sieveを越えてゆけ。死という篩を越えていくのだ。彼は死に恐怖し、幸福に絶望し、孤独を選んだ。月面から果てなき宇宙を見上げるとき彼は知るだろう、孤独の真の価値を。
sieve002 sieveをひとつ越えて
sieve002 sieveをひとつ越えて
あれから少し時間がたった今、僕はまた彼女と一緒にいる。
月の軌道に浮かぶ戦闘機の中。
少し窮屈な一人用のコックピットの中で、僕と彼女は一緒にいる。
丸い球体スクリーンに覆われたコックピットの中心にメインシートがあり、僕はそこに座っていた。彼女はそのメインシートの左隣、フレームしかないようなサブシートに座っている。今は意識がないが、僕が括りつけたベルトでしっかりと固定されて、眠っているように見える。
彼女には僕と同じ黒いパイロットスーツを着せた。
意識がなかったので、押し込んだという感じだったが。
見慣れたいつもの白いワンピースのような治験服とは違い、パイロットスーツは生地も分厚くがっしりしていて、見ていて安心感があると思った。
だが、僕が着ているとそこかしこが窮屈に感じるスーツも、彼女が着ていると酷くぶかぶかに見えた。その不釣り合いに大きいヘルメットのバイザーの奥には、彼女の小さな顔が収まっている。
薄明りしかないコックピックの光ではあまりよく見えないが、それでも月にいた時よりも幾分かは穏やかな表情になっているように思えた。
実際にスーツの右腕に表示されたバイタルサインも、全て緑色で正常を示している。
ただそれだけに、一向に目を覚まさないのが気がかりだった。
そんな風に彼女の顔を覗き込んでいると、薄暗かったコックピットの中に、左から強い白色の光が差し込み始めた。
先ほどまでは小さな隕石の影に入っていたようで、その隕石がゆっくりとスクリーンの左へ流されていくにつれて、真っ白に光り輝く太陽が姿を現していく。
そのあまりの眩しさで天体としての輪郭は見えず、光そのものといった感じだった。スクリーンの越しで温度は感じないはずなのに、不思議と顔が温かくなったような気がしてくる。その力強く暖かな光は僕だけでなく、左に座る彼女の顔にも降り注いでいた。微かに見える彼女の白い肌が、より白く光る。
けれどそれもひと時のことで、光はすぐに収まった。
全周スクリーンの光量調整が機能し、さきほどまでコックピットに溢れていた光はゆっくり消えてなくなり、また暗黒が帰ってくる。僕らを包み込むスクリーンが映し出す宇宙は、まるで真っ黒のカーテンのようだ。どこを見ても完全な黒色で覆うが、決して触れない無限遠の黒いカーテン。
その一面の黒色に、一つだけ浮かび上がるものがある、地球だ。青と白のマーブル模様が、太陽の光が当たる左半分だけクッキリと浮かび上がっている。一方の右半分は、周りの宇宙と一体化し、境目のない無限遠の黒となっていた。
その時、ふと彼女の体が微かに動いた気がした。
こちらに向いたヘルメットの中を覗き込む。
勘違いだったのか、依然として彼女は意識がない様子だった。
月の北極点ピアリの外縁にある研究基地、ピアリ研からの脱出に成功してから、既に十分ほどは経っていた。
とにかく、身を落ち着ける場所が必要だと思った。
彼女を連れてピアリ研を脱出したのはほとんど勢いだったが、アテはある。
L5コロニーの友達を頼るのが良いと思った。
月が地球を回る公転軌道を戻れば、そこにL5コロニー群がある。
この地球圏の中に、コロニー群は五か所ある。
まずは月が地球の周囲を回る公転軌道、いわゆる月軌道上に三か所。
月に先んじて軌道を回るL4コロニー群。
月に遅れて軌道を回るL5コロニー群
月の真反対にあるL3コロニー群。
この三つが、いわゆる月軌道のコロニー群だ。
そして月の衛星軌道上に残りの二か所がある。
月から見て真正面、常に地球との間にあるL1コロニー群。
月の真裏、地球から影になるところにL2コロニー群。
この二つが、月の近くのコロニー群だ。
