第二の誕生

《ルビを入力…》 ある日ある時、地球周辺の宙域で宇宙戦艦同士の乱戦が勃発した。次元超越遺物、ワンダーエッグの争奪戦……のはずだった。いつしか相手を降すことが本来の目的に成り代わり、ワンダーエッグはいつの間にか重力の井戸に吸い込まれていった。

 そうやって衝突していた者達には何処へ行ったか分からず、それを戦闘宙域外から観察し、見逃さず軌道を掴んだ者だけが行き先を知っていた。地球のホログラムが浮かび上がり、ある場所にズームされ、指を差す。

「軌道予測では日本周辺へ落ちる。降下の準備を」


 二〇二〇年 四月二十三日 木曜日


 いつも通り学校から帰ってくると、オアシスの前にスーツ姿のアイニィが居た。よく見ると黒いナップサックを背負っている。嬉しそうに手を振っている。

 アラタからアジトの方へ顔を出し、第六感の練習をしたり、クリルトと組み手をしたりしていたが、宇宙人街側にアイニィが来るのは初めてだった。

 アイニィには上ノ原中学校は今年度から成績が良ければ行っても行かなくても良くなったと説明したが、それでも何でもないならちゃんと行きなさいと諭された。正論だ。

 そしてたった今友達と一緒に下校して来たところだった。

「アラタ、この人誰?」

 アラタがアイニィに対して声を出し、嫌そうな顔をした為、ヒロキとサトルが訊いた。アラタが何をどう説明すればいいか分からず、あたふたしている隙にアイニィがすかさず言う。

「ウチのアラタがお世話になっておりますぅ~」

 俺とアンタはどんな関係なんだ。アイニィは頭を使わず雰囲気で喋り、テキトーかますきらいがある。

「あ、どうも」

「おねぇさん的な……」

 ヒロキもサトルも意外とあっけらかんとしている。適応力が凄い。もう宇宙人には慣れっこなんだろう。島は宇宙人の方が多いくらいで別に珍しいもんでもない。ただ、俺が過剰反応しているだけかもしれない。そういえば朝の会で先生も言ってた。

「いやぁ、あれだ。これだけ長く占領されて、距離も近ければね、ストックホルム症候群みたいに相手に親近感覚えてしまうね。腹割って話せる仲になっちゃってね、宇宙人と。今朝も警備員をしてて通りがけに会釈し合ってね。あっちからすればリマ症候群かもしれないね。というか、組織の末端の人は上から言われて従ってるだけ感が強いからかもね。そういうの社会に出たらよくあって、それで言ったら先生も――」

 アラタがそんな事を思い出している間に、アイニィは保護者のような雰囲気でヒロキとサトルに訊く。

「この子どうですか、最近。変わった事無いですかね?」

「最近元気になりました!」

「あの頃のアラタに戻って嬉しいです!」

「へぇ~?」

 アイニィはニヤケながらこっちを見た。アラタは目を逸らした。

「じゃあ僕ら、保険委員の発表準備があるので失礼します。行くぞサトル」

「めんどくせーなぁ」

「しょうがないよ。今日一日で終わらせて、楽になろう」

 それから二人はオアシスの中にさっさと入っていった。環境委員のアラタはあまり仕事がないのでやっぱり大変そうだなぁと思う。手伝いはしない。

 二人の後ろ姿を見ているとアイニィが顔を覗き込んでくる。

「元気になったんだ?」

「まぁ……」

 アラタは何とも言えない気分になった。アイニィのお陰のような、そうじゃないような。

 ムズムズしているアラタを置いてアイニィは颯爽とオアシスの中に入っていく。

「おーし、届いてんな」

 アイニィがオアシスの一階エントランス、アラタのロッカーの前でそう呟く。その奥にはランドリーがあり、そして噴水広場と皆が呼んでいる中庭がある。

 届いてるって、この寝具一式がか。ていうか何で俺の名義で置き配されてるんだ? そう疑問に思うと同時にアイニィが答える。

「ジャーン! アラタの端末で注文しといたから」

「あ、え?」

 いつの間に。でも貯金はいっぱいあるし、いっか。でも一言断り入れてよ。

 それでそれを持ち帰ると思いきや、手際よく荷物用エレベーターに乗せると五階のボタンを押した。

「なんで!?」

 大きい声で訊くと二階に上がろうとしている通りすがりのクラスメイトに見られた。次はトーンを落として訊く。

「アイニィ……? アイニィってば」

 何回も訊くが無視して鼻歌交じりで階段を上がっていった。

 そうしてエレベーターの中から持ち出して寝具一式をアラタの部屋に搬入作業をしている。

「ねぇ、要らないんだけど、これ。これは誰の?」

 アイニィはアラタの部屋で布団を下ろし、やっとこっちを向いて言った。

「イエーイ、アイニィさんのでーす。ダブルピース、ダブルクォーテーション」

 そう言ってピースで立てた二本の指を折った。アラタは最後にくっついてきた訳の分からない謎ギャグの方が気になってしまった。

「それは、何?」

 もしかしたら、もしかすると、ギャグじゃないのかもしれない。深遠な言い回しのレトリックかもしれない。

「ギャグだけど? 私が二時間考えたマスターピース。ダ――」

「『ダブルピースだけに』でしょ? もうなんなんだよ!」

 あーなんかもうどーでもよくなってきちゃった。アイニィ、スゲーウケてるし。この人は話を脱線させる天才なのかもしれない。それも、自分に都合の悪い話を。いつもならここらで撒かれるけど、こればっかりはちゃんと訊かないと。

「んで、なんで買ったのさ……?」

 そう言うとアイニィは目を一段と見開き、いきなりキレ始めた。

「アラタがアジトを第二の家とするなら、私にとってもここは第二の家でしょうが!」

 大声を出しながら床を指差し、アラタに迫って来た。一理あるかないかで言うと絶対にないのだが、迫真さで吹き飛ばされてしまった。

「誰かに見られるって!」

「良いジャーン。蜜月を見せつけてやるのよ」

 言いながらアイニィは投げキッスをした。投げキッスはセクシャルな要素が内包されている思っていたが、アイニィを見るとそうでもない気がしてきた。

「…………くっ、来るなら設定練らなきゃ」

 設定を練らなければどんなこと言い出すか分かったもんじゃ……いや、大体想像がつくからこそ練らなければいけなかった。結局、専属家庭教師ということで話は落ち着いた。よくスーツ着てるし、見た目は賢そうだし、教えてもらっているのは間違ってはないし。

 その話が済むとダイナーに行くことになった。向かう道中、公園の前を通ろうとすると子供の呼ぶ声がした。

「おーい、アイニィ!」

 アイニィは公園の方を向いて返事をする。

「おーガキんちょ! 今日も元気ね!」

「あの子供達と知り合いなの?」

 この人はなんというか変な魅力がある。良い意味でガキっぽいというか、それによって相手を子供みたいにするっていうか。まぁ馬鹿らしくなるんだろう、多分。

 ダイナーに着くと地球人も宇宙人も居て賑わっていた。セルフサービスの水を汲んでカウンター席に座り、そこのパネルで何を食べるか決め、アラタはスマホの電子決済でアイニィの分も払った。アラタはラーメン、アイニィはカレーライスを頼んだ。

 アイニィは少しずつメニューを制覇していっている。特にお気に入りなのは豚丼とかつ丼だ。彼女曰く食べるのが面倒くさくないらしい。アイニィは箸ではなく、全てスプーンで食べた。

 その待ち時間はゲーム『BOMBAYEAHボンバイエ!』を代わり番こでプレイしていた。アイニィが下手過ぎてすぐバベル塔が出来上がり、「もっかぁーいっ!」と言って勝手にもうワンゲームする。

 しかし不思議なことに自分でプレイするより横で茶々を入れていた方が面白かった。アイニィは本気で一喜一憂して声を上げた。アラタは横から口を出した。

「あっ、もう、さっきもそこ失敗したじゃん、そうじゃないって、下手くそか!」

「分かってたのに! 今分かってたのにィー!」

 遊んでいるとすぐにパネルの呼び出しベルが鳴った。

「アラター? 私の分もねー?」

 当然でしょう? みたいな物言いをしながら小さな画面に齧り付いている。アラタは一気に持って行こうとしたが、明らかに無理そうなので二往復した。

 戻るとアイニィは自分のカレーを食べていた。運ばせたくせに待たないのか。

「思ったより早く終わったね」

 そうアラタが口撃すると睨んできた。彼女の口の周りにはカレーが付いている。そして平らげた時に頭を掻きながらカタコトで喋る。

「ナンカ、トウヒ、カユクナル」

「なんか汚いよ……」

 その後、ハンバーグとデザートのトロフィーみたいなパフェも注文し、本当に噛んでいるのか分からないほど、丸のみするように食べた。アイニィは健啖家だった。ただ、唯一嫌いなものはキノコらしい。

「太るよっていうかもうお腹出てるよ、アイニィ」

「大丈夫ぅー、私太らないから」

 アイニィは隣で小さくげっぷした。

「え!? 泊まってくの!?」

「何ですか! 文句ですか! はぁーん!」

 今日は泊まってくらしい。お腹一杯でもう動きたくないんだろう。

「ベランダに出ないでよ。窓同士向かい合ってるんだから、見られるよ」

「分かってるって。パノプティコンみたーい。じゃ、私からシャワー浴びるから。あ、もしかして、覗く? そんなに見たいなら良いけ――」

「もう……俺も入りたいんだから早くしてね」

 アラタは背中を向けたままそう言った。アイニィはこのネタでは揶揄えないと感じたか、何も言わずアコーディオンカーテンを閉じた。

 アイニィが脱衣所兼、洗面所で服を脱いでいる時、シャワーを浴びている時、恋愛とは何だろうと考えた。最近はどこもかしこも色恋沙汰が盛んである。中学校の中だけかもしれないが。ヒロキも隣のクラスの子と付き合い始めたって。

 それで、今こんな状況なのにまったくドキドキしない。アイニィとの関係は何だろう。友達? 多分違う。アイニィは女の人なのに、それなのにドキドキしない。それってどうなの?

 思えば忙しなく色々なものに夢中になっていて恋愛的なのは端っこに押し込まれていた。恋愛というものを掴みかねている。それはハッキリ言ってダサい。何とかしたい。

 答えが出ないまま上がってきたアイニィの後に入った。脱衣所に入るとアイニィの服はベルト以外、自分の洗濯かごの中に入れられていた。洗濯してという意思表示だろう。ランドリーは共有スペースなのに、女物のパンツやブラジャーを洗うってヤバすぎるのではないかと思う。そういう時は一時間程ずっとランドリーの椅子に座って見張らないといけなかった。深夜に行くと見つかりづらい。

 シャワーから上がるとアイニィはウエストポーチからオーラセルと思われる円柱の物体を取り外し、オーラを送っていた。フィルターを掛ける為だろう。オーラセルの中が見れる細長いガラス面は緑が濃くなっていく。

「ていうか、それ俺のパジャマじゃん!」

 つんつるてんの丈の足りない紺色の寝間着を当然のように着ている。

「私、もう少しデカいサイズがいいかも」

 面の皮の千枚張りだ。果たして千で足りるか? 絶対足りない。もう帰って欲しい。

 アイニィはオーラセルをウエストポーチには入れずにその脇に置いた。多分入れると否応無しにオーラのフィルターが作動する為、まだ装填はしないのだろう。

「温度もっと下げる」

 アイニィはクーラーのリモコンで温度を下げ始めた。暑がり過ぎる。アラタは冷え性なので余計そう感じる。

 アラタはアイニィからリモコンを取り上げる。

「そんなに暑くないって!」

 そう言うとアイニィはアラタの手を掴んで自分の首元に持っていく。

「あっつ! 体温たっか!」

「でしょ? だから下げるの」

 アイニィはリモコンを取り返し、また温度調節する。

 宇宙人は暑がりなのか? アイニィが特別そうなのか? 生まれ住んだ地域や星によって違ったりしそうだけど、それならアイニィは暑さに弱いから、寒冷地で生まれ育った感じ? そういえば恒温動物は生息地が寒ければ寒い程、身体が大きくなると図鑑で読んだことがある。身体を大きくする事で熱を維持するとか、確かそんな感じ。ベルなんとかの法則ってやつだった。確かクマが引き合いに出されてたはず。マレーグマからヒグマ、そしてホッキョクグマ、寒い所にいるクマほど大きく……そうだ! ベルンの法則だ! だからアイニィは身長が一七三センチなんだ! だから胸も大きいのかもしれない!

 アラタは自信満々に、マジックでも披露するようないたずらっぽい表情で訊いた。

「ねぇ、アイニィってさ、寒冷地で生まれ育ったんじゃない? どう?」

「ん? そうだよ、冬は雪で閉ざされちゃうの。何で分かったの?」

「アイニィがおっきいクマだからさ」

 アラタのご機嫌な顔に対して、要領を得ない顔をしたアイニィの謎解きが始まった。

 それを尻目にアラタはアイニィが言うように柔軟して床に就いた。寝る前の柔軟は習慣化した方が良いと言っていた。身体が固くてはアラタの良さは活きないと。そしてアイニィは言葉の意味をもう考えないようにしたらしかった。

「私はもう、寝マチュピチュ」

 アイニィはこちらを見ながら真面目な顔で言い放ち、布団を広げた。アイニィは布団で、アラタはベットで寝る。

 部屋が暗くなって何も見えなくなった時、少し小さい声でアラタは話し出した。

「……ねぇ、起きてる?」

「いや、寝てるよ?」

「アイニィ、あのさ……アイニィと会ってから面白くなったよ」

「面白く?」

「この箱庭がさ」

 少し恥ずかしかったから顔が見られない暗闇で話したんだと自分の真意に気付き、それもまた恥ずかしくなった。

「危険かもしんないよ? それに巻き込んじゃったかもしんないのに?」

「巻き込まれたかったんだよ。あのままじゃ駄目だった。危険なのは、身体か精神かの違いでしかないからさ……うん」

「人選間違えちったか?」

「いや、大正解でしょ。ありがとね」

 アラタが言い終わった途端、アイニィはもう寝ていた。寝言で返答していたのかもしれない。

 近くに居て気付いたが、アイニィは寝相が悪く、寝言を流暢に喋る。

「ういぃぃぃ……おばあちゃ~ん……」

 アイニィは寝つきが良い。寝言をずっとうだうだ言っている。管を巻いているようにも聞こえる。いつもは静寂で包まれるはずの部屋がうるさい。

「むーいぃ、ふふーふっ」

 だけどその夜はなんだかいつもよりぐっすり眠れた気がする。

 ………………いや、普通にアイツの相手で疲れてたから……。


 四月二十四日 金曜日


 目覚まし時計が鳴り、手探りで音源をぶっ叩いて黙らす。朝が来た。尿意に動かされてトイレに歩を進める。

 その向かう道中、何か踏んだ。しかし、寝ぼけ眼かつ冴えない頭では何かは特定できなかった。ほぼ夢の中に居るので、大きいウミウシを踏んだと勝手に解釈した。有り得なくはない、今までこの身に起きたことに比べれば、部屋の床にウミウシ。

 トイレを済まし、洗面所で手を洗っている時、水の冷たさで脳が覚めた。それで、もう一度鮮明にプレイバックする。さっき踏んだあれは……アイニィだ!

