sieve022 雪解けのあと

サチコは自分の顔を僕のお腹に埋めたまま、

両手を僕の腰に回して、ぎゅっとしがみ付いていた。


「ちょっと待ってください。」

サチコの背中をさすりながら言った。


「もちろん、待っても良いわー。でも、どこかでちゃんと話さないと。」

「貴女が何に怯えているのか、想像だけはつくわ。」

サチコの震える背中に、ニャット船長が左手をそっと置く。


「私が考えているとおりなら、辛いのだと思う。」

ニャット船長がそう言うと、サチコの体はより一層強く震え出した。

僕の腰に巻き付く手が熱くなる。

「だからちょっと待ってください!」

僕は声を荒げた。

寝ていた自分の体を起こし、サチコの体を引き上げて抱きかかえる。

サチコもしがみ付く手をいったん緩め、

自分の顔を僕の肩に乗せるようにして改めて抱き付いた。

僕は彼女の背中をしっかりと抱きしめる。

その間も彼女はずっと震えていた。

「よく見てください! どんどん震えてる!」

ニャット船長が心で何を考えて、何を問いかけているかは分からないが、サチコは明らかに怯えていた。


「口で言わなくても、彼女は声が聞こえるんですよ。分かってらっしゃるでしょう。」

「ええ、分かってる。」

さきほどまで表情の見えなかったニャット船長だが、

今は微かに唇を噛みしめているように見えた。


「貴女を傷つけているのかも知れないし、申し訳ないと思うわ。

でも、私たちは貴女の心の声は聞こえない。

何かを伝えたいなら、声に出して言わないと。」

ニャット船長はそう言ってから、また左手をサチコの背中にそっと置いた。

サチコの体が一瞬びくりとするが、そのあとは体の震えが、少しずつではあるが次第に収まっていくようだった。そして、僕の腰に固くまわした両手をほどき、診察台の反対側にゆっくりと後ずさった。

そして俯いたまま、か細い声で話し出す。

「どこから話したらいいのか分からないんです。」


声色は落ち着いているように感じたが、表情は見えない。震えは止まっていたが、肩は強張り、体は縮み上がっていた。一瞬、話したくないなら話さなくても良いと、口からそう出そうになった。サチコにとって、自分の思いを伝えることは恐ろしいことのはずだと僕は知っている。自分が思いを伝えるたびに、相手の本心を彼女は否応なく知る。言葉というオブラートに包まれない、ありのままの心の反応に彼女がどれだけ傷付いてきたか、誰も知る由はない。僕も知らない。


実際にニャット船長がサチコに問いを投げた時から、彼女は怯え切っていた。だから、言わなくても良いと言いたい気持ちになる。これまでもそうやって彼女の心をできるかぎり傷付けまいとしてきた。でも、今は少し違う気持ちだった。僕の体のことなんて、大したことなんてない。彼女の心の痛みに比べればなんてことはない。でもそれよりも、彼女が何を望んでいるか、純粋に知りたいと思った。彼女がもし話したいと思っているなら、それを聞きたいと思った。

僕は静かにサチコが言葉を紡ぐのを待った。

ニャット船長も、同じようにじっと待っていた。


「ごめんなさい。私も自分のことを全て知っているわけじゃないんです。ただ、私と心の海で深く繋がりすぎると、その人は私と同じように心が繋がるようになるんです。」

「心の海は分かるわ。でもそんな話、私がピアリ研に居た時には聞いたことが無いけれど。」

ニャット船長は困惑した様子だった。不思議と僕の心に驚きはなかった。話の内容よりも、彼女が自ら口を開き、自分の言葉を紡いでいることに安堵にも似た、穏やかな気持ちを感じていた。

「そうですね。このことは誰も、基地の人たちも――」

そこまで言ってサチコの口は止まった。

僕はまた彼女が発作を起こさないかと身構えた。

「――そう、基地の人たちも知らないはずでした。」

彼女が強張る膝に重ねたその手を固くする。

「なのに……。」

僕は彼女の頭を右手でそっと撫でたあと、その固く握りしめられた左手に重ねる。

君が悪いわけじゃない。誰も悪くない。

心にそう言い聞かせながら。


「でもお父さんは生きているよ。」

僕がそう言うと彼女は、重ねた僕の右手の上に、さらに彼女の右手を重ねる。

ニャット船長が見せてくれたニュースには続きがあり、そこにはニュージェネレーション研究の責任者、ヘクター大佐の名前でコメントが出されていた。彼が訪問中に悲しい事故が起こってしまったのだと。戦闘機用の燃料に何らかの理由で引火した爆発の可能性があり、ミライ博士を除いた基地スタッフは全員が死亡。ミライ博士も重傷だと。そういう内容だった。僕が彼女を連れてきたことで、ここまでのことが起こるとは、想像もしていなかった。僕も、おそらく彼女も。基地のみんなの顔が浮かんでくる。基地に来てからずっと一緒にいた人たちの顔が。いつでも僕たちを慮ってくれたオークトッド先生や、一緒に月の海を走ったファインダー少尉の顔が浮かんでくる。

