起こすと、彼はしゃがれた声で「一本五十円だよ」と掌を開いてみせた。


「これで、足りるか?」


 出掛けに小炎から預かったこちらの通貨を差し出せば、老人が黄ばんだ歯を見せてにっかりと笑う。


「まいど。ほい、お釣りだよ。アンタら、こっちは初めてかい?」

「ああ。子どもが喜びそうな店があるなら、教えてもらえると助かる」

「それなら、反対側の通りに甘味処があるよ。可愛らしい売り子の嬢ちゃんが居る店さ」

「へえ? それは良いことを聞いた。おい時雨、お前甘いものは好きか?」


 買ったばかりの風車に一生懸命、息を吹きかけている時雨を振り返れば、彼女はきょとんとした表情で首を傾げた。


「甘いものって、ナニ?」


 そう言えば、この少女が甘いものを食べているところを東雲は見たことがない。


「小炎の飯と同じくらい、上手いもん食べさせてやるよ」

「行く!」


 小炎の料理は幼い少女の胃袋をがっつり掴んでいるらしい。

 風車を見ていたときと同様か、それ以上に輝きを増した時雨の瞳の輝きに東雲は思わず「くっ」と喉を逸らして笑った。

 老店主が言っていた甘味処はすぐに見つけることが出来た。


 通りを渡ってすぐに、派手な看板が掲げられていたからである。


「いらっしゃい。何にします?」


 お品書きに目を通していると、若い女が声を掛けてきた。

 まだ選んでいる途中だということに気が付いていないのか、にっこりと朗らかな笑みを浮かべてこちらをじっと見つめている気配に、東雲が溜息を吐き出す。


「悪いけど、まだ決まっていないんだ。注文が決まったら呼ぶから――」


 そっとしておいてくれ。

 そう続くはずだった言葉は喉の奥に引っ込んでしまった。


「梅雨」


 そこに立っていたのは、東雲が初めて心を寄せた少女だった。

 だが、すぐにそんなはずはないと首を振る。

 梅雨は東雲の腕の中で息を引き取った。

 あの、雨の日に冷たくなっていく彼女の身体を東雲は確かに覚えている。


「お、ねえちゃん」


 東雲の隣で、時雨がヒュッと息を呑んでいた。

 ただでさえ白い肌が、今は真っ青になって、虚ろな眼を梅雨にそっくりな女に向けている。


「……てめえ、一体何者だ」


 ここが街中であることも忘れて、東雲は懐から銃を出した。

 突然銃口を突き付けられたというのに、女はぴくりとも動揺を見せない。


「やあね、お客さん。真昼間からそんなもの振り回しちゃ、危ないよ」

「何者だ、って聞いてんだ。俺の質問に答えろ!!」


 時雨の手が、東雲の背中を掴んだ。

 こつり、とぶつけられた額に、思わずグッと唇を噛み締める。


「ああ。ひょっとして、この顔を知ってんのかい?」

「そうだ、と言ったら?」

「そいつは悪いことをした。俺ァね、綺麗なものを見るとつい真似しちゃうんだ。許しとくれよ。誓って、この顔の人に何かをしたわけじゃあない」


 そう言うと、女の顔がぐにゃりと歪んで、白い能面になった。


「俺はのっぺらぼうの妖怪でさ。この通り、自分の顔がないんだよ。だからね、綺麗な人を見ると真似したくなるんだ」


 声は女のままだったが、眼前に能面が広がれば恐怖しかない。

 時雨がヒッ、と喉を引き攣らせるのに、抱きかかえて落ち着かせてやれば、のっぺらぼうは慌てたように梅雨の顔に戻った。


「ご、ごめんよぅ。驚かせるつもりはなかったんだけど……」

「あ、ああ。それより一つ質問をしても良いか?」

「何だい?」

「アンタ、今その顔を『見た』と言っていたが、一体どこで、」


 のっぺらぼうの女は暫く、梅雨の顔で考え込むように眉根を寄せた。

 この目で見送った彼女の姿をもう一度見ることになるとは思ってもいなかった東雲は、その一挙一動に視線が釘付けになる。


「……えーっと、どこだったかなぁ? 確か現世に買い出しへ出かけたときだったから。ああ、そうだ! 青蘭の裏通りで見たんだよ! あの辺りは物騒だからさ、極力行かないようにしているんだけど、このお姉さんが横切ったんで、もっとよく顔を見たくて追いかけたんだよ」


 青蘭――その街に、東雲は聞き覚えがあった。

 忌々しい過去の記憶が蘇りそうになったのを呼び戻したのは、時雨の小さな声だ。


「姉ちゃんが、生きてる……」

「少なくとも、死人には見えなかったけどねぇ」

「!」


 時雨の顔が薔薇色に染まる。

 死んだはずの人間が生きていると知って喜ぶのは当然の道理だ。

 けれど、東雲は知っていた。

 彼女の姉が生きているはずがないことを。

 腕の中で冷えていく梅雨の姿が、再び脳裏を過った。


「……そうか。ありがとよ。団子代はこれで、足りるかい?」

「え、ああ。ちょっと待っとくれ、多いよ。こんなに貰えない!」

「良いんだ。暫くこっちに来ることもないだろうし、面白い話を聞かせてくれた礼だよ。――行くぞ、時雨」

「うん!」


 嬉しそうに笑う時雨の手を引いて、東雲は茶屋を後にした。

 まさか、再び青蘭の街へ赴くことになろうとは、思いもしなかった。


(――クソ!)


