ACT.1-3

 パーズが足を止めたのは、中規模な酒場の前だった。

 入り口には『悪酔い亭』と書かれた看板が掛かっている。名前を確認すると、パーズはおもむろに店内へと入っていった。

 天井からは馬車の車輪に鉄の輪っかを嵌めたようなシャンデリアがぶら下がっている。円周上に蝋燭を立てただけの簡素なものだ。更には壁にランタンがいくつか掛けられており、多少薄暗い感はあるが奥まで充分見渡せた。


 木製の丸テーブルが全部で十五。そのどれもが客で埋まっていた。その間を縫うように女給が忙しく動き回っている。

 店内は雑然として活気に溢れていた。クランの酒場の中でも、安さと荒くれ者が集まることで有名な酒場だ。客のほとんどが粗野な感じのする男たちだった。


「あれじゃない?」


 アートゥラの言葉とほぼ同時に、パーズは酒場の中で異彩を放つ存在を見つけていた。二人はそちらに足を向ける。目指すは壁際のテーブルに座っている女性だ。

 こんな酒場に女ひとりで酒を飲んでいるというのに、近寄る男の姿はない。むしろ男たちはこのテーブルに近寄るのを避けているようにも見えた。


「あんたがイェルラか?」


 パーズの言葉に、木製のコップに入った酒を見つめていた女性が顔を上げる。

 頬までの長さで切りそろえられた髪。それは月の光を集めたかのように艶やか。整った顔立ちの中でも、雪のように白い肌と少し吊り上がり気味の、切れ長の目が印象的だった。きつい性格の美女といった風情だ。それだけでも並の男なら近寄ることを躊躇うだろう。


 だがそれにも増して男たちが近寄ろうとしないのは、彼女の着ている藍色を基調としたローブのせいだった。

 藍色を基調としたローブは、魔術師の総本山である魔導院の正式服装だ。魔導院の魔術師はかなりの使い手として認知されており、外見に関係なく恐れられていた。

 女性の着ているローブは色々と手を加えられており、地味な印象を払拭していた。だが基本の形は変わっていない。


「そうよ。そっちは?」


 銀髪翠眼――西方大陸北部の民族の特徴だ――の美女、イェルラが言った。


「パーズ。ギルドの使いだ」


 そう言ってパーズは封筒を一枚差し出した。イェルラは封筒を受け取ると、裏の封蝋を確かめる。封蝋に押された印章は間違いなく賞金稼ぎギルドのものだ。

 羊皮紙の巻物ではなく高価な紙を持ちいた封書ということは、この書簡は賞金稼ぎギルドにとっても重要なものだということだ。


「座って」


 イェルラの言葉に、パーズは彼女と向かい合う位置に座った。アートゥラはパーズの横へ座る。

 イェルラは封筒から中身を取り出し、さっと目を通した。そしてすぐに目の前の二人を見る。彼女の視線はパーズの左腕で止まった。


「あなたが〝左利き〟のパーズ。それと……」

「アートゥラよ。隣の有名人みたいな二つ名はないわ」

「そう、アートゥラね。こっちの名前はもう知ってると思うけど、イェルラよ。魔導院側の使いになるわ」


 事務的な口調でイェルラは言う。


「……なんか感じ悪くない?」


 アートゥラがパースに囁いた。そんな彼女を気にしたふうもなくイェルラは口を開く。


「ギルドから二人も派遣してもらえるなんて正直思ってなかったわ。おまけに一人は〝左利き〟のパーズだなんて大盤振る舞いね」

「そりゃ、魔導院の魔術師様が直々に出てくるのなら、ギルドも簡単には断れないしぃ」


 アートゥラの言葉にはどことなく棘がある。

 魔導院と賞金稼ぎギルドは昵懇の仲だ。討ち取った〝首〟を腐らないようにして持ち歩く魔導具である「封球」は魔導院が提供している。ギルドはその見返りとしてお金だけでなく、情報の提供や賞金稼ぎを斡旋する。

