第40話 終わりなき旅 前編
気づけばあたりは夕方になっていた。
二人はキースとの集合場所へ向かうことにした。
メイシーにとっての甘い二人きりの時間は小さな波紋を立てながら終わりとなった。
ショーカルドの中央にある広場には四人掛けのテーブルが十と少し並んでいる。
二、三個を残してどれもホコリをかぶっていて、残ったいくつかには老人が疲れ果てた目をして一日中座っていた。
皆、何もない虚空を見つめていたり、ぶつぶつと訳の分からないことを呟いていたりと何もすることなく何時間もそこに座っていた。
老人のいないホコリ臭いテーブルを一つ選んでキースとエメリアは腰を下ろしていた。
注文した薄いコーヒーと紅茶がぬるくなってきた頃、シャルルとメイシーが二人に合流した。
「あら、お似合いね」
「おせぇぞ、とりあえず宿に移動するぞ」
キースがメイシーの顔も見ずに返事をすると足早に宿の方へと歩き出した。
何か苛立っているような、焦っているような、そんな感じだった。
宿に着いて、一晩休んだあとで朝早くに出発することになった。
「そんなに早く…随分急ぐんですね」
「あぁ…早くこの街を離れたほうがいい」
「何か理由があるのか?」
宿のベットに腰を下ろしながらシャルルが尋ねた。
「…俺がここにいることがわかったらルービッテの連中が大挙して攻めてくるかもしれねぇからな」
「白銀のキース様だものね、有名人は大変ね」
メイシーがため息混じりに答えたとき、窓の外から耳の奥を切り裂くような悲鳴が聞こえた。
シャルルがその声に驚いて窓から外を見渡すと二つほど街に黒煙が上がっているのが見える。
その中にこの街では見覚えのない外套を着た人間があちこちに走り回ってる姿が見えた。
よく見れば外套の者たちが街に火をつけて回ってるのが見えた。
しかし、シャルルの視神経を占領したのは別の情報だった。
外套が街の女を馬車に無理やりに乗せていた。
キースが制止するより早くシャルルは窓から飛び出した。
部屋は三階だったが、べたべたをロープがわりにして何とか着地した。
足を多少捻ったがシャルルはそれどころではなかった。
真っ直ぐに馬車に向かって走った。
足が千切れるほど必死に動かしたが、自分で思ってるよりも全然進まなかった。
なぜ自分の足はこんなにも役に立たないんだろう、奥歯を噛み締めながら精一杯に走ったけど、馬車の出発には間に合わなかった。
シャルルは馬車の後を追いかけた。
とても追いつけるはずはなかったが、それでもそれはシャルルが追いかけることを止める理由には到底ならなかった。
そんな無力感に苛まれながら走っていると、横を青い風が通り抜けた。
一瞬のうちに見えなくなったが、キースの背中が遥か遠くに見えた。
シャルルはとにかく走り続けた。
街から出て一キロほどだろうか、鉄の味が口の中いっぱいに広がる。
あたりにはすっかり建物はなくなり、背の低い草と小さな花、それと痩せた木ばかりの風景が続いている。
とにかく次の足だけを出すことで頭をいっぱいにしていく。
キースの背中を追いながら、右足、左足、右足、左足といった単調な思考だけが脳内でメトロノームのように刻まれる。
ふと、シャルルのメトロノームと足が急停止した。
シャルルの目は草が生い茂った路傍の片隅に囚われていた。
土で汚れガラクタのように捨てられていた。
露天商の女の子だった。
身体には無数のあざが、腹には馬車の轍があり、臓物が飛び出していた。
変な方向に曲がった右腕には何本かの花が握りしめられていた。
その恐怖と苦悶に歪んだ目がシャルルことをじっと見つめていた。
シャルルは彼女の目を見つめたままじっと立ち止まった。
なぜこんなことになったのだろう。
自分が花を美しいと褒めたからなのだろうか。
自分がこの街に来たからなのか。
それとも自分が異世界にきて彼女の因果を歪めてしまったのだろうか。
