遠い呼び声
霞(@tera1012)
1
(助けて)
確かにその声は、そう言った。
森の奥へとづつく小道を急ぎ足で進みながら、マナは胸元で手を握りしめる。
ほんの一言で途切れた声。それからマナがどれだけ耳を澄ませても、再びその声が聞こえることはなかった。
『ほんとに、ほんとなの。僕たちには全然、聞こえなかったけど』
まわりのみんなはそう言った。マナよりずうっと耳の良い者も、遠くの気配が分かる者もいたのに。
でも、確かに声は聞こえたのだ。それは、他の声にはない、不思議な響きをしていた。
『ここからは、少し結界を、強めるよ。ちょっと足が重くなるけど、頑張って』
耳元で声がする。同時にふわりと自分の周りの空気が重みを増すのが分かった。
今いる場所は、森の最奥に近い。生身の人間が防御もなしに入ったら、生きて帰れる保証はない。本当は足を踏み入れたくはない場所だったが、背に腹は代えられない。マナは厚みを増した結界の粘りのある空気に足を取られながら、懸命に歩き続ける。
水の中を進むような抵抗に、徐々に息が上がってくる。
その時突然、視界が開けた。
「ああ……」
遅かった。
結界の重たい空気越しに、漂う焦げ臭さを感じる。
深い森のその部分だけがぽっかりと円形に、焼き払われていた。焼け焦げたむき出しの土と岩だけの地上に、点々と散らばっている炭の塊に見えるものは、おそらく、人の、名残りだろう。それはほとんど生き物の形を成しておらず、呆然としたマナの目にはほとんど入らなかった。
マナの視線は、一点に引き寄せられる。
黒と灰色に覆われた光景に、鮮やかに浮かび上がる白い塊。
駆け付けると、そこに横たわっていたのは、裸の男だった。その白い肌は汚れひとつなく、真っ黒の大地がそこだけ切り取られたように見える。
はっと我に返り、マナは背負ってきた袋から、
「大丈夫ですか、大丈夫ですか」
男の傍らにひざまずくと、ほとんど条件反射で、肩を叩きながら呼びかける。
「一、二、三……」
不思議に落ち着く、魔法の呪文。唱えながら、男の口元に頬を寄せ、同時に胸の上下を確かめる。
そして、眉を寄せた。
男の胸部は明らかに不自然な動きをしていた。肩が動くほどに激しく鎖骨を引き上げようとしているのに、腹部と胸郭に連動する動きはなく、ひくひくと不規則に震えるだけだ。
「麻痺。下から……?」
つぶやきながら、頸動脈に手を当てる。安定した拍動を感じた。
マナは男の耳元で、やや声を張る。
「分かりますか。あなたは呼吸ができなくなっている。これから補助をしますが、なるべく喉の力を抜いて下さい」
男の瞼がひくりと動いた。
マナは取り出したバギングバックを素早く組み立てる。男の顎を軽く持ち上げると、マスクをあてがい固定しバッグをゆっくりと押しつぶした。
男の目が見開く。
「大丈夫」
マナがささやき、彼の肩の動きに合わせてゆっくりと空気を送り込むと、男はうまく喉を開く。この道具を見るのも、もちろん使われるのも初めてだろうに、この人物はかなり、状況把握能力が高いようだった。
「レイラ、聞こえる」
バッグを押し続けつつ、男の全身を素早く観察してから、マナは
『はあいー?』
おっとりとした女性の声が応えた。
「悪いんだけれど、この人の喉に、気の道を作って頂戴。あまり強くすると喉と肺が裂けるから、優しく、優しくね。風の量は、私と、おんなじくらい。はじめの10息だけは、火の使いの気を、半分混ぜてあげて」
『わかった、けど、何かちまちま、面倒だなあ』
「埋め合わせはするから。帰ったらとっておきのお香を焚いてあげる」
『約束だよ』
途端にご機嫌になった女性の声が消えると同時に、男の首がびくりと反った。
「レイラ、待って」
マナは一度仲間を制し、男をのぞき込んだ。目を見開き、生理的であろう涙を流す彼に、そっと声をかける。
「苦しいですか」
男の麻痺は、みるみる進んでいるようだった。すでに喉周りの筋肉も動かないと見え、えずくこともできないようだ。しかしその眉根ははっきりと寄っている。
「喉を無理やり開いているので。反射で、吐き気や咳の刺激が……。眠ってしまう方が、楽ですが。そうしますか」
涙を流しながらも、男の美しい灰青色の瞳がはっきりとした拒絶の色を見せた。
「……分かりました。喉元だけ、一時的に感覚を麻痺させます。違和感はあるでしょうが、お許しくださいね」
男の目が微かに動く。
「モンテス。聞こえる」
『ええ、俺? そいつ、人間だろ。めんどくさいなあ。俺、殺しちゃうかもしれないよ』
「凄腕のあんたがそんなヘマするわけないでしょ。あんただから頼むんだから」
『へ、へへ。で、何』
「この人の舌の奥から気の道の入り口まで、軽―く痺れの毒を使ってあげて。表の皮一枚だけよ。血の道に乗せたら承知しないからね」
『はいはい。相変わらず、注文の多い魔女さんだな』
「私は注文をかなえられる相手にしか注文しないわ」
『はいはい』
男の眉根の皺が徐々にほどかれていく。やがて呼吸が規則正しく保たれはじめ、胸が穏やかに上下しているのを確認すると、マナは静かに、男の左右の胸と、そして最後にみぞおちに聴診器を当てた。
「レイラ、分かってたけど、さすがだわ。食の道は上手に避けてくれてるわね」
『当たり前でしょ。私を何だと思ってるの。あんたにどれだけしごかれたか』
「ふふ、そうね」
男の瞳がゆっくりと動き、マナの瞳を捉えた。そこには、純粋な疑問の色が浮かんでいる。
「色々お聞きになりたいのでしょうけれど、今、あなたは麻痺に犯されています。声を出す筋肉も使えない。それに、気の道を開いたままにしているので、いずれにしてももうしばらくはお話はできないの、ごめんなさい」
男の目がゆっくりと瞬く。
「私ができるのは、ここまでです。街に使いをやりますから、数刻後には、迎えが来てくれるでしょう。それまでは結界を張っておきますので、ここでしばらく、お休みになっていて」
男の目が見開いた。
「勝手なお願いですが……私のことは他言しないでいただけると、有難いです。できれば、忘れてください」
マナは静かに立ち上がる。
それからふわりと、男の身体にマントをかぶせると、彼女は振り返りもせずに立ち去った。
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