第8話 顔合わせ

「待たせてしまって、申し訳ない」


 そんな言葉と共に入室してきた男性──エリク・テルセロナ。


 背は高いが不健闘的な痩せ方をしている体躯。

 婚約者との初顔合わせということでそれなりにちゃんとした服装を心がけたのはわかるが、身につけているテールコートは身体の厚みにあっていなくブカブカな印象だ。


 服に着られているという表現がぴったりで、少し突いたら倒れてしまいそうなほど頼りない。

 頭にはフードと、顔には見覚えのある仮面を付けていてその素顔は窺えなかった。


 なんの前情報もなく会わされたら、並の令嬢だと悲鳴を上げて逃げられてもおかしくない出立だろう。


「いいえ、お気になさらず。私も、先ほど到着したばかりですので」


 しかしヒストリカが動じる様子はない。

 あの晩のバルコニーで出会った方だという確信が持てて、頭の中は納得の気持ちでいっぱいであった。


「ヒストリカ・エルランドです。お会いするのは二度目……で、合っていますでしょうか?」


 エリクの前で膝を突き、淑女の礼を取りながらヒストリカは言う。


「エリク・テルセロナだ。うん、合ってるよ。一週間ぶりだね、ヒストリカ嬢」


 よく言うと優しい、悪く言うとどこか芯の弱い声でエリクは言う。


「堅苦しい挨拶はこのくらいにして。とりあえず、座ろうか」

「ありがとうございます」


 もう一度礼をした後、「失礼いたします」とソファに腰掛ける。

 先にソファに座ったエリクは、ヒストリカのよそよそしい所作をじっと眺めていた。


「まずは、遠路はるばるありがとう。もう夜も遅いから、顔合わせは明日の方が良いかなと思ってたんだけど、どうしても君に一目会っておきたくてね」

「お心遣い、ありがとうございます……あの、まず私からよろしいでしょうか?」

「うん?」


 首を傾げる仮面に対し、ヒストリカは頭を深々と下げる。


「まずは謝罪をさせてください。先日は、貴方様をかのテルセロナ卿とは知らず、数々の無礼を働いてしまいました。緊急を要した事態だったとはいえ、誠に申し訳ございませんでした」

「ああ、いいよそんな。君が気に病む事じゃない」

「そうもいけません。貴族社会における身分の差は絶対的なものです。子爵家である私が、公爵様であらせられるテルセロナ卿の身体に妄りに触れるなど……」

「でも、あの時の君の処置は間違っていなかった。お陰様で、今もこうして元気に話せている」

「それでも。筋は通すべきかと存じました」

「なるほど、どうやら君は、噂通りの人物のようだね」

「融通の効かない、堅物で申し訳ございません」

「そこまでは言っていない。なんというか、うん……」


 柔らかい声で、エリクは言う。


「真面目な人なんだなと、思ったよ」


 仮面の奥で、エリクがくすりと微笑んだような気がした。

 まさかそんな評価を下されるとは思っておらず、ヒストリカは目をぱちぱちさせてしまう。


「僕の方こそ、改めてお礼を言わせてほしい。あの時は、助けてくれてどうもありがとう。それから……すまない、急に立ち去ってしまって。どうしてもすぐに屋敷に戻らなければいけなくて、あの場に留まる事ができなかったんだ」

「い、いいえ、それこそお気になさらないでください。テルセロナ卿がご無事でしたのなら、何よりです」

「エリク、でいいよ」

「いえ、ですが」

「夫婦になるんだから、まずは呼び名くらい砕けた方が良いだろう?」


 夫婦になる。

 という言葉に未だに現実感がないが、エリクの気遣いを無碍にも出来ないと思い最大限の譲歩から出た呼称をヒストリカは口にする。


「では、エリク様で。私のことは、ヒストリカで構いませんので」

「今はそれでいいか……ありがとう、ヒストリカ。とにかく、君には多大な迷惑をかけた。あの後、ちゃんとした医者に診断してもらったら、確かに貧血の症状だと言われた。日頃の不摂生が祟ったんだろうな」