 その為、今回のようにギルドの賞金稼ぎが魔導院の魔術師と組むのは珍しいことではない。


「あなたたちは今回の依頼について、どこまで聞いてるの?」


 事務的な様子でイェルラは問うた。


「護衛の依頼だと聞いているが、それ以外は殆ど何も」パーズが言う。

「そう。じゃあまず――」

「あのさぁ」アートゥラがイェルラの言葉を遮った。「アタシたち来たばかりで喉乾いてんのよねぇ。自分だけ楽しんでるのって不公平じゃない?」


 アートゥラはイェルラの前にあるコップに視線を向けた。


「……気づかなくてごめんなさい」少しも悪いとは思っていない調子でイェルラは言う。「好きなのを頼んでくれていいわ。代金はこっちで持つから」

「ホント!? もしかしてアンタのこと誤解してたかも」


 嬉々とした様子で言うアートゥラを、イェルラは冷めた表情で見つめる。


「じゃあ、アタシはイゴール産の葡萄酒に、ミュール鳥の焼き串でしょ。それと……」


 そんな魔術師の視線を気にした様子もなく、アートゥラが女給を呼ぶ声が店内に響いた。



        ☆



「魔導院から魔導書が一冊持ち出されたの」


 六杯目の酒に口をつけてながら、イェルラは言った。

 アートゥラは目の前に出された料理を美味しそうに食べている。ときおり喉に詰まらせ葡萄酒を慌てて飲む。

 パーズもコップを傾けていた。彼はイェルラと同じ酒を注文していた。焼け付くような喉ごしの、度数の強い酒だ。強烈な刺激が食道を通って胃の中へと流れ込んでくる。

 そんな酒を、イェルラは水でも飲むかように次々と空けていた。


「このお酒を女が飲むのがそんなに珍しい?」


 パーズの視線が自分の持つコップに注がれているのに気づいてか、イェルラはそんなことを言う。


「北方の酒だな」

「そう。わたしの故郷のお酒。クランだとここでしか飲めないのよ」


 今まで冷たい感じしかなかったイェルラの表情が、不意に柔らかいものへと変わった。空のコップを見つめるその表情は、何かを懐かしんでいるようにも見える。


「おい、こら」


 イェルラの「ここでしか飲めない」の言葉に、アートゥラはパーズのコップを奪い取る。そして口をつけた途端、咳き込んだ。


「けほけほ……なにこれ」


 あまりの度数の強さに、アートゥラは喉をさすった。自分のコップを飲み干し、すぐに葡萄酒を注文する。


「あなたの上品な口には合わなかったかしら」


 からかうようにイェルラが言う。その瞳には会ったばかりの彼女にはなかった、悪戯っぽい光が浮かんでいた。


「前言撤回。アンタ、性格悪いって言われるでしょ?」

「言われたことはないけど、褒められたこともないわね」


 アートゥラは軽く睨み付ける。対するイェルラは涼しげな表情を浮かべるのみだ。


「で、魔導書がどうしたって?」パーズが口を挟んだ。

「ああ、ごめんなさい。その魔導書を取り戻すのが、わたしの仕事よ。あなたたちはそれまでの護衛をお願いしたいの」

「それは簡単に外部に漏らしていい話なのか?」


 パーズがイェルラを見つめる。魔導院は名実共に魔術の総本山だ。魔術に関するあらゆる知識を蒐集し管理し、場合によってはその秘匿を旨とする。その管理能力を疑われるような事件の内容を、魔導院が外部に漏らすのは珍しい。


「……二度目よ」

「何?」

「魔導院は一度失敗しているの」イェルラは新しく運ばれて来た酒を口にする。「最初に取り戻しに言った魔術師は三人。でも戻って来たのは一人。それもすぐに息を引き取ったわ」