黒い瞳から涙がこぼれ落ちた。
メトロノームの両端には無力感と後悔がのせられた。
『神様…この女の子を助けることはできないんですか?』
『…出来んの』
『なぜですか?』
『その子の因果はもう断ち切れておる。エメリアのように奇跡によって復活する因果も残ってはおらんのじゃ。もう輪廻の川を流れていったよ。』
『そんなこと…』
『シャルルよ。ワシらにはほんの少しの奇跡を起こすことはできる。因果の向きを少し変えることはできる。じゃがの、それだけじゃ。』
『そう…ですか』
『ワシらはいつもお主らを見守っておるよ。シャルルよ、もし躓いたならお主の歩いてきた道を見返してるとええ』
神の声は寂しくも優しく寄り添ってくれた。
そのとき、キースが攫われた女性たちを連れて戻ってきた。
とにかくこれ以上不安にさせてはいけないと、
涙を拭いてから大丈夫ですか?と声をかけた。
そこから先は、何も覚えていない。
宿のベッドの上でも一睡もできなかった。
無力感と後悔のメトロノームは鳴り続けた。
最後にはそれらを全部突き抜けて、ピンクブルボンの香りが漂ってきた。
シャルルのお気に入りの華やかなコーヒーの香りだった。
柔らかいベッドを抜けてピンクブルボンの豆を挽き、ミルクを用意する。
そしてそれを口に含んだとき、露天商の女の子の虚な瞳がシャルルのまぶたの裏に映し出され、硬いベッドの上に呼び戻された。
そしてまた、メトロノームのような感情に身を委ね、ピンクブルボンの香りのあとに、女の子の顔を思い出す。
そんなことを一晩中繰り返した。
何度も何度も、何度も何度も、何度も何度もピンクブルボンの香りの中に止まろうと思った。
その度に、露天商の女の子が、次第にエメリアが、メイシーが、いつか助けたハイヒールの女性が、どこかの店の女性店主がシャルルのまぶたの裏に映った。
自分が出会った人たちはどうなったのだろう。
出会ったことによって幸せになったのだろうか、それともその逆なのだろうか。
もしかしたら大きな運命に決められていて、自分が何をしても意味がないのだろうか。
僕は今までたくさんの女性に親切をしてきた。
少なくとも、僕自身はそのつもりだった。
だが、彼女たちにとってはどうだったんだろう。
思えばメイシーに頬を打たれたこともあった。
この世界にくる少し前にも頬を打たれたな。
僕は、自分が親切だと思うことを女性にしていただけなんだろう。
彼女たちの笑顔を見れば自分が救われるからだ。
随分と僕は身勝手な人間だったんだな。
僕は身勝手に他人に親切にしていただけなんだな
そんな風にシャルルが悟りを開こうとしたとき、神の言葉が心のささくれに引っかかった。
僕の歩いてきた道には何があるんだろう。
やはり僕の身勝手なのだろうか?
でも、でも僕には彼女たちの笑顔が見える。
どうしても燦然と輝く彼女たちの笑顔の星が僕には見える。
そして、その道の終わりには露天商の女の子の虚な目が見える。
なぜあの女の子はあんなことになってしまったんだろう。
「そうか。僕が声をかけたからじゃなくて…」
太陽が昇って、この緩慢な街も少しずつ動き始めた。
のそのそと人が動き始めた頃、キースはシャルルの部屋の前に立っていた。
昨日のシャルルの目がどうしても気にかかった。
以前に戦場で何度も見た目だった。
自分もあんな目をしていて、鏡を見るたびにゾッとした。
いや、今自分はもあんな目をしているのかもしてないな、そう思ってキースは目を押さえた。
そんなことを考えてるとシャルルの部屋のドアが一人でに開いた。
「あぁキースか、おはよう。ちょうどよかった。悪いが僕は今からの出発はできない」
シャルルがキースに向かってそう告げた。
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