「そう、そうなの。でも、でも……。」

「辛い思いをさせて、ごめん。」

僕はつぎつぎに浮かんでくる記憶を遠くに追いやる。一体何をどうすればよかったのか。サチコや僕。他のみんな。こうならないためにはどうすれば良かったのだろうか。そう考えてしまうが、僕はその自問自答も頭の外に追いやった。


「何が正しかったかを決めることは大変だわ。大事なものをたくさん抱きかかえているほど。どこかで折り合いをつけないといけない。でもその折り合いが実際にどうつくかは、誰にも分からない。」

「サチコのどこがだって言うんです。何もたくさんなんかじゃありませんよ。」

僕は独り言のように言った。

ニャット船長を責めるつもりはなかったが、気付くと声に出していた。

「ごめんなさい。」

船長も独り言のように言った。


「でも貴方たちを批難したわけじゃないわー。むしろ私は、貴方たちは今、正しいことをしていると思っている。一人の人間として、自分のために生きる。それは自然なことよ。」


自分のために生きる。そう割り切ることが難しいと思ってしまうのは、僕の弱さなのだろうか。僕も彼女も、自分の存在意義を外に見出すしかなかった。自分の居場所を自分で決める自由は、僕らには無かった。孤児だった彼女は幸か不幸か、新しい親を得た。僕は親の元には居れず、寄宿学校へ行き、兵士にならざるを得なかった。その時点で僕たち二人の今は決まっていたとも思えてしまう。でも僕はあの時それはもう嫌だと思った。だから彼女を連れて来た。だが彼女は? サチコはどうなのだろうか。彼女は本当にそれを望んでいたのだろうか、望んでいないはずはない、と思いたい。でも彼女がもしそれを望んでいなければ、僕はどうすべきだったろうか。答えは、あるのだろうか。


「それにヘクターさんも、まさかここまでする人になっているなんて、知らなかったわ。」

「ヘクターさん? ミライ博士だけではなくて、ヘクター大佐のことも知っているんですか?」

僕はニャット船長に尋ねた。

「えぇ、もちろん。前の戦争の時に、ミライ博士のチームに居たこと、話したわよね?」

ニャット船長は少し困惑気味だった。

「えぇ、それは聞きましたが、でも……。」


僕はサチコが発作で倒れてしまった後に、ニャット船長が30年前の戦争のときにニュージェネレーションの研究チームに居たという話をしたのを思い出す。その人の主治医としてチームに居たと。でも途中で辞めてしまったと。その時にはサチコに似た誰とも知らない人の話だと思って聞いていた。過去にもサチコのような人は居たと聞いたことがあったから。ただ過去の詳しい記録は無く、ミライ博士しか知らない話だった。


「あぁ、そういうことね。あの頃の話は知らなかったのね。」


ニュージェネレーションの力を持つ人間が最後にどうなるかは知っている。中枢神経が他の神経と信号のやりとりができなくなった結果、体はどこも動かなくなる。だが、誰がそうなったのかまでは知らなかった。そういうことだったのか。


「私の時と同じね。私が居たときも、ニュージェネレーションに関する情報は、チーム内でも積極的な共有はされなかったわー。みんな、自分以外の誰かが何をしているかは、詳しくは知らなかった。戦争中だったから、それはそれで当たり前かも知れないけど。当時も、ニュージェネレーションに関する記録は、過去のものも含めて知らされないことだらけだったわ。」

「そう、だから私がメンテナンスしていたニュージェネレーションというのは、ヘクター・ウェルトダルリーのことよ。初めて会ったときは20歳と少しぐらいだったと思うけど、戦争が始まって4年ぐらいは経っていたから、その時にはもう大尉になっていたわ。そこから一年弱ほど、コロンブス社と停戦協定が結ばれる直前まで一緒にいたわ。今は大佐をしているのね。」


「大佐はその時からあの体だったんですか?」

僕は大佐が今は生身の体ではないことを話すと、ニャット船長は顔色ひとつ変えずに、そうなのと、と一言つぶやいただけだった。


「私が最初に出会った時、彼はもう両手の拳を機械化していたわ。そして私が知っている最後は、両腕と下半身の全てを機械に置き換えていた。それに顔の表情筋もダメになっていたから、気持ちを顔に出すこともできなくなっていたわ。まあ、私はそこまでしか知らないけれど。」

「でも、ニュージェネレーションの力が他の人を同じように変えてしまうなんて、話は聞いたことがないわ。」


何の話だったかを思い出す。サチコは、私と心の海で深く繋がりすぎると、その人は私と同じように心が繋がるようになると、そう言っていた。サチコの方を見ると、気持ちも幾分か落ち着いたようで、俯いていた顔を上げ、真っすぐな瞳で僕たちを見ていた。そして、サチコはさきほどよりも少しハッキリとした声で話し始めた。