 胸の内でそう呟くと、東雲は分厚い雲の中に浮かぶ二つの月を睨みつける。


「一体誰が梅雨を騙ってやがるんだ」


 時雨の手を握る手に力が籠った。


「い、たい。痛いよ、東雲」

「あ、悪ィ」


 ほとんど引き摺るような形で時雨の小さな手を握っていたことに気付き、東雲は慌てて手を離した。

 互いの体温がじんわりと残る掌を見つめながら、時雨が「ねえ」と遠慮がちに言葉を紡いだ。


「ん?」

「東雲は、姉ちゃんとどこで知り合ったの?」


 空色の目が東雲を射抜く。

 その眼光の鋭さは、初めて会った日の梅雨を彷彿とさせた。


「……急にどうした」

「急じゃない。ずっと気になってた。東雲もそうだけど、黒燈サマも時雨を見て寂しそうな顔する」

「……」

「それって、姉ちゃんのこと前から知ってたからでしょ」


 だから気になったのだ、と幼子は髪を振り乱しながら、唇を噛み締めた。

 夜を閉じ込めた漆黒の美しい長髪が天幕のように、時雨の顔を隠して閉じ込める。

 俯いていることも相まって、東雲からは少女の表情が全く見えなかった。


(……拗ねたときの癖も一緒とか、)


 梅雨も、拗ねると俯いたまま喋らなくなることがよくあった。

 こんな些細なこと一つでも、時雨を彼女の姉と重ねて見てしまう。

 未だに心で燻っている梅雨への想いが、そうさせているのかもしれない。

 

「時雨」


 努めて冷静に、東雲は少女の名前を呼んだ。

 いやいや、と東雲を拒絶するように、時雨が頭を振るった。

 細い手首を無理やり引っ張って、成長途上の小さな身体を腕の中に閉じ込める。

 

「お前にはまだ早いかと思って黙っていただけなんだ」

「……」

「全部話すよ。だから、機嫌直してくれ」


 すり、と子猫が親猫に擦り寄るように、滑らかな髪に東雲が頬を寄せれば、時雨が僅かに身動いだ。


「ん」


 唇を尖らせたまま、そう言った彼女に、東雲が眦を和らげる。


「……俺は、お前の姉さんに助けられたんだ」

「え?」

「まだ小炎とも出会う前の話だ。だから、これからする話はアイツにも言ったことはない」


 知っているのは梅雨と、黒燈の二人だけ。

 鈍い光を宿した東雲の双眸が、時雨を射抜く。

 真剣な表情でこちらを見つめる彼に、時雨はグッと奥歯を噛み締めた。


――ずっと気になっていた。


 東雲は時折、時雨を通して誰かを見ていたような気がしていたから。

 それが、まさか梅雨のことだとは思いもしなかったけれど、自分の他にも姉のことを知っている人が居ることに、時雨はどこか嬉しさを感じていた。

 忘れかけていた姉の優しい声が脳内に響く。


『いつかきっと二人でこの家を出よう。私が必ず助けてあげるから、待っていて。約束よ』


 額に落とされた口付けまでも鮮明に思い出して、時雨は涙が零れそうになるのを必死に堪えた。

 東雲が歩くたびに、振動が伝わって身体を揺らす。

 不安定に揺れるそれはまるで、今の時雨と東雲のようだった。


 部屋に戻ると、そこに小炎と銀の姿は無かった。

 まだ武器屋を物色しているのかもしれない。


 東雲は僅かばかりに眉間の皺を緩めると、奥の部屋に腰を下ろした。

 時雨も彼と向かい合うようにちょこん、と座り込む。

 じっと、食い入るような眼差しを向けられて、東雲は思わず俯いた。

 見れば見るほど、その容姿は梅雨とよく似ていて、とても直視できない。


――違うところと言えば、目の色くらいだ。


 梅雨は真っ赤な、柘榴を嵌め込んだような眼をしていたが、時雨の眼は青空を溶かした硝子のように美しい。


「お前の姉さんに出会ったのは、俺が二十歳の時だった」


 語りだした東雲の声は固く、そして僅かな震えを纏っていた。

 東雲の瞼がゆっくりと下ろされる。

 時雨はそんな彼の言葉を一言も聞き逃すまいとして、唇をギュッと結び、耳を澄ませた。

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