「そりゃ、魔導院から魔導書を盗み出すくらいだもの。それくらいの実力はあるんじゃない?」


 からかい気味にアートゥラが言う。


「……最初から力ずくで盗んでくれれば、魔導院もそれ相応の対応をしていたんでしょうけどね」

「違うのか?」


 パーズの言葉にイェルラは頷いてみせる。


「最初に言ったとおり、魔導書は『持ち出された』のよ。堂々とね」

「言ってる意味が分かんないんだけど……盗まれたわけじゃなくて、貸し出されたってこと? なら返して貰えばいいだじゃない?」

「そう。最初は魔導院もそのつもりだった。持ち出されたのは禁書と呼ばれる類の魔導書で、普通の魔術師なら閲覧すら許されないわ」

「じゃあ、やっぱ盗まれたんじゃない?」

「そうね。結果として確かに魔導書は盗まれていた。でも手続き上、正式に貸し出されたことになっていたの。司書をまんまと騙してね」

「悪いけど、アンタが何でもったいぶった言い方してんのか分かんない。結局盗まれたんなら、それでいいじゃん。相手の方が一枚上手だったってだけでしょ?」


 アートゥラは頬杖をつきながらつまらなそうに言った。机の上に、彼女の作った影が随分と色濃く映っている。


「持ち出したのはルードっていう魔術師なんだけど、魔術の腕は二流。魔導具作りに関してはけっこうな腕前だったらしいけどね。でも魔術師三人を相手に渡り合えるだけの力はないわ。もちろん魔導院の司書を欺けるだけの実力もない。

 最初に魔術師が三人も派遣されたのは、相手を手強いとみたわけではなく、回収する魔導書が重要だから。ただそれだけよ」

「……つまり油断していた、と?」


 そう言って、パーズは籠手に覆われた左手で口を隠した。


「なにそれ。言い訳にしても陳腐ね」


 アートゥラの容赦ない言葉に、イェルラは何も答えない。視線はパーズの方を向いていた。


「多分、あなたの考えているとおりよ。ルードの後ろには誰かいる。それも魔導院の魔術師を手玉に取れるような誰か」

「〝一ッ目〟……か?」


イェルラの言葉を継ぐようにパーズは言った。


「その名前が出てきたこと、知ってたの?」

「ああ。俺は〝一ッ目〟の名前があったから、この依頼を受けた」

「あ、なに。アンタまだ〝一ッ目〟を追いかけてたの?」アートゥラが呆れたように言う。

「まだ? なにやら因縁があるようね。あんな正体のはっきりしない魔術師を追いかけてるなんて」

「…………」


 探るようなイェルラの視線。パーズは何も答えない。ただその瞳に暗い光を湛えるのみだ。


「〝一ッ目〟の名前は、帰って来た魔術師が死ぬ前に言ったうわごとよ。『見た』とも『いた』とも言っていない。魔導院にたどり着いた時にはもう虫の息だったし、なにより朦朧としてたのよ?」

「それでも俺には情報としての価値ははかりしれない。すくなくとも〝現在〟の情報だからな」


 ――その情報はちと特殊でな。情報そのものにほとんど価値はない。この時期にこの場所で受け取れたからこそ意味があるんじゃよ。

 パーズはギルドの支部で老人に言われた言葉を思い出していた。確かに、今この時に受け取ったからこそ意味を成す情報だった。


「ご執心ね」パーズの視線を正面から受けて、イェルラは言う。「不確かな情報に随分な力の入れようだけど、こっちの依頼が優先なのを忘れないで欲しいわね」

「ああ、分かってる」


 パーズの声は僅かに震えていた。無表情を装っているが、口のはしが僅かに上がっている。自然に零れる笑みを隠そうとしているのだ。とびっきり残酷な笑みを。

 アートゥラはそんなパーズを見つめ、彼とは違う種類の笑みを浮かべていた。まるでパーズの心の中を覗き見して愉しんでいるような、意地の悪い笑み。


「心配するな。ちゃんとあんたに従うさ。〝翡翠の魔女〟さん」


 パーズの言葉にイェルラは軽く目を細めた。


「わたしのこと知ってたの? 人が悪いわね」

「油断していたとはいえ、魔導院の魔術師が三人も倒されたんだ。そんな仕事を一人で任される実力者。それも北方出の女魔術師と言えば〝翡翠の魔女〟しか思い浮かばない」

「案外、物知りなのね。〝左利き〟のパーズは」


 イェルラは静かに笑ってみせる。パーズは相変わらず無表情を装っていた。交錯する視線は、互いの腹の内を探り合っているのか。


「うっわー、空気悪ぅ。せっかくのご飯が不味くなっちゃう」


 二人から顔を背け、誰にともなくアートゥラは呟いた。

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