地球、月、全てのコロニー群。これらの位置関係は常に変わらない。透明な円盤に貼り付けられているように一体になっている。
僕が目算を付けているコロニーは、L5コロニー群にある。
そこには昔なじみの友達がいる。最近はあまり会っていないが、会えば力になってくれると思った。
それにL5とL3はコロンブス社の管理するコロニー群だ。
他の場所は月も含めて、全て僕らイスカンダル社が行政権を持つが、その二か所は違う。宙域を越えていくのは危険が伴うが、たどり着ければイスカンダル社の追跡からは逃れることができる。
―よし、L5コロニーが目的地だ。
目指す場所はそれで良いとして、問題は時間だった。
どれぐらいの余裕があるだろうか……。
「ATHENA、ATHENA」
僕はこの機体に搭載されたサポートAIのアテナを呼び出してみた。
正直、期待薄だが。
僕の両足の間から伸びるアームの先には、タブレットのようなディスプレイがくっ付いていて、そこから機体の状態を確認することができる。
そこのいくつかある確認項目のひとつに、サポートAIという欄があるのだが、その部分は月を脱出してここまでずっと、(アップデート中)の表示のまま変わることが無かった。
イスカンダル社のパイロット育成過程を卒業してから、もう十年ほどは戦闘機のパイロットをしているが、こんなトラブルは初めてだった。
―サポートAIが起動しないなんて、聞いたこともない。
試作の戦闘機なのは間違いないし、サポートAI自体も他の戦闘機とは少し違うが、それでもこの機体には数年は乗っている。
だが、今までこんなことは無かった。
もちろん、サポートAIなしで出来ないことはない。
サポートAIは大体のことを、人間に代わり同じようにこなすが、
逆にサポートAIでないと絶対にできないことも、また無い。
ただそれでも、いつも通りにATHENAが手伝ってくれるなら、それは本当に助かるというところだった。
正直に言えば、ただ寂しいという気持ちもなくはない。
しかし、そんな僕のささやかな願いは届かず。
ATHENAの返事が返ってくる気配は無かった。
それでも一応、僕は目の前のディスプレイから現状をチェックしようとする。
タッチパネルを操作し、いくつかあるフォルダの階層から、サポートAIの部分を確認する。すると、先ほどまで(アップデート中)という表示だったはずの部分が(起動中)となっていることに気が付いた。
ディスプレイの端っこにATHENAのアイコンが出る。
―お呼びですか、コハク・ワーズ少尉?―
ATHENAが起動すると共に音声ニューラルリンクが接続され、
ATHENAの声が頭の中に響く。歓喜の声を上げようとするが。
そう思った瞬間に、僕の視界は急回転を起こしていた。
機体がきりもみ回転を起こしたのか、視界がぐるぐると、あちらこちらへ回転する。
スペースデブリが飛んできたのか何なのか、理由は分からない。
だが僕はそんな中で、機体と制御ニューラルリンクを接続し、
マニューバと脚部のスラスターで機体の回転を止めようとしていた。
だが、機体はピクリとも動かない。
機体と僕の体のニューラルリンクは正常に確立されているようだったが、通信がまるで何かに阻まれているかのように、四肢の自由が利かなかった。
機体システムがシャットダウンしているのかとも思ったが、全周スクリーンは正常に動いている様子だった。
サブシートの彼女が心配になって、なんとか頭を左に向けるが、彼女は起きもせず、何ともない様子だった。
そこできりもみ回転にしては何かが変だと気付く。
目を回しながらも、全周スクリーンの姿勢ジャイロを読み取ろうとする。
本来なら乱暴に回転しているはずだが、全く微動だにしていないように見えた。
それに、そもそもデブリが衝突したにしては、警報もなにも鳴っていない。
何かが変だ。
『ワ―ズ少尉! 落ち着いてください、何も起きていません!』
ATHENAのアナログ音声が聞こえる。
そこでやっと、今何が起きていて、何が起きていないかが、少しだけ分かった。