「アイニィ!」

 気付いたアラタは焦って手がびしょびしょのままアイニィを見に行く。布団ではアイニィがすやすや寝ているのを確認すると、洗面所にタオルを取りに向かった。

「……なーんだ、アイニィかぁ」

 アイニィは布団をへその辺りからかけて、仰向けで寝ていた。よだれを垂らし、幸せそうである。

 さっきまでの罪悪感が吹き飛んだ。踏んでも大丈夫そうだ。ウミウシじゃなくて良かった。

 それから座って朝ごはんのおにぎりを食べている途中にふと気になる。こういう食べ物ってどっから運ばれてんだろう。宇宙人の、というか宇宙統制機構のプライベートブランド的なこういう食べ物。本土から運んでんのかな。どうやって? うーん、まぁいいや。ちょっと塩味が足りないけど美味しいし、害は無いっぽいし、宇宙統制機構の人達も巡回中に買って食ってるの見たし。

 顔を洗って少し髪を整えて歯を磨いて学ランを着る。準備が出来た。玄関で靴を履き、アイニィが起きないように静かにゆっくりと扉を開ける。

「いってらっさい」

 部屋からの呂律が回ってない声にアラタは振り向いた。アイニィがそう言った。気のせいじゃない。

 久しぶりのその言葉でアラタは笑みがこぼれ、彼女の快眠の為、静かに黙って外へ出た。本土に居る家族を思い出した。

 階段を降り、オアシスを出てすぐの田舎道を歩いていると後ろから声をかけられた。

「アラター!」

 聞き馴染みのある声に振り返る。ユマだ。亜麻色の髪を靡かせながら走ってきていた。アラタはその場で立ち止まってユマを待った。

「行くか」

「うん」

 二人の会話はまず何故そんな早くから学校に行くのか、という話題になった。俺がこんなに早く学校に行くのが不思議でしょうがないという顔をしていた。ユマは今日が日直だから早く学校に行かなくてはいけないらしい。

 アラタは環境委員の仕事があると言う。中庭などにある花や糸瓜へちまへの水やりだ。朝の仕事だけでなく放課後も仕事があるが頻度は少ない上、保険委員の面倒さを見ているので全然苦ではないのが分かる。

 そういえばヒロキとサトルは結局、発表だか掲示だかの何かは出来上がったのか。

「なーなーっ」

「ぬぁーにぃー?」

 朝なのでまだ気怠く黙って歩いていたがユマに切り出され、二人は話し出す。そうしていつの間にか小学生の時の話になった。覚えているようないないような、そんな思い出話に。

「そういえばユマ、髪上げるの、カチューシャやめたよね」

「うん、子供っぽいかなって思って」

「その代わりに眼鏡してるの?」

「上ノ原に来てから目が悪くなっちゃって。私地味だから、だから赤にしたんだよね」

 アラタは疑問に思う。

 地味かな? それにカチューシャも子供っぽいかな? デコ冷えて寒そうとしか思ってなかったかも。

「あの頃は可愛かったのにね、アラタ」

 アラタは背の順で、前から二番目の身長だったし、髪も今より若干長めだったので誉め言葉は「可愛い」だった。チビな事を当時はあまり気にしていなかったが、可愛いと言われると複雑な感情に襲われた。その言葉をどんな気持ちで受け止めればいいのか分からなかった。

「今はかっこいいだろ」

「そうかなぁ?」

「そうだよ!」

「でも、元気が戻って良かったよね」

 そんな事を言い合いつつ、アラタは本土の事を思い出そうとする。

「最近考えるんだけど、本土はどうなってんだろう?」

 アラタはここ最近は外に意識が向く事が多くなった。ある日ふと思った。

 どうしよう、お母さんとお父さんが離婚してたら。いや逆に仲が良すぎて家族が増えている可能性がある。弟が良いなぁ、キャッチボールとかサッカーとかしたいし、妹は仲良くなれなそうだからヤダなぁ。

「四年も経っちゃったね。そういえば今年、東京オリンピックだよ」

 そっか、東京オリンピックがあるのか。でもどうせこっちでは観れないだろうな。

「校外学習で天体観測所や宇宙センターを見に来たら閉じ込められるなんてさ、夢にも思わなかった」

 今から五十年前、一九七◯年代は大気が汚れていて星が奇麗に見える場所は限られていた。そこでサナトリウムが建てられる程空気が澄み、星がよく観える場所という事で上ノ原島がプロジェクトの地になったらしい。なのでそこには大口径大型望遠鏡『神之瞳カミノメ』が設置してある。何光年先をも見通せる凄いものだと紹介された。

「ホントだねー。まさか宇宙人が来ちゃってスノードームみたいになっちゃうの。今あそこもなんか違う施設になってるんだっけ? 宇宙統制機構の」

 神ノ瞳は取り壊されずそのまま保存されているが、天文台の一帯が宇宙統制機構の施設群になり、立入禁止区域になっていた。ライフラインである海水淡水化施設や内燃力発電所もその区域に入っていた。宇宙人が管理しているこの四年間で問題が起きた事は無い。

 アラタはここでの生活を他人事のように思い返し、独り言を放る。

「ここで生活してんの、皆飽きないのかな? まぁ、平和は何よりだけどさ」

 アラタは空を、膜を見上げて続けた。

「『ここに閉じ込められて良かった』なんて思える人いるのかな」

 ユマが隣で頷きながら相槌を打つ。

「そうだね、そうだよね」

 サンは今日も街を見下ろしている。あの一帯は平和とは少し違った様相を見せた。街の住人はいつだってそれを見ていた。


 長かった今日の授業は全て終わり、帰りの会の後、掃除がある。

 上ノ原中学校は帰りの会をしてから掃除なので、やる場所によって早く終わったり終わらなかったりする。

 アラタは階段と踊り場の掃除が終わった後、ヒロキとサトルが帰るのを横目にまた教室に行く。今日アラタは環境委員当番なので、その仕事がまだ残っていた。

 環境委員当番は二人いる。同じクラスの誰かは忘れていたが、女の子だったので力がいる仕事を暗黙の了解的にアラタが担当する。

 環境委員の役割は全クラス、六組分のゴミをまとめてゴミ収集車が来る外にある小屋に持っていく。全クラスの黒板消し清掃の方は女の子の仕事だ。

 アラタは無茶かもしれないと分かっていながら全クラス分のゴミを一気に持っていく。結局、二往復した方が速かったりするのだが、負けた気がするので一回で全部持っていきたかった。前はこんな無意味な意地は無く、迷わず楽な方を選んでいたのに。アイニィと出会ってから、馬鹿になったかもしれない。

 四苦八苦しながら持って行って自分のリュックを取りにまた三階に戻っている時、ドアストッパーで止められ、解放されている白い扉に目がいく。表札には図書室とある。

 室内を覗いてみると誰かの後ろ姿が見える。特徴的な亜麻色の髪で分かった、そこにはユマが居た。一人で黙々と本棚の前で何か作業をしている。

 アラタはもう開いているドアをノックした。

 ユマの身体に一瞬緊張が走った。それから振り向き、アラタの顔を見て、緊張が解けたみたいだった。

「どうぞ、お入りなさい」

「失礼します。それで、何やってんの?」

 訊きながらアラタはユマの所へ歩いていく。ユマが答える前に、アラタが気付く。

「そういえば、図書委員長だったもんな」

 学級委員長の仕事ばかり見ていたが、ユマは図書委員長でもあった。しっかりしてるな、と思った時、何か引っかかった。違和感が肩を叩いた。

 ユマって、だったっけ?

「今は、蔵書点検をしてるの。あとここの辺の書架だけ」

 それでこの一週間、図書室が使えなかったのか。本が多そうだけど、大丈夫……じゃなさそう。

「これ、何か手伝える事ある?」

「いいの? ありがとう! じゃあ、アラタはこれを、私はもう一つ読み取り機持って来るね」

 アラタは渡されたスキャナーでバーコードを読み取りながら訊く。

「何で一人でやってんの?」

「……何となく?」

「何だそりゃ」

「そんな所にアラタが来てくれた。ありがとね!」

「いや、そうじゃなくてさ……」

 ユマはスキャナーを台車に乗せて隣に来た。アラタの一段下の棚からやり始める。二人は並んで、お互い顔も合わせず、ちゃんと手を動かしながら話を続ける。

「でも私、出来る事これくらいしかないから」

 アラタは顔を上げて本が棚に敷き詰められている辺りを見渡す。

「でも、こんなにあるけど?」

 アラタはこの単純作業が苦しかった。周りを見渡すと本棚が幾つも並んでいた。この物量を見るだけでうんざりしていた。同じ事を繰り返すのが大嫌いだった。

 ユマは手際よく本を裏にしてバーコードにスキャナーを当て続けながら言う。

「半分は委員の人もやってたよ。だから後は私に任せてってね」

 ユマはいじめられていない。だから尚の事、変だ。こういうの、誰の為にやってるんだろう。分からないけど、なんか……なんか……。

 結論が出せないまま、何も言えないまま本を手に取り、一つ一つスキャンし続けた。

 この本達と同じように自分の記憶も精査されるのかもしれないと想像する。寝ている間、一つ一つえっし、スキャンする。そう考えてみると一つ飛ばし、スキャンを忘れた記憶があるような気がした。上ノ原に来てからの茫然自失の四年間の記憶や、霞がかる本土での記憶など。

 アラタはその気配を感じながら、それでも何も思い出せなかった。

 光源が陽の光だけだったので、時間が経つにつれ図書室は薄暗くなっていく。ユマが電気を点けるまでそれに気付かない程、作業をしながらアラタは考えに耽っていた。

 思い出せない思い出がある。その状態のままで下校時刻になった。作業は進んだが、まだ蔵書点検は終わらなかった。


 ユマとオアシスに帰った後、時間は遅めだがアジトに行こうと思った。この気持ち が悪いモヤモヤを紛らわせて欲しかった。今ならアイニィのダル絡みも大歓迎だった。

 この頃になるともう慣れてしまって宇宙人街に行くのもそんなに怖くなくなっていた。暗い中、一直線の長いコンクリートの道路を歩いていく。

 いつも通り、左手側のサン付近は大袈裟に光を放っていた。いくつものサーチライトが夜空をまさぐる。もう慣れたもので、街の人達も立ち止まる事は無かった。

 そうしてアジトに着き、勝手に上がる。アジトに入るといつものアンティークな部屋へ廊下を渡って行く。ここはちゃんと第二の家のようになった。

「お、アラタ! いい所に来た!」

「ん……?」

 部屋にはフロルスもクリルトも集まっていた。二人の顔から察するに、今から何を話されるのか分かっていないみたいだった。アラタは空いているソファーに座った。

 するとアイニィは手を叩きながら言う。

「では、これから作戦会議をします」

 皆深く腰掛けた格好から姿勢を正し、聞くモードになった。

「ここに、この島に、ワンダーエッグが落ちて来ます」

 アラタが思わず口に出す。

「ワンダーエッグ?」

「そう、タイムマシーンだよ」

 クリルトが怪訝な表情をしながら訊く。

「そんな物あるんですか?」

「眉唾物だったが存在したのか。上ノ原に落ちてくるって情報は確かなのか?」

 フロルスはアイニィに訊いた。アイニィは上を指差しながら言う。

「落下予測だけどね。だけど宇宙うえで駐在さしてる我が組織の観測者様の情報だから多分合ってるし、正確」

「ニコか?」

「うん。一方通行の天からのお告げよ」

 分からない話が続き、痺れを切らしてアラタは訊く。

「そのタイムマシーンって……どういうのなの?」

「何処で作られたのかも誰が作ったのかもどう作ったのかも素材も不明。何で作られてるのかも分からないけど、オーラすらも弾く。だからオーラの膜があろうと関係ないんだ。とにかく、この次元に存在してはいけない物だよ」

 アイニィはテーブルの真ん中が少し開き、そこから空中に看板のようにホログラムが照射される。その説明文をアラタは読む。


 タイムマシーン:ワンダーエッグ

 どんなものでも傷つけれない、汚せない、純白の卵。オーラを弾くのはその素材からだろうと推測されている。何を動力として動いているのかも定かではない。

 これも次元転移機や、言語変換機などと同じく、別次元の物だと推測されている。ワンダーエッグは超重要次元超越遺物第三類に分類される。

 落下予測時間は日本時間の十時前後。上ノ原島か、その周囲の海に落ちて来ると予測されている。この島の膜でも、勢いは減衰して貫通する。

 ワンダーエッグの中に入ってヘッドギアを装着すると、装着者の言語で、その人だけに見える取り扱い説明の文章が浮かび上がって来るらしい。それで機能を把握したみたいだ。それも仕組みは不明。

 まぁ、分かる限りはこんな感じかな。

【ニコより】


 文字を追いながらアラタは考える。タイムマシーンなんて物が実際あるのか。気になる点が多かった。

 まず有名なのが親殺しのタイムパラドックス。

 簡単に説明すると、タイムマシーンで自分が生まれる前の過去に戻って自分を生む前の親を殺す。そうすると自分は生まれないことになるけど、それだと加害者である自分が居なくなって親は殺されないけど…………と、このように堂々巡りの訳の分からない状況になる。

 親殺しのタイムパラドックスの他にもタイムマシーンには多くの問題があると空想科学読本で読んだ事がある。

 例を出すと座標の問題だ。地球は自転しながら公転している訳で、時間と空間を同時に移動する仕組みが無いと宇宙空間に投げ出されてしまう。

 もう一つだけ例を出すと、タイムマシーンが移動したところに物質があるとどうなるのか。分子レベルで融合してしまうのか、それとも……?

 そんな問題が山積みである。後者の二つはまぁ、多分、何とかなるかもと思う。

 座標の問題は自転速度、公転軌道の予測計算などでどうにか出来るかもしれない。

 重なった物質もアイニィから聞いた次元転移機の上書きの仕組みで何とかなるかも

 しれない。

 いや、本当はならないかもしれないけど、宇宙人の凄いテクノロジーを加味するならば。しかし前者のパラドックスはどうするのか。というか、どうなるのか。

「それだとタイムパラドックスが起きてしまうから並行世界パラレルワールドが出来るんじゃないかって」

「おぉ~……」

 アイニィに訊いてみるとちゃんとした答えが返ってきた。

 アイニィ、こういう話が出来る人なんだ。ちょっと意外。たった今、手元にない何かや概念について話す時、途端に理解できなくなる、話せなくなる人がいるが、アイニィはそういうタイプじゃないらしい。ある程度テンプレートな返答ではあるけれど。

 それを聞いたクリルトがアイニィに言う。

「それ、五次元サドリクスから来てますか?」

 アイニィはそう言われて照れて俯いて黙った。自分の持論のように話していたが、違ったらしい。何かから引用していたみたいだ。

 この時、何の話かと思ったが、五次元サドリクスとは複雑怪奇なボードゲームの話だったらしい。なんでも、四次元と五次元も跨いでプレイ出来るらしい。

 クリルトが恥ずかしがるアイニィを横目に続ける。

「あとは辻褄が合っちゃってどうやっても殺せないとか、殺してみたら親が変わってたとか、殺して帰って来たらそこは知らない世界になってたとか、その辺色々考えられそうですよね」

 アイニィは同調するように頷いて難しい顔をした。

「……でも本当にあるかはまだ分からないよねぇ。模造品だったりして」

 話が脇道に逸れたが、また作戦の話に戻る。ホログラムが消えてテーブルの真ん中辺りの扉が閉まる。

「そこで、今回の作戦は私、クリルト、アラタの三人で広大な落下予測範囲を手分けして担当します」

 アイニィはこの島の拡大衛星写真を広げた。膜のせいで少し霞んでいるがちゃんと島全体が写っている。

 アイニィは赤、青、緑のマーカーペンを三本取り出して別々の色でエリア分けをしていく。

「アラタは地球人街の周辺を、クリルトは宇宙人街の周辺を、あ、ここの小さい森は二人で半分こね。私はここ一帯の山、森林を担当する」

 アラタとクリルトの担当範囲は同じくらいで、アイニィの担当範囲だけ三、四倍はあった。実力を見れば当然の采配かもしれない。

 アイニィは南の大きい森林を、アラタは西側の地球人街と北にある小さめの森林を東側の宇宙人街担当のクリルトと分担して担当する。小さめと言ってもアイニィに比べてであり、さして小さくない。地図上では小さく見えているが、実際は思ったより何倍も広かったりする。

「分かってると思うけど、目標はワンダーエッグの奪取。どっかに渡したくない」

「他に誰か狙ってるの?」

「そうなんだよ、嗅ぎ付けて来ている勢力がいる。ヘデラ博士とその仲間の研究員が来てるらしい。彼は話が分かる良い人だよ、自身の研究の事以外はね」

 さっきまでソファーに深く腰掛けていたフロルスが前のめりになり、興奮して話に入って来る。

「ヘデラ博士! 稀代の天才科学者が来るのか!? ちょっと話がしたいな」

「しかもあの人、肉弾戦もやれちゃうんだよね。第六感はどんなのか知らないけど、手強いかも」

「おめぇら頑張れよ!」

 大きい声で励ましてフロルスは笑った。

「作戦開始は明日、四月二十五日、十時には持ち場に着く事、無理はしない事、そしてベストを尽くす事! では解散!」


 四月二十五日 土曜日


 晴れた真っ青な空を白濁させる膜を通り過ぎ、遠くで宇宙船が降り立ち、旅立つ。そして景色に溶けるように、光を屈折させるステルスの技術なのか、陽炎のようにゆらゆらうねって朧げな輪郭となって姿を消す。

 その往来を双眼鏡を目元に当て、例のスーツを着込んで、高校の屋上から見ている。高さも位置も丁度良かったのでそこで待機していた。

 アラタは黒いナップサックを持って来た。アイニィが置いていった物だ。双眼鏡もそれに入れて持って来たし、何よりトランシーバーを持って来ていた。

「これさ、特製のでさ、対になってんだよね。だから一つ無くなったらもう一つもガラクタ。もう一つのは私が持っとくから、なんかあったら」

 そんな若干プレッシャーを感じる言葉で持たされた。ナップサックにはそれ以外の役に立つか立たないか分からない品物も入っていた。

 アラタはこの作戦をもう一度おさらいする。

 まずこの島のどっかにワンダーエッグが落ちるはずだからそこに行って、何とか回収して、アイニィ属する組織の宇宙船が下りてくるまで保守する。大雑把だけど、分かりやすくていい。各自臨機応変に対応って事だろう。

 待機時間はゆうに一時間は越え、現時刻は丁度十一時。アラタは待ちぼうけていた。

「まだかな、まだか……」

 双眼鏡を覗き込んで辺りを見渡していると、何か視界の端で光った。その方向へ素早く目を向ける。しかし光の激しさから反射で目を閉じ、腕を前に出し、顔も逸らしていた。

「うっ! わっ!」

 眩く、尋常じゃない光量で光っており、何かが焦げるような音がここまで届いていた。目に焼き付けられた残像から判断するにワンダーエッグとオーラの膜が衝突して生じた光だと推測した。

「あれ、双眼鏡でも肉眼でも見ちゃダメだ! 小一の登校中、あん時もそうだった! 専用のグラスが無償で配られてた! アレが必要!」

 アラタは金環日食があった二◯一二年五月二一日当時、普通に肉眼で見ていた。見るなと言われても、好奇心の方が勝つに決まっている。学校に着いて見た、先生も生徒も日食グラスを持って、校庭に突っ立って上を向いている姿はアラタをワクワクさせた。

「人が初めて月に行った時も、こんな感じだったのかなぁ」

 アラタはそう呟いた。しかし、それと同時に世界の終わりに立ち会った雰囲気があり、アラタを恐怖させた。

「月墜落だ! 地球はメツボーだ!」

 そんなB級映画のような妄想を膨らませていた。

 しかし、その日はそれ以外何も無く、妄想はみるみるうちに萎んでいった。最終的にはホントに墜ちてくれば良かったのになぁ、なんて思っていた。

 懐かしい記憶が激しい光によりフラッシュバックした。そうして顔を背けている内に光は徐々に弱まり、そして無くなった。

 すかさず振り向き、双眼鏡で落ちていく一気に勢いが無くなった丸っこい物体を追う。それはクリルトと分担した北森の方へ落ちていった。

「なーんか、思ったよりボトって感じだったな」

 そんな独り言を尖らせた口で呟くと、やっぱり小学生の頃とさして変わってないのかもしれないと少し不安になった。

「あ! あれ追わないと!」

 自分の本来の役割、そして目的を取り戻し、双眼鏡をナップサックに放り込んで屋上から銀色の旗揚げポールへ跳びついて消防士のように、棒に伝って降りていく。

「あ! 墜ちた場所もっとちゃんと見とけばよかった……」

 着地した途端に思い出す絶望感。屋上を見ながら、またよじ登って戻って……と考えていると仲間の存在を思い出した。

「あの位置なら多分クリルトからも見えてるはず。凄い光だったから、一番遠い位置に居るアイニィも分かってるはず。まずクリルトと合流しよう」

 アラタは街を抜けて森の方へ走り出した。


 街の人々から北森と呼ばれている森林は鬱蒼と茂っていた。そよ風で枝や葉が揺れる。足場が悪く、木々の根っこに足を取られる。静かな森を歩き続けていた。

 この森には色々な廃棄物が落ちている。机、釣り竿、ブラウン管テレビに外車。そんな物も自然の一部となって森の中で息いている感じがする。

 緑で覆われて元々の用途ではもう使えそうにない物ばかりだった。持ち主は今何処で何をやっているのだろうと考える。この物達は何を見てきて、何を感じて、そして今、幸せだろうか。寂しそうにも見えるし、受け入れ、悟っているようにも見える。歩いていると苔むした地蔵も見えてくる。変わらず笑みを浮かべている。

 そんな事を考えながら辺りを見渡していると、オーラが近くに来るのを感じた。それも地面から。

「あ、オーラが……」

 見えてはいないが、やはりオーラが来る気配がする。アラタはオーラの波を飛び越えるようにジャンプした。

 オーラの波を地面に這わせて、それで索敵している奴がいる。それにアラタは気が付いた。

「多分、こういうのって普通気付かないんだろうな」

 アラタは他の人のオーラを身体の中に取り込む関係上、人よりオーラに鋭敏になっているらしい。クリルトやアイニィよりもオーラに関しては感じ取れるようになっていた。アイニィはこう言っていた。

「アラタ、オーラ感知だけは凄いね。そんなに感じ取れる人あんまり居ないよ」

 オーラ感知という範囲でだけ、アラタはアイデンティティを確立していた。オーラは見えていなくても、感覚的には走行して来る車の影を踏まないようにジャンプする小学生の遊びと変わらない。アラタは考察する。

 この感じ、オーラを地面に這わせて環状に広げて出してるんだろうな。

 アラタはアイニィ先生とのやり取りを思い出す。

「オーラには幾つかの性質があってね、細かく分類するとまだあるけど今は基本だけを説明するね。一つ目は何にも付着しないオーラ。ほら、クリルトとかフロルスのはそうだよね。二つ目はオーラに付着するオーラ。オーラに反応して付着するからオーラが無い人や物には付着しないの。三つ目は非オーラ物体に付着するオーラ。これはオーラが無い物体には付着するけど、オーラには付着しない性質。と、きたら四つ目は?」

「……どちらの性質も持ち併せてるオーラ?」

「正解。四つ目は何にでも付着するオーラだね。基本性質だから覚えておきなね」

 この感じは前者のオーラに付着するオーラだろうな。自分のオーラだけは遠くへ行っても感覚的に位置が分かる。近ければ詳細に、遠ければ大雑把な位置が分かる。それで環状に広がるオーラをコントロールして這わせ、どこかに留まったらオーラを持つ物体、第六感覚醒者だと分かるって仕組みだろう。

 物体に付着するオーラというのもあるらしいけど、それではなさそうだから前者で決まりかな。

探知気オーラウェーブね」

 アラタは勝手にその第六感を命名した。波が来るとジャンプしながらその発信地に向かっていく。そこにこの第六感の主が居るはず。そいつを叩く。

 歩きながら探知気オーラウェーブのタイミングに合わせてまた跳ぶ。これは大体一分に一度の間隔で――いや、その発信地へ向かいながらなので実際はそれ以上に長い間隔だと思われた。

 そしてやっと発信地、探知気オーラウェーブの発信者を捉えた。望遠鏡を覗き込み、相手を確認する。アラタは木陰から相手を伺う。

 全身真っ白なローブを纏い、耳に真っ白な通信用のワイアレスイヤホンが付いているのは、アイニィの見立てではヘデラ博士の一派らしい。森林の中にミステリーサークルのような、木が生えていない陽だまりの中に居た。

 この距離は……紺碧彗星ブルーインパクト当てるのは難しいし、当たったとしても威力の問題で倒せなさそう。もっと接近しなきゃ。だけどこれ以上近付くとジャンプでバレそうだ。このアドバンテージを最大限に活かす為には……。

 男は棒状のオーラを地面に突き刺し、手を離した。そうするとオーラの棒は地面に吸い込まれていき、オーラが広がり、こちらに波が来る。音を極力立てないようにジャンプしながらアラタはどうでもいい事を考える。

 ところで、ああいうぽっかり空いた森林の空間の名称、なんて言うんだっけ? 理科で言ってたような気が…………あ、そうそうギャップだ、ギャップ。多分そうだ。

 アラタはそうして自分のペースを意識する。深呼吸して緊張を緩和させ、自分自身に呟く。

「スッキリさせたとこで行こう」

 アラタには作戦があった。それを実行する。

 アラタはナップサックの中から望遠鏡と入れ替わりでアイニィが忘れ、返そうと思ったオーラセルをナップサックの中から取り出す。

 乾電池のようだが、少し違う。確かにパッと見、+極と-極があるが、+極側がボタンになっている。これが押されると内部に溜められたオーラが出てくる。-極側から自分の真っ白なオーラを注ぎ、溜まっていくのを見ながら息を殺し、次のウェーブを待つ。

 これで準備完了。一瞬でも相手の気を逸らせればいいんだ。

 男は少し周りを見渡した後、ギャップの真ん中でまたオーラの棒を地面に突き刺し、手を離した。

 アラタは相手に見えない大きい木の裏でタイミングに合わせて跳ぶ。滞空時間を伸ばす為、膝を折り畳んで着地して、その場にオーラセルを出力状態で置いた。

 それから素早く、それでいて静かに相手の背後に回る。相手の環状に広がるオーラをイメージしながら、ウェーブが自分の場所よりオーラセルの場所へ先に辿り着く、対極の位置へ移動した。

 準備完了、アラタは指先に紺碧彗星ブルーインパクトを溜めながら待った。

 また男はオーラの棒を地面に突き刺した。オーラの波が伝って来る。アラタの所へ波が来る前に男は、勢いよくオーラセルの方へ身体を向ける。焦っている素振りだった。

 そりゃそうだ、いきなり近くで反応があったんだから。血の気が引くだろう。

 アラタは波を跳び越えて、オーラセルに釘付けの背中に大胆に動いて接近していく。銃の形にした手は相手の頭に照準を合わせたまま走り込む。

 草を分け、接近する足音に気が付き、こちらを向くその動作が始まると同時にアラタは顔に紺碧彗星ブルーインパクトを撃った。

 振り向こうとした男の顔に炸裂し、反対の方向に一回転してふらつきながらアラタの方を向いた。アラタは一気に距離を詰めて、跳んで頭部を蹴ると男は気絶し、纏っていたオーラが散っていった。

「ふーっ……」

 緊張が解けて身体が脱力する。呼吸を落ち着かせる。

 一気にカタをつけて相手に連絡をさせなかったのは良かった。そして相性が良かった。ガジェットだって味方した。それが大きい。

 オーラセルを回収しようと歩き出すと、遠くから怒号が聞こえた。

「誰だ!」

 アラタはびっくりしてその場で跳ねて、関節が曲がらなくなった。その方向を見ると、ヘデラの仲間AとBが居た。やっぱり白い服を着込んでいる。

 二人だ! 二人はまずい! クリルト! 今行くぞ!

 アラタは脱兎の如く逃げ出した。クリルトが居そうな森の中心に向かって。オーラセルは回収出来ずに置いていくことになった。

「おい、待て! お前はコイツを頼む!」

 そういうやり取りが後ろから聞こえた。一人は追って来る、一人は気絶した味方の介抱だろう。

 どういう第六感か知らないけど、俺の俊足しゅんそくで振り切ってやる!


 追手がアラタの背を捉え続け、追走していく。木の幹や枝を縫うように避け、草葉を散らしながら森林の中をアクロバティックに走って行く背中を追う。アラタの僅かな遠回りを突いて徐々に距離を詰めていた。

 このままなら捕まえるのも時間の問題だ。捕まえられる。

 追手はそう思った。

 前で走っているアラタは森の開けた場所にある廃墟に入り、左手側に向かうのが見えた。

 追手にはアラタの足音が室内で反響してよく聞こえる。そのまま廊下を進んでいる。引き離され、逃げているか、隠れているか、そして廃墟内か外かの択を強いられ、撒かれるのを避けたい。

 そして、アラタの約四秒後に追手も廃墟内に入り、無駄のないコーナリングで曲がろうとすると、そこには銀髪碧眼の少年が何やら構えていた。

 その後ろには走りながら少し振り向いたさっきの少年が居た。迫りくる青い彗星。

 彼の意識はそこで途絶えた。


「いやー助かった! ありがとう!」

「うん、上手く釣れたね」

 あの時、アラタが急いで曲がるとクリルトと目が合った。クリルトの指先には青いオーラが灯っており、走って来たアラタに標準を合わせていた。アラタを見るとクリルトは構えた手を下ろし、青い光は減滅していく。

 それを見たアラタは走りながら焦った顔で親指で後ろを差し、発声せず口を動かす。

(キ・テ・ル)

 一瞬で事態を把握したクリルトは手をまた銃の形にし、そこにもう片方の手を添えて構える。青いオーラが再び光る。

 そうしてまんまと奴が来た。高出力のオーラが高速で頭部に命中した。

「やっぱり、こっちの方が安定感はある」

 クリルトが銃の形の手を見ながら言った。アラタは歩み寄りながら尋ねる。

「これからどうすればいい?」

「取り敢えず、この辺を捜索する」

「分かった」

「この作戦、二人で完遂してしまおう。あっちもあっちで宇宙人街で見掛けた研究員と戦闘してると思う」

「そっかぁ、アイニィのエリア広く取り過ぎたかもしんないな」

 クリルトはアラタの背中を見ながら先の一連の流れを思い出す。

 アラタ、君は意外と抜け目ないんだな。あの時、アラタは追手を誘い込む為、わざと足音を大きく立てて僕を通り過ぎていった。君の足音と割れた窓ガラスを踏む音が響き渡り、それが僕の存在を隠し、同時に追手にも心理的効果を与えた。追跡対象にもう少しで追い付きそうだ、とはやる心の隙を突いたんだ。アラタは僕らと会って、色んなものを吸収している。彼に預ける荷物はもっと重くてもいいのかもしれない。

 アラタは無事クリルトと合流し、これからワンダーエッグの位置に行く。廃墟を突っ切って出て北上していく。

「確か、この辺から北辺りだったはず……」

 アラタは最早覚えていないので、その呟きに頷くだけだった。

 森林は傾斜になり険しくなっていく。クリルトと付かず離れずの位置にアラタが横並びになって歩いていく。

 クリルトは枝を踏んだ音に反応して地面を見る。そしてそれを機にワンダーエッグは木に引っ掛かってる可能性もあるんじゃないかと見上げながら歩いている。アラタは木々の隙間を探して首を回し続ける。

 歩き続けると森林の切れ目があった。ある一定のラインを越えると一気に環境が変わり、木は一本も無く、辺りは芝生が茂っていた。視界が開けたそこはサッカーフィールドのようだった。ここは島の北端らしい。

 傾斜を進むと芝生の平地が広がり、その先は崖になっていた。そこに誰か一人だけ立っていた。白いローブを身に纏い、丸い何かを脇に置いている。太陽の光を反射している白い鉄球のようなそれはアラタの身長と同じくらいと思われた。それを森林の草木に隠れて見ている。

 クリルトは隣で呟く。

「アラタ……あれがワンダーエッグ、そしてヘデラ博士だ」

「えっ……マジか」

 ヘデラは長身だった。一九〇センチはありそうで肌は色白でスリムで手足が長い。髪はオールバック、眼と髪色はくすんだ黄色で骨ばった顔付きをしていた。如何にも厳格そうだった。アラタは声を出した。

「ん? 何だあれ……?」

 ヘデラは手から暗い黄色の何かを出し、それを上に投げた。すると、それは光を反射して煌めき、幾つかに散らばり、地面に突き刺さった。しかし見た感じ何も起こっていない。色々考えてそうなクリルトに判断を仰ぐ。

「クリルト、どうする?」

「……行こう。こうしちゃいられない」

 森林から芝生へ踏み出し、日陰から日向へ姿を晒す。アラタは緊張の面持ちで一歩一歩確かめるように歩いていく。そうして話せるかつ、お互いが手が届かない範囲まで近付くとクリルトは言う。

「ヘデラ博士、ですね?」

 ヘデラ博士は二人に背中を向けたまま、ワンダーエッグを見ながら答える。

「そうだが、君達は?」

「タイムマシーンを回収しに来た組織です」

「……メルドルスクか」

 アラタは知らない話で置いて行かれた。俺の仮所属組織ってメルドルスクってんだ。初めて知った。

「しかし残念ながら、これは君達の欲しがる物じゃないぞ。もとよりタイムマシーンではないのだからな。さ、帰り給え」

 ヘデラは淡々と言った。それで納得する訳が無い。

「俄然気になりますね。タイムマシーンでないにしても、その卵を貴方方が欲しがっている、ただそれだけで価値が担保されているように思えます。どんな代物なのか。次元超越遺物なら……」

「ワンダーエッグを回収すると?」

「ええ」

「それは出来ない。君達にも信念があり、私達にもある。これは曲げられない」

「それなら、奪い合う他なさそうですね」

 クリルトは紺碧彗星ブルーインパクトを指先に溜めた。その時、ヘデラが低い声で背中を向けながら言った。

「もう既にくさびは打ち込んだ。君達、ここは私の縄張りだよ」

 アラタとクリルトは言葉の意味の理解よりも先に、自分の身体に異変に気付く。二人共、身体がフワッと浮き上がり、空中で静止した。

「うえっ……!」

「なにっ!?」

 何も出来ないまま、足や手を動かして藻掻いているとアラタの身体は右側に、クリルトの身体は左側にスライドし、二人は空中で衝突する。

「なっ、何で俺らは……!」

「ギューし合っているんだァー!?」

 そのまま二人で地面に落とされ、身体が絡み合ったまま手と足を使ってぎこちない蜘蛛くものように後退りする。しかし、ヘデラが襲ってこないのを見て距離を取り、落ち着いて体勢を立て直した。アラタは疑問に思う。

「何でかかって来ない?」

「時間稼ぎで充分だからなのか? 回収船が来る手筈なのかもしれない……」

 アラタは不意に左脇腹に妙な引っ掛かりを感じた。ついさっきまでは感じなかった、本当に些細な感覚だった。をれを抱えたままアラタは話す。

「クリルト、俺、気が付いた事あるんだけど」

 アラタは両手を前に出し、闇の中を探るような覚束ない手付きを空中でさせながら、前進していく。そしてある場所でピタリと止まった。

「ここだ。ここがオーラの領域の境界線だ。この中がアイツが言う縄張りってやつだと思う。ここから中がきめ細かいオーラで満ちてる」

 アラタはパントマイムのように、縄張りの外縁に沿って、壁があるようなジェスチャーをした。クリルトはアラタの後ろで考えながら話す。

「そうなると、さっき言ってたくさびっていうのはこういうフィールドを作る為のもので、ヘデラ博士の第六感……縄張り内に入った僕らを何らかの方法で引き合わせる第六感を発動させた……」

「マグネットみたいなね」

 さっきヘデラが手から出力した暗めの黄色い何かが楔なんだろうとアラタは思う。

 クリルトはアラタの隣に歩いて来て、縄張りのオーラを感じようとして、縄張りに恐る恐る手を入れる。しかし、感じ取れないようだった。

「どういうカラクリかは分からないけど、二人一緒に縄張り内に入るのはやめたほうがいいっぽい?」

「そうみたいだね。団子状態になるのは避けたい」

 ヘデラは本格的な相談をしていても、余裕を持て余してしているのが態度に出ている。自信があり、俺達二人は脅威ではないのだろう。それか、ただ単に興味が無いのかもしれない。それよりもワンダーエッグが気になっている素振りだ。

 二人はヘデラへの警戒を解かずに作戦会議を続ける。

「んで、相手の縄張りに今からどっちかが入って、ワンダーエッグあれを奪取しなくてはいけないらしいけど……やれるかな?」

 クリルトはアラタの目を真っ直ぐ見て答えた。

「アラタもやるつもりでいるはずだ」

 アラタはその答えを待っていた。クリルトといると勇気が湧いてくる。

「んーしっ、じゃあ一人ずつ交代で入ろう」

 アラタが勇んで縄張りに入ろうとすると、それよりも先にクリルトが入った。

「僕からやる。観察頼む」

「了解」

 クリルトがヘデラの縄張りに足を踏み入れると顔も向けず、淡々とした口調で言った。

「今度は君一人で入って来るのか」

 アラタは疑問に思う。

 何故一人で来ているのが分かった? 足音じゃないな。

「ヘデラ博士、ワンダーエッグを貰い受けます」

「やってみるといい。付き合ってあげよう」

 そこでやっとクリルトを正面に捉え、ローブの襟元をなぞるような仕草をした。するとローブは見る見る内に縮み、足元まであったローブは上半身を飾り付け、動きやすそうな服装に変わる。全身白い服装で高貴な身分を思わせた。