 自重気味にエリクが言うが、今にも倒れそうなほど痩せ細った身体を前にしてみれば冗談でも笑えるわけがない。


「でも、結果的に良かったのかもしれないね。あの一連の出来事のおかげで、僕は君に婚約を申し込むに至ったのだから」

「それがわからないのですが」


 核心に触れるつもりで、ヒストリカは問う。


「なぜ、私なのですか?」


 あの晩、バルコニーで助けた男性はエリクだった。

 その出来事がきっかけで、彼は婚約を申し入れてきたまではわかる。


 ただしっくりこないのは、自分はあくまでも貧血で倒れたエリクに応急処置を施しただけだ。

 あの短い時間の間に、公爵様ともあろう方が自分と婚約したいという考えに至る理由がさっぱりわからなかった。


「……はじめてだったんだ」


 ぽつりと、エリクが大切な記憶を思い返すように言う。


「僕の素顔を見て、怖くないと、なんとも思わないと言ってくれたのは、君がはじめてだったんだ」


 エリクは続ける。


「公爵という位は一見、華々しく見えてその実はシビアな問題を抱えていてね。僕も今年で二十二……世継ぎの事を考えると、もう結婚しなければいけない年齢だ」


(二十二、ということは、私の三つ上……)


 冷静にヒストリカは計算する。

 十四で成人を迎えるこの国においては、もう立派な大人である。


「もちろん、今まで何度も婚姻の話はあった。しかし、僕はこんな見てくれだからね。情けない話になるが、全て破断になってしまった」

(なるほど……このあたりの噂は本当だったみたいね……)


 それにしても誇張されすぎとは思ったが。


「そんな中、君が現れた。僕の素顔を見ても動じない、普通でいてくれるヒストリカがね」

「なるほど、理解いたしました。要するに、エリク様が感じてらっしゃった美醜のハードルを、私が超えたため婚約を決断したと」

「はっきり言うね」

「大変申し訳ございません」


 やってしまった。


 即座にヒストリカは頭を下げる。

 相手の気持ちに配慮して表現をオブラートに包むのが苦手なヒストリカの悪い癖である。


「いや、いい。実に君らしい」


 しかしエリクは気分を害した様子はなく、むしろそれでいいと言わんばかりに頷いた。


「もちろん、それだけが理由ではないんだけどね。君のほど魅力的な女性を世間が放っておく訳ないという焦りもあった。だから重ね重ね、急な申し出になったことは申し訳なく思う」

「……身に余るお言葉でございます」


 再びヒストリカは頭を下げる。

 慎ましく、あくまでも淑女らしく、控えめに。


 そう自分に言い聞かせるヒストリカに、エリクが訝しげな言葉を投げかけた。


「先ほどから、どうしたんだ?」

「え?」

「君はそんなに慎ましい性格じゃないだろう。元々の身分差はあったとはいえ、僕たちは夫婦になるんだ。公の場でもないここでは対等な関係だ」

「対等……」


 まさかエリクの口からそんな言葉が出てくるとは思わず、ヒストリカは口を閉ざしてしまう。

 だって、この国の貴族は揃いも揃って……男の方が優位で女は下に佇めといった価値観を持っていると思ったから。


 そんなヒストリカの思考とは反した言葉をエリクは続ける。


「もっと堂々と……ありのままの君でいてくれ。あの晩の君の、強く、勇ましく……自ら運命を切り開くような姿勢に、僕は惚れ込んだのだから」


 ……ヒーデル王国の男性貴族であるエリクが、なぜこのような価値観をお持ちなのかわからない。

 しかしそれが、婚約者の要望であるならば。


「……わかりました、善処します。ただ、くれぐれも愛想や可愛げといったものは期待なさらぬよう」

「充分だよ」


 満足そうに、エリクは頷いた。


「さて……ひとまずこんなものだろうか。今後については明日、ゆっくり話そう。ヒストリカからは、現時点で何か、聞きたいこととかあるかい?」

「今の所、特にこれと言っては……ああ、支度金について、母から急ぎお送りいただきたいと言伝をいただいております」

「なるほど、わかった。すぐに手配しよう」

「ありがとうございます。あとは……」


 もう夜も遅いし、今すぐに聞きたいという事柄は特に思いつかないが。


 ちらりと、エリクの顔を見る。

 正確には、エリクの顔を覆う仮面を。


 なんだい、と言わんばかりに首を傾げるエリクに、ヒストリカは尋ねた。


「お顔を、見せてくださりませんか?」

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