回っているのは機体じゃない、
僕の視界だけが回っているんだ。
自分の感覚を注意して感じてみれば、体はGを感じていない。
そして、スクリーンの姿勢ジャイロも問題ない。
いうなれば、ただただ僕の目が回っているだけだった。
そう確信を得たあたりで、僕の頭の中の三半規管も状況を飲み込んだのか、
視界の回転はゆっくりになり、数回の深呼吸の間に、
見える世界はほとんどいつも通りに戻った。
あともう少し続いていたら、ヘルメットの中を汚していたかもしれない。
「ワーズ少尉。申し訳ありません」
「どうやら私と音声ニューラルネットを繋ぐと、何か問題が起きるようですね。
理由は不明ですが。」
「しかし、このアナログ音声でのバックアップコミュニケーションなら、問題は怒らない様子です。」
「よし。ならここからはアナログ音声で行こう。」
「それとも、もう一度音声ニューラルネット接続を試しますか?」
「絶対にやめるんだ! 絶対に接続するな!」
僕はATHENAの声にかぶせ気味に言った。
せっかく三半規管が穏やかになってきたのに、またあんなことになったら、今度こそ喉のもっと奥の物をヘルメットの中に吐き出すことになりそうだ。
「アナログ音声で問題ない。」
むしろ彼女もこっちの方が安心するだろう。
もっとも今は眠っているし、たとえ起きても彼女にその必要はないだろうが。
「それでは、このままで。」
「さて、コハク・ワーズ少尉? ご用はなんですか?」
「ぁあ」
先ほどの出来事のせいで、ATHENAが起動できたら訊ねようと思っていたことが、頭から抜け落ちてしまっていた。まずは落ち着いてそれを思い出す。
「L5コロニー群に向かおうと思うんだが、どう行ったらいいと思う?」
その時、僕のパイロットスーツの太ももからお腹にかけて、何かがぶつかった。
驚いて下を見ると、そこには彼女の上半身を仰向けにして倒れこんでいた。
彼女が目を覚まし、ベルトを外して上半身を預けてきたのだった。
「良かった! もう目を覚まさないんじゃないかと、不安だったんだ。」
改めて彼女のスーツの右手にある。小さなバイタルサインを確認する。念のためだ。先ほどから全て緑色だったが、今も全て緑色のままだった。
「何ともないか? 大丈夫?」
僕がそう声をかけると、彼女は微笑んだ。
澄んだ瞳で真っすぐに見上げる彼女の笑顔を見て、僕は安心する。
とにかく、彼女が無事でよかった。
僕がそんなことを考えながら、彼女のヘルメットをひと撫でした時、ATHENAが口を開いた。
「今、現状態までのログを確認しているのですが。私が寝ている間になにやら色々とあったようで。」
「あぁ。だがログを見たなら分かるだろうが、お前に説明している時間はあまり無いんだ。」
「そのようで。」
「ところで。今、何時ですか?」
ATHENAが急に時間を訊ねてくる。
「今? 11時ぐらいだな。」
思わず教えてしまったが、なんでサポートAIに僕が時間を教えているのか。
「あの、寝起きなので、モーニングティーを頂けるでしょうか?」
時間が無いって言っているだろうに。
アップデートでおかしくなったのか、いやその前からおかしかったか。
僕はATHENAがまた訳の分からないことを言い出したと思った。
「残念ながらもう朝は終わったんだ、いいか?」
というかAIがお茶を要求するな。
「おぉ。それではイレブンズ・ティーは?」
こいつ。
「基盤ごと紅茶に沈めてやってもいいんだぞ? オールウェイズ・ティーだ。」
僕はディスプレイに向かって人差し指を突き出した。
「あー。今ログの確認が終わりました。確かにお茶を飲んでる場合ではなさそうですね。」
「その通り。理解のあるAIで助かるよ。」
僕が指を下ろすと、彼女の顔が目に入る。
どういう状況か最も分かっているであろう彼女の表情は、
今までで一番の笑顔に見えた。
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