 クリルトはヘデラへ走って接近する。ヘデラは構えずにただ悠然と居る。しかし、攻撃が届く間合いに入ると驚くほど速いスピードで長い腕を使ってクリルトを殴り、クリルトはそれを防御した。

 ヘデラの間合い、クリルトが手足のリーチの関係で劣勢だった。

 アラタはオーラ感知を活かして縄張りの外縁を歩き、ヘデラの死角、つまり背中側を取って紺碧彗星ブルーインパクトを溜めた。

 そして狙いを付け、戦闘中のヘデラ博士の頭へ向けて撃ち出した。

 確実に当たったと思った。しかし、こちらを見ずに最低限の動きで的確に躱されていた。その時、驚きと少しの違和感があった。

 驚きは躱された事、まるでヘデラは後ろにも目が付いているようだと。アラタは考える。

 縄張りに入った物は全て位置が分かっている? それなら縄張り内に居るとオーラが付着するのかもしれない。縄張り内の漂うオーラが付着したなら、ヘデラは紺碧彗星ブルーインパクトのアウトラインが手に取るように分かるはず。それだ、その線が濃厚だ。

 違和感は自分が放った紺碧彗星ブルーインパクトについてだった。

 何か、少し遅くなってる? 紺碧彗星ブルーインパクトが途中で明らかに減速した気がする……。

 クリルトはそのまま肉弾戦を続けていた。クリルトのパンチで防御し切れず、少し体制を崩した。そのヘデラ博士に追撃しようと、左ストレートを繰り出した。

 これは入ると思った。だが、拳はヘデラまでの距離が足りず、盛大に空を切った。

 クリルトの身体は後ろに引っ張られながら宙に浮いていた。それによってヘデラとの間隔が遠のいた。さっきの二人に起きた現象と類似していた。

 ヘデラはゆっくりと体勢を立て直しながらクリルトの様子を観察している。

 クリルトは紺碧彗星ブルーインパクトをヘデラに見えないよう背後に隠して急速に溜めた。青いオーラが掌で弾ける。指先ではなく、掌に溜める。出力が多い。至近距離なので精度はそこまで無くていいという判断だった。

 空中で静止したまま、クリルトはヘデラに掌を向け、紺碧彗星ブルーインパクトを放った。

 クリルトは反動を肘を大きく曲げて受け流すのではなく、身体全体で受け止める姿勢を取っていた。アラタは未だに反動に対して、大きく肘を曲げて受け流す癖が付いてしまっていた。さっき紺碧彗星ブルーインパクトを撃った時もそうしていた。それでよくクリルトに注意をされて矯正していた事を思い出す。

「そうすると腕が跳ね上がって隙が出来てしまう。もっとコンパクトに、身体で受け止めるように」

 その撃ち出した高出力の紺碧彗星ブルーインパクトの反動は大きいはずだった。しかし、何故か空中では反動が驚く程小さかった事が気掛かりだった。驚異的な反射神経で回避行動を取ったヘデラの肩を掠め、遠くへ飛んでいく。

 それからクリルトの身体が浮いたまま斜めの方向に、ヘデラの方へ吸い寄せられていく。少しも顔色を変えないまま、長い脚でクリルトの腹部を蹴り飛ばし、粛々と言う。

「やはり速いな。そして堅い」

 クリルトは肩から着地し、転がりながら叫ぶ。

「アラタ!」

「縄張りの外!」

 すかさずアラタも答え、クリルトは苦虫を嚙み潰したような顔で受け身を取り、そのラウンドは終了する。二人はヘデラの様子を見ながら、お互い分かった情報を共有する為、合流する。

 ヘデラはこちらを一瞥もせずワンダーエッグを触ったり、頬擦り……ではなく、近くで舐めるように見ている。それと時より誰かに指示を出しているのかワイヤレスイヤホンを押しながら何かを呟いている。「値踏みは済んだ。やはりこの子供達は大した障害にはならない」とでも言われてる感じがした。

 二人は落ち合い、紺碧彗星ブルーインパクトの違和感から話し合う。アラタが切り出す。

「何かヘデラって人に近付いた途端、弾速がいつもより遅くならなかった?」

「そう感じた……僕の勘違いではなさそうだね」

「あの第六感によるものかも」

 普通に見ている分には気付かないかもしれないが自分のオーラは感覚的に場所が分かるので減速するとすぐに気が付く。明らかにスピードを削がれている。

 未知というのは怖いもので、何もかもに警戒して集中力が使われる。クリルトは息が上がっていた。

「身体が浮いて、後ろに引っ張られたような感じがしたんだ」

「……何に引っ張られた?」

「分からない。すぐに後ろを向いたけど何もなかった。それで蹴りをもろに貰った。中々の威力してるよ」

 クリルトは腹部をさすりながら答えた。アラタは分かった事の報告を続ける。

「それと、縄張り内に入ったオーラは相手にも伝わる。付着関係はオーラにのみだと思う」

 だからクリルトの背後で隠した溜めた紺碧彗星ブルーインパクトもヘデラにはお見通しだった。だから警戒し、躱せた。クリルトの手の内に小さなコブがある、ヘデラからしたらそんな感じだったと思う。

「付着の関係か……だとするなら――」

「そう、付着したオーラを消費して第六感を発動し、引っ張る力を加えてるんじゃないかって。紺碧彗星ブルーインパクトが遅くなったのもそれかも」

 やっぱり、さっきの左脇腹の引っ掛かりは間違いじゃなかった。ヘデラのオーラが付着していたんだ。あの時は何か分からなかったけど、絶対そうだ。

 だけど、何で左脇腹のだけあんなに長く残った……? 縄張り内に入ると全身に万遍無くオーラが付着するはずなのに……? そこだけが長く残る理由は何だ?

 考え込むアラタの横でクリルトは考察する。

「それらが正しければオーラは博士自身には付着しない。そういう性質として自動的に判別しているのだろう。付着するならオーラ同士が連結してしまって塊になり、辻褄が合わない。よって、ヘデラ博士は自分を浮かせたりは出来ないはずだ」

「異なる性質のオーラが縄張り内に入ると反応して付着する、ね……」

「どうする? アラタの意見を聞きたい」

「さっきの前提を踏まえて、一つだけなら」

 アラタの右手の十字の傷跡がぼんやりと灰色に光っていた。アラタはクリルトに作戦の概要を説明した。

「そうか、排煙グレイカバーを吸収してたのか」

「まぁ、その後は出たとこ勝負だけど……」

「やろう。煙に乗じて行こうか」

 お互い、これが打てる最善手だとお互いに思い、作戦を確認し合って迷わず実行に移す。

 アラタは人差し指を舐め、それを立てて色んな方向に向ける。

「うん、風は大丈夫そうだな」

 二人は縄張りの外縁で対極の位置を取り、ヘデラを挟み込み、行動を開始した。

 アラタはワンダーエッグを見据え、息を吸い込み、吐き出すと共に排煙グレイカバーを出力する。右半身から灰色の煙が広がる。ヘデラがアラタの方へ振り返る。

 ヘデラを挟んだ向こう側、アラタとは対極の位置に居るクリルトがオーラグラフィーゴーグルを装着した。テンプルに付いているダイヤルを回して上澄みに――比較的薄いオーラの煙は透過し、人が纏う濃いオーラは見える具合に調整していた。アイニィが回収し、フロルスが直し、「無いよりはマシ」とナップサックの中に雑に放り込んだそれが、この作戦の中核を担っていた。

 アラタは排煙グレイカバー全てを出力し終えると意識を集中させ、唸りながら大雑把に操作する。本物の煙との違いはオーラである事。それは即ち制御出来る事だった。

 オーラ操作。その技術を学び始めたばかりのアラタは大局的にしか動かせなかった。縄張りの範囲を覆うように煙を前方に押し出していく。

 そして排煙グレイカバーはオーラなので縄張り内に入るとヘデラのオーラが付着する。これでヘデラが感じ取れるアウトラインは排煙グレイカバーのアウトラインになる。

 それに加え、クリルトはゴーグルがあるので一方的にアラタとヘデラの位置が分かる状況になる。アラタがワンダーエッグの奪取、クリルトがヘデラの相手という分担だった。

 クリルトは煙が自分の所まで至ってから縄張りに入る。それと同時にアラタも煙と共に縄張りの中に入った。

 煙の中はホワイトアウトに似た状態で、腕を伸ばすと指先が霞む。視界が悪いからか若草を踏みしめる音、何かがぶつかり合う音、誰かの息遣いがいつも以上の情報を含んで鼓膜に届く。アラタは音を極力出さずにワンダーエッグに近付いていく。

 そうやって少しずつ進んでいく内に、ワンダーエッグに辿り着く。アラタはそれを崖とは反対の方向、森林の方へ押し出す。

 アラタは思い切り押すのに必死になって背後からヘデラが手を掛けようとしている事に気が付かなかった。

 しかし、ヘデラの手がアラタに伸びた瞬間、青いマズルフラッシュ、触れられる前に紺碧彗星ブルーインパクトが頭に炸裂する。その衝撃でヘデラは吹き飛ばされた。

 アラタは「風切り音がするな」とだけ思った。

 大玉転がしの要領で押していると転がる勢いが付いてきたのを感じた。それはもう押さなくても自ずと加速していった。アラタが触れる事は減速にしかならない程に。そこは地形が下りの傾斜だからだった。

 それでもいい! もうこのままどっかに転がれ!

 纏わる灰色の煙を抜け、緑豊かな場所へ出て光に目を細める。振り向いて後ろを確認してワンダーエッグを追って走って行く。卵とアラタは森の中に入っていった。

 クリルトは煙の中でアラタの方へ寄越すまいとヘデラに食らい付いていた。


 ワンダーエッグは徐々に減速し、ついには止まった。アラタは出来るだけヘデラから遠くへ逃げようとワンダーエッグを押し続けていた。息も絶え絶えで、全身を使って。

 岩がゴロゴロある場所では、それが邪魔で上手く転がらない。ワンダーエッグの前の障害物を排除しながら休む事無く運搬する。森が鬱蒼としてくると木の根っこも障害物になり、運ぶのも容易ではなくなる。勢いを失っても兎に角先へ先へ。目指す場所が無い、景色もそれ程変わらないので更に途方も無く感じた。

「ハァ……ハァ……」

 そんな所に左手側に廃墟の倉庫が見えてくる。倉庫は二棟横並びで連なっており、レンガ仕立てで半分がつたに覆われている。なので赤土色の壁と緑の壁が一つの建物を形成しているようだった。

 アラタの方から見て奥側の倉庫に転がしながら向かった。

「あそっこ……で……ちょい休憩……」

 その間にアイニィにも連絡したい。アイニィが来るか来ないかで状況が大きく変わる。来るならヘデラをボコってもらう。多分、アイツはアイニィより頭が良い。でも、フィジカルはアイニィの方が強い。俺は何も強くない。残念ながら、これが今の俺の総決算。勝算の無い戦いに飛び乗る程馬鹿じゃない……はず。

 倉庫の扉は大きく、それでいて汚れていた。重い扉の片方を力を込めて手前に引いて入った。

 倉庫内は思ったより綺麗だった。ひんやりとした空気に包まれ、静謐に包まれた空間が迎えた。倉庫の隅にはコンクリートのひび割れの隙間から力強い雑草が生い茂っていたが、真ん中辺りから端にいくほど荒れていっている。レンガには細かな隙間やブロックごと抜けている所もあるが、瓦解する事なく建っている。天井は所々穴が開いており、木漏れ日のように降り注いで床に光の斑点を作っていた。そのお陰か倉庫の中は明るく、神秘的な雰囲気が辺りに満ちていた。

 アラタはワンダーエッグを倉庫の奥へと転がし、戸を閉めて一休みする。汗だくで走り続け、全力で押し続けた。その疲れで地面にへたり込んだ。そしてナップサックからトランシーバーを取り出し、アイニィを呼び出した。それでナップサックの中の物は一通り全部使っており、中に入っているのはトランシーバーと望遠鏡だけになってしまった。

 結局、アイニィは出なかった。頼みの綱が繋がらず一気に心細くなってきた。それならば、クリルトと合流したい。クリルトは作戦通り冷静に切り上げて撤退しただろうと考える。自分一人でワンダーエッグを守り切れる気がしない。

 アラタは立ち上がって倉庫の外へ出て、吸収していた探知気オーラウェーブを出力し、その棒状のオーラを地面に刺した。あの男と同じように。

 このオーラの波を使って合流する。オーラグラフィーゴーグルを付けたクリルトが作戦通り気付いて来てくれれば。オリジナルより遠くまで行かないかもしれないが、合流出来るか。

 アラタは目を瞑って探知気オーラウェーブを追う。一滴の雫を落とし、水面に波紋が広がるようなオーラの流れが見える。それが絶え次第、もう一度刺して手を離した。

 オーラが地面を這っていく。それが散っていって、またオーラの柱を地面に刺す。

 クリルトの事を考えながら器が空になるまで続けていた。

 

 倉庫の外の茂みでクリルトを待っていた。オーラグラフィーでオーラが見えやすくなっているので、さっき俺がやったようにタイミングを見計らって跳んで来てるのか。それとも……。

 悪い予感がした所で乾いた小枝を踏む音が聞こえた。アラタは身構えた。

 誰……ヘデラ? その手下?

 緊張した空気の中、草を掻き分けて、よく知った顔と服装が見えた。

「クリルト!」

「アラタ……!」

 アラタは手招きして倉庫の中にクリルトを入れて、扉を閉めた。

「クリルト、大丈夫?」

「ああ、何とか……」

 クリルトは確実に疲弊していた。息も上がって、眼に力が無くなっていた。まるで眠いかのようだった。クリルトは電池切れ寸前のオーラグラフィーゴーグルを渡しながら言う。

「煙が散ってからは……いや、途中から適応された。防戦一方で数発しか入れられなかった。器の中のオーラも少なくなってきた」

「あんな奴と戦ってたんだから……そうだよな……」

 クリルトが地面に腰を下ろした。

「取り敢えず撒いたけど、南に包囲網が張られている可能性がある。アイニィが来るまでここで耐久するのは良いかもしれない」

 アラタはトランシーバーに目を落とし、強く握りながら言う。

「アイニィが……出ないんだ」

「でも多分、負けてないと思う。アイニィの方に仲間達が集まっているからこそ、この辺りが手薄なのかもしれない」

 アイニィならかなりの人数をかけても跳ね飛ばす強さがある。それに確かにここらは手薄だ。探知気オーラウェーブでも誰も引っ掛からなかった。アイニィの方に人員が割かれている可能性が高い。博士自身が強いからこの配置なのかもしれない。現に今も追い詰められている。

 アイニィが先に合流するか、ヘデラに先に見つかるか、今俺はどんな選択を取れるだろう? 取り敢えずクリルトには休息の時間が必要で、今は倉庫から出れない。ならばもっと根本的な確認をしたい。今ここにあるんだから。

 アラタはワンダーエッグを見つめる。

「……この隙にワンダーエッグ、本物か調べない? そしてどんな機械なのか」

 ヘデラ博士が嘘を言っているようには見えなかった。それはクリルトもそう思っているだろう。多分、ヘデラ博士は実直で嘘が下手だ。あの言葉には滲み出る真実味があった。

「ヘデラが言う通り、タイムマシーンじゃないなら、場合によっては渡してもいいかもしれないが……どうやって調べる?」

「あの卵を開けてみるんだ」

 クリルトは奥にあるワンダーエッグに目を向けた。光を反射して輝く卵がそこにあった。荒れた廃墟となった倉庫内にある次元超越遺物。疑いたくもなる。これがタイムマシーン? 人類が夢見たあの?

 二人はワンダーエッグに近付く。アラタはワンダーエッグを一周してから呟く。

「……これ、どうやって開けるんだ?」

 白い球体は切れ目は無く、どこから開くか、本当に人が乗り込めるのか分からなかった。めぼしいものは小さい円の模様だけだった。

 その小さい丸におもむろに手を当てると、その部分が光る。そしてワンダーエッグから駆動音が聞こえ、切れ目が出来てそこから白い光が漏れ、球体の一部が上にゆっくりと開いた。その機械はオーラに反応したような感じがした。

 二人はその動作に大仰に逃げ出したが、何も起こってない事を顔を見合わせて確認してからゆっくりと近付き、中を覗き込む。

 ワンダーエッグの中は真っ黒で、腕よりも太い配線が隅々まで張り巡らされていた。光を吸収し、遠近感を歪ませる純黒のケーブルに囲まれた真ん中には操縦席があり、その上にヘッドギアが鎮座していた。まるでコックピットだった。

 アラタはヘッドギアを持ち上げ、シートに座った。アラタはそのまま導線が何本も繋がっているヘッドギアを頭に装着した。

「アラタ、マズいんじゃないのか……?」

 偽物なら、大した物じゃないなら、もう争う必要なんてない。本当にこの卵に奪い合うだけの魔力があるのか。

 ヘッドギアを付けると頭の形に合わせて、内側のクッションの形状が変化する。頭部に密着し、幾分着け心地が良くなった。

 そしてホログラムが三つ浮かび上がり、文字化けのような言語から搭乗者に合わせるように日本語に対応した字幕が出てきた。

「あ、クリルト……これ、見える?」

「アラタ、何も無いぞ、何が見えている?」

 一つ目のホログラムには説明が書かれてあった。内容は次のようなものだった。


先心式せんしんしきを起動すると時間圧縮機の中の五時間は、外の一秒という体感時間のねじれが出来る。この時、身体は起動時の状態で保護される。】


後心式こうしんしきを起動すると時間圧縮機の中の一秒は、外の五時間という体感時間のねじれが出来る。この時、身体は起動時の状態で保護される。】


「なるほど、ワンダーエッグ……タイムマシーンね……」

 アラタが一人で納得しているのでクリルトは混乱して、口を開いたり、つぐんだりしている。アラタはそれを横目に考える。

 これは要はワンダーエッグの中の時間を圧縮するか、伸長するかって事なんだろうな。時間は相対的な概念、それが歪曲されタイムマシーンという呼び方に? それとも仮称? それよりも五時間って、五時間でいいのか? 秒、分、時間という単位は地球の物だけど、乗り手に分かりやすい表現に合わせてくれてる? 日本語を表示してくれたように。

 アラタは頭部のヘッドギアを見ようと目を上にやる。

 これが繋がっているから対応しているのか? 俺の脳の情報から選び取った言葉なのかもしれない。

 右のもう一つのホログラムを見る。


【秒数を設定して先心式なら左の赤のボタンを、後心式なら右の青のボタンを押して下さい。】


 アラタは右と左を見渡した。垂れ下がっている黒い配線の中に目立つ赤と青のボタンを確認した。

 もう一つのホログラムはタッチ出来て、三桁まで秒数を設定できるらしい。今は【001】秒となっている。

 アラタはヘッドギアを外した。するとホログラムは見えなくなった。戸惑うクリルトに見た事を小さい声で説明する。

「クリルト、これは時間伸縮機だと思う」

「時間……それはどういう……?」

「この機械で出来ることは二つ。ワンダーエッグ内の時間を圧縮するか、伸長するか。要は体感時間をいじるのと、恒久的人体の保存が出来る。例を出すとこのタイムマシンに乗って操作すると、外の一秒が中では五時間になる。その逆も出来るっぽい。そういう意味でのタイムマシーン……」

 アラタがそう告げると、クリルトは鬼気迫る表情になる。声量が少し大きくなる。

「そんな物、尚更渡せる訳が無い……! まずいぞ、それをヘデラなら完全とはいかなくとも複製出来てしまうかもしれない、次元転移機と同じように……!」

 次元転移機を劣化とはいえ、複製して流通させたのはヘデラ擁する研究チームらしいというのは何となく聞いていた。それがワンダーエッグでもなるかもしれないという事だった。

 段々と自分は世界を揺るがす瞬間に立ち会っているかのような……というか実際そうなのかもしれない。自分の行動が及ぼす影響に対して、これまで世界はもっと確定的に佇んでいたはず。俺が逆立ちしたって石を蹴ったって死んだって、どうという事は無い。宇宙は微動だにせず、地球は回り続け、大多数の人間は何ともなく生きていくだろう。だけどこれは色んな人の人生を、世界観を揺さぶる。自分の行動のもとに、扇状に広がる細かく枝分かれした巨大な根の構造に、それらが紐付けられている。俺は選べる、いや、どうにか出来るかもしれない場所に居る。揺らぎをそのまま下へ伝えるか、断ち切るか。

 アラタは右手の掌を見つめながら考え、そして握り込んだ。

「どうする? 俺に何が出来る?」

 アラタが訊くとクリルトは黙った。考えている。身体が疲弊しているからか、そのまま二分程黙った。アラタは返答を待つ。クリルトは意を決したように口を開いた。

「……状況からするに博士はワンダーエッグを、僕らを見付けれては居ないはずだ。また奪われ――」

 クリルトの言葉を遮るように、隣の倉庫の扉が勢い良く開く音がした。二人は目を見合わせて、ヘデラが来たと悟った。圧倒的なプレッシャーを放つ存在が、すぐそばまで来ている。

 硬い床に、硬い靴が当たる音。近付いて来る足音が聞こえる。悠然とした、落ち着き払った一定リズムの足音が響く。感情が全く見えないそれは走る足音より断然アラタを焦らせた。

 次はここが開かれる……!

 クリルトは入り口の方から見ていたが振り向き、アラタの両肩に手を置き、眼を見て話す。

「アラタがどんな選択をしようと、僕はその選択を尊重する。これから話す事はそれを念頭に置いて聞いてくれ」

 クリルトの眼にはいつもの力強さが戻っていた。

「このままでは勝ちも何も拾えない。これを回収出来ない。単刀直入に言う。ワンダーエッグの中に入ってくれないか。器の大きさは心と身体に相関があると考えられているんだ。だからワンダーエッグの中で時を過ごせば、器が大きくなるかもしれない。しかもその中でゆっくりと作戦を立てられる。ここは僕が食い止めるから……いや、アラタがやるかは――」

 アラタは肩に伸びるクリルトの腕を掴む。覚悟は決まった。敢然と言い放つ。

「やる! 俺がやるよ。ただ、何秒食い止めれるかを教えて欲しい。見栄も卑下も一切無い秒数を教えてくれ!」

 クリルトは黙った。目をぎゅっと瞑り、思考を巡らせている。アラタは返答を待った。実際は短い時間だったろうが、押し迫ったこの状況での待ち時間は長く感じた。

「…………六十……いや、五十秒だ! 時間を稼ぐ! アラタ、扉を閉めるぞ!」

 クリルトは円の部分に触って、ワンダーエッグが閉じていく。それによって瞼が閉じていく感覚になる。アラタが最後に聞いたのは倉庫の扉が開く音と、クリルトの言葉だった。

「ありがとう……任せてくれ」


 倉庫の扉は開かれ、クリルトの前にはヘデラが立ちはだかった。外から倉庫内へ光が入って来て、出入り口に居るヘデラに後光が差しているように見えた。陰になってヘデラの表情は見えない。倉庫の扉を見ずにかかとで閉めてから話し出す。

「君は——」

 クリルトの方へ、ヘデラはこちらに歩みを進めていた。近付いて来るといつもの冷淡な表情が少しずつ見えるようになる。

暗黒物質ダークマターを知っているかね? それは観測出来ない未知の物質。宇宙の総質量の八〇パーセント以上を占めていながら、未だ正体不明なのだ。分かっているのは『そこ』に『何か』がある、という事だけだ。これは仮説でしか無いが……私は暗黒物質ダークマターは『オーラ』だと、そう考えている」

 ヘデラは歩きながら八角錐の暗い黄色のオーラを掌から出力し、それを上に投げた。

 八角錐は空中にで八つに割れ、楔となりコンクリートの地面に円形にそれぞれが落ち、地面に吸い込まれるように消えていき、縄張りが完成する。クリルトの足元まで楔が振り落ちる。

 倉庫の扉から外に出るには縄張りに入らなくてはいけない状況になった。壁の破壊は出来そうにない。出入り口が封鎖された気分になる。

「特異な『オーラ』だ。それが宇宙空間を遍く満たしている。ただ膜が破壊され、放出されるオーラとは違う。人が死ぬ時、遺伝子ジーン意伝子ミーム以外のあらゆる情報は暗黒物質ダークマターとして宇宙そらに放たれ、オゾン層という膜、生と死の界面を越え、在るべき場所に還る。この宇宙は膨大な情報を抱え、今尚、膨張を続けている。我々は次元超越遺物を解析する、いては次元超越者を、この宇宙の謎を追っているのだ。そこを退いて、ワンダーエッグを引き渡す気は無いかね?」

 クリルトはその話を聞いていると床に差す光の細かな斑点が星々のように見えてきた。その声色に引き込まれ、頭の中に無辺の宇宙が広がっていく。北も、南も、西も東も無い、広大な宇宙。そして数多ある星の中から、たった一つの星にズームされ、街並み、営み、そこに居る守るべき人々を映した。

「確かに知的好奇心がくすぐられますが、それとこれとは別の話です」

「何故分からない? その研究でより良い世界を、この宇宙の仕組みの解明も、実現出来るやもしれないのだ」

「テクノロジーは良いも悪いも判断付かない程早く進化していく。日進月歩だ。そうだ、次元超越遺物は良くも悪くも社会の全てを変えてしまう。だから悪い方向に事が進むのも可能性としてある、でしょ? ミスターヘデラ。僕はその可能性を看過出来ないだけなんです」

「しかしそれは技術革新やそれで助かる人をも無視するということだが……平行線だな。マクロとミクロの視点の相違か。そうだな、やはり戦おう。お互いの思想の為に」

 ヘデラは前進し、ワンダーエッグに歩いていく。クリルトも三歩踏み出し、縄張りの中に入る。

「原始的だが、これでなくては解決できない問題もあるものな……」

 二人はファイティングポーズを取る。クリルトの力強い碧眼とヘデラの静かで強固な意志を宿す灰色の眼が見つめ合う。

 僅かな静寂の後、二人の拳が激しく衝突した。

 その後ろで静かにワンダーエッグの先心式が起動する。

 誕生まで、あと五十秒。


 アラタは白い光が明滅するワンダーエッグの中でヘッドギアを装着した。もう一度ヘッドギアが自分の頭の形に沿った。

 アラタは一つ一つ確認するような手付きで操作し始めた。ホログラムを触り、スライドして五十秒に設定する。

 アラタは息を吸い込んでから覚悟を決めて右側の赤いボタンを力強く押した。

 するとワンダーエッグの内部で駆動音と振動が響き始め、急に身体が重くなっていく。身体が動かせない。強い重力に押し潰される感覚が襲う。重力は着実に強くなっていき、自分の身体が持たないと思うほどだった。

 その時、眼は開けているはずだったが視界の端から一気に闇に覆われ、視界が暗転した。完全な暗闇か、瞼を閉じているのかが分からない。

 そうしていると突然眩い光が飛び込んできた。目を細める。その光に少しずつ慣れていって見えるようになってきた。

 辺りを見渡すとそこは全てが白い部屋だった。壁は見えない、天井見えない、かといって空も見えない。あるのは何処までも続く敷き詰められたタイルだけだった。

 次に気付いた事は身体の感触がない。自分の顔を殴ってみても何も起こらない。そこまで再現していないらしかった。

 掌には赤く残り時間が秒単位で刻まれ、今もずっとカウントが進んでいた。

【899,913】


 アラタはこの部屋に壁があるのかが気になり、考えながら長い間走っていた。疲れがなく、ずっとトップスピードで走れていた。普通なら面白いかもしれないが、同じ景色しか流れないのでスピード感が分からない。行けども行けども同じ白が続いていく。

 分かった事は天井も壁も無い空間であり、白い景色が無限に続く空間であるという事だった。アラタは壁を見る事は諦めて、地続きで何処までも続く地面に耳を当てて寝転んだ。振動や音は無い。観念したように仰向けになって無い天井に手を伸ばしながら呟いた。

「さてと、時間だけは持て余す程ある。今一度根幹から考えていこう」

 外側に何も無いと意識は内側に向いてくる。

 アラタはヘデラの第六感について、今分かっている情報を一度整理してみる事にした。そこから連鎖的に引き出す事が出来れば何か見えてくるかもしれないと考えた。


 ・楔を地面に刺し、囲んだその内側を自分の縄張りとする。


 ・縄張りの中に入ると、ヘデラのオーラが付着する。


 ・縄張り内のオーラはヘデラ自身には反応せず、縄張りに入ってきた異なるオーラに反応して付着する。


 ・付着したオーラを消費し、引っ張る力を加える第六感を発動する。


 羅列していると、ここで思い起こされる違和感があった。

 浮かされ、クリルトとぶつかった時の事。

 二人で急いで奴の縄張りから出た時、左脇腹辺りのヘデラのオーラは各部位に付着したオーラより多く付着していて長く残った。

「残った……から……なんなの?」

 幾つかピースが抜けたパズルみたいな印象があった。何かを見落としている、或いは足りない。それが何なのかは見当も付かない。

 一つだけ抜き出してみても近過ぎて何も掴めない。もっと俯瞰的に見渡そうとするが、まだ情報が馴染んでいない。まだ揮発性メモリの中にある。

 考えてみると凄い第六感だ。浮かせる力、あれは何も出来ない無力感のまま空中ではりつけにされる。あれに抵抗出来るのか。

 もっと何か、あの第六感の事をつまびらかに出来れば綻びが見つかる? 見つかるも何も本当に何も無いのだとしたら? いやそんな事は考えるな。自分で自分の心を折ろうとするな。ある前提で考えなきゃ。

 見た事、感じた事、考えた事、それらを頭に入れたり、抱えたり、捻ったりしているが第六感の解明と対策との距離感が分からない。近付いているのか、遠のいているのか、この道筋は正しいのか。とことん全てを追究しなければ繋がらないのかもしれない。間違ってても良いから仮説を出したいが、その取っ掛かりも見つからない。間違いさえも分からない。

 早速行き詰まる。何度も何度も反芻しても何も分からないままだった。

【827,050】


 あっという間に進むカウント、それに対して挙がらない成果。進展も情報が追加される事も無い。

 このままじゃ駄目だとアラタは凝り固まった頭をほぐそうと考えた。

 どうしたらそれが出来るか。こびりついている固定概念みたいなものを消し去りたかった。同じ角度で何度も観測しても事象は変わらないままだと感じた。

 ここでは寝れないらしく、ずっと意識がしっかりしている。眠気も微塵も無かった。寝る事でリセットするは不可能だった。

 それなら他の事を考えよう。何か別の他の事。そうしないと気を逸らせない。

 アラタは全く関係ない出来事を引っ張り出す。

 そういえば今年の卒業式での卒業生代表のスピーチを俺が任されたんだった。

 スピーチをする人は二人居て一人は元々の上ノ原の住人、俺はロックダウンがきっかけで閉じ込められた本土の住人代表として任されている。

 スピーチ原稿全然書いてないんだよなぁ……どうしよう。役員とかじゃ無い人の中から選ばれたから、消去法みたいな、俺が相応しい人じゃない気がする。良いスピーチってどんなのだろ。感涙必至とか、そういうのを求められてたら応えれないけど……。

 そんな風に気を逸らす為考える題材は最近の事から過去の事へと遡っていった。

【743,281】


 アラタは本土の小学生の頃、週二で通っていたライオンズサッカースクールでは「ハッチャキくん」という変なあだ名で呼ばれていたのを思い出す。あそこは他校の子達が多く、そして先輩後輩が隔たりなくタメ口で話していた。小学校を卒業すると、そこに通えなくなる。小学六年生に上がる手前、監督が何気なく「中学でもサッカーやる人?」と言って皆を挙手させた。その時、ドリブルもパスも上手く、頭も良い同い年の瀬戸せと君はだけは唯一、手を上げていなかった。それに気付いた人が自分だけだったのも相まって、何故か凄く心に残っている。結局、上ノ原に閉じ込められ、次回のスクール活動が無くなり、何も聞けずじまいだった。今、彼は何をしているのだろう。

【701,012】

 小学校低学年の頃、誕生日に図鑑を買ってもらっていた。昆虫や恐竜の図鑑が特に好きだった。それで学区内に居た全ての毛虫を手当たり次第に触った。イラガやチャドクガ、マイマイガの幼虫などが生息していた。触ってみると、手が火傷みたいに痛くなったり、痒くなったりした。この地球で恐竜が絶滅していなかったら何が何でも接触を試みようとして危なかったと思う。好きな恐竜はサウロファガナクス。好きな理由は……もう忘れてしまった。

【695,654】

 運動が好きだった。鉄棒は誰に教わらずとも逆上がりできたし、跳ね起きもハンドスプリングも練習すると次第に出来るようになった。人よりも背が小さかったが、人よりも身軽だった。単純な力勝負は負けっぱなしだったが、自分の強みで勝負していた。だけど、何かで負けるのはやっぱり悔しかった。

【661,313】

 それからゲームや絵を描くのも好きだった。ゲームは頭の体操に良かったと今になって思う。高度な知育玩具のようになったし試行錯誤の方法を学べた。そのお陰で学習能力や物覚えも良くなったと思う。小学二年生の時、半ば勝手に出された絵のコンクールで何かは忘れたが賞を受賞した。小学生にしては上手い程度の物だったが、書き込みとアイディアで補った。「筆に迷いが無いね」とよく褒められた。

【629,671】

 分からないが分かるように、出来ないが出来るようになるのが好きだった。高過ぎる勉強料を支払わなくてはならない事もあったけど、それで良かった。全部が一番じゃなくても色々な事が出来た。何もかも憧れていたあの頃、無数の未来が目の前に開かれていた。疑う事もなく、自分は何にでもなれる、この両足でなら何処にだって行ける、本気でそう思った。

【581,119】

 ここに閉じ込められてしまった時、何処にも行けない辛さを知った。ここ以外ないという辛さ。途端に自分の未来が閉じていく感覚があった。そんな事もあったけどアイニィと出会ってからはもう立ち直って元気に色々やっている。学校でだって全ての活動に前向きに取り組んでいる。

【556,224】

 ヒロキは俺が元気になって嬉しいと言ってくれた。ヒロキの話によるとクールなのが良かったのか、元気になってからは女子達の人気は落ちたらしい。クールというよりつまらないって感じだったけど、それが良かったらしい。だけどそんな事はいい。これが本来の自分だ。そうだ、ユマもそうやって言ってくれてた。

【501,187】

 ユマは給食当番になった時、張り切って食缶から汁物を配膳していたけど、前半に気前よく具と汁を入れ過ぎて後半足りなくなって、最初によそった人達から「ごめんなさぁい……」としょぼくれながら回収していた。どうでも良い事なのに何故だか覚えている。差し出される皿にアジフライを置きながら、隣で見ていた。丼勘定どんぶりかんじょうの語源が身に染みた出来事だった。

【495,865】

 そういえばユマ、一時期暗くなっても公園にずっと居たよな。それで家まで送った時、あの坂の上、自然が豊かで木製のブランコが揺れる庭のピカピカの木造、白い家。そこに入ってった。だけど、そうだ、何か訊きたい事があったんだ。ずっと忘れていた。というか訊けなかったのかもしれない。訊いても良いか悪いか分からない事だった。それは覚えてる。疑問があった。確かに。でも、それは、えーっと…………何だったんだっけ?

【461,014】


 この空間の中は音が無い。存在するアラタだけが音の発生源であり、世界の時間が止まったようだった。だが実際はゆっくりと流れているらしい。

 その中で徐々に過去の空白の記憶を思い出してきた。今まで自分の不幸に囚われていて他の誰かを見ていなかった。もしかしたら無意識的に蓋をしていたのかもしれない。

 ユマの事やロックダウン以前の記憶は人生を変える大事件の陰に隠れてしまっていたのだろう。それが今一度蘇る。

 そうだ、小学校高学年になってユマと一緒に帰らなくなったのは揶揄からかわれるからじゃなくてユマの帰る方向が変わったからだ。思い違いしていた。

 放課後の公園から帰る時、家まで送って行った時、白い家に着いて家の中に入って、それで変だったんだ。思い出してきた。段々と鮮明に。

 間違いない、その家の表札は『朝倉』だった。だけどマナの苗字は紫花しばな。どういう事だったんだろう?

 ここに閉じ込められた時、俺は不安で仕方なくて、外に出れない、帰れない事に絶望して、それで泣いていたらマナが頭を撫でた。ユマは悲しそう……ではなく、穏やかな表情をしていた……。

 それに性格も少し変わった気がする。少なくとも図書委員長と学級委員長を掛け持ちするような子じゃなかった。

 自分だけじゃない。ユマにも何かがあったんだ。何なのかは、分からないけど……。

【402,001】


 集中が途切れ、視界に意識が向くと段々身体の輪郭があやふやになってきている事に気が付いた。

 身体の末端からスーツと一体化していき、関節が無い所でも腕が曲がり、ぐにゃぐにゃになっている。身体とそれ以外の境目が曖昧になっている印象だった。

 それから寝転んで何もかもを考えないようにした。それが出来るまで、どれだけの時間を費やしたのかは分からない。

 動かず、死体のように。

 普通ならそれは遠回りかもしれない。だけどアラタは漠然とそうするのが近道な気がした。情報に埋もれてしまった自分を引っ張り上げる時間とでもいうのか、とにかく茹だる脳を冷ます時間が欲しかった。

 そうしていると少しずつ情報が散らばっていくのを感じる。固定化された配置から抜け出していく。

 その抜け出した文字一つ一つが意識と無意識の間で磨り砕かれ、細かな粒子となる。それは砂時計の砂粒となって上から下へ少しずつ落ち続けていた。アラタは自分の傍らに降り落ちる砂を虚ろに見つめている。

【221,312】


 どれだけの時間そうしていたか分からない。砂はまだ落ち続けている。アラタの身を埋めてあっという間に砂漠が出来上がる。その中に埋もれていく。埋没する。

 思考と情報は時間を掛けて全体を俯瞰しながら個々の細かい概要の全てを把握出来るようになっていた。どちらか一方が粗末になる事は無い。

 そこから更に深く潜っていく。息継ぎはしない。酸素を使い切ったら酷く溺れるだけ。ずっと思考が揺れている。結合したと思ったら分離し、また結合する。自然に、無意識的に一つ一つ、鍵穴と鍵が合うか確かめるように。巡っていくように。

 その最中、アラタは閃く。全ての鍵が自ずから鍵穴に向かい、開錠するような感覚。閃きによって全ての情報が一つになる。そしてそれに付随する発想。

 アラタの身体が舞い上がり、思考の底からたちまち勢いよく押し上げられる。仄暗い深部から明るい中層へ。そして精神の水面が近付く。

 停滞し、凝り固まった脳が作り替えられ、全てが集まっていく。それらがもう一度違う観点で再構成される。


 ・ヘデラの第六感の情報


 ・右脇腹、長く残ったオーラ


 ・ヘデラのオーラの性質


 ・節々の違和感


 ・自分自身が出来る事


 アラタは弾かれるように勢い良く起き上がった。

「あ……?」

 起き上がると大気に溶け出し、液化した身体の輪郭が一気に引き締まり、元に戻っていた。

「いや、そうだ、縄張り内では紺碧彗星ブルーインパクトは感知されるけど、あれなら……? もっと輪郭に沿ってくれるんじゃ……」

 アラタは一人で脳と口を繋いで喋り続ける。何かが分かりそうだった。

「そっか、そうだとしたら」

 全容を掴んだ。光明が見えてきた。推理した通りなら――

「俺なら……」

 あの天才を出し抜けるかもしれない。

「本当に天才だ、えげつないパワーコントロール……」

 ヘデラの第六感の解明と対策が同時に閃いた。

 しかし、ここまで分かっても駆け引きがあった。

「場を整えなきゃ……」

 勝率を上げる為に自分にやれることは何かを考え始めた。

 外では既に時間が四十九秒が経過し、最後の一秒、ここでの五時間が始まった。

【17,999】


 外ではクリルトはヘデラの猛攻を首の皮一枚で受け切っていた。

 ここで自分が倒れればアラタごとワンダーエッグを回収される。任せて、任せられたのに倒れる事は出来ない。

 器の中はとっくに空になり、クリルトも何とか戦ってはいるが腹部や頭部に攻撃が入らなかった。それはヘデラの独特なファイティングスタイルに翻弄されていたからだった。

 直線的ではなく、相手の意表を突くのが上手かった。防御していない場所から崩され、手薄になった部分に強打を放つ。それに手足が長く、鞭のようにしなる。

 科学者なのにこんなにも……!

 クリルトがヘデラに弾き飛ばされると充分にオーラが付着したのか第六感を発動した。

 クリルトは宙に浮き、そこで静止した。クリルトは攻撃から身を守る体力も無くなっていた。

 ヘデラは手を後ろに組み、クリルトを横目に歩き回る。

「無駄な足掻きは止したまえ。君も気になっているのだろう? 私もそうだ。正義も悪もない、純然たる追求心と飽くなき衝動、私の生きるという行為はここに集約されている。それを止めるというのは『死』と同義である」

 どうだろう、僕らにとってもそれはある。その二つが衝突するから、だから譲れない。

「僕にとっての正義を遂行するだけです。譲歩はしません」

 下手したてに出ればこの第六感を解除してくれるかもしれない。卑怯だけど騙し討ちが出来るかもしれない。だけど、それをしてしまうと誇りを失う。相手への敬意も。

 ヘデラはクリルトの方を向いて口を開き、何かを言いかけて固まった。次に出てきた言葉はクリルトに対する返答ではなかった。

「あれは……そうか、もう一人の……」

 ヘデラの視線がクリルトの後ろへ注がれている。それにヘデラの第六感が解除され、地面に立てている。クリルトも驚いて振り向いた。

「ワンダーエッグが浮いて……!?」

 ワンダーエッグは光を放ちながら地上七メートル程浮かんでいる。回転して白く光っている。卵が割れるように扉が開いた。

 その卵からアラタが身体を畳んで瞼を閉じ、逆さまのまま、ゆっくりと落ちてくる。その姿は、まるで産み落とされた胎児のようだった。

 アラタの周りは白色の光の粒が煌めいている。それはもしかしたらオーラかもしれない。人体を恒久的に保存するワンダーエッグの特異なオーラ。もしかするとアラタのオーラに対応したものかもしれない。だから真っ白な鱗粉が舞っているのかもしれない。

 アラタは眼を開き、空中で一回転し、大の字に身体を広げ、嬉しそうに叫んだ。

「やっと出て来たぞ! 時満ちてここに! 立ち向かう為に生まれてきたんだ!」

 狭い世界から、広い世界へ出れた事への喜びを身体全体で表現するように。そして大胆不敵な笑みを浮かべている。

 ワンダーエッグと共にゆっくりと降ちてくるアラタはクリルトと目を合わせる。

「アラタ……」

「久し振り、クリルト!」

 クリルトは笑みを返す。

「こっちはそうでもないけど」

 この五十秒にどれだけの攻防があったのか俺には分らない。クリルトにとってはとても長い時間だっただろう。クリルトのお陰でここまで来れた。ここからが本番だ。

 アラタは地面を踏みしめて、その感触を確かめた。その後、しゃがんで傍にあったナップサックの中に手を突っ込んでクリルトに言う。 

「クリルト、この中にトランシーバーがある。倉庫の外に出てアイニィに連絡してみて」

 ヘデラは黙って聞いている。アラタはナップサックの口を閉めてクリルトに渡しながら言う。

「選手交代だ」

「あぁ……頼む」

 クリルトはヘデラの縄張りを通り過ぎて倉庫の扉を押し開けて出ていく。ヘデラは少し距離を取ってそれを見ている。重い扉が閉まる音がした。

 ヘデラはアラタの自信に溢れた顔に向けて言う。

「君は若い、無謀も楽しいかもしれない。しかし、結局は何も得られない。やるだけ無駄だろう」

 ここまで長かった。この局面、絶対に引けない。引けないなら……分かってるよ、アイニィ。

 アラタは伸びた髪を左耳に掛け、縄張りの中に踏み込む。

「行くぞ……! 俺で最後だ!」

 アラタはスピードと手数で、ヘデラはリーチと戦闘経験でぶつかり合う。

 アラタは体勢を低くして、走って跳んで攻め立て続ける。しかし、いずれも簡単になされ、脇腹、胸、頭と連撃を喰らう。

 対してこちらの攻撃は防がれてばかりでまともに入っていない。アラタは思う。

 やっぱり本当に強い、クリルトはこんなのと戦ってたんだ!

 それでもアラタはヘデラに間も置かず距離を詰めて食らい付き続ける。

 一抹のかげりも見せてはいけない。心の奥底を晒してもいけない。奥の手があるのなら尚更!

 アラタはヘデラの鞭のような長い腕に苦戦して攻めあぐねていた。アイニィともクリルトとも違うファイティングスタイルに慣れていなかった。

 アラタはヘデラの蹴りを防御し、仰け反るとそのまま身体が浮き上がった。空中で溺れているように藻掻いても留まったまま、無力感を突き付けられた。

 あれだ、あの空中で磔にされる第六感! 思ったよりも付着のスピードが速い! このまま吸い寄せられ――

 アラタは浮いたままヘデラの方向へ為す術なく引き寄せられ、リーチの長い拳が最も威力の出る距離で腹部に直撃する。

 頭を守っていたアラタはそれを守れなかった。反撃してやろうと思ったが、相手の腕が長く、届かない。

 腹の中がえぐれる感覚。臓器を感じる。息が止まる。アラタは縄張りの外の壁に激突する。

 やっと息が出来るようになったのは、倉庫の壁に打ち付けられてからだった。背骨に痛みが走る。

 酸素を取り込もうと必死に呼吸をする度に殴られた場所から、その周辺へ痛みが広がる。拍動するように痛みがリズムを持ち、その度に息苦しくなり、痛みが強まる。

 焦点は合わず、眼前が暗くなっていく。一気に汗が噴き出る。全身の力が抜けていく。気分が悪く、動けない。

 嗚咽を漏らしながら腹部を庇うように蹲った。

「気分が悪いだろう? もうやめたまえ」

 抑揚の無い声がくぐもって聞こえた。

 何度も立ち上がろうとするが、その度にくずおれる。

 翳りは見せない、そのつもりだったのに。

 少しずつ痛みに慣れてくる。頭を殴られると意識が飛びそうになる感じがするが、みぞおちの方が遥かに痛い。

 その時、オーラを感じた。何度も何度も確認した。

 あ……来た! 感じる!

 正直に言って、心を折られそうになった。痛みに従順になる所だった。もう駄目かもって、それが否応なしに心の隅から一気に侵食していくような感覚があった。今だって凄く痛い。だけど、サンキュークリルト。俺はまだまだ戦える。

 拳を握れる事を確認して、ゆっくりと立ち上がり、瘦せ我慢のファイティングポーズを取った。

「まだ……」

「君では私に勝てない。投降したらどうだ?」

「却下!」

 悩んだり、痛がったりしている時間は無い。一秒でも早く奥の手へ繋ぎたい! だけど駆け引きは丁寧に、遠回りでも確実に! 大丈夫、大丈夫。ちゃんと分かってる。

 アラタがアイニィやクリルトから学んだのは知識だけではない。学んだのは精神。常時劣勢でも考え続ける、格上への挑み方だった。

「やってやる……!」


 クリルトは倉庫内から外へ出た。倉庫から少し離れた場所でナップサックを地面に下ろしながら考える。

 アラタは確かに入る前と変わっていた。有り体な言葉で表すと「成長」なのだろう。いや、だけどもっと何かちゃんとした作戦があるような……とにかく今はアイニィへ繋がなくては。

 クリルトはナップサックを開き、驚く。トランシーバーよりも目立つ物があった。

「なっ、これは……」

 それは何の為にあるのかは分からなかったが、取り敢えず自分の役割を全うする。

「いや、これを考えるのは後回しだ、アイニィにかけよう」

 クリルトは急いでアイニィに通信した。

 その頃、アイニィは若緑息吹グリーングロウで周囲の草を成長させ、その茂みに隠れていた。腰に据えてあるトランシーバーはオーラセルを内蔵しており、音や振動の代わりに自分のオーラが出る。アイニィがそれを感じ取って手に取る。

「もしもし?」

「アイニィ! そっちの状況は?」

「へーきよ。だけど手下の量が多いね……今は隠れながら迂回してそっちに行ってる感じ。クリルトは? アラタと合流したのね?」

「僕は大丈夫ですけど、アラタがヘデラ博士と戦っています。タイムマシーンは本当の機能は時間の伸縮で、アラタがその中に入って体感時間を伸ばして作戦を立てました」

「……アラタは長い間、その中に入ってヘデラに勝つ為の作戦を立ててたって事?」

 クリルトがそう伝えて返答したアイニィの声色がおかしい。いつものアイニィではないみたいだった。

「タイムマシーンに乗ったんでしょ? アラタ……変わっちゃった?」

 質問の意図が分からなかった。クリルトはアイニィの狼狽ぶりに困惑した。

「……変わりました」

「せっ、性格は?」

「えっと、いつもより頼りがいがある感じになりました……?」

「何十人いるか分からないけど、コイツら蹴散らしてすぐ行くから!」

 アイニィはぶつ切りだった。こっちに向かってくれている。この感じだと大人数相手に一人で強行突破して来る。迂回はしない、最短距離で温存など考えずにこっちに来るらしく、ヘデラと戦う前に消耗してしまっているかもしれない。

 何故あんなにも慌てふためいているのかは分からなかった。しかし、今はもっと考える事べき事がある。

 クリルトはナップサックの中を見る。

「アラタ、意図は分からないままだが……これは……」

 鉛のように重たい身体で二人が戦っている倉庫へ向かう。力を振り絞って自分の為すべき事を為す。

 アラタが戦っている。言わずとも伝わるって信頼してくれたんだ。だからを託した。それに応えよう。

「これでこっちのも伝わるはずだ」


 アラタはまた空中で磔にされ、引き寄せられ、反撃も出来ないまま腹部を殴られて倉庫の壁に打ち付けられる。そしてまた縄張りの外で膝を付いた。

 痛みと共にまた呼吸が止まる。よだれが地面に垂れる。立ち上がろうとするが、身体が全力で拒否する。

『今は、これでいい……』

『落ち着いて……』

『これで良いんだ……』

 言い聞かせるように、宥めるように頭の中で何度も復唱する。蹴られ、殴打された部分の痛みは止まない。

「人は獲得したもので作られるのではない。欠落こそが本質で哲学なのだ。君は、いささか生き急ぎ過ぎでは無いか?」

 蹲った上から淡々と言葉を浴びせてくる。それを地面を見つめたまま聞いている。表情は一つしか見た事が無かった。多分、今もその顔を貼り付けている。

『まだ奥の手はある、ここはこれでいい……』

『何があっても、落ち着いて……』

『負けるのが当然なんだ――』

 そうやって何度も何度も言葉を繰り返しても、自分の腹の底から生まれた言葉では無く、今この状況を上から見た誰かさんの言葉だったりするから、だから……。

 アラタは立ち上がり、また勢い良く縄張りに入る。何かに突き動かされている。

 アラタは激しさを隠さなかった。正しくは隠せなかった。それは真の狙いから相手の意識を逸らす為のカモフラージュなどではなかった。

 ヘデラと拳を交えると、さっきより動きが格段に良くなったのを感じる。たった今、限界を越え、見た事が無い景色に居る。ランナーズハイのような変な気分だった。さっきより辛いはずなのに何故こんなにも動けてるのか本人も不思議だった。

 段々とアラタの中が『無』に近付いていく。ごちゃごちゃした考えがシンプルになって、ただヘデラへと向かっていく。敵意も自分も無くなっていく。

 ヘデラとの格闘はアイニィとやるより遥かに楽な事に気付く。アイニィは突飛で本能的な行動を取る事があるが、それが絶妙なバランスで織り込まれており、行動が予想出来ない。理性的な行動から獣のようなギラつきが垣間見える。

 それに比べてヘデラは慎重派であり、型みたいなものがある。やればやるだけ見えてくるものがあった。

 ここで強く殴って来る!

 その瞬間に合わせて前に踏み込み、拳に自ら突っ込んで殴られながら殴り返す。ヘデラの拳をスリッピング・アウェーの要領で顔を逸らして振り抜かせ、それでも前へ。

 躱したらヘデラは防御のターンを意識する。そうなったら殴れない。殴ったはずが殴られてる。そんな風にしないと殴らせてくれない。

 お互いの頭が強く揺さぶられ、お互いが三歩ずつ引く。鼓膜の奥で耳鳴りが大きく響く。アラタはそれで縄張りの外に出た。

 アラタは初めて相手の顔面を強打出来た。そしてまだ余裕そうなヘデラに見得を切る。

「一発貰ったな……? まだまだ、これからァ!」

「無駄だ。回収船が此処へ下りてくる方が早い」

「俺がアンタを越える方が早いかもよ?」

 アラタは縄張り内に走り込み、もう一度ヘデラに肉薄する。

 やっぱり完全に理性に制御された動作。これならやれる。

 アラタは相手のリーチを活かさないように接近して自分の間合いで戦おうとする。ヘデラの攻撃はさっきまでより防御しにくくなっていた。そして攻撃が入れにくくなっている。

 違和感。さっきとは違うような。適応されつつある予感。その恐れを振り払うように攻め立てる。一呼吸で幾つも攻防が交わされる。戦闘速度は徐々に増していく。

 アラタは弾かれ、早急にもう一度近付こうと走り出す。ヘデラの長い脚での左から右への蹴りをその下をくぐって躱した。身長が小さくて良かったとその時ばかりは思った。

 しかし、二段目の攻撃があった。膝を曲げたかかとを喉にくらった。太腿と踵で首は挟まれ、ちょうどギロチンのような感じだった。血の味が広がる。

 やっぱり、動きが変わってるんだ……!

 アラタは呻きながら手を銃の形にして、そこに居るであろうヘデラに紺碧彗星ブルーインパクトを撃ち込もうとする。

 しかし、アラタを挟んだヘデラの脚が取り外されたその直後に後頭部に衝撃を感じた。そのまま後頭部を蹴り上げたらしい。紺碧彗星ブルーインパクトは天井に発射され、天井に穴が開き、光の点が新たに出来て砂粒が降り落ちる。脳が揺れて視界が回り、そのままコンクリートに顔や身体を擦り付けながら滑り、縄張りの外へ出た。

「君だけではなく、私も成長中らしいな。この歳でも、まだ変われるらしい」

 ヘデラは興味深そうに呟いた。アラタは心の底から恐ろしいと感じた。まだピークじゃないらしい。

 喉がやられたからか、呼吸の度に痛みと血の匂いが広がる。胸を地面に付けたままその脈動を感じる。心臓が滾るマグマのような血液を全身に送る。自分の鼓動に合わせて地球が共振している。声を揃えて誰かさんも吠える。

『立て! 行け! 勝て!』

 内側から呼応するそれらを聞きながらアラタは身をもたげる。満身創痍の倒れてしまいそうな身体を何とか立たせている。息が震える。

「私は説得を試みた。しかし、それすらも忘れてしまうのだろう」

 ヘデラは次で確実に気絶させる気だ。また磔にして吸い寄せ、胴か顔面への拳が飛んで来るだろう。どちらにしても、何をされても、もう身体が持たない。

 そうだ、次で決着だ。俺も、お前も。

 そうしてヘデラの感情が無い顔がこちらを見据えている。睨み合う。狙い合う。次はもうない。これが最後の攻撃になる。

 さぁ、ここだ。今までの全てはここに至る為に。

 そうして自分を奮い立たせ、深呼吸をしてから歩いて縄張りに入った。アラタが縄張りに入ると、ヘデラは構える。

 そしてアラタが接近し、ヘデラの鞭のような腕を跳んで躱しながら攻撃を試みる。

 戦い方はそれまでよりもっとアグレッシブに、アクロバットに、立体的に動く。

 ヘデラの曲げた脚の太腿を踏み台にして頭部を蹴り上げ、しかし足首を掴まれ防がれるが、空中で大きく腕を振り、素早く身体を捻って回転し、その手から解放される。掴まれた箇所の皮膚と肉が捻じれて痛みと熱を感じる。しなやかに着地して間髪入れずにヘデラに向かっていく。

 アラタは時間を掛け、やっとヘデラと対等に殴り合えるようになった。ヘデラ相手だと理性的でない行動が刺さった。リスクとリターンが割に合わないと感じるような行動のイレギュラー。探るべきはその割合のベスト。多過ぎても少な過ぎてもいけない。その場その場の思考瞬発力でヘデラを追い込んでいた。ヘデラがファイティングスタイルを変えたとしても対応していた。

 お互いがお互いを殴って蹴って削り合って洗練されていく。頭部や腹部へアラタの攻撃が前よりも頻繁に入り、激しくオーラを散らし合う。一方、ヘデラの攻撃はアラタの胴や顔には入らなくなっていた。

 しかし長くは続かなかった。ヘデラのオーラが充分に付着し、アラタの身体は宙に浮いて、また磔になる。アラタは観念したように身体を動かさず、切らした息を整えていた。

「無駄な事を何回やるつもりだ。これが最後通牒だ。君の為にも大人しく回収されてくれ」

 しゃがれ声でアラタはニヤリと笑って答える。

「ヤダね。クリルトにどんな顔すればいいんだ、教えてくれ」

「そうか、では……」

 ヘデラは固く拳を握る。骨ばった拳に浮き出た血管がよく見える。ヘデラは強打の構えに入る。右腕を引き、腰を落とし、左手を前に出す。

 吸い寄せられ、拳が直撃するまであと少し。もう一度腹への打撃が来る。かなり痛いやつが。次殴られたら仮に気絶までいかなくても確実に動けなくなる。

 だけど、これを待ってた。相手の気の緩みに付け入って一度だけ……ここで勝ちにいかなきゃ、クリルトに合わせる顔がない!

 タイミングを計ってギリギリまで引き付ける。早すぎても遅すぎてもいけない。

 それからアラタはヘデラの方向に引き寄せられる。しかし、アラタは反撃の糸口を見つけていた。アラタは作戦を振り返る。

 俺が推理したヘデラの第六感の仕組みは、まず縄張りに入ると自身が纏うオーラにヘデラのオーラが付着する。そこからオーラを消費し、第六感を発動させるとある方向に対して引っ張る力を加えられる。

 それで充分にオーラが付着した相手の身体を第六感の力を強めて勢い良く浮かせる。横に引っ張ろうとすると、その場で踏み留まる事が出来てしまう。だから掛けるべき力のベクトルは上になる。

 それで浮かせた後、重力と第六感で引っ張り上げる力、浮揚力を釣り合わせ、空中で静止させる。第六感は一部分だけの発動は出来ず、付着した全てのオーラが力を持つので、余分なオーラは前後左右、四方向にもあらかじめ力を掛け、これも釣り合わせておく。第六感の力のベクトルを即座に変更する事が出来ないのでこのやり方をしているのだと予想した。

 そうして身体は空中に静止する。それから動かしたい方向と反対方向の引っ張る力を弱めると力の不均等が起き、動かしたい方向に宙に浮いたまま引き寄せられる。付着したオーラの消費を抑える為の方法だろう。

 クリルトと空中でぶつかった時、身体が浮いて右へスライドした。だからあの後、付着したヘデラのオーラは身体の左側だけが長く残った。引っ張る力を弱め、オーラの消費が少なくなったから。

 しかも宙に浮いている時、クリルトの高出力の紺碧彗星ブルーインパクトの反動でも全然動かなかったのを見ている。あれも反対側の力を弱め、縄張りの外に出ないようにクリルトをその場に留まらせた。

 そうだ、自分自身が空中で静止しているのは重力と第六感の力が釣り合ってるからだ。なら、そこに何か力を加えたら? ヘデラに感付かれる事無く、ベクトルを加える事が出来たらどうか?

 空中で静止している時、途轍もなく強い力が働いていると思い込んでいた。抵抗出来ない無力感が脳裏にこびり付いていた。

 ちゃんと突破口はあった。ヘデラ相手に気取られず、自分の性質を利用した俺だけのやり方で。

 クリルトは外で、倉庫を囲む形で四つ角に楔を打っただろう。俺がコピーし、出力した楔をナップサックに入れて外へ運んでもらった。感じる、に付着したオーラを。

 全ては今、この瞬間の為に。

 勝負!

 アラタは心の中でそう叫び、固く拳を握った。

 ギリギリまで引き付け、タイミングを計り、一瞬で左半身に付着した全てのオーラを使って、コピーしたヘデラの第六感を発動させる。力のベクトルは真下へ。

 ヘデラの腹部辺りへのパンチは、アラタが地面に着地した事で顔面へのパンチに変わり、それを左に顔を逸らして紙一重で躱す。ヘデラの腕とアラタの頬でオーラが擦れて火花に似た光が散る。

 そしてアラタとヘデラの右腕が交差する。勢いのついたアラタの全てを乗せた一撃が、ヘデラの無防備な顎へ繰り出される。

 その強打で博士は反身になって脱力したようになり、地面に倒れないように一歩、二歩と足を後ろにやって何とか立っている。殴られた衝撃の脳震盪により、ヘデラは第六感を解除した。

 すかさずアラタは左手を銃の形にして構える。オーラを全開で出力し、指先は青く激しく光る。

 高出力のオーラを扱うとコントロールを失い、前に飛ぶ中で変則的なカーブを描いたり、ブレたりする。だが近付いてさえしまえば関係無い。

 オーラが暴れ回り、アラタの腕が振動する。その左腕を右手で掴んで抑え、標準を合わせる。銃の形にした人差し指と中指からオーラが出力されて溜められていく。

「遅いッ! こう!?」

 もっと早く出力しようと銃の形から掌を開いてオーラの出力を全開にしてヘデラに向けた。すると煌めく青いオーラの粒子がほとばしる。アラタは驚いた表情したが、すぐに呑み込み、溜められた紺碧彗星ブルーインパクトの収束させ、一気に大きくなっていく。バスケットボールよりもう一回り大きい位のサイズになった時、器が空になった。

 腕は更に荒ぶり、標準がブレる。アラタは左腕を痣が出来て末端がうっ血になりそうな程、強く右手で掴んで制御する。

 その時、輝く青の向こうのヘデラ博士と眼が合った。驚いているのか、憎悪の表情か、はたまた意識が飛びかけているか、とにかくヘデラの鉄仮面を引っ剥がした。

 アラタはヘデラのその表情を見た。そして、にこやかに紺碧彗星ブルーインパクトを撃ち出した。

 青い閃光が煌めき、ヘデラの腹部に命中する。そのまま閉ざされていた倉庫の扉に大きな音で叩き付けられ、それによって開け放たれて外へ吹き飛んでいった。

 紺碧彗星ブルーインパクトはヘデラの身体から上に逸れ、木々の枝を折りながら不規則な軌道で小さくなりながら空へのぼっていった。紺碧彗星ブルーインパクトが通過した部分だけ木のフォルムが抉れていた。

 紺碧彗星ブルーインパクトの反動は腕だけではなく、身体全体で受ける。そのあまりの衝撃に肩の辺りに痛みが走り、後ろに吹き飛ばされて尻餅をついた。

 倉庫の扉が開け放たれ、外の光が出口から差し込んでいる。まるで祝福しているかのようだった。

 アラタは振り向いて自分の陰に重なるワンダーエッグに目を向けた。確かめるように見る。純白の卵はちゃんとここにある。

 外の日向でヘデラは今、目の前で起こった事を途切れかけの意識の中で考える。

 さっきのは、私の第六感……あのナップサックの中身が楔だった……? それで、もう一人の少年が倉庫を囲って?

 しかし、私のオーラ性質はオーラの持ち主自身には付着されないはず、私のオーラを吸収したならば彼も例外では……いや、違う、そうか……!

 あの少年の右半身と左半身はのオーラが湛えられている! 右半身は第六感を発動させる為の私の、左半身はもう一人の少年の青い……という事は彼は左半身に私のオーラを付着させ、全力で自身の身体を真下に引っ張ったのか? 彼だからこそ出来たのか? 私に出来ない事が?

 一方、アラタの身体が悲鳴を上げる。腕の血管が浮き出て、眩暈と頭痛、それから吐き気。第六感を短時間に使用し過ぎた出力酔いの症状だった。アラタはそれでもふらつきながら立ち上がり、倉庫の外へ歩き出す。

 そうだ、ヘデラの縄張りでないかつ、自分の縄張りに居る時に、コピーしたヘデラのオーラが左半身にだけ付着する。

 そうしてヘデラの縄張りに入ると自分のオーラが付着したその上から、またヘデラのオーラが覆うように付着する。それも身体に沿った自然なアウトラインで。

 だから、そこに長く居る自然な理由を作らなきゃいけなかった。刻一刻を争う状況で、縄張りの外で待機している理由を。その時、不信感を持たせてしまっていぶかられるのは絶対に避けたい。一度そうなったら納得する答えが出るまで考えて、やがて看破するはずだ。

 そんな状況だから全身全霊で攻め続け、完膚なきまでに叩きのめされ、蹲った。

 俺の三文芝居じゃ、アンタを騙せそうも無かったから。

 倉庫から出ると外は長閑のどかな雰囲気が満ちていた。さっきまでの狂騒も無く、白い蝶が花から花へ巡りながらひらひらと舞っている。辺り一面の鮮やかな緑が眩しい。

 そんな自然に囲まれ、若草の上に仰向けに倒れているヘデラをアラタは見下ろしながら言う。

「無駄だって? 違うね。アンタを倒す為のくさびを、俺達はずっと、打ち続けてたんだ!」

 それを聞いてヘデラは気付く。

 そうか……同じ事を何度も繰り返して私が弛緩するのを待った。本当に無駄では無かった。何一つ、無駄では無かったのだ。

 ヘデラはアラタの奇麗な目を見た。可能性を見た。自然と口角が上がっていく。

「私にとっては……ワンダーエッグを回収されるより、君達を忘れてしまう方が損失だな」

 ヘデラは抑えていたものを解放するように高らかに笑った。この人、こんな風に笑えるんだ、とアラタは思った。

「素晴らしい能力だ……少年達……!」

 徐々にヘデラの眼が閉じていく。安らかに眠るように、満足したように。

 鱗が剥がれていくようにヘデラの身体からオーラが散っていく。紙吹雪のように風に乗って運ばれていく。

 四つの器のオーラが全て空っぽになったのを感じて、アラタは伸びをした。

「ぜーんぶ、使い切ったな……」

 真っ青な空を仰いで清々しい気分に浸っていた時、後ろから声がする。

「アラタ!」

 その呼び声にアラタは振り向き、黙ってピースで返す。クリルトは嬉しそうに笑いながら駆け寄った。


 滑らかなデザインの宇宙船が開けた平原に一隻降りてくるとスリムな宇宙服に身を包んだ人達が出てきて、ワンダーエッグを中に入れていた。クリルトがマーカービーコンで呼び出したらしい。アイニィの所にワンダーエッグが落ちていればもっと簡単な任務だったはず。不幸にも一番遠くに落ちてしまった。だけど何とかなった。何とか繋ぎ止めた。

 先に来たヘデラの宇宙船から出て来た仲間はワンダーエッグではなく、ヘデラを回収していった。ヘデラを倒した強者としてアラタとクリルトは見られていただろうが、その実、連戦するには疲弊し過ぎていた。その場は痩せ我慢でやり過ごした。

「疲れたねー。私の所もさ、結構人居て強行突破して来た」

 アイニィが言うとクリルトは目を逸らしながら言う。

「それは……妥当な采配ですね」

 クリルトはアイニィに無理をさせてしまったという罪悪感が襲った。しかし、アイニィはそんな事は全く気にしていなそうだった。大きな口を開けてあくびをしていた。

「ワンダーエッグはメルドルスクによって管理され、専属のメカニックによって分解されて別々の場所に部品が保管される。無くてもいいよね、あれ」

「無い方がいいです。ヘデラ博士の探求したい気持ちも分かりますけどね」

「自分の研究以外なら良い人なんだけどね。良かったよ、あの人、生物学に傾倒してなくて」

 アイニィは思い出したようにクリルトに訊く。

「ヘデラ、何か言ってた?」

 クリルトはヘデラとのやり取りを思い起こす。

「えーっと、次元超越遺物は次元超越者に至る為の手掛かりになるって……」

「私が死ぬまでに何かしら解明して欲しいけど、世界を壊されるのはネ~?」

「それに暗黒物質ダークマターは特異なオーラだって言ってました」

「……得体の知れない存在がそれを垂れ流してるっていう事?」

「そうか……そういう解釈も……」

「え? ナニナニ?」

「死んだ者から出る特異なオーラが宇宙に還り、それで今も宇宙は広がり続けているって言ってました」

 アイニィは頭を傾げる。

「科学を追求してくと神話的な? スピリチュアルな方へ寄っていくってフロルスが……」

 そこで言葉が途切れた。クリルトが次の言葉を促す。

「が……?」

「んにゃ、言ってないかも。言ってなかったわ」

 発言の出所が朧気だとこんなにも信憑性が無くなるのか、とクリルトは思っていると、それまで隣で黙っていたアラタの声がした。

「あっ! アイニィ、後お願い!」

 アラタの走っていく背中に驚きながらアイニィは言う。

「デブリーフィング――」

「お願いね!」

 念を押され、クリルトとアイニィはその場で顔を見合わせた。そしてまたアラタの走る後ろ姿を見て、隣でアイニィが微笑みながら呟く。

「うん、やっぱり変わってないね…………ていうか、なんかあの子回復早くない?」

「本当にそうだ。さっきまで死闘を繰り広げてたはずなんですけど」

 宇宙船が青空に上がっていく。宇宙服の人達は左胸に右手を当てて祈りのポーズを取った。身体は離れていても、心は共に。そういう意味が込められているポーズである。クリルトも同じポーズで見送った。アイニィは地球上での別れという事で左腕を振った。

「ラグランジュポイント4まで気を付けて!」

 凄いスピードで上っていき、オーラの膜を越え、オゾン層も越えただろう。宇宙船は点になって見えなくなった。それを見た時、クリルトは自分のちっぽけさと、宇宙の広大さ、雄大さを再確認した。

「アイニィは……死んだらどうなると思いますか?」

 アイニィは少しだけ考えて答える。

「分かんないけど……『おかえりなさい』って言われるんじゃない?」

 お帰りなさい……お還りなさい……? 命令形? 誰に言われるんだろう……?

 クリルトはそこで考えるのを止めた。そして今と未来を何よりも見つめようと決めた。ここさえしっかりしておけば後悔が残らないと思ったからだ。死んだ時の事を今考えるのは早すぎる。まだまだ気が遠くなる程長いだろう。永遠のように感じるけど、限りある人生。

「遊び疲れて少し眠るみたいな気分で死にたいなぁ」

 アイニィは横で小さく言葉を漏らして笑った。クリルトも心からそうでありたいと思った。


 アラタは走る。森を抜けて地球人街の中を駆け抜ける。今彼女がどこに居るか考えながら。

 ユマはこの時間、まだ蔵書点検をしてるかもしれない。まず学校に行ってみよう。

 校門から入って玄関の古びた木の下駄箱で中靴に履き替える時に気付く。マナの靴は外靴だった。ここに居る。

 階段を三段飛ばしで上がっていく。図書室へ向かう。

 その途中の踊り場で誰かとすれ違った。黒とは違う髪色、二人はお互いに振り向いた。

「アラタ!」

「ユッ……!」

 見付けたのは良いが、喉から血の匂いがした。咳き込みながら話そうとするが上手くいかない。

「何その服!? でも似合ってる――」

 そしてアラタの顔を改めて見て言った。

「凄い顔だよ!?」

 確かに、ちょっと前の俺じゃ絶対にしない顔してる。全力で酸素を取り込もうと必死になってる顔だろう。

 ユマに介抱されて踊り場にあるベンチに座った。ベンチの後ろの厚い磨りガラスから斜陽が差し込む。穏やかな光の中で座っている。埃の粒子が光を反射して輝いている。

「落ち着いた……?」

「ユマ! あのさ、話したい事があって……」

「なっ、なぁに?」

 ユマは嬉しそうな顔をした。だがアラタがこれから話す事は楽しくなるような話題ではないかもしれない。ユマの顔が曇るのが嫌だった。裏切るような気分だった。それでも訊きたかった。

「えっと、その……ちょっとフクザツかもしれなくて、話したくない事かもしれないけど……」

「けど……?」

「それでもユマの事が知りたい」

 あの頃は踏み入れなかったけど今は知りたい。あの時何があったのか。黙っているよりも彼女の事を知れるなら。

 アラタがそう言うと、ユマは驚いた顔を見せた。それからすぐに張り切って答えた。

「うん、私、何でも答えるよ!」

 アラタは息を整えながら、頭の中で聞きたい事を引っ張り出してくる。

「本土でさ、俺らが小学生の時……遅い時間にユマの家に送って行った時、あの白い家、表札が朝倉だった。だけど、ユマの苗字は紫花シバナだったはず。何であの家に居たの……?」

 そう問うと、少し間を置いてユマは言う。

「どうして訊こうと思ったの?」

 アラタはユマの顔が見れなかった。急に怖くなった。気持ち少しトーンが落ちた気がした。

「なんていうか、考える時間が腐るほどあって、だからなんか、ユマの事考えてて……」

 言い訳してるみたいなバツの悪さがある。変な緊張感がある。今までこんな風になった事が無いから尚更。

「そっか、アラタになら教えれるよ。ちょっぴり長くなるかも」

「うん、いいよ」

「あれはね――」

 ユマは思い出す。ゆっくりと沈むように、少しずつ突っかかった荷物を引っ張り出すように訥々とつとつと語り出す。


 忘れもしない。あれは暑い夏、小学二年生の頃だった。お風呂に入った後にママの部屋に呼ばれた。

 何だろう……? お説教なら嫌だなぁ、思い当たる節無いけど……。

 そんな事を考えながら濡れた髪のままでママの部屋に入ったの。

 ママの部屋は暗くてママの表情はよく見えなくて、だからこそ明るい声で言った。

「なぁに、ママ? ドライヤーしたいんだけど」

「ねぇ、ユマ……」

 ママのベットに腰を掛けて私は次の言葉を待った。何かを言いかけてやめて、また言い淀んでいる。言葉を選んでいた。

「……ユマ。ママね、パパへのハートが無くなっちゃったの」

 最初は何の事かと思った。ハート? どういう事? 無くなるとどうなるの?

 だけどすぐに気付いた。そして同時に色んな事を思い出した。今まで何てことないと思ってた日常にあった違和感。そういえば、が沢山あって、それでも気付けない私。こうなってからじゃないと分からない私。

 本当は色々訊きたかった。「なんで無くなっちゃったの? 私はどうするの? 二人はどうなるの? また会えるの?」そんな思いとは裏腹に何も質問も出来なかった。ママの言葉に「うん」とただ頷くだけ。ママに顔を見せずに仄暗い寝室で少しだけ泣いた。自分の部屋に帰ってからはもっと泣いた。泣き顔を見せないようにして静かに。

 それからは触れちゃいけない話題がそこら中にあって、それを避けるように私もママも、パパを思い出さないように生きていかなきゃと思った。パパの話題になりそうな時に努めてお馬鹿な振る舞いをしたり、違う方向に話を持って行ったり。それよりさ、なんて言って強引に。

 パパは凄く好き。ママもそうだったはずだけど。でも私は今も好き。その違いが嫌だった。だけどパパはどこかに行ってしまった。子供は大人の都合に合わせるしかないのは分かっていたはずだった。でもこんなに苦しい。

 こうして慣れ親しんだ苗字が変わって私は朝倉優麻から紫花優麻になった。私が私じゃなくなった気がした。教科書の裏の名前欄にももう朝倉と書かれてしまっている。自分の物じゃないみたいだった。

 学校に行くと名札を胸に付ける。それが紫花になった時、色んな子から色んな質問を投げ掛けられた。

「これなんて読むの?」

「何で苗字変わったの?」

「僕も苗字変えたい!」

 それらの言葉には真面目に返さなかった。返せなかった。ぎこちない笑みで誤魔化した。それに答えてしまったら、真実を口に出したら離婚したという現実が確定してしまう気がしていたから。

 だからママも離婚したとは言わなかった。「何ではっきり理由を言ってくれないの?」って思ったけど、やっとママに気持ちが追いついた。こんな気持ちならあの時、意気地なしの私がママに色々訊けなかったのは良かったと思う。

 アラタは全然苗字なんかには興味無さそうだった。一回も訊いてこなかった。それもちょっとどうかと思った。私はその頃から好きなのに。

 アラタとは小学一年生から同じクラスで席替えして隣になった時から話すようになった。特にこれといった理由なんて無くて、でも日々を重ねる中で気付いたら雰囲気で好きになってた。だから逆にアラタにだけは訊いて欲しかったのかもしれない。アラタが気を遣った訳でもなさそうなのが嫌だった。こんな事、本人には言える訳ないけど。

 何でも一人でやんなきゃ。私が負担にならないようにしなきゃ。泣かない。しっかりしなきゃ。そう思う度に心に涙が溜まっていく感じがする。

 ママもそう思ってたんだと思う。私が小学四年生になった秋に頑張り過ぎちゃって入退院を繰り返してた。その間私はパパの所に預けられた。そう、パパの所。

 パパの新しい家。私達が済んでたマンションより広くて、一軒家。新しいお嫁さんに赤ちゃん。私はその中に預けられてたの。申し訳なくて、居場所なんて無くて、私なんて邪魔者なのにパパもお嫁さんも凄く優しくて、だけどそれが苦しくて、私は良い子で居る事しか出来なかった。お人形さんみたいに。

 私の部屋もお人形さんの部屋みたいだった。白い部屋にティディベア、スノードーム、ピンクのランドセルと教科書、黄色いカチューシャ、窓際にはモビールが揺れてた。ミニチュアの家のような、偽物みたいな部屋。私の部屋じゃない私の部屋。この島でも朝、目が覚めたらまたあの部屋に居るんじゃないかって。

 誰も居ない家でオルゴールを巻いて『亜麻色の髪の乙女』を聴く。あの日々にいつかまた戻れますようにと祈りながら。

 私はあの家にあんまり居たくなかった。だから五時の鐘が鳴って皆お家に帰って公園の灯りが付いて、それでもまだベンチに一人で座ってた。

 吐き出す白い息、かじかむ手足、一人きりの公園、だけど帰るよりずっと楽だった。暖かい家よりずっとずっと。

「何で帰らないの?」

「……何でもないよ」

 だけどそこにアラタが来た。いつもは帰っているはずのアラタが。その日から一人の公園じゃなくなった。

 私がベンチに座っている間、アラタは横のブランコでずっと立ち漕ぎしてた。一周しちゃうんじゃないかってくらい、勢いを付けていた。それに飽きるとブランコから跳び降りて私と同じベンチに座った。

 フラフラしながら落ち着きが無くて色んな事に夢中で目移りしている、そんなアラタを私に振り向かせてじっと見つめて欲しかった。こんな形で二人きりになるのは嫌でもあり、嬉しくもあって。

 とにかく、私とアラタ、公園から帰らなかったのは二人だけだった。私は訊いたの。

「そっちこそ、何でお家に帰らないの?」

 鉄棒で逆さまになりながら少し間を置いてアラタはこう言ってた。

「……何となく?」

 私は気付いてたよ。私が帰るって言うまで帰らないの。それで帰るって言ったらいっつもこう言うの。

「ユマん家まで送って行くよ」

「そんな、大丈夫だよ。反対方向じゃ――」

「でもユーレイ怖いでしょ?」

「……ちょっぴり」

「じゃ、行こ」

「うん、ありがと……」

 今日あった事、嬉しかった事、楽しかった事を次第に話すようになったよね。あの時間は素直に色んな事話せたから楽しかった。アラタだったら聞いてくれる感じがしたから。どんなにくだらない些細な事でも。

 そんな時に校外学習に上ノ原島に行った。それで島に閉じ込められちゃった。六年生の春だったね。

 やっぱり私良い子なんかじゃない。ママの事もあるのにここに閉じ込められた時、安心してた。もうあの朝倉の表札が掛かってる家に帰らずに済むと思ってしまったから。ここに閉じ込められて深く落ち込んだアラタを見て、今度は私の番だと思った。私が励ます番。私が寄り添う番。

 だけど気付いちゃった。アラタを見ていると、これが正常な反応だって事。だからもっと後ろ暗かった。こうであるべきなんだって思う。アラタから気持ちが離れていったのは私が苦しかったから。その姿が正しいから。喜んだ私は異常な子。

 だからどうにかしようとしたのはアラタの為なんかじゃない、むしろ私の為にアラタを何とかしようと思ってたの。立ち直りさえすれば私がその姿を見なくていいって。ごめんね。

 それから私は色んな事を頑張った。勉強は勿論、委員会活動とかも。そしたら誰かが許してくれるかもしれないから。私は頑張っているという行動を自分自身と誰かに示して許されようとしてた。

 こうしてる今も正直に自分の気持ちを全てアラタに話したい。楽になりたい。そう思っちゃってる。そういう部分が私は好きじゃないかも。


「――アラタが立ち直れば私がおかしいんじゃないって思えるし、思いたいから……だから元気付けてたの」

 後ろの曇りガラスから入ってくる斜陽の光が弱まってくる。夕方から夜になりつつある。ベンチでユマが俯きながら話していた。

 アラタはユマの話を聞きながら、脳内会議が喧々諤々けんけんがくがくとした。忙しなく取っ替え引っ替え色んな事を考えて一向に纏まらない。

 全然記憶にない。知らない人がアラタとして話に出て来ている気さえする。でも紛れもなく俺だ。俺の持っている記憶とも合致する。嘘はついてなさそうだし……。

 そしてユマが話し終わって静寂が訪れる。アラタは足下を見ながら思った。

 どうしよう。気の利いた言葉が全く思い付かない。突っ込んで訊いたくせに。話させたくせに。

 アラタはユマの方をまたもや見れなかった。どんな顔をしているのか知るのが怖かった。そんな中で湧いてくる思いがあった。

 でも、そう、別に気の利いた言葉じゃなくても良いのかもしれない。なんで誰かの心を救おうとか、そんな大それた事を考えてしまうんだろう。その思考は凄く傲慢だったりするのかもしれない。

 そうだ、自分が言いたい事だっていいじゃん。言いたい事は明日言えっていうけど、俺は今しかないと思う。今じゃなきゃいけないと思う。だから言葉にしてみよう。声に出してみよう。

 アラタはユマの俯き、影がかかった横顔を見つめた。

 さぁ、俺はユマに何が言いたいの?

「あの、さ……」

 アラタが静寂を破り、ユマの方に向き直る。ユマがこちらを見ると、自分を指差して言った。

「ユマ、えっーと……俺で良ければ居るけどっ……どうかな……?」

 それを聞いてユマは心臓が高鳴った。身体の内側からくすぐったくなってそれが喉からこみ上がってくる。

 この言葉は私に向けられてる。その顔、少し照れた、俺なんかで務まるのか怪しいけどって顔。そんな不器用な所も好きで好きでたまらなくて。あの頃のアラタは、私が好きだったアラタは遠くに連れ去られてしまった感じがしていた。本土に置いてきてしまったような。次第に心も離れていって……でも今、私の好きな人が四年振りに帰って来た。

 だけどそんなアラタの事は、好きな人の事は私が一番分かってる。

「……そんなこと言って、どっか行っちゃうんでしょ。アラタはじっとしてられないもん」

 アラタは誰にも縛られない自由の方が似合う人だから。そういう風が吹いてる。その自由の中で私を求めてくれるなら。

 それを聞いてアラタは隣で身振り手振りジタバタし始めた。

「でも、あれ、ユマと一緒に外に出たいし、本土に帰りたいし、なんていうか、ほら――」

 その言葉の意図があまり伝わってないらしい。マナはそんなアラタの両手を優しく握って、眼を見て言った。

「分かってるよ。いいの。それがアラタだから。私、嬉しいの。じっとしてられないアラタが帰って来て!」

 そう言うとユマはアラタの手を離した。ユマはベンチから立ち上がる。

「ね、もう帰る時間だよ?」

 ユマに促されてアラタも立ち上がる。外はもうすっかり暗くなっていた。アラタは階段を下りていく背中に言う。

「ユマ、いつか一緒に本土へ帰ろう」

 彼女は階段の途中で足を止め、アラタを見上げる。

「うん。早く出たくなっちゃったなぁ」

 アラタは二人の足音だけが響く校舎を歩いて下駄箱へ向かった。


 アラタとユマは学校から出た。暗くなるにつれて気温は下がり、冷たい夜風が身体を洗う。

 道路沿いの街頭が次々と明かりを灯し、二人を照らした。円形の光が地面に投射され、二人は光を受けながらオアシスへ帰っていく。

 ユマは隣のアラタを見つめながら思う。

 私の好きな人は白馬の王子様でも星の王子様でもなかった。誰といる時よりも私らしく居られる人だった。

「あっ!」

 ユマはアラタの横顔を見つめ、何かを思い出したように声を出す。彼女はアラタの正面に出て来て言った。

「アラタ、誕生日おめでとう!」

 アラタは困惑した表情を見せたが、すぐに気が付いた。

 あ、四月二十五日……そういえば俺、今日誕生日じゃん。

「アラタに言おうと思ってたんだった」

「うん、ありがとう!」

「ね、ダイナーに食べに行こうよ! 二人で誕生日パーチーしようよ!」

「いいよ、今から行こう」

「ヤッター!」

 ユマは目の前で両手を上げた。それを見てアラタは懐かしい気分になった。

「ユマ、またフガフガしてるよ」

 ユマはテンションが上がると、鼻穴が大きくなって小さくなってを無意識に繰り返す。多分鼻が柔らかいから起こる事だろうと思う。それをフガフガと二人の間では呼んでいた。これ、何年ぶりに見ただろう。久しぶりにそれが見れて少し嬉しい。ユマは今更恥ずかしそうにして鼻をつまんだ。

「見ないでよ~」

 二人の向かう先はオアシスではなくダイナーになった。アラタは自分の身体の事を考える。

 多分、今日はまだ大丈夫。明日は動けないかもしれないけど、明日の事は明日案じよ。明日の俺がうまい事やってくれるだろう。

 そんな事思いつつも今までの疲れが出て、ふらつく。膝に力が入らなくなって、隣に居たユマにもたれ掛かってしまった。アラタはすぐに離れる。

「あ、いやっ、あのっ」

 肩に手を回して不用意に身体を触ってしまった。言い訳を脳みそフル回転でこねくり回したが素早く謝るのがベストだと至り、言い訳はかなぐり捨てた。

「ゴメン……ナサイ」

 ユマは少し驚いた後、悪戯っぽい表情になる。

「もー、スケベ!」

「いや、だから、その、そういうつもりじゃなくて!」

「でも……」

 必死に弁解しようと試みていると、ユマが手を差し出して恥ずかしそうに囁いた。

「でも、手……繋いで?」

 アラタはユマを指差して勢い良く言った。

「……スケベ!」

「じゃあもういいもん!」

 ユマは拗ねてアラタに背中を向けて前を早歩きし始めた。そんなユマの握られた小さい拳を解き、アラタは手を繋いだ。そして振り向いたユマに穏やかな笑みを見せた。

 ユマはアラタの顔を見ると手を握り返し、はにかんだ笑顔を返す。

 きっと、二人は大丈夫。ユマは漠然とそう思った。

 アラタの胸の内が晴れていく。明朝の気分だったが、まだ十八時だった。不思議な感覚で、非日常と日常の境界線があやふやになっている。それはいつ目覚めてもおかしくない、白昼夢の中のようだった。

 このまま永遠に続いてくような気もするし、やっぱりすぐに終わってしまうような気もする。老いていくだなんておとぎ話みたいだ。どのくらい長い道のりかは分からないけど、どこまでも生き急いでいくだけ。多分、振り返れば一瞬なんだろうな。

 こうして、長い長い一日が終わっていく。アラタはその事が何よりも素晴らしいと、そう感じていたのだった。

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