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 私たちが付き合っていたのは、今から十年と少し前だ。

 その頃は就職氷河期の終盤だったから、就職なんて楽勝だろうと言われていたけれど、そんなことはなかった。あっても営業職しかなく、他はスキルや資格がなければ、試験を受けることすらできなかった。

 私は営業職に滑り込んで働いたものの、二年と少しで体を壊して辞めてしまった。

 今でこそブラック企業からは三年経たずともすぐに逃げろって風潮があるけれど、当時は「根性がないから三年も働けないんだ」「たった二年で体を壊すなんて夜遊びしているから」と各方面から責められ続けた。夜遊びする元気もお金もないなんて言い訳、バブル時代を経験している人間にわかる訳がない。

 お金もないし、仕事もないし、体力も気力もすり減ってしまった私は、自殺する気力もなく、少ない貯金を切り崩しながら病院に通い、病院の行き帰りに通る橋をぼんやりと眺めることが増えた。

 当時の私は、二十代とは思えないほどにくたびれていた。疲れ果てていたところで、下手っくそなギターの音が、橋の下から聞こえてくることに気が付いた。

 下を見てみれば、どこかのインディーズのバンドTシャツを着た男性が、汗で体のラインをくっきり露わにしてギターを弾いていた。金色に脱色した髪も、ワックスでセットしていただろうに、頭に近い部分はぺたんと頭のラインに潰れてしまっている。

 当時、服薬のせいで、昼と夜の境目がなくなっていた私は、一日中ぼーっとしていることが多かった。そんな中で聞こえてきた音の外れたギターが異様に耳に心地よく、気付いたら河川敷の階段を降りて、その人のギターを聞きに行っていた。

 今聞いたらきっと「うるさい」と一蹴してしまうだろう。でもその頃の私は、そもそも音楽の区別が付かず、なにを聞いても同じに聞こえてしまっていたから、彼のギターだけは鮮明に聞こえるのが、本当に不思議で不思議でしょうがなかったんだ。

 彼の演奏は、変な余韻を残して終わった。私は思わずパチパチと手を叩くと、彼はなにも聞かずに、ただ「センキュー」とロックな返事をした。簡単な英語すら下手っくそだった。

 彼はくたびれた私のことをむやみやたらと心配する訳でもなく、こんな昼間に働かないなんてと説教する訳でもなく、ただ延々と自分の夢について語っていた。

 バンドマン、美容師、バーテンダー。

 付き合ってはいけない3Bとは言われているけれど、当時の私は、自分のことを腫れもののように扱わない人間は彼しかおらず、「働け」と当たり前なことを言わないのも彼しかいなかった。病院通いになったら薄情なもので、友達とも疎遠になってしまった私は、彼以外とまともにしゃべれなかった。

 この高架下の出会いで、彼……本人は吉矢真だと名乗ってくれた……のギターケースにお金を投げ入れたい一心で、再就職を決めた。派遣社員とはいえど、ブラック企業からの病院通いという暗黒時代を思えば、相当な進歩だ。

 真も、毎日のように高架下までお金を投げ入れる私の顔と名前を覚え、私の家に転がり込むまで、そう時間はかからなかったのだ。

 だけれど。病院通いの暗黒時代を通り過ぎてしまったら、真の言葉というものが薄っぺらいということがよくわかる。

 通院中は生きる気力と夢に満ち溢れた真が輝いて見えたけれど、彼には決定的に、やる気も才能もなかった。

 せめて自分の音を録音してどこかの事務所なりプロデューサーに送るなり、動画サイトに投稿して人に見てもらうなりすればいいのに。真はそれすらしなかった。


「本当の実力者っていうのはな、そう自己主張しないもんだ。本当に光り輝いているやつっていうのは、なにもしなくっても見つけてもらえるからな」


 なにを言っているんだろう。高架下でへったくそなギターかき鳴らして寄ってきたのは、病院通いの地味女だけじゃないか。それで誰かに見つけてもらおうとかおこがましい。私はそう口で言ったけれど、そう言うと、真は拗ねたような顔をして、唇を奪ってくるのだ。

 デートのお金は私払いだったけど、デート自体は楽しかった。きっとそれは彼の処世術で、お金を出してもらう代わりに相手を楽しませていたのだろう。

 いったい、音楽で食っていきたいという夢と、女の紐になっている現実。どっちが本当の彼だったのか、わかったものじゃない。

 彼は口でこそ立派に夢を語っていたものの、ちっとも夢に向かって動いてくれなかった。

 私はとうとうくたびれ果てて、彼を拾ったときと同じように、ぽいっと彼を追い出してしまったんだ。

 疲れた。彼との思い出を振り返ってみても、真のいいところがちっとも見つからない。強いて言うならば、一緒にいて楽しかった。でもなにがどう楽しかったのかが、言語化できないんだ。副業でライターをしている今でもだ。

 それ以降、私は派遣社員を続けながら、気まぐれに書いた真との出来事を書いたブログで声をかけられ、ぽつぽつと文の仕事をもらえるようになった。

 これでいいや。もう男いなくっても、今のままでいいじゃない。具合の悪い頃に、たちの悪い男に引っかかった私は、そう自分に言い訳しながら、ずるずると現状を生きていた。

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