「このニュージェネレーションの力は心と心を繋げるもの。私は心の海と呼んでいるけれど、その心の海が繋がっていれば、私は相手と同じように考え、同じように感じることができる。ある意味で、その瞬間は私と相手の心に境界はなく、一つになっているの。」

「そして、あまり誰かと何度も強く結びつきすぎると、その人も誰かと心の海が繋がりやすくなる。けれど、心の海が繋がりやすくなればなるほど、自分の本当の心と体が離れてしまって、その人も体がだめになってしまうの。そして最後はまた誰とも心の海は繋がらなくなる。その時には自分の体とも、もう二度と繋がれない。」

サチコがそこまで話し、でも、と続けた。

「でも先にダメになるのは私の体の方のはず。だからコハクはまだ大丈夫のはず。コハク、信じてくれる?」

彼女の左手に重ねた僕の右手の上に、彼女もずっと左手を重ねていた。そしてそれを今、優しくきゅっとしていた。

「もちろん信じるよ。」

彼女は小さくありがとうと言った。


「そう、だからヘクター大佐と直接会ったことはないけれど、きっとそういうことなんだと思うの。お父さんは、だから私と誰かを直接には繋がずに、それでも心と心を繋げる方法を探していました。誰も体を犠牲にせずに済む方法を。ヘクター大佐を変えてしまったことをずっと悔やんでいたから。」


「そうね。私と一緒だった時も、いつも悔やんでいたわー。ヘクターもそれを望んでいたし。むしろ、いちばん研究にのめり込んでいたのはヘクターだったしね。あの時の彼にもう止めようと言う勇気は、チームの誰にも無かった。まぁ、私は途中までしか知らないけれど。」

ニャット船長は僕とサチコ、どちらに言うでもなく、独り言のように付け加えた。


「まさかヘクター大佐がニュージェネレーションだったなんて。知らなかった。

でも、少し納得しました。」

考えてみれば、前の大戦の経験者とはいえ、全身が機械なんてそうあるものじゃない。けれど僕は保安学校に入った10歳ぐらいの時から知っているから、逆に何も違和感を抱いたことがなかった。温厚で戦争を憎み、みんなの命と幸福を願っていたあの人。だが、これで理解できた。基地がなくなったときのコメントがヘクター大佐だったのを見て、何かの間違いか、あの人の向こうにもっと何かがあるのかと思ったが。たぶん違う。ヘクター大佐は誇りに思っていた。自分自身も、そして兵士を。つまり保安学校のいた僕たちも。そして、僕はそれを汚した。あの人から見たら、そういうことになったんだろう。優しい人だったが、同時に正しさに対する異様な執念のようなものもある人だったから。


「でも、今のは二人にとっては悪い話だけじゃないわ。私と会ったばかりの頃のヘクターは、ワーズ君みたいな症状はなかった。もしこのまま無いなら、彼のようになるのはずっと後の話だと思うわ。もちろん、データが少なすぎるから、なんとも言えないけど。」

ニャット船長は僕の顔を見ながら、首を傾げ困った感じをだしつつも、微笑んで言った。

「サチコ、ありがとう。」

「ずっと黙っててごめんなさい。まさか、直接繋がることがあるなんて、思っていなかったから。」

サチコはまた顔を俯けながら言った。

「まあ。一応は気を付けることね。っと、ちょっと待ってて。」


そう言うとニャット船長は医務室の扉の方へ飛んで行った。

そしてコンソールを操作して扉を開ける。

「どうぞ、ミコス。」

扉を開けると、そこにはパイロットスーツを着た、緩くカールのかかった赤いオカッパ姿のクルーがいた。この船の最後のパイロット、ミコスだった。

「ワタシ、邪魔になると思って!」

「いいのよ。もう終わったわ。何か用?」

「また白くなっちゃって、薬をもらってもいいですか?」

ミコスはスーツに包まれた右手を、左手でちいさく叩きながら言った。

「早いわね。分かったわ、また持っていく。それ以外は?」

「葬儀の準備ができました。」ミコスの表情が微かに強張ったのが分かる。

「そう、行くわ。」一方のニャット船長は見る限りではなにも変化はなかった。

「ありがとうございます。」

そう言った彼女は扉を越えて、僕らのほうへやってきた。


「ワーズ、パイロットの二人の葬儀の間。ちょっと手伝ってもらってもいい?」

「もちろん。」

なんとなく察しは付いた。おそらく宇宙葬をするのだろう。遺品を棺桶に詰めて地球へ流す。たぶん、そのあいだの周辺警戒だろう。

「あと、サチコ。貴女にも、よければ葬儀に出ないかなって。貴女が居なかったら、ワーズもここに来る必要は無かった。きっと、ワタシたち死んでたわ、みんなね。だから、貴方にも感謝してる。」

サチコは何も言わずに、小さく頷いた。

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sieveを越えてゆけ。死という篩を越えていくのだ。彼は死に恐怖し、幸福に絶望し、孤独を選んだ。月面から果てなき宇宙を見上げるとき彼は知るだろう、孤独の真の価値を。 @kk